学位論文要旨



No 215814
著者(漢字) 北中,千史
著者(英字)
著者(カナ) キタナカ,チフミ
標題(和) 神経芽腫の自然退縮に関わるプログラム細胞死の解析
標題(洋)
報告番号 215814
報告番号 乙15814
学位授与日 2003.11.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第15814号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮園,浩平
 東京大学 教授 中福,雅人
 東京大学 教授 加藤,進昌
 東京大学 教授 橋都,浩平
 東京大学 講師 林,泰秀
内容要旨 要旨を表示する

(研究の目的)自然退縮はがんで稀に見られる興味深い生物学的現象である。しかしながら多くの場合、がんの自然退縮現象がどのようなメカニズムでおきているかについてはよくわかっていない。神経芽腫は小児の腹部に好発する神経堤由来の腫瘍であり代表的な小児固形がんとして知られるが、様々ながんの中で自然退縮が最も高頻度にみられる腫瘍としてもよく知られている。従って神経芽腫は古くからがんの自然退縮に関わるメカニズムを解明するための格好の研究対象となってきた。これまでの知見によれば神経芽腫の自然退縮は免疫系による腫瘍細胞の排除や腫瘍細胞の神経分化では説明できないことから、そのプロセスには腫瘍細胞の自殺(プログラム細胞死)が関与しているものと考えられてきた。従来プログラム細胞死はすなわちアポトーシスと考えられてきたことから神経芽腫の自然退宿に関与するプログラム細胞死も当然アポトーシスであるものと期待され、このような仮説に基づいた研究が一時期盛んに行われた。しかしながら予想外なことに、一連の研究の結果はアポトーシスの関与を積極的に示すものではなかった。さらに、最近になって神経芽腫の電子顕微鏡解析により神経芽腫腫瘍内でアポトーシスとは異なるプログラム細胞死 autophagic degeneration が起きていることが明らかにされた。

一方、神経芽腫においては H-Ras, TrkA そして N-Myc などの分子マーカーの発現レベルが予後とよく相関することが知られており、H-Ras や TrkA の高発現が見られる症例は予後がよい。このことは H-Ras や TrkA の過剰発現が何らかのメカニズムを介して腫瘍細胞の排除に貢献している可能性を示唆するものであるが、上述の如く神経芽腫では autophagic degeneration が起きており、さらに最近我々は autophagic degeneration が Ras によって誘導されることを明らかにしている。そこで本研究では、神経芽腫において Ras の発現が亢進するとアポトーシスとは異なった自殺プログラム (autophagic degeneration) が活性化されることにより腫瘍の退縮・治癒傾向が促進されるという仮説を立て、神経芽腫腫瘍サンプルを用いた in vivo の解析ならびに培養神経芽腫細胞を用いた in vitro の解析を通じてこのような仮説の検討を行った。

(研究の方法・実験結果)神経芽腫の腫瘍検体としては神奈川県立こども医療センターにおいて手術摘出された検体を用いた。腫瘍組織の連続切片に対して抗 H-Ras 抗体を用いた免疫染色ならびにヘマトキシリン・エオジン染色を行い比較検討した結果、Ras を高発現する腫瘍細胞が核の濃縮を伴わず細胞の断片化を特徴とする細胞変性を起こしていることが明らかとなった。また活性型カスパーゼ3断片特異抗体による免疫染色や TUNEL アッセイの結果、このような変性細胞ではアポトーシスの特徴とされるカスパーゼの活性化や DNA の断片化が起きていないこともわかった。さらに電子顕微鏡による観察を行ったところ変性腫瘍細胞が autophagic degeneration の特徴を示すことも確認された。このような Ras の高発現を伴う non-apoptotic な細胞変性と腫瘍の自然退縮傾向との関係について調べるため、マス・スクリーニングにより腫瘍の存在が判明した症例(mass-screening cases)ならびに臨床症状をもって発症し International Neuroblastoma Staging System の stage 3あるいは4と診断された1歳以上の症例(clinically-detected cases)の両グループ間で Ras の高発現を伴った腫瘍細胞変性領域の出現頻度を比較した。その結果自然退縮を起こしやすいとされる mass-screening cases では87例中53例(60.9%)に認めたの対し自然退縮が期待できない clinically-detected cases では24例中7例(29.2%)であり、前者で有意に(P=0.06)出現頻度が高かった。

培養神経芽腫細胞を用いた in vitro の実験では一過性の Ras 発現実験、ステーブルトランスフェクタントでの Ras 発現誘導実験のいずれにおいても Ras の発現が神経芽腫細胞に細胞死を誘導することが確認された。また、Ras により神経芽腫細胞に誘導される細胞死は核の濃縮を伴わず著しい細胞断片化を示し、カスパーゼの活性化も見られず(必要ともされず)、TUNEL 陰性で、autophagic degeneration の特徴を示すなど、神経芽腫腫瘍組織において Ras 高発現部位で起きている non-apoptotic な細胞変性の特徴をそのまま再現していた。

神経芽腫では Ras の発現単独よりも TrkA(神経栄養因子高親和性受容体)の高発現を伴う症例のほうが予後がよい傾向が見られる。そこで TrkA が Ras の細胞死誘導能を増強している可能性について検討を行った。その結果、TrkA の単独高発現は神経芽腫細胞に神経分化を誘導するのに対し、Ras を高発現させた状態で TrkA を発現させると Ras による細胞死が増強されることが明らかとなった。また、TrkA のリガンドである神経栄養因子 NGF は TrkA を高発現させた状態では Ras 依存的細胞死を増強したが、TrkA を発現させていない状態では Ras 依存的細胞死を増強しなかった。これらの結果は TrkA シグナル伝達経路の活性化が Ras のもつ神経芽腫細胞死誘導能を活性化していることを示しており、Ras と TrkA の両者を高発現する症例の予後がよいという従来の知見を裏付けるものである。

(考察・まとめ)今回の研究結果は神経芽腫において Ras の発現が誘導されると腫瘍細胞にアポトーシスとしての特徴・性質を持たない細胞死が誘導されることを示しており、さらにこのような細胞死が神経芽腫の自然退縮に貢献している可能性を強く示唆するものである。また、今回の研究結果はヒト生体内における「アポトーシスとは異なったプログラム細胞死」の役割・意義を初めて示すものであり、神経芽腫の自然退縮のメカニズム解明に新たな展開をもたらすだけでなく、がんをはじめとしてプログラム細胞死の制御異常が原因とされる種々の疾患に対する理解あるいは治療法の開発においても新たな視点を与えるものと期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本研究はこれまで全く解明されていなかった神経芽腫の自然退縮に関わる細胞死の性状・メカニズムを明らかにするため、神経芽腫患者より得られた腫瘍検体に対する免疫組織化学的解析ならびに培養神経芽腫細胞に対する遺伝子導入実験などを行っており、下記のような結果を得ている。

神経芽腫の腫瘍標本に対して抗 Ras 抗体による免疫染色を行い、Ras 蛋白質を高発現する腫瘍細胞が変性を起こしていることを示した。また TUNEL アッセイや抗活性型カスパーゼ3特異抗体による免疫染色の結果、変性腫瘍細胞がアポトーシスとは異なった細胞死をきたしていることが判明した。さらに電子顕微鏡解析によってこの細胞死が autophagic degeneration と呼ばれる細胞死としての特徴を示すことを明らかにした。また、Ras の高発現を伴った変性腫瘍細胞領域の出現頻度は自然退縮の起こしやすさと相関関係があることが示された。

培養ヒト神経芽腫細胞に対して遺伝子導入実験を行い、一過性あるいは誘導的にRas蛋白質を発現させることにより細胞死が誘導されることを示した。また、核染色、TUNEL アッセイ、電子顕微鏡による観察等により、Ras 発現によって誘導される細胞死がアポトーシスとしての特徴的所見を示さず、autophagic degeneration の特徴を有していることを明らかにした。さらにこのような細胞死におけるカスパーゼの活性化状態、カスパーゼ依存性を検討することにより、Ras により誘導される細胞死がその制御にカスパーゼの関与しない、アポトーシスとは異なった制御機構をもつ細胞死であることが確認された。

Ras とともに神経芽腫の予後良好因子として知られる神経栄養因子受容体 TrkA の高発現が Ras 依存的細胞死に対してどのような影響を及ぼすかを調べるため、培養神経芽腫細胞に対して外来的に Ras を発現させた状態・発現させない状態のそれぞれについて TrkA の遺伝子導入実験を行った。その結果 Ras を外来的に発現させていない状態では神経分化が誘導されたのに対して、Ras を発現させた状態ではTrkAはRasによる細胞死誘導を増強した。この結果から、TrkAが神経分化誘導のみならず、Ras による細胞死誘導の増強を介して腫瘍の縮小、ひいては良好な予後に寄与している可能性が示唆された。

これまで神経芽腫の自然退縮に関わる細胞死はアポトーシスであると一般的に信じられてきたが、このような考え方を裏付ける実験データは得られておらず、自然退縮のメカニズムについては殆ど未知に等しい状態であった。これに対して本研究の結果は、Ras の高発現が神経芽腫細胞に対して autophagic degeneration の特徴を示し、アポトーシスとは形態・制御機構とも異なる細胞死を誘導していること、ならびにそのような細胞死が神経芽腫の自然退縮に寄与している可能性を初めて示したもので、神経芽腫の生物学的特性を理解するうえで重要な貢献をなすものである。また、本研究の結果ま腫瘍抑制に関わる細胞自殺機構がアポトーシス以外にも存在することを初めて示した点において腫瘍学全般に対する貢献も顕著であり、したがって学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/51215