学位論文要旨



No 215842
著者(漢字) 中西,憲雄
著者(英字)
著者(カナ) ナカニシ,ノリオ
標題(和) 農業用ダム・ため池の有する洪水低減機能に関する研究
標題(洋)
報告番号 215842
報告番号 乙15842
学位授与日 2003.12.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15842号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,洋平
 東京大学 教授 田中,忠次
 東京大学 教授 宮崎,毅
 東京大学 助教授 塩沢,昌
 東京大学 助教授 島田,正志
内容要旨 要旨を表示する

緒論

平成11年7月に,食料・農業・農村基本法が制定された。新たな基本法の特徴的な点として,4つの基本理念が明確化され,その中の1つに多面的機能の発揮が位置づけられたことがあげられる。

農業基本法制定以来,急速な経済成長と国際化の著しい進展等により,農政をめぐる状況は大きく変化し,食料自給率の低下,農業者の高齢化と農地面積の減少,農村の活力の低下等の問題が顕在化してきた。一方で,農業・農村に対する国民の期待は高まり,良質な食料を合理的な価格で安定的に供給すること,国土や環境保全,良好な景観形成などの多面的機能を十分に発揮することなど,農業・農村の役割を見直す動きが着実に進展してきており,多面的機能の発揮が基本理念として位置づけられた。また,多面的機能に関しては,農業の多国間交渉においても取り上げられるなど,重要な存在となってきており,農業・農村の持つ多面的機能に関する研究を進め,様々な機能を明確に評価し,維持増進していくことが非常に重要となっている。

本研究では,多面的機能についてより明らかなものとするため,農業用ダム・ため池の有する洪水低減機能について研究を進めたところであり,洪水低減機能について,その実態を明らかにするとともにメカニズムを解明し,評価を行うこととした。これらの研究を進めることにより,農業用ダム・ため池といった水利施設の今後の管理のあり方を考えることにもつながるものである。

農業・農村の有する多面的機能及び洪水低減に関する既往の研究

農業・農村の有する多面的機能及び洪水低減機能に関する研究は,昭和40年代半ばから始まった。以降,近年に至るまで多面的機能に関する研究が積極的に行われている。現時点で学術的研究として最も新しくまとめられているものは,日本学術会議の農林水産大臣への答申である。これは,昭和40年代半ばから,それぞれの大学,研究機関,さらに各シンクタンクで研究,検討されてきた成果を幅広い見地から総合的に検討したものととらえて良い。

本論においては,日本学術会議の答申における多面的機能の分類と内容を簡潔にまとめ,それぞれの機能の最後に関係する既往の研究成果を整理するとともに,洪水低減機能についてこれまでの研究成果を簡潔にまとめた。洪水低減機能の研究は,水田や畑,耕作放棄地,都市的地域,あるいは森林といった土地利用の変化による流出の違いに関する研究が多く,総体として,農業を適正に行うことによって農地が維持され,流出が抑えられるという内容である。その中で,農業用ダムやため池の有する洪水低減機能に関する研究は一部で見られるものの,必ずしも系統立ててなされているとはいえない状況にある。

農業用ダム・ため池による洪水低減機能について

農業用ダムの洪水低減の事例として,平成5年9月及び平成6年9月に奈良県で発生した洪水について,国営十津川紀ノ川土地改良事業により造成された大迫ダム(奈良県)の流入量と放流量の実績から分析を行った。この結果,平成5年9月の洪水については,ピーク流入量に対するピーク放流量の値は80.8%とピーク流入量を低減するという洪水低減機能の発揮が確認されたが,平成6年9月の洪水については,98.5%と洪水低減が非常に小さかった。2つの洪水を比べてみた場合,前者がピーク流入量の1/10の流量がピーク流入量に達するまで約2時間であったのに対し,後者は約12時間かかったことから,ダムへの流入量の時間的な変化によって,低減機能の大小は左右されることとを提示した。

また,流入量と放流量の関係を見ると,洪水を空き容量に貯留することによって洪水を低減する場合と,空き容量がなく洪水吐から放流を行っていても,貯水池の水位が上昇することにより洪水を一時貯留し,低減する場合があることを示した。

農業用ダム・ため池の空き容量に貯留することによる洪水低減

農業用ダム・ため池の有する洪水低減機能のうち,空き容量に洪水を貯留することによって発揮する機能の評価を行った。農業用ダムについては,平成10年の北関東地方,那珂川流域を襲った豪雨災害に際して,国営那須野原総合農地開発事業により造成された深山ダム(栃木県)が果たした洪水の低減について,流入量,放流量の実績等から検討を行った。また,ため池については,香川県及び大阪府のため池について,雨水貯留可能量の評価を水田との比較において行った。

平成10年8月那須地方を襲った豪雨は,未曾有の降雨であり,那珂川上流域で6名が亡くなり,川沿いの家50棟が全半壊または流出した。このような状況の中,深山ダムは最大で243m3/sの流入量を空き容量に貯留し,下流への流出を防止した。豪雨当時の那珂川での水位は,河口から約114km(ダム下流約23km下流)の黒磯地点において栃木県により観測されていたが,警戒水位である2.5mを1.92mも上回る4.42mにまで上昇した。水戸市水府橋地点では洪水流量が6,000m3/sにも及ぶため,深山ダムの洪水低減機能が,ダム下流125kmの同地点まで及んだとはいい難いが,深山ダムの空き容量に洪水を貯留したことにより,那珂川の上流域においては,少なくとも周辺の洪水被害の低減に貢献したものと推測できる。

農業用ダムの空き容量による洪水低減機能については,全国の他のダムにおいても,洪水を空き容量に貯留することにより少なからず発揮されるものである。特に受益地が水田を主体としたダムについては,深山ダムと同様に9月はじめ台風到来時の洪水に対しては,多くのダムで空き容量が生ずることを明らかにした。

一方,ため池についても,空き容量の年間の変化の傾向は基本的には農業用ダムと同様である。香川県と大阪府のため池において,9月時点の空き容量を求め,両府県全体の水田の貯留可能量との比較を行った。その結果,平均的な年において,香川県では9月時点のため池の雨水貯留可能量は,水田の貯留可能量の2.1倍に,大阪府では1.4倍に相当することを調査・試算より明らかにした。

また,全国の農業用ダム・ため池の貯水容量は57億m3に達し,全国の水田の貯留可能量の1.2倍を越えることを諸データより求めた。

農業用ダム・ため池の一時的な水位上昇による洪水低減

農業用ダム・ため池の有する洪水低減機能のうち,空き容量がなくても貯水池の一時的な水位上昇により発揮する機能の評価を行った。

第3章で述べた大迫ダムを例にとり,洪水吐ゲートが全開での状態あったと仮定して,平成5年9月及び平成6年9月のダムへの流入ハイドログラフを適用し,初期空き容量を変えた上で,洪水吐から上位の一時的な水位上昇により洪水低減が図れることを示した。平成6年9月の洪水では,流入量が比較的徐々に増加するタイプの洪水であったため,ピーク流入量に対するピーク放流量は97.5%とやはり洪水低減機能は小さいことが分かった。平成5年9月の洪水では,初期に空き容量がなくても,ピーク流入量に対するピーク放流量は61.5%となること,しかも初期に空き容量が確保されているほど,その数値は小さな値を示し洪水低減機能が大きくなることが分かった。

また,ため池についても,長沢ため池(山口県),松沢ため池(大阪府)について,流入量と放流量の試算を行うことにより,満水状態で洪水の流入があっても,ピーク流入量に対するピーク放流量を小さくするという洪水低減機能が存在することが分かった。

さらに,一定の降雨に対して,洪水の低減割合を試算すると,洪水吐の幅が狭く放流能力が小さい貯水池,及び満水面積が大きく貯水位が上昇しにくい貯水池が洪水低減機能が大きいことを試算より明らかにした。ため池や農業用ダムの「流域面積/満水面積」,「洪水吐幅/流域面積」を計算することで,単位面積当たりの流入量が類似する貯水池における洪水低減機能の傾向について推定することが出来ることを提示した。

ため池で洪水吐幅が狭く洪水の低減割合が大きいことは,即ち,大きな洪水に対して貯水位が上昇しやすいことを意味している。実際,ため池決壊の16%は溢水によるものとの報告がなされており,ため池の十分な管理が必要であることを提示した。

結言

各章の研究成果について要約するとともに,農業用ダム・ため池の空き容量の大きい方が洪水の低減割合も大きいことから人為的に水位を下げて管理することも防災上の観点から有意義であること,農業用ダム・ため池の「流域面積/満水面積」,「洪水吐幅/流域面積」を計算することで洪水低減機能の傾向について推定できること,洪水低減機能が大きなため池は水位が上昇し易い場合もあり,ため池の管理を適正に行うなど,管理に向けた提言を示した。

審査要旨 要旨を表示する

平成11年に食料・農業・農村基本法が制定され、基本理念の1つに多面的機能の発揮が位置づけられるなど、農業・農村の多面的機能について研究を進めることが重要となっている。本研究は、農業・農村の多面的機能に関する研究の中で、農業用ダム・ため池の有する洪水低減機能について、洪水時における実態把握、水理学的手法を用いた試算などから評価を行ったものである。

なお、農業用ダムやため池は、本来灌漑のために利用される利水施設であり、洪水調節のための施設ではない。本研究は、このような農業用ダムやため池が、利用の過程で必然的に洪水を貯留し、流入量に対して放流量を小さくするという洪水低減機能を発揮する点に着目して行ったものである。

第1章における研究の背景及び目的に続き、第2章では、農業・農村の有する多面的機能および洪水低減機能に関して、既往の研究が紹介されている。近年において、最も新しく多面的機能について整理されている日本学術会議の農林水産大臣への答申を引用し、多面的機能および洪水低減機能の既往の研究について整理している。洪水低減機能に関する研究の中でも、農業用ダムやため池の有する洪水低減機能については、一部散見されるものの、系統立てて研究されていない。

第3章では、農業用ダム・ため池による洪水低減機能が発生するメカニズムを検討するため、実際に奈良県の大迫ダムで発生した洪水の貯水池への流入量と放流量の実績を比較している。平成5年9月9日に発生した洪水の流入流と放流量を調べることにより、ピーク流入量に対するピーク放流量の値が0.808と、2割程度洪水の低減が確認された。低減の内容を調べることにより、農業用ダムやため池の貯水池の空き容量に洪水を貯留する場合、空き容量がなくとも洪水吐から放流を行う過程で、一時的な水位上昇により洪水を貯留する場合があることを示した。

また、ピーク流入量に対するピーク放流量の値が1.0に近く、洪水低減機能が小さいと思われる場合でも、貯水池の空き容量に洪水を貯留することにより、貯留分について流下を防止し洪水低減に貢献する可能性は評価すべきであることを指摘した。

第4章では、農業用ダム・ため池の空き容量に貯留することによる洪水低減機能について評価している。平成10年8月27日に栃木県那須地方を襲った豪雨では、6名が死亡するという洪水被害が発生した。那珂川の上流に位置する深山ダムでは、最大で243m3/sの洪水を空き容量に貯留し、洪水の被害軽減に貢献した可能性があることを示した。

また、全国の農業用ダムの年間を通じての貯水率の変化について調査し、9月の灌漑末期には貯水率が下がり、空き容量が確保されることが分かった。

さらに、香川県と大阪府にあるため池の貯水率の変化を調査し、9月時点のため池の雨水貯留可能量は、平水年において、香川県の場合、洪水調節用ダム容量の3倍、水田の貯留可能量の2.1倍に、大阪府の場合では、それぞれ12%、1.4倍に相当することが分かった。

第5章では、農業用ダム・ため池の有する洪水低減機能のうち、空き容量がなくとも、一時的な水位上昇による洪水の貯留の場合について評価している。第3章で述べた大迫ダムへの流入ハイドログラフを適用し、放流量の試算を行っている。試算の結果、初期に貯水池に空き容量がなくても、平成5年の洪水では、ピーク流入量に対するピーク放流量の値は0.615になるなど低減機能が発揮されること、初期の空き容量が大きいほど、洪水低減機能は大きくなることを明らかにした。

また、貯水池の貯水量と放流量の関係の理論式を検討することにより、流入量に対して放流量を緩和するという貯留機能は、満水面積が大きいほど、洪水吐の幅が狭いほど大きくなることを導き出し、実際のため池を例にとり試算を行い確認した。さらに検討を進めることにより、農業用ダムやため池の「流域面積/満水面積」、「洪水吐幅/流域面積」を計算することで、洪水低減機能の傾向について推定できることを示した。

第6章では、各章の研究成果について要約するとともに、貯水池の水位を下げて管理することは、防災上の観点からも有効であること、洪水低減機能が大きなため池は水位が上昇しやすい場合もあり、ため池の管理を適正に行う必要があるなど、農業用ダム・ため池の管理に向けた提案をしている。

以上のように、本研究は、農業用ダムやため池の有する洪水低減機能について、その発生メカニズムを明らかにし、実例、水理学的な試算などから機能の評価を行い、これまで系統立てて述べられていなかった同機能について検討したものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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