学位論文要旨



No 215832
著者(漢字) 西本,晃二
著者(英字)
著者(カナ) ニシモト,コウジ
標題(和) 落語『死神』考 : 噺の民話学的考察ならびに幕末から大正初期にかけての異文化接触
標題(洋)
報告番号 215832
報告番号 乙15832
学位授与日 2003.12.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15832号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 長島,弘明
 東京大学 教授 月村,辰雄
 帝京大学 教授 延廣,眞治
内容要旨 要旨を表示する

大序(プロローグ)「発端」

落語『死神』と筆者のそもそもの関り合い。西洋種と目される、このような噺(はなし)に関する詮索が、わが国の大衆文化の発展に寄与し得る可能性の、全体的な見取り図。

二段目「クリピスノ〜クリスピノ問題」

落語『死神』の原話の一と目される、イタリヤの喜歌劇(オペラ・ブッファ)『クリスピーノと代母(コマーレ)』のタイトルを、東大落語事典が『クリピスノ』と誤記したことから端を発して、それが今村信雄という人物の発言に絡まる論争となった顛末。

景事(インタールード)〜1「速記術と落語」

問題の誤記の原因となった今村信雄という人物、その父の今村次郎と、わが国における速記術の成立との関係。今村父子の前に、日本式速記術を完成した若林坩蔵と酒井昇造が、これまた落語『死神』と関係深い三遊亭円朝と、どうして識り合ったか、その経緯。また速記術が明治文学に重要な一期を画した「言文一致」運動の成立に果した役割。

三段目「落語『死神』の筋」

今日に伝わった、また現に演じられている各種の『死神』の演出に、失敗型と成功型の二種類があること。それらの話の要点。ならびにこの落語の原典としてイタリヤ・オペラ『クリスピーノと代母(コマーレ)』の他に、グリム兄弟の『童話』中の『死神の名付け親』という話が挙げられていること。

景事(インタールード)〜2「死神、洋の東西」

東アジアにおいて「死神」の役割を演ずるのは「鬼」または「幽鬼」である。いっぽうヨーロッパにあっては、元来は「死」あるいは「運命の神」だったものが、一神教であるキリスト教の導入以後は、「異教の邪神」ないしは神の「下僕/下女」に成り下がってしまった。かような情況を踏まえて、東西の接触の接点となった落語『死神』を手掛かりに、洋の東西における、「死神」の在り方の変遷を跡づける。

四段目「喜歌劇(オペラ・ブッファ)『クリスピーノと代母(コマーレ)』」

作品の兄弟作曲者(合作)ルイージとフェデリコ・リッチの経歴と、作品の成立過程。この作品における話の諸要素とその展開の仕方。

本作品は、主人公が最終的に赦される、成功型死神譚に分類されること。かつラテン語系の言葉では、「死」は女性名詞であることから、死の女神が勤めるのは「代母(コマーレ)」の役であり、かつ物語の主人公である医者にして貰うのは父親であって、『グリム童話』におけるように「名付け子」ではない点が重要であることの指摘。

景事(インタールード)〜3「G・V・ローシ」

わが国に、明治末から大正初期にかけ、文明開化の波に乗って、帝国劇場で西洋オペラを導入するに当り、大変な功績のあった人物に、イタリヤ人バレエ振付師ヴィットリオ・ローシがいる。この人物のわが国における活動、さらには帝劇オペラ解散後、ローシが自費をもって開設した赤坂ローヤル館の盛衰と、同劇場での『クリスピーノと代母(コマーレ)』の本邦初演の経緯(いきさつ)。

あわせてわが国で、文明開化を推進した明治維新の指導者達により、西洋物の再現舞台芸術が導入・上演されることになった時、そこで浮上してきた基本的問題点と、これに対する日本側、なかんづく芸術家・演奏家などの、結局は浅草オペラヘと傾いて行くことになる、反応および対応。

五段目「グリム童話」

グリム童話『死神の名付け親』(失敗型)の要点と筋の展開。『童話集』の初版(1812)から、グリム兄弟が二人とも存命中に出された最後の第7版(決定版、1857)にいたるまで、諸版を通じて『死神の名付け親』が辿った変遷。

加うるに『グリム童話』の成立に関わる、ドイツ・ロマンティスムならびに、いわゆる「国民国家」としての統一達成をめざす、19世紀ドイツのナショナリスムとの絡み合いが生み出し、わが国にも鵜呑みにされて伝わった、誤まった『グリム童話』観の成立と、その近年における崩壊。

景事(インタールード)〜4「死神譚、アルプスの南北」

今日ヨーロッパと呼ばれるにいたった地域で、アルプスの北と南における死神譚の違い。いわばキリスト教化された死神譚である『聖クリスピーノ殉教伝』、あるいはワーグナーの楽劇『ニュールンベルグの名歌手』に登場することで知られる、16世紀ドイツの民衆詩人ハンス・ザックスの滑稽詩(シュヴァンク)『農夫と死神』、さらには北と南の中間地域であるフランス、東に寄った中欧などに伝わる、さまざまな民話において見出だされる死神伝説とその類型。すなわち、そこには失敗型・一時的成功型・最終的成功型という3類型が存在する。そしてそれらが地域によって取る分布に、自(おの)ずと認められる偏差。

六段目「『名付け親型死神譚』の構成要素(モティーフ)」

死神譚において、主人公を死神と結び付けるための仕掛けとして導入された「名付け親探し」を軸に展開する、この種の物語の基本的構成要素(モティーフ)、ならびにその生起・配列の順序の民話学的観点からの考察。それを踏まえて、わが落語『死神』の系統は、噺(はなし)自体がすでにいろいろ雑多な要素を含んでおり、決して単一の系統論で割り切れるものではないが、どちらかといえば、グリム童話『死神の名付け親』よりは、むしろ『クリスピーノと代母(コマーレ)』に近いということが言えるという事実の指摘。

七段目「落語『死神』成立の経緯」

噺(はなし)の成立年代推定。6代目三遊亭円生の芸談に出てくる、5代目菊五郎演ずるところの河竹黙阿彌作『盲長屋梅加賀鳶、水道端の場』(明治19年3月初演)に登場する死神と、落語『死神』(失敗型)との関連。これと三代目三遊亭円遊口演の『全快』(明治30年速記、成功型)との付き合わせから割り出される、明治20年代という成立時期。

八段目「福地桜痴」

三遊亭円朝を落語『死神』の作者に比定した場合、円朝にネタを供給した可能性のある人物として浮上してくる福地桜痴の事跡(幕末・明治における日本の対外交渉の在り方と問題点 [=不平等条約] との関連をも取り上げる)。

特に文久2年(1862)を皮切りに、福地が前後4回にわたって行った外遊の中で、第1回渡欧の際して、使節団がグリム兄弟の兄の方ヤーコブを訪問したが、その時にグリム童話『死神の名付け親』が話題になった可能性について。また第二回目、慶応元年(1865)の渡航でのパリ滞在に際して、同年が『クリスピーノと代母(コマーレ)』のパリ初演、および次シーズンでの再演と時期的に重なることから、福地がこのオペラを観た可能性。

景事(インタールード)〜5「『ラ・トスカ』考」

明治中期における福地桜痴の活動。プッチーニの名作オペラ『トスカ』(1900)と、同じ物語の福地による、オペラに先立つこと9年も前、1891年の翻案歌舞伎『扇の恨み』が、じつは両者ともフランスの劇作家、V・サルドゥーの芝居で、一世を風靡したサラ・ベルナールの名演技により評判の高かった『ラ・トスカ』(1887)に拠っていること。また同じ物語を、福地桜痴が三遊亭圓朝に教え、圓朝がこれを人情話『錦の舞衣(まいぎぬ)』として高座に掛けるにいたる、両者の時間的先後や物語伝達の経緯。

またこれは明治における洋物移入の好例であるので、わが国、いなわが国に限らず、非ヨーロッパ圏がヨーロッパ文化と接触する際、さらにはヨーロッパと非ヨーロッパのみならず、二つの異なる文化が接触する時、受入れ側において、いかなる要素を摂取するかという選択と、それら要素の自国文化への適応をいかに行うか、そのプロセスの検討。

九段目「落語『死神』の制作年代」

上記から類推される、西洋種の童話やオペラを出発点として、わが『死神』が、物語の日本化を行いつつ、ほぼ間違いなく三遊亭圓朝によって作られた上、『死神』(失敗型)・『全快』(成功型)という二つの噺(はなし)を生み出して、落語のレペルトワールとして成立・定着する経過と、時期的な蓋然性についての考察。

十段目「世界の死神譚と落語『死神』」

これまで問題にしてきた、落語『死神』と、イタリアの喜歌劇(オペラ・ブッファ)『クリスピーノと代母(コマーレ)』やグリム童話『死神の名付け親』以外にも、死神が名付け親役で登場する死神譚が、世界には広く散らばっている。そのいくつかの例(トルコ、ギリシャ、北欧、スリ・ランカなどの例)を参照しながらの比較対象。

大尾「落語『死神』と日本文化」

落語の演目としては定着した『死神』であるが、落語だけではこの主題がわが国の文化に血肉化した形で組み込まれたというには、やや手薄の感なしとしない。ところが近年同じ主題を、もともと「人の生命(いのち)は風前の灯(ともしび)」といった観念が浸透している東アジアの一国であることもあって、わが国ではいろいろなジャンル(映画、狂言、ミュージカル、等々)で取り上げた作品が生まれつつある。「死神」という主題の、日本化の可能性の萌芽。

御祝儀(エピローグ)「世界の話芸『落語』」

落語という、世界に冠たる話芸の海外進出。その魅力に取り憑かれた外国人(初代快楽亭ブラックやロナルド・ドアー教授など)の、その人にとっては外国語の芸能としての、日本語落語の試み。さらに最近のパリで、演出家ニコラ・バタイユ氏らによる翻訳落語(フランス語での)の試みの成功が、演者が一人で多数の登場人物を語り分ける話芸としての「落語」の魅力を、海外にも知らしめているという事実がある。

いっぽうこのようなことが可能であるのは、世界各国にも「落語」に類似した、民間ストーリー・テラーや寄席芸人の類(たぐい)が存在しているという事実があり、それが話芸としての「落語」の普遍性を保証するものであること。と同時に、にも拘らず「落語」のような芸能形式がここまで発達したのは、ひとりわが国においてのみであるという点にも留意し、その魅力を世界に知らしめ、世界各国において、それぞれの言葉で、豊かな話芸の世界が繰り広げられることへの期待。

蛇足(エピ・エピローグ)「RAKUGO」

最近、今度は日本人の噺家(はなしか)が、外国語(主として英語)を用いて、海外のみならず国内においても行う「RAKUGO」と呼ばれるジャンルが生まれつつある。

そればかりではない、日本語で、日本語を解さぬ外国人の観客に噺(はなし)を語って聞かせるという、破天荒な事例まで出てきている。これらについての評価、「話芸」つまり言語という基本的に地域性を有する手段に拠る芸能の一つである「落語」が、世界の地域文化を刺激し、もって人類文明の多様化と調和に貢献できる可能性への期待。またひいてはそれがわが落語の、さらなる発展と豊饒化にも繋がるという、落語『死神』の例ににおいても知られる見通し。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、初代三遊亭円朝作とされてきた落語「死神」の原話を解明し、いつ、どのようにして日本に受容されたかを解明したものであるが、源泉の解明にとどまらず、さまざまな世界の文化のなかで、「死神」ないし「死」がどのように観念されているかを踏まえて、そこに外部から新たな要素がもたらされた場合に、これをいかに受容し、消化し、その国独自なものとするかをも考察し、わが国文芸の基層的な「民衆文化」の次元で、意識下の文芸的感性としてそれらを育んできた「話芸」の研究に、新たな光を投じたものである。

従来、落語「死神」は、明治中期にイタリア・オペラの『靴直しのクリスピノ』からヒントを得て円朝が創作したと言われてきたが、実態は必ずしも明らかではなかった。西本氏は、これは一八五〇年初演の『クリスピーノと代母(コマーレ)』であることを確認し、明治一九年、河竹黙阿弥作の歌舞伎『加賀鳶』初演を落語「死神」成立時期の上限とする一方、「死神」の最も早い記録が登場する明治三十年を成立の下限とする。こうして落語「死神」の成立時期が明治二十年代と確定された。また、話のタネを円朝に伝えた人物として、従来から本命視されてきた福地桜痴と條野採菊について詳細に追跡し、福地桜痴が慶応元年(一八六五)の遣欧使節団の通訳として随行した際、パリ滞在中に、「帝室イタリア劇場(ル・テアトール・アンペリアル・イタリアン)で上演された『クリスピーのと代母(コマーレ)』を観劇した可能性が極めて高いことを確かめ、これを帰国後に円朝に語ったのが元であることを突き止める。

西本氏はイタリア、フランスを初めとするヨーロッパ諸文化についての該博な知識と、徹底的な探求とによって、落語「死神」の源流となったヨーロッパの「死神」譚に、イタリア・オペラ系統の南ヨーロッパ型と、グリム童話系統の北ヨーロッパ型の二系統が存在することを明らかにする。摘出された特徴を幾つか例示すると、(1)北ヨーロッパ型であるゲルマン語系の地域では、死神が男性であるのに対して、南ヨーロッパ型ラテン系の言葉が話される地域では死神が女性である。(2)社会的正義と公平を象徴的な形で主張する傾向は北の系統に著しい。(3)北では宗教色がはっきりしているが、南では世俗性が強く、キリスト教の影が薄い。(4)北では主人公が死神との約束を破る理由がロマンティックな「恋」になるが、南では金や危険といった実際的な理由で働くことが多く、恋はあっても傍筋に置かれる。(5)南の死神譚では「靴」が重要なモチーフであるが、北のグリム童話では、靴はまったく出てこない、等々である。なお、南北の中間地帯であるフランスにおいては、南北両方の型が見られるという。

イタリア・オペラの主人公「クリスピーノ」は靴屋であるが、古代の殉教した聖人で、中世以降、靴屋同業組合の守護聖人となった「聖クリスピーノ」に基づくことが示され、絵画・演劇からワーグナーの『ニュールンベルグのマイスタージンガー』その他の、靴屋と死神をめぐるさまざまな文化的変容が辿られるなど、比較文化的な探索はヨーロッパを縦横に駆けめぐる。

死神譚を構成する諸要素は、話が持ち込まれた土地の風土・習慣・伝統などのいわゆる「文化」によって土地に応じた味付けを与えられて、独自の死神譚が成立すると言う。落語の「死神」における日本独自の変容についても詳細に指摘されている。

以上、本論文は、従来あまり探求の手がつけられなかった「話芸」の研究において、画期的な成果を収めたものであり、本審査委員会は、博士(文学)の学位に相応しいものと結論した。

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