学位論文要旨



No 215795
著者(漢字) 工藤,庸子
著者(英字)
著者(カナ) クドウ,ヨウコ
標題(和) ヨーロッパ文明批判序説 : 植民地・共和国・オリエンタリズム
標題(洋)
報告番号 215795
報告番号 乙15795
学位授与日 2003.10.23
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第15795号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石井,洋二郎
 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 教授 池上,俊一
 東京大学 教授 羽田,正
 東京大学 名誉教授 蓮實,重彦
内容要旨 要旨を表示する

本論攷は、「地域文化研究」という学際的なディシプリンに向けて、「文学研究」の専門性を開いてゆく試みとして執筆された。その方法論的な指針と目標は、以下の通りである。

「国民文学研究」という制度的な枠組みをこえる:伝統的な「フランス文学研究」は、「文学史」によって顕揚された「国民的作家」のモノグラフィーを基盤としてきたが、これに対して筆者は、複数の作家を向きあわせることにより、新たな問題系を導くことができると考えた。また、その際に、国籍・時代・ジャンルによる分類の枠組みをこえて、たとえば『ポールとヴィルジニー』については『ロビンソン・クルーソー』とブーガンヴィルの航海記を読解の補助線とする、あるいは『ドン・キホーテ』と『フランケンシュタイン』のなかにあらわれるイスラームの娘とキリスト教世界の青年との愛のエピソードを比較対照することが有効であると考えた。

参考文献の専門領域を開く:文学研究における先行論文にとらわれず、それぞれの問題構成にしたがって、歴史学や民族学や人類学の文献を参照した。「奴隷制」については、旧植民地の発言をふくむ最新の研究成果から、また「国民国家」の意識形成については、歴史論文集『記憶の場』から、今日的な解釈の手法を学びとることができた。複数のディシプリンの交錯する場でテクストを読み解くことは、本論攷の掲げる課題のひとつである。

「歴史的事実」の検証ではなく、「言説自体」の分析をめざす:文学テクストを歴史的事実の記録文書とみなして解説することは、筆者の意図するところではない。そうではなく、事の始めから「言葉の装置」として立ち上げられる小説などの文学作品が、「文明」や「国民」や「人種」や「他者」をめぐる集合的ファンタスムを反映し、同時にその形成に寄与する現場を検証することが、基礎的な作業となっている。ミシュレの歴史やルナンの宗教史、さらには『19世紀ラルース大辞典』なども、同様の視点から分析の対象となる。制度的な学問が「文学」として囲い込んだ領域と、その外部を隔てる境界は、こうしたアプローチにおいては消去されており、分析対象のレヴェルでも、専門性を開くことができたと考える。

「文明」の概念を歴史的に再構成する:自明のように流通する「文明」という語彙に、一定不変の実態が対応しているはずはない。これが出発点の問題意識である。18世紀の旅行記から19世紀末のアーリア賛美の言論に至るまで、この語に反映された世界観の構造が、徐々に変容してゆくさまを、具体的に描きだすことが、まずは要請されると思われた。ここで対象を捉える視座は、あくまで世界認識の水準に設定されており、それゆえ歴史的事実の生起を年代順に追うという論述方式は、あえてとらなかった。「文明」という語が想起させる様々の風景を、個別的に描出し、その全体を構造化して提示することが、本論攷の目標である。

以上のような方法論的前提に立ち、本論攷は「文明の意識」の生成と変容の経緯を問いなおす。第I部は、「古い植民地」を舞台としたベルナルダン・ド・サン=ピエールの小説と旅行記、そして「奴隷文学」と歴史学の論文などを読み合わせ、啓蒙の世紀から19世紀半ばの奴隷制廃止までを論じている。第II部では、ミシュレの歴史、ユゴーの小説、ラルースの大辞典などを中心に、革命以降、「ナショナル・ヒストリー」や「国民文学」が立ち上げられ、それとともに共和主義的な「国民感情」が形成されてゆく過程を考察する。第III部では、「新しい植民地」となるイスラーム圏とアジアに照明が当てられる。冒頭にフローベールを引いて、知の言説としての「オリエンタリズム」に注目し、さらに、ミシュレの著作においてアーリアの起源ガンジス河とセムの一神教を育んだ地中海世界とが対立的に記述されてゆくさまを見る。イスラームを主題とする文学テクスト、ヴォルテールの哲学的寛容論、ルナンの宗教史へと分析を展開する結論部分は、現代世界の問題へと接続するものである。

1870年代のフランスは、はじめて安定した「共和国」の体制を築き、「植民地帝国」への道を邁進する。この時点におけるヨーロッパの世界認識は、ひとつのプロトタイプ(原型)とみなしうるものではないか。いいかえれば、第三共和制初期の文明論的な見取り図から、現代の地球をおおう混迷の淵源を、あぶりだすことができるのではないか。イスラーム世界とキリスト教世界との対立と齟齬−−いわゆる「文明の衝突」−−の雛形が、ここには潜在すると思われた。本論攷が「序説」を名乗るのは、欧米諸国が世界を制覇する基点から今日に至るまで、1世紀にわたる圧倒的な一元化のプロセスを検討の埒外としたためである。

それ以前、ほぼ2世紀をかけて、「文明」の意味するところは、「自然」や「野蛮」と対立する概念から、「進歩」と「停滞」という時間軸の発想へ、さらには制度的な「ライシテ」(非宗教性)と矛盾なく共存しうる「キリスト教文明」という了解へと、徐々に変貌してきたように見える。だが、そこに認めるべきは、本質的な転換というよりむしろ、ヨーロッパがその「外部」と対峙して、これを負の対蹠地と名づけ、そのことにより己を「文明」として定立するための、絶えざる運動であるのかもしれない。じっさい「非キリスト教世界」に対し、「野蛮」と「停滞」のイメージが付与されるというメカニズムそのものは、時をへて矯正されはしなかった。そのことは、サイードの『オリエンタリズム』が、「西欧による抑圧と支配の様式」と呼んで夙に批判したとおりである。しかしながら、すでに学問的な「権威」とみなされて、異論の余地なき告発のシステムとして援用されることもあるサイードの理論を迂回して、みずから文献をひもとき思考することは、本論攷の基底をなす選択でもあった。

境界を定められた学問研究への違和感が本論攷の推進力であるために、考察の主題や領域も、収斂するよりは、おのずと繁茂し拡張していった。したがってこの「要旨」では、各章のレジメを併記するのではなく、「地域文化研究」にむけた問題提起となりうる具体的なトピックの一例を抽出し、その骨子を示しておきたい。

アジアへの視線と「われわれ」の立脚点:19世紀の半ば、イギリスとの植民地争奪戦で敗退したフランスが、インド亜大陸を放棄してインドシナ半島に侵出し、新たな「トポス」として東アジアに照明が当てられる。「極東」「黄色人種」「仏教」などの語彙が、にわかに浮上するのも、この時期である。異形の神々を祀る壮麗な遺跡の数々が発掘されたとき、ヨーロッパはそこに「文明の死」という主題を見出した。かつてヨーロッパからアジアへと投げかけられた視線を、このような時代的展望のなかで再構築することにより、考察の主体である「われわれ」の立脚点を明確にできるのではないか。こうした文明論を背景に置き、マルローやロティの描いたアジアを再考することも可能だろう。長い伝統のある日仏文化交流論、比較文化論とは異なるパラダイムの提案である。

アーリアとセム

ガンジス河の畔こそ、最も輝かしい「文明」の揺籃であり、高度なる「哲学」の起源の地であるとする「アーリア旋風」は、1820年代の終わりにドイツからフランスへと伝播した。新しい知的潮流の基盤となったのは、18世紀に成立した「オリエンタリズム」(東洋研究)、なかでも諸文明の言語研究である。ヨーロッパの母胎である「光のアーリア」を称揚する文明論は、「闇のセム」という対概念を導入し、しだいに巨大なイデオロギー装置へと成長していった。

イスラームに対峙するヨーロッパ

キリスト教世界が、イスラームとほぼ拮抗する勢力となったのが、16世紀末、そこから徐々に力関係が逆転し、ついにはヨーロッパ列強によるオスマントルコ帝国の解体にまで至る。18世紀まで健在であった「他者に寛容なイスラーム」というイメージが暗転し、「不寛容な専制君主制のイスラーム」という形容が定着するのは、「君主制」を廃したのちのフランスにおいてである。

「キリスト教文明」というアイデンティティ

ナポレオンの文明論は諸宗教を相対化して捉える啓蒙思想を受けついでいたが、ルナンにおいてキリスト教は「ヨーロッパ文明」の前提かつ目標となる。ライシテの時代にふさわしい民主主義的な宗教は、いかなる制度とも結ばず、個人の信仰生活のなかで全うされるはずであり、これはセム的な宗教のあり方を反転させたものにほかならない。それゆえ「アーリア化されたキリスト教」のみが「文明」の名に値する。以上のようなルナンの宗教史的展望によって、イスラームを政教分離の適わぬ「非文明」として否定する立場は、すでに周到に理論化されている。

さながら普遍的価値であるかのごとく流通する「文明」という概念も、これを運用する「文明史」の学問的な実績も、じつはキリスト教世界が「国民国家」を形成する過程で育まれた固有の思考であることを、あらためて確認しておこう。

「ヨーロッパ文明」をめぐる言説は、しばしば、遍在する不可視の権力のように機能する。これが本論攷の考察した命題であり、論証の過程において、フランス語のテクストは、対象とのあいだに批判的な距離を導き入れる手段ともなった。しかしそのために、「文学」が筆者におよぼす魅惑は、いささかも減じはしなかった。慣例にしたがって、一方には「文明批判」、他方には「文学批評」という日本語を当ててみたものの、本来critiqueという一語には、誘惑と快楽の原則がこめられている。そのことを筆者は、ほかならぬ「フランス文学研究」から学んだのだった。

審査要旨 要旨を表示する

『ヨーロッパ文明批判序説−植民地・共和国・オリエンタリズム』と題する本論文は、サブタイトルに掲げられた3つのキーワードを核に据えつつ、「地域文化研究」という学際的な視点を踏まえて種々の資料を「言説」として綿密に分析し、「ヨーロッパ文明」という概念の形成過程をヨーロッパの「外部」との相関性において批判的に解明することを目指した野心的な労作である。従って研究対象となる地域はヨーロッパからオリエント、インドから東南アジアにまでわたっており、扱われる時代も主として19世紀(特にさまざまな意味で節目となる1870年まで)を中心としながら、過去はその淵源となる啓蒙の世紀(18世紀)から必要に応じて16世紀にまで遡り、展望の射程は20世紀の「文明の衝突」にまで及んでいる。

400字詰原稿用紙で約1000枚に及ぶこの長大な論文は、全体が3部構成になっており、さらにそれぞれが3〜4章から構成されている。まず目次に沿ってその概要を以下に略述する。

「島と植民地」

1870年代の地球儀とポリネシア幻想

ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』を導入としつつ、第三共和制初頭のフランス国民が大陸と海をいかに意味づけていたかを確認した後、暗黒のアフリカと南太平洋のユートピアという対立的なトポスが浮上する経緯が、植民地史の基礎的な了解と交錯させながら記述される。

「絶海の孤島」から「愛の楽園」まで

啓蒙の世紀のヨーロッパにおいて、「自然vs文明」という定式をめぐる思考や論説を実験的に検証する場となった西インド洋を舞台とする『ロビンソン・クルーソー』と東インド洋を舞台とする『ポールとヴィルジニー』を主たる題材とし、「小さな社会」「庭園と美徳」「聖書」「羞恥とヴェール」などのテーマが論じられる。

黒人奴隷と植民地

「愛の楽園」の舞台が同時に植民地における黒人奴隷の悲惨な労働空間でもあったという歴史的事実を前提に、ベルナルダン・ド・サン=ピエール、ビュフォンなどのテクストを取り上げ、「人種」を決定するものは何か、人間と猿を隔てる境界はあるか、等々の問いをめぐってさまざまな言説に通底するファンタスムが検証される。

フランス共和国の奴隷制廃止派たち

モンテスキューを先駆とする思想家の系譜、カリブ世界の覚醒を促した解放奴隷トゥーサン・ルーヴェルチュール、奴隷制廃止の立役者ヴィクトル・シェルシェールなどを手掛かりに、歴史文献と文学作品が共有する問題機制としての「奴隷制」を考察、さらに主題との関連でメリメの短篇やユゴーの処女小説、今日のクレオール世界にまで言及がなされる。

言説としての共和国

国境の修辞学−−ミシュレの方へ

ミシュレの地理歴史学を分析対象として、国境の確定と意味づけ、建国神話の発掘と創成、国民言語の統一と普及、少年文学と愛国心の涵養、領土の記述と旅行ブーム、国土というアイデンティティ、等々、近代ヨーロッパにおいて「国民国家」の意識を現出させた文化的思考が解析される。

「ナショナル・ヒストリー」から「国民文学」へ−−ヴィクトル・ユゴーを求めて

オーギュタン・ティエリ、シャトーブリアン、ティエール、ギゾー、トクヴィル、ミシュレなどによって起源から創出された「国民の歴史」が、19世紀末に至って「共和国の歴史」としてアカデミズムに位置付けられるに至る過程を検証し、「歴史」と「文学」が共栄するこの時代の制度的「文学史」によって、ヴィクトル・ユゴーがまさに「国民文学」の集約的な形として顕揚された理由が解明される。

共和国の辞典−−ピエール・ラルースをめぐって

第二帝政末期から第三共和制にいたる十数年間に発行された『19世紀ピエール・ラルース大辞典』から「歴史」「進歩」「中世」「文明」「人種」「宗教」等の項目を取り上げ、それら自体をイデオロギーの表象として分析したうえで、イスラームの忘却という影の部分を伴う「キリスト教文明」の自画像を大きな歴史空間に置き直した上で再解釈するという課題が抽出される。

キリスト教と文明の意識

知の領域としてのオリエント

植民地化の歴史におけるエジプト、アジアとヨーロッパの出会いを略述した後、アーリアの起源としてのガンジス河というトポスの生成を確認、さらに「オリエント・ルネサンス」と呼ばれる運動が文明史の深化と広域化をうながす経緯を分析し、他者としての仏教世界までをも視野に収めつつ知の活動としての「オリエンタリズム」が再構成される。

セム対アーリア

アーリアの雄大な歴史を「光の奔流」とみなし、地中海対岸のセムの民を「薄明の民」と形容したミシュレの『人類の聖書』、旧約聖書の語彙である「セム」をイデオロギー的な人種論へと転用したルナンの文明論、ゲルマン系アーリアの鑽仰から派生したゴビノーの『人種不平等論』、「反セム主義」と命名されるユダヤ排斥運動などを分析対象として、「セム対アーリア」という図式の生成過程とその意味が解明される。

記述されたイスラーム世界

ブローデルの描いた地中海、セルバンテスの『ドン・キホーテ』から、シャルダン、モンテスキュー、ヴォルテールに至る言説を対象として、キリスト教世界に対峙するイスラーム世界がいかに認知され、紹介され、理解され、表象されて19世紀に至るのかを論じ、「オリエントの叡智」と「寛容なイスラーム」という定式があぶりだされる。

ライシテ非宗教性の時代のキリスト教

キリスト教がユダヤ的なものを脱ぎ捨て、「アーリア化」することによって真に普遍的な世界宗教に成長したとするエルネスト・ルナンの見解をめぐって、教会と国家権力の分離が謳われた革命後のフランスで「イスラームの不寛容」と「キリスト教の普遍性」という見取図が理論化されてゆく過程が明らかにされる。

以上が全体の概要であるが、雄大な構想のもとに広汎な時空を自在に横断するスケールの大きさはタイトルを裏切らず、引用される文献資料の膨大さと的確さはまさに博引傍証と呼ぶにふさわしく、記述の優雅な平明さは学術論文にありがちな無味乾燥さとは程遠い魅力に溢れ、あらゆる点で本論文が遥かに水準を抜いた出来栄えであることは審査委員全員が一致して認めるところであった。しかしすでにフランス文学研究者として幾多の優れた業績を挙げている著者の仕事であってみれば、これらの美点は今さら言わずもがなであろう。

本論文の学問的意義について言及されるべき点は多々あるが、その中から最も中心となるものを強いて一つだけ挙げるとすれば、タイトルが端的に物語っている通り、ヨーロッパのキリスト教文明がイスラーム文明を否定的対立項として措定しつつ自らを唯一の「文明」として定立していくまでの過程を豊富な例証によって厳密に跡付けることで、「文明」という概念それ自体が「国民国家」の形成過程と不可分のイデオロギー性を担ったものであることを明らかにしている点である。単なるオリエンタリズムの視点から一方的に西欧文明の倨傲を断罪するのではなく、日本人という第三の立場からヨーロッパもオリエントもアジアも等距離から俯瞰しつつ、「人種」や「宗教」をめぐる冷静かつ公正な言説分析を積み上げて以上の命題の客観的な検証に成功しているという意味で、本論文の成果は画期的なものであり、今後の19世紀ヨーロッパ研究にとって必読の文献となることは言うまでもなく、文学研究にも歴史学研究にも、さらにはより広く人文科学の多様な分野にもきわめて大きな貢献をもたらすであろうことは疑う余地がない。

また方法論的観点からも、本論文は文学研究を「地域文化研究」という新たな学問的枠組の中で歴史学研究との対話に向けて開くことを果敢に目指し、しかもこれに十二分に成功しているという点で大きな意義をもつものと評価される。たとえばユゴーやフローベールをはじめとする文学作品の読解にあたっても、著者はこれを従来の文学研究が墨守してきた個別の作家研究の方向に導くのではなく、あくまでも全体の主題と関連づけながら歴史的文脈の中で新たな照明を当てることに専念し、大きな成果を挙げている。またフィクション、歴史的記述、事典項目など、多種多様なレベルのテクストを縦横無尽に引用しつつ、これらを一貫して「言説」として分析対象とする手法は、逆に記述された事実そのものにもっぱら関心を集中してきた歴史学研究に対しても新たな視点を提起するものであり、時代やジャンルを越えた研究方法の可能性を示したものとして特筆に値する。この意味でも本論文は、ありうべき「地域文化研究」のひとつのモデルとして長く参照される基本文献となるであろう。

本論文は多岐にわたる論点を包含した文字通りに「インター・ディシプリナリー」な仕事であるため、審査委員会でもきわめて多様な観点から活発な質疑応答が交わされた。もちろんその中で、いくつかの問題点が指摘されなかったわけではない。主なものに絞って以下にいくつか挙げておく。

1)「ヨーロッパ文明」なるものは中世(12世紀)にはすでに構造体としてある程度できあがっていたと考えられるが、国民国家の形成過程でこの概念が立ち上げられたとする命題は、この観点からすると妥当性を減じはしないか。2)本論文では「フランス文明」と「ヨーロッパ文明」がほとんどイコールであるような印象を受けるが、両者の関係が若干曖昧ではないか。3)第II部で「国語」の問題を論じながら、インド=ヨーロッパ祖語が植民地において発見され、その後アーリア人のアイデンティティとなったという事実に触れられていないのはなぜか。4)「非宗教性(ライシテ)」の問題は、形而上学的なロゴス、あるいはプラトニスム的なものとして残されたギリシア性との関係において、もう少し詳細に展開すべきところではないか。

以上は審査委員会で出された疑問の一部であり、各委員からはそれぞれの観点から他にもさまざまな指摘がなされたが、それらに対する著者の回答はいずれも明快・的確で納得のいくものであった。一部の指摘については今後の課題として残されたものもあるが、それらはフランス第三共和制を対象としてやがて書かれるであろう「本説」に譲るべき事柄であり、本論文全体が達成している成果の大きさから見ればいずれも瑕瑾中の瑕瑾とも言うべきものにすぎない。

したがって、本審査委員会はこの論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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