学位論文要旨



No 215839
著者(漢字) 石川,雅司
著者(英字)
著者(カナ) イシカワ,マサシ
標題(和) 官能評価の観点からみた香気成分の捕集方法および合成に関する研究
標題(洋)
報告番号 215839
報告番号 乙15839
学位授与日 2003.12.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15839号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北原,武
 東京大学 教授 山口,五十麿
 東京大学 教授 大久保,明
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 助教授 渡邉,秀典
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、官能評価の観点からみた香気成分の捕集方法および合成に関する研究であり、第一章「官能評価による香気成分の重要度の評価」、第二章「加湿空気による新規香気捕集方法(アクアスペースTM法)の開発」、第三章「新規ヘッドスペース香気捕集方法(SPACETM法)の開発」、第四章「(+)-バレンセンの空気酸化による(+)-ヌートカトンの生産」、および第五章「マソイアラクトンのラセミ体および光学活性両鏡像体の合成」の五つの章よりなる。

第一章では、香気成分の重要度および貢献度を決定する官能評価について、一般的解説も含めて述べた。

まず、香料分野の官能評価に必須な嗅覚と味覚に関する機構、「おいしさ」の判断機構、官能検査の種類、官能検査の手法、パネル(官能評価者)の種類、および官能評価に用いられる評価用語等について一般的概論も含めて解説した。

次に、著者のフレーバーリストとしての長年の研究から、独自のフレーバー官能評価表現用語を開発し、著者の会社に適合した官能評価技法を確立した。そして、その官能評価手段をフレーバーの研究開発に適用し、新しいフレーバーを創作する過程について第二章以降にも実例を挙げて論じた。また、フレーバーリストやパネルメンバーの養成訓練法についても独自の官能評価訓練表や資格試験問題集を考案し、更に、品質管理を目的とした製造部門の官能検査評価体制の構築を行った。

第二章では、加湿空気を香気成分のキャリアーとする新規香気捕集方法(アクアスペースTM法)の開発について述べた。

自然環境的に香気が発散する条件を想定し、試料の入った密閉空間に加湿空気を流して新鮮な、ナチュラルな花類の香りを捕集する新規香気捕集方法を開発した。この方法をアクアスペースTM法と命名した。また、本方法をクチナシの花およびバジルの香気捕集に応用し、従来の古典的捕集法である水蒸気蒸留法、溶剤抽出法、および近年、香気分析手法として開発された一般的ヘッドスペース法と比較した。その結果、本方法により得られた香気捕集物は、他の方法に比し、GC分析的にも特徴的香気を持った含酸素化合物を広範囲にバランス良く含有し、官能評価的にも調和の整ったナチュラルな香気を有していた。更に、本アクアスペースTM法でのローズおよびチュベローズの香気捕集、成分分析も行った。現在、本装置を各種花、果物の香気捕集に応用し、それらの香気成分分析結果を基に官能評価を駆使し、香料製品の開発を検討中である。

第三章では、ダイナミック(動的)およびスタティック(静的)ヘッドスペース香気捕集方法のそれぞれの利点を生かし、そして欠点を補った新規ヘッドスペース香気捕集方法(SPACETM法)の開発について述べた。

即ち、市販の香気捕集装置SPME(Solid Phase Micro Extraction)を改良したもので、ロッドの香気吸着表面積を市販SPMEに対し約100倍に増やして香気を捕集し、クライオフォーカス(香気成分加熱脱着、冷却捕集、加熱GC導入)した後に、GC分析を行う方法であり、SPACETM法(Solid Phase Aroma Concentrate Extraction)と命名した。この装置の特徴は、吸着表面積の増大に伴い香気吸着量が市販品に比し多いことは勿論のこと、新たに開発されたグラファイト・カーボン系/Tenax TAの吸着剤を使用したため、個々の香気成分の吸着量に関して高い再現性を有している。この事実を三回の同一焙煎コーヒーの分析結果から実証した。また、種々香気捕集法での焙煎コーヒーの分析結果から、ダイナミックヘッドスペース法が比較的低沸点香気物質を、溶剤抽出法が比較的高沸点物質を捕集するのに対し、本方法はバランス良くそれらの中間の香気物質を捕集できることが判明した。そして、本方法を用いた焙煎度の異なるコーヒー豆の分析データの成分解析結果とそれらの香気香味官能評価とが一致したことから、本方法の有効性が証明された。更に、本吸着剤を使用した「ばん桃」の分析において、吸着香気成分が2日間保持されたことから、本装置での野外香気捕集を可能にした。現在、本捕集法により得られたコーヒーの分析結果から更にAEDA法やGCOH法等の官能評価を組み込み、より嗜好性の高いコーヒーフレーバーの製品開発を研究中であり、その官能評価の一例についても述べた。

第四章では、天然(+)-バレンセンの空気酸化によるグレープフルーツの重要香気成分である(+)-ヌートカトンの生産について述べた。

(+)-バレンセンからの(+)-ヌートカトンの製造特許(長谷川香料株式会社;特公平2-16739)の触媒、溶媒、反応条件等の諸条件を精査することにより、(+)-ヌートカトンの工業的最適化条件が確立された。その最適化条件は、コバルト触媒(2-エチルヘキサン酸コバルトまたはナフテン酸コバルト)(対バレンセン0.1%量)を用い、メチルイソブチルケトン(対バレンセン同重量)を溶媒とし、加温(65℃)下に空気を吹き込む方法で、(+)-ヌートカトンが約60%収率で生産された。このように本方法は、現在上市されている(+)-ヌートカトンの製造法である(+)-バレンセンのクロム酸酸化法に比し、簡便効率的且つ環境対応型の無公害空気酸化法である。また、蒸留精製された(+)-ヌートカトンは、エポキシバレンセンおよびヌートカトール約10数%を含有する純度約60%の製品であるが、グレープフルーツフレーバーベースに調合し、天然品および合成市販品との官能評価比較の結果、非常に天然品に近い価値あるグレープフルーツフレーバーであることが判明した。現在、本製法により3M3空気酸化反応釜規模の(+)-ヌートカトンの生産が実施され、その製品は清涼飲料等に柑橘系フレーバーとして使用されているが、他の追従を許さない評価を受けている。

第五章では、ミルクおよびバターフレーバーとして有用なマソイアラクトンのラセミ体および両鏡像体の合成について述べた。

n-ヘキサナールを出発原料にアリルクロリドとのGrignard反応、エポキシ化反応、シアノ化反応、最後に加水分解を経て、(±)-マソイアラクトンの工業的合成が安価に、簡便に短工程(全4工程)、46%全収率で達成された。また、このラセミ体の合成法を応用し、市販(R)-(+)-1,2-エポキシヘプタンを出発原料に全4工程、38%全収率で(R)-(−)-マソイアラクトン(93.4%e.e.)が合成された。また、同一中間体からの光延反転反応により、対掌体の(S)-(+)-マソイアラクトン(93.0%e.e.)の合成が全6工程、34%全収率で成功した。更に、合成されたマソイアラクトンのラセミ体および天然型、非天然型の両鏡像体の官能評価の結果、三者共に香気香味に関しそれぞれ特徴を有することが判明した。実例にて述べたように、微量のラセミ体、天然体、非天然体をフレーバーに添加することにより、明らかな優位差を持ってミルク、バター様のフレーバーの品質が向上した。中でもラセミ体の賦香は最も高い嗜好性を有するミルクフレーバーの創作へ導いた。現在、(±)-マソイアラクトンのバッチ当たり100Kg程度の工業的生産が行われ、ミルクおよびバターフレーバーに使用されているが、更に、フレッシュミルクに近い香気を有する天然型についても安価な製法開発検討を引き続き行っている。

以上、本論文は、新規に開発した香気捕集法により得られた香気成分分析データからの新しいフレーバーへの応用開発、および新規製法により合成された重要香気成分のフレーバーへの用途開発について、それらの官能評価を有効的に活用しながら、より嗜好性の高いフレーバーの創作を目的として研究したものである。

まとめとして、北原が「化学と生物;41 (8), 532 (2003)」中でも述べている「もの(生物活性物質)」の概念からすれば、天然界に存在する香気成分という「もの」も、それぞれの役割を持って我々の毎日の生活に深く係わり、食への「おいしさ」や心身への「潤い」を賦与、提供しており、また、別の角度から研究されているように、生物の生命現象に深く関与している重要な因子でもあるが、このような香気成分の「ものつくり」を通じて、分析化学や有機合成化学のような「化学」の果たす役割の重要性は勿論のこと、「官能評価」の側面的支援も強力な手段となっていると考えられる。従って、今後とも、香気成分の「ものつくり」、即ち、香料製品の開発においては、「化学」と「官能評価」とのより一層の融合が必須であり、また、「官能評価」の協同は、香気成分の分析や合成に関する「化学」の部分の更なる質的向上にも繋がるであろうと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、官能評価の観点からみた香気成分の捕集方法および合成に関する研究であり、五章よりなる。

第一章では、香気成分の重要度および貢献度を決定する官能評価法の確立について述べている。多数の成分よりなる香気の評価は、理化学機器を用いた分析法では計り知れない部分が多く、どうしても人間の鼻による官能評価が欠かせない。しかしこれまでの官能評価法は、フレーバリストの個人差に加え、香気評価の表現法が多種多様で客観性に欠けるという問題点があった。そこで筆者はこれまでの研究の中で確立した、独自のフレーバー官能評価表現用語を客観的・普遍的なものに再整理し、それを用いた官能評価技法を確立した。この新規評価法をフレーバーの研究開発に適用することで、フレーバーリストの個人差による偏りのない客観的評価が可能となり、新規フレーバーの創作が効果的に行えるようになった。また、フレーバーリストやパネルメンバーの養成訓練法についても独自の官能評価訓練法や熟練度を確認する試験法を考案した。これにより、パネルの資質の数値化を行い、製造部門の品質管理を目的とした効率の良い官能検査評価体制の構築を行うことが可能となった。

第二章では、加湿空気を香気成分のキャリアーとする新規香気捕集方法(アクアスペースTM法)の開発について述べている。自然環境下に香気が発散する条件を再現し、試料の入った密閉空間に加湿空気を流して放出される花類の香りを捕集することで、新鮮かつナチュラルな香気成分を取得する新規な手法を開発した。本方法をクチナシの花およびバジル等の香気捕集に応用したところ、従来法に比べはるかに特徴的な香気を持つ化合物を広範囲にバランス良く含有し、調和の整った香気が捕集できる画期的な方法であることが明らかになった。本方法で得た香気成分の分析結果を用いて、よりナチュラルな香料の調合が可能となった。

第三章では、従来のダイナミックおよびスタティックヘッドスペース香気捕集方法のそれぞれの利点を生かしつつ、欠点を補った新規ヘッドスペース香気捕集方法(SPACETM法)の開発について述べている。市販の香気捕集装置を改良し、香気を吸着するロッドの表面積を約100倍に増やすことにより、香気吸着量を増大させた。更に、新たに開発したグラファイト・カーボン系/Tenax TAの吸着剤を使用することにより、バランスの良い香気物質の捕集と、香気成分の高い再現性と安定性を実現した。本方法を、コーヒーの香気分析に適用したところ、本方法を用いた分析データの解析結果とそれらの香気香味官能評価とが一致するフレーバーを調合することが出来た。これにより、本方法の高い有効性が証明された。

第四章では、天然(+)-バレンセンの空気酸化によるグレープフルーツの重要香気成分である(+)-ヌートカトンの工業的合成について述べている。空気酸化法における触媒、溶媒、反応条件等の諸条件を精査することにより、最適化条件が確立され、バレンセンの酸化で約60%の収率で(+)-ヌートカトンの生産が達成された。本方法は、既存の市販品の製造法であるクロム酸酸化法に比し、簡便効率的且つ環境対応型の無公害酸化法である。また、蒸留精製された本合成ヌートカトンは、副産物として天然にも存在する少量の他の酸化物を含んでいるが、そのために純粋なヌートカトンに比べてはるかに天然品に近い香気を示す価値の高いグレープフルーツフレーバーであることが明らかになった。現在、本工業的製法により合成された(+)-ヌートカトンは、清涼飲料等に柑橘系フレーバーとして使用されているが、他の追従を許さない非常に高い評価を受けている。

第五章では、ミルクおよびバターフレーバーとして有用なマソイアラクトンのラセミ体および両鏡像体の合成について述べている。n-ヘキサナールより全4工程、46%収率と簡便に短工程でラセミ体の合成を達成した。また、この合成法を応用し、市販の(R)-(+)-1,2-エポキシヘプタンより全4工程、38%収率で天然型(R)-(−)-体(93.4%e.e.)を、全6工程、34%収率で非天然型(S)-(+)-体(93.0%e.e.)を合成した。更に、合成したラセミ体および天然型、非天然型の両鏡像体の官能評価の結果、三者ともにそれぞれ特徴ある香気を有していること、またそれらをフレーバーに微量添加することにより、明らかな有意差を持ってミルク、バター様のフレーバーの品質が向上することが明らかになった。中でもラセミ体の賦香により、最も高い嗜好性を有するミルクフレーバーが創作された。現在、本製法によりラセミ体の工業的生産が行われ、ミルクおよびバターフレーバーに使用されている。

以上、本論文は、新規な香気捕集法の開発、ならびにそれにより得られた香気成分分析データからの新しいフレーバーへの応用開発、および新規合成法により合成された重要香気成分のフレーバーへの用途開発について、著者が開発した官能評価法を有効に活用しながら、より嗜好性の高いフレーバーの創作を行ったものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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