学位論文要旨



No 215852
著者(漢字) 星崎,杉彦
著者(英字)
著者(カナ) ホシザキ,スギヒコ
標題(和) 分子マーカーおよび Wolbachia 感染を用いたイネウンカ類の個体群構造に関する研究
標題(洋)
報告番号 215852
報告番号 乙15852
学位授与日 2004.01.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15852号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田付,貞洋
 東京大学 教授 小林,正彦
 東京大学 助教授 久保田,耕平
 東京大学 助教授 嶋田,透
 東京大学 助教授 石川,幸男
内容要旨 要旨を表示する

トビイロウンカ,ヒメトビウンカは稲作の重要害虫であり,長距離移動という特筆すべき生態を持つ.したがって,それらのウンカの管理・発生予察のためには移動および個体群の構造に関するより深い理解が望まれる.活発な長距離移動は一般的に個体群の地理的分化を妨げる方向に働くはずだが,日本をはじめアジアにおけるトビイロウンカとヒメトビウンカの個体群の遺伝的構造は未解明部分が大きく,また長距離移動がそれに及ぼす影響も充分には研究されていなかった.トビイロウンカは毎夏中国大陸より日本に飛来するが日本では越冬はできない.日本へ飛来するトビイロウンカ個体群はベトナム北部から中国南部に由来するという仮説が有力視されているが,その検証はまだ十分ではなかった.もし異なる地域のトビイロウンカ個体群間に明瞭な遺伝的差異があれば,それを利用して日本への飛来源地域を特定できるようになるかもしれない.東アジア以外の分布地域におけるトビイロウンカの移動パターンもよくわかっていなかった.一方,ヒメトビウンカはトビイロウンカと異なり日本で周年分布する.夏期に中国より日本へ長距離飛来するヒメトビウンカ個体もあると考えられているが,この種の長距離移動はこれまでほとんど研究されていなかった.また,ヒメトビウンカには地域によって寄生性細菌Wolbachiaが感染しており,Wolbachiaに感染した個体には細胞質不和合現象が生じることがわかっていた.Wolbachiaは,その不和合現象を通じてヒメトビウンカ個体群に蔓延し,それと同時に宿主のミトコンドリアDNA(mtDNA)多様性を低下させている可能性が考えられた.この意味で,ヒメトビウンカにおいてmtDNA多型を個体群構造の研究に利用するに際してWolbachia感染は無視できない要因であり,それと同時に感染の動態そのものも関心の対象となる.これらの背景のもとに本研究では,アジア産トビイロウンカと日本産ヒメトビウンカ各々の個体群の遺伝的構造について知見を得ること,およびその知見をもとに移動について推論することを目的として,主にアロザイムとmtDNAの変異を調査した.また,ヒメトビウンカについては野外におけるWolbachia感染の動態を明らかにするとともに,その結果をヒメトビウンカの移動について考えるための材料とした.

第1章と第2章ではトビイロウンカを扱った.第1章では,日本産9個体群および海外産6個体群についてアイソザイム多型を観察した.PGMについては,バンドパターン変異をアロザイム多型として解釈することができたため,個体群ごとに対立遺伝子の出現頻度を観察した.GPIについては,バンドパターン変異がアロザイム多型であると考えられたもののそれを遺伝子型多型としては解釈できなかったため,バンドパターンをタイプわけしてそれらの出現頻度を個体群ごとに観察した.どちらの酵素についても,周年分布地域の個体群間では対立遺伝子あるいはバンドパターンの頻度に相違が認められたが.1991年に日本国内で得られた個体群の間にそのような相違は認められなかった.これらより,アジアの本種周年分布地域では個体群間に遺伝的な分化が生じていること,日本へ飛来する個体群は遺伝的に単一のものであること,がそれぞれ示唆された.

第2章では,日本産4個体および海外産8個体のトビイロウンカについて,mtDNAのCO1遺伝子および核のリボソーマルDNA-ITS1領域の塩基配列変異を観察した.CO1については,4つのハプロタイプが認められ,うち1つのハプロタイプがスリランカから日本にいたる広い地域より見出された.リボソーマルDNA-ITS1については,6つのハプロタイプが認められ,やはり,うち1つのハプロタイプがインドネシアから日本に至る広い地域より見出された.これらの結果より,本種には個体群の大きな地理的分化は生じていないものと示唆された.しかしその一方で本研究で示されたCO1の変異を先行研究に照らしたところ,東アジア〜東南アジアの大陸部分の個体群は,東南アジア島嶼部分や南アジアの個体群とmtDNAに関して(軽微にであるかもしれないが)分化している可能性が考えられた.また,リボソーマルDNA-ITS1の変異に基づき,トビイロウンカが近い過去にその個体群サイズを増大させた可能性を指摘した.

第3章から第5章ではヒメトビウンカを扱い,Wolbachia感染にも着目した.ヒメトビウンカではWolbachia感染個体(主に西日本に分布することがわかっていた)と非感染個体(主に東日本に分布することがわかっていた)の間に交配不和合性があることが知られていた.第3章では,関東地方から東北地方にかけての9個体群についてWolbachia感染率を調査し,Wolbachia感染がそれらの地域において近年に拡大したことを,過去の記録との比較を通じて示した.

第4章では,第3章で得られた知見をふまえて,Wolbachia感染の拡大についてより詳しい検討を加え,それに基づきヒメトビウンカの移動について考えることを狙った.まず前章で扱ったよりも広い地域についてWolbachia感染を探索し,感染の地理的分布に関して新知見を得た.特に,東北地方における感染-非感染移行地域における感染率の地理的変異を明らかにした.また,ヒメトビウンカに感染しているWolbachiaの2遺伝子(wsp,groE)DNA塩基配列に変異が認められなかったことから,日本において本種に感染しているWolbachiaは単一の系統に属するものと示唆された.さらに,感染・非感染それぞれのヒメトビウンカにおけるmtDNA塩基配列の変異を明らかにした.それらに基づき,日本のヒメトビウンカ個体群に広まったWolbachia感染はそのほとんどが過去1回の感染に由来すること,感染の拡大がmtDNAの変異を消しつつあることを示した.また日本におけるヒメトビウンカのWolbachia感染はもともと中国からの長距離移動個体に由来するという仮説を揚げた.感染・非感染の移行帯の構造に基づくとヒメトビウンカが主に比較的短い距離を移動していることが示唆されたが,それに対して,日本国内および海外からの長距離移動が生じていることも無視できないものと考えられた.

第5章では,北海道から台湾に至る11個体群についてアイソザイム多型を観察した.AK,PGM,GPIの3酵素について,バンドパターン変異をアロザイム多型として解釈することができたため,個体群ごとに対立遺伝子の出現頻度を観察した.いずれの酵素についても,異なる地域の個体群を明瞭に区別することはできないが,個体群間には有意な分化が認められた.これの結果により,日本においてヒメトビウンカの長距離移動は起きているとしても本種の遺伝子流動の主体は比較的短い距離の移動であるとする前章における結論が支持された.

以上のように本研究において,トビイロウンカとヒメトビウンカにおいて,長距離移動は広域におよぶ遺伝子流動に貢献しているがそれは個体群の地理的分化を強く妨げるほどではないと考えられた.それを踏まえて,イネウンカ類の個体群構造の研究に関する今後の課題を整理し,そのような研究がイネウンカ類の応用昆虫学において果たすであろう役割を展望した.

審査要旨 要旨を表示する

トビイロウンカとヒメトビウンカは稲作の重要害虫であり,長距離移動という特筆すべき生態を持つ。したがって,その管理には移動および個体群構造に関する深い理解が望まれる。アジアにおける両種個体群の遺伝的構造およびそれに及ぼす長距離移動の影響は十分解明されていない。トビイロウンカは日本では越冬できず,毎夏中国大陸より日本に飛来する。日本へ飛来する個体群はベトナム北部から中国南部に由来するとする仮説が有力である。もし個体群間に地域ごとの遺伝的差異があれば,それを利用して飛来源地域を特定できる可能性がある。一方,ヒメトビウンカは日本に周年分布する。海外から飛来する個体もあると思われるが,長距離移動はほとんど研究されていない。また,ヒメトビウンカには地域によって寄生性細菌Wolbachiaが感染し,感染すると細胞質不和合現象を生じる。Wolbachiaは不和合現象を通じてウンカ個体群に蔓延し,それと同時に宿主のミトコンドリアDNA(mtDNA)多様性を低下させている可能性がある。このため,この種では個体群構造の研究にmtDNA多型を利用する場合,Wolbachia感染は無視できない要因となり,同時に感染動態そのものも関心の対象となる。以上の背景のもとに,本研究ではアジア産トビイロウンカ,日本産ヒメトビウンカ個体群の遺伝的構造を知ること,およびその知見をもとに移動パターンを推論することを目的として,主にアロザイムとmtDNAの変異が調査された。さらに,ヒメトビウンカについてはWolbachia感染の動態が明らかにされ,それに基づいてヒメトビウンカの移動が考察された。

第1章と第2章ではトビイロウンカが扱われた。第1章では,日本産9個体群および海外産6個体群のアイソザイム多型が観察され,そのうちPGMはバンドパターン変異をアロザイム多型として解釈でき,個体群ごとに対立遺伝子の出現頻度が観察された。GPIはタイプ分けしたバンドパターンの出現頻度が個体群ごとに観察された。どちらについても,周年分布地域の個体群間では対立遺伝子あるいはバンドパターン頻度に相違が認められたが,1991年に日本国内で得られた個体群の間にはそのような相違は認められなかった。これらより,アジアの本種周年分布地域では個体群間に遺伝的な分化が生じていること,日本へ飛来する個体群は遺伝的に単一のものであることがそれぞれ示唆された。

第2章ではトビイロウンカの日本産4個体および海外産8個体について,mtDNAのCO1遺伝子および核のr(リボソーマル)DNA-ITS1領域の塩基配列変異が観察された。CO1に認められた4ハプロタイプのうち一つはスリランカから日本にいたる広域から見出された。rDNA-ITS1でも,認められた6ハプロタイプのうち一つがインドネシアから日本に至る広域から見出された。これらから,本種には個体群の大きな地理的分化は生じていないと示唆されたが,一方,CO1の変異から,東アジア〜東南アジアの大陸部分の個体群は,東南アジア島嶼部分や南アジアの個体群とmtDNAに分化の傾向が考えられた。また,rDNA-ITS1の変異に基づき,トビイロウンカが近い過去に個体群サイズを増大させた可能性が指摘された。

第3章から第5章ではヒメトビウンカが扱われた。本種ではWolbachia感染個体と非感染個体の間に交配不和合性があることが知られている。第3章では,関東から東北にかけての9個体群のWolbachia感染率を調査し,感染がそれらの地域において近年に拡大したことが示された。第4章では,第3章をふまえて,Wolbachia感染の拡大についてより詳しい検討を加え,それに基づきヒメトビウンカの移動が考察された。特に,東北地方における感染-非感染移行地域における感染率の地理的変異が明らかにされた。また, Wolbachiaの2遺伝子(wsp,groE)塩基配列に変異が認められなかったことから,日本で本種に感染しているWolbachiaは単一系統に属することが示唆された。さらに,感染・非感染それぞれのヒメトビウンカのmtDNA塩基配列変異から,日本の個体群に広まったWolbachia感染は過去1回の感染に由来すること,感染の拡大がmtDNAの変異を消しつつあることが示された。また日本におけるヒメトビウンカのWolbachia感染はもともと中国からの移動個体に由来するという仮説が提唱された。感染・非感染の移行帯の構造に基づくと,ヒメトビウンカが主に比較的短距離を移動していることが示唆されたが,国内および海外からの長距離移動も無視できないものと考えられた。

第5章では,北海道から台湾に至る11個体群のアイソザイム多型が観察された。AK,PGM,GPIの3酵素ではバンドパターン変異をアロザイム多型として解釈できたため,個体群ごとの対立遺伝子出現頻度が観察された。いずれの酵素でも異なる地域の個体群は明瞭に区別できないが,個体群間に有意な分化が認められた。この結果から,日本では,ヒメトビウンカの長距離移動が起きているとしても,本種の遺伝子流動の主体は比較的短距離の移動であるとする前章の結論が支持された。

以上,本研究により,稲作大害虫であるトビイロウンカとヒメトビウンカでは長距離移動は広域におよぶ遺伝子流動に貢献しているものの,個体群の地理的分化を強く妨げるほどではないという重要な事実が示された。また,それを踏まえて,稲ウンカ類の個体群構造の研究に関する今後の課題が整理された。審査委員一同は本論文が学問上にも応用上にもきわめて重要な知見を与えるものであり,博士(農学)を授与するに十分の価値があることを認めた。

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