学位論文要旨



No 215831
著者(漢字) 桑原,直己
著者(英字)
著者(カナ) クワバラ,ナオキ
標題(和) トマス・アクィナスにおける愛の倫理と正義の倫理
標題(洋)
報告番号 215831
報告番号 乙15831
学位授与日 2003.12.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15831号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 天野,正幸
 東京大学 教授 高山,守
 東京大学 助教授 一ノ瀬,正樹
 総合文化研究科 教授 宮本,久雄
 総合文化研究科 教授 山本,巍
内容要旨 要旨を表示する

本稿の基本的性格

本稿は、「愛」と「正義」という視点から、トマス・アクィナスの倫理学の哲学的な意味を明らかにしたものである。特に、トマスの倫理学において、内容的にアリストテレス的な徳論倫理学を導入した部分に関してのみならず、彼の倫理学におけるキリスト教倫理に固有な内容をなす部分に関しても、アリストテレスに由来する「性向としての徳」という概念が、「記述の言語」としての理論的な枠組みとして果たしていた機能の有効性とその意義とを明らかにすることを主眼としている。

本稿の構成および概要

本稿は、「第一部 トマス倫理学の基本的性格」「第二部 人間的自然本性の自己完成と対他性 -アリストテレス的倫理学の継承-」「第三部 人間的自然本性の自己超越-恩恵の倫理学-」「第四部 正義と愛の諸相」という四部から構成されている。

第一部では、トマスにおける「倫理学」の基本的性格について検討し、本稿全体の考察の方向を見定めた。その結果、第二部においては「正義 justitia」の徳が示すところの、隣人に対する「対他性としての自己超越」の方向における倫理を、そして第三部においては「神愛 caritas」の徳が示すところの、「神に向かっての自己超越」の方向の倫理を検討する、という本稿全体の基本構成を確定した。結果として、この叙述の展開は、実質的には、アリストテレス的な徳倫理を内容とする倫理学に関する論攷(第二部)と、キリスト教的な恩恵を基軸とする倫理についての論攷(第三部)という、トマスの思想に対する論述としては極めて「古典的」な枠組みに従うこととなった。

第二部は、上述の方針に従い、トマスの倫理学において、アリストテレス的な倫理学、とりわけアリストテレスの「性向 hexis=habitus としての徳」の理論が受容されている側面について解明した。その際、特に「正義」の徳が示すところの対他性としての自己超越と、人間本性の内的な完成としての倫理的徳との関係を問題とした。

アリストテレスの倫理体系における「正義」と「愛」との関係は、対他的な「正義」の徳と、魂の内的な完成をもたらす徳に裏打ちされた「友愛 philia=amicitia」との関係として示唆される。そこで、アリストテレス的な概念枠において、魂の内面的な完成、現実態性としての「生命エネルギーの充溢」を示す徳が、「正義」を踏まえつつ「正義」を超える「友愛」の根拠となっていることを明らかにした。

その上で、トマスが、徳の理論一般、特に対他性としての「正義の徳」の射程についての認識、および内面的な完成を基盤とする「友愛」についての理論において、かかるアリストテレス的な知見を継承していることを明らかにした。

第三部では、トマス倫理学における、「神愛」にもとづく神に向けての「自己超越」の方向性について考察した。これは、「恩恵 gratia」を基軸とするキリスト教固有の倫理の叙述である。ここでば、特に「神からの注賦 infusio」という、アリストテレス的な「徳」ないしは「性向」概念の枠組みに対してトマスが加えた拡張の意味を解明した。

その際、「注賦的性向」という概念装置がその意味を担う原点をなす場面を、パウロ書簡、特に『ローマ書簡』第5章の「聖霊によって注がれる(神)愛」というテキストに求め、その文脈の中で「注賦的諸性向」の意味を明らかにすることを試みた。

その上で、当該書簡をめぐって、特にアウグスティヌス、ペトルス・ロンバルドゥスらが展開した、「恩恵」による魂の変容を、「神愛」という形での「愛」を中心に理解しようとする理論の歴史的展開の中にトマスを位置づけることを試みた。

第四部においては、「隣人愛」という「神愛」の対他的展開、神の前における正しさとしての「(正)義」、「天使」や「最初の人間」の「罪」が示す完成された知性的な存在者における悪の可能性といった、「正義の徳」が示す「対他性」としての「自己超越」と、「神愛の徳」が示す「対神性」としての「自己超越」という対比の軸のみをもっては尽くされない、あるいはそれらの両視点が交錯する場面における「正義」「愛」をめぐる諸問題について検討した。

本稿の眼目となる主張およびその独創性

本稿で筆者が特に強調する主張として、特に本稿の主要的部分である第二部、第三部に即して、以下の二点を挙げることができる。

「友愛の愛」と形相的完全性との関係の解明

第二部の主眼となる主張は、「愛することとは誰かのために善を欲することである」というアリストテレスの『弁論術』におげる「愛」の定義をもとにトマスが立てた「友愛の愛 amor amicitiae」と「欲望の愛 amor concupiscentiae」という区別がトマスの「愛」についての理論の骨格をなしている、という視点の強調である。

「利己性を越える愛」が規範性を帯びるとき、あまりに高い倫理的要求としての苛酷さ、あるいはルサンチマンの道徳に堕することへの危険、といった倫理学上の困難が生じる。このことは、「キリスト教倫理」が根本的に抱える困難であった。

本稿では、「友愛の愛」に関するトマスの理論の意義を主題的に解明することにより、かかるキリスト教倫理の根本問題に対する一つの回答が示唆された、と考えている。すなわち、トマスは「愛」から「利己性」の要素を排除しようとする方向をとるよりも、「友愛の愛」という観念のうちに「利己性を越えた」人格的な愛の成立を見ることにより、キリスト教倫理が直面する上述の危険性を回避しえていることが明らかになった。

アリストテレスにあって「友愛(ピリア)」とは、一定の形相的完全性・内的な生命エネルギーの充溢という事態-すなわち「徳」-によって支えられた愛を意味していた。そしてアリストテレス倫理学の基本をなす「性向としての徳」の理論は、その形相的完全性の成立という事態を描く概念装置として働いていた。本稿では、トマスにあって、「友愛の愛」の観念は、そうした形相的完全性に支えられたアリストテレス的な「友愛」の観念を受け継いだものであり、この点はトマスの倫理学の中心概念である神愛にも引き継がれていることを明らかにした。

「注賦的性向」の理論を『ローマ書簡』の解釈史の中に位置づけたこと

従来のトマス研究においては「哲学研究」という枠組みの制約ゆえか、トマスにおける「恩恵の倫理学」について、その「神学的」典拠-すなわち聖書-にまで立ち入った研究は皆無に等しかった。その結果、恩恵の倫理学の内実をなす「注賦的性向」の理論の意味は十分に解明されず、それは一種「魔術的な」もの、あるいは「機械仕掛けの神」という印象をもって見られていた。そしてそれゆえに、トマスにおける「注賦的性向」の理論は、益々「敬遠」されて主題化して論じられにくくなる、という悪循環を招いていた。

本稿第三部では、むしろ、「哲学研究」の枠を一旦踏み越えて、トマス倫理学の「神学的な」典拠にまで立ち入った考察を加えることによって、かかる事態を打開することを試みた。すなわち、トマスの言説が拠って立つ「場」-「注賦的性向」という概念装置がその意味を担う物語的な場面を、パウロ書簡、特にトマス自身が「sed contra」で引用している『ローマ書簡』第5章に求め、その意味を明らかにすることを試みた。

かかる考察が、トマスがその本来的な倫理として提唱していた恩恵と神愛の倫理学を、パウロに由来する「聖霊によって注がれる(神)愛」という観念の解釈史という文脈の中に置いて見る、という視座を可能とした。そして、この視座においてこそ、アウグスティヌス、ペトルス・ロンバルドゥスとの対比において、トマスの「神愛」および「恩恵」概念が占める思想史的位置づけを明らかにすることが可能となった。

本稿では、このように、神学的な内容にまで踏み込んだ思想史的考察を加えることによって、改めて「性向としての徳」という哲学的な概念装置が「恩恵の倫理学」にあっても果たしていた意義を解明しえた、と考える。すなわち、トマスが、「性向」というアリストテレス哲学に由来する概念を、その「注賦」という極端な拡張を加えてまで導入したことの意味は、形相的な完全性、生命エネルギーの充溢という含みをもつ「性向」という概念を、神からの恩恵とこれに対する人間の側の応答という人格的な関係についての「記述のための枠組み」として極限まで使いこなそうとするためであった。そのことによって、トマスは、アウグスティヌスが与えた「徳は愛である」というテーゼを、「徳は愛に導かれている」という方向で読み替えつつも、『ローマ書簡』の原場面についてアウグスティヌスが直観的に把握していたところの本質的な部分を伝えることが可能となった、という事情が明らかになったのである。

審査要旨 要旨を表示する

桑原直己氏は、本論文において、トマス・アクィナスの倫理学の哲学的意義を、「愛」と「正義」を鍵概念として、アリストテレスの「性向(hexis)」としての徳の倫理学の哲学的な枠組みがトマスの思想体系において「記述のための概念装置」として機能しているという観点から解明し、さらに、思想史的に未だ未開拓である、トマスにおける倫理学と形而上学的人間論および徳論との連関を示すことを試みている。

第一部「トマス倫理学の基本的性格」においては、トマスの倫理学が、アリストテレスの「哲学的倫理学」を承けつつも、人間の自然本性を「自己超越的なもの」と捉え、キリスト教的・神学的な「愛」と「正義」の理論によってアリストテレスの「哲学的倫理学」を越えるものであるということが明らかにされるとともに、論文全体の方位が示されている。

第二部「人間的自然本性の自己完成と対他性-アリストテレス的倫理学の継承-」においては、「正義」の徳が示す、隣人に対する「対他的自己超越」の方位を担う倫理学が考証され、トマスはアリストテレス倫理学における「正義」と「愛」の関係を、対他的な「正義」の徳と、魂の内的な完全性をもたらす徳に裏打ちされた「友愛」の関係に転意させたということが示され、トマス倫理学においては、アリストテレス的概念枠において魂の内面的な完成・現実態性として「生命エネルギーの充溢」を示す徳が、正義を踏まえつつ「正義」の徳を越える「友愛」の根拠になっているということが明らかにされている。

第三部「人間的自然本性の自己超越-恩恵の倫理学-」においては、トマスにおけるキリスト教固有の「愛」の倫理が、恩恵および、「神愛」の徳に基づく神に向けての「自己超越」の倫理として考察されている。それは、アリストテレス的な「徳」概念ないし「性向」概念が、神からの恩恵の注賦(infusio)という思想的契機によって拡張され、トマス倫理学の固有性が明示される考察となっている。その考察は、『ローマ書簡』第五章第五節と、アウグスティヌス、さらにはペトルス・ロンバルドゥスなどのテキストの分析を方法論的に媒介してなされるが、それは同時に古代・中世の倫理思想史の再解釈ともなっている。

第四部「愛と正義の諸相」においては、「神愛」の分析と憐れみなどへの展開が考究され、それと並行して正義も、社会的・ポリス的正義から罪業を孕む人間本性の義化という視点にまで深められて考究され、自己超越と対他性の諸相と、それらが交錯するトマス倫理学の本質と今日的可能性とが提示されている。

本論文は、トマスの倫理学をトマス独自の形而上学をも射程に入れて包括的に解明することを試みた力作であるが、トマスの形而上学そのものについては更に踏み込んだ研究が必要であろう。とは言え、研究の射程の広さと水準の高さ、また、トマスの徳論の未開の分野(恩恵など)の開拓、現代の倫理学に対するインパクトなど、高く評価されるべき点が多い。以上の点を勘案し、本論文を博士(文学)の学位授与に値するものと判定する。

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