学位論文要旨



No 215857
著者(漢字) 西村,麻里江
著者(英字)
著者(カナ) ニシムラ,マリエ
標題(和) イネいもち病菌の感染に関する形態形成
標題(洋) Analysis on pathogenesis-related morphogenesis in Magnaporthe grisea
報告番号 215857
報告番号 乙15857
学位授与日 2004.01.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15857号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堀之内,末治
 東京大学 教授 依田,幸司
 東京大学 客員教授 吉田,稔
 東京大学 助教授 堀内,裕之
 東京大学 助教授 大西,康夫
内容要旨 要旨を表示する

序文

イネいもち病菌(完全世代:Magnaporthe grisea,不完全世代:Pyricularia grisea)は世界のコメ生産に深刻な被害を与える重要病原菌であり、比較的遺伝解析が容易であることから、近年はモデル病原糸状菌としての地位を確立し、遺伝・分子・ゲノムレベルでの解析が進められている。

自然界でのいもち病菌のイネへの最初の感染は空気中を飛散している分生子(無性胞子)がイネに付着し発芽することにより開始される。発芽した分生子は付着器とよばれる球形の感染期特異的侵入器官を発芽管の先端に形成する。成熟した付着器の外壁部にはメラニン層が形成され、内部には分生子に蓄積されているグリコーゲンや脂質から生合成されたグリセロールが蓄積される。この付着器内の膨圧を利用して菌は付着器から侵入菌糸をのばしイネに侵入する。いもち病菌の付着器形成は菌が表面の疎水性、堅さ、植物細胞壁成分を認識することにより誘導され、それにはcRNPシグナルが関与することが知られている。付着器の成熟にはS. cerevisiae のフェロモンシグナル伝達に関与するFus3/Kss1の機能ホモログであるPmk1 MAPキナーゼが、付着器からイネへの侵入・生長過程にはS. cerevisiaeで細胞壁の生合成の関連するMpk1のMps1 MAPキナーゼが重要な役割を担っていることが明らかになっている。イネに侵入したいもち病菌はイネ組織内で伸展し、病斑を形成した後、イネ表面から分生子柄を形成しその先端に分生子を着生する。

いもち病菌の分生子形成は、光、浸透圧、酸化等の誘導を受けて開始される。いもち病菌の分生子形成様式はシンポジアル型である。分生子柄の頂端から分生子が形成された後、最初の分生子柄の片側からのびた次の分生子柄の頂端に新しい分生子が形成され、最終的にはジグザグ状の分生子柄上に1つずつ分生子が形成される。分生子は3細胞からなる洋梨型であり、成熟すると分生子柄から離脱し、空気中を飛散して新たなイネに感染する。

本研究はいもち病菌での付着器形成と分生子形成を制御するメカニズムの解明を目的として、ヘテロ3量体Gタンパク質βサブユニット(Mgb1)による付着器形成制御と、Acr1による分生子形成制御について解析を行った。

イネいもち病菌BACライブラリーの形成

BACベクター(Bacterial Artificial Chromosome)は安定して100kb以上のDNA断片を挿入することができるなどの利点があるため、ゲノムサイズの大きな生物のライブラリー作製に利用されている。我々は、いもち病菌の遺伝子のクローニングやマッピングに用いることを目的として、イネいもち病菌ゲノムDNAを用いて平均挿入断片長120kb、約18ゲノムからなるBACライブラリーを作製した。個々のクローンを高密度でナイロン膜上にブロットし、ハイブリダイゼーションによる目的遺伝子のスクリーニングに用いた。作製したBACライブラリーの品質についてRFLPはマーカーを用いて確認した後、以下の研究での遺伝子クローニングに利用した。

Acr1による分生子柄形成制御と付着器成熟制御

いもち病菌の多くの分生子形態変異株では、付着器形成能も同時に低下することが観察されている。これまでに、いもち病菌の分生子形態形成に関する変異株や遺伝子が得られているが、それらの遺伝子の機能や制御機構はほとんど明らかになっていない。そこで、いもち病菌の分生子形成様式を制御するメカニズムを解明することを目的とし、分生子形成様式が異常になったcac変異株を取得し解析を行った。cac変異株では分生子形成様式に異常があり、先に形成された分生子の先端から次の胞子が形成され、その結果、連鎖した分生子が形成されていた。cacの変異箇所を解析した結果、Aspergillus nidulansの分生子柄形成制御因子MedA遺伝子に55%の相同性を持つACR1遺伝子にLINE型トランスポゾンが挿入されていた。ACR1破壊株(acr1)の付着器形成能は野生型に比較すると約37%まで低下しており、さらにイネへの感染率は約8%まで減少していた。また、acr1のいずれの欠損形質もcAMPの添加により回復しなかった。そこで、Acr1により制御を受けている遺伝子を解析する目的で、acr1とGuy11の分生子から回収したmRNAを用いてサブトラクションライブラリーを作製した。マクロアレイ解析、定量的RT-PCRの結果、acr1ではS. cerevisiae のPcl1サイクリンホモログ(Mpcl1)およびグリコーゲンホスホリラーゼ(Mgph1)の発現が低下していることが示された。A.nidulansではPcl1ホモログは分生子柄形成制御に関与していることから、acr1変異株分生子においてもMpcl1の発現が低下したため分生子柄の形成様式が異常になり連鎖した分生子が形成されたと考えられた。acr1変異株では付着器内のグリコーゲン分解活性が野生型の付着器と比較し非常に低下していた。これらの結果から、acr1変異株ではMgph1の発現の低下に伴い、グリコーゲンからのグリセロール生合成量が減少した結果、イネへの侵入に十分なグリセロール膨圧が付着器内につくられず、感染率が低下したことが示唆された。

ヘテロ3量体Gタンパク質βサブユニット(Gβ)による付着器形成と胞子形成の制御

細胞は外界の変化に対して迅速に反応する必要があり、その機構の1つに3量体Gタンパク質(Gα,Gβ,Gγサブユニット)を介した外環境シグナルの細胞内への伝達が挙げられる。S. cerevisiaeのフェロモンシグナル伝達系ではGβγサブユニットを介してFus/Kss1MAPキナーゼシグナル伝達経路が活性化される。いもち病菌の付着器形成はFus3/Kss1に対し相同性を持つMAPキナーゼであるPmk1により制御されることが知られている。いもち病菌では3つのGαサブユニットが存在するが、いずれの欠損株もPmk1欠損株と異なる形質を示す。そこでGβサブユニットが付着器形成誘導シグナルをPmk1経路に伝達している可能性について検討した。また、Cryphonectria parasitica、A.nidulans、N.crassaではGβサブユニットが胞子形成に関係することが知られており、いもち病菌でもGβサブユニットが胞子形成に関与している可能性が高いと考えられる。そこで、いもち病菌ゲノム中に1コピー存在する3量体Gタンパク質βサブユニット遺伝子(MGB1)をクローニングし、遺伝子破壊株(mgbl)を作成した。mgblでは野生型と比べ、気中菌糸を多く形成するもののコロニーの生育はやや遅れた。また、分生子柄形成数が減少した結果、胞子形成量が10%まで減少した。mgblでは分生子の発芽開始の遅延、疎水面上で付着器形成能の欠損、感染能力の欠損が観察された。mgblはcAMP添加により異常形態の付着器を形成するが、異常形態の付着器からの植物への侵入は見られなかった。しかしながら、培地にcAMPを添加すると、胞子形成量が野生型の約40%まで回復した。分生子内cAMP濃度はmgb1では野生型の約40%まで減少するが、MGB1を複数コピー導入した株では、逆に、付着器形成が親水表面上でみられただけではなく、分生子内cAMP濃度が野生型よりも60%増加した。これらの結果は、Mgb1が付着器形成開始時の表面認識とcAMPシグナルの活性化や、植物への感染を制御しているだけではなく、cAMPシグナルの制御を介して胞子形成にも影響を与えていることを示している。

総合考察

本研究では、イネいもち病菌においてAcr1が分生子柄形成様式を制御すると同時に、付着器内のグリセロールの蓄積(付着器の成熟)にも関与していることが示された。また、Mgb1が付着器形成や感染に関するシグナル伝達系を上流で制御しているだけではなく、胞子形成にもcAMPシグナルを介して関与していることも明らかにした。これまでに知られているいもち病菌の分生子形成や付着器形成に関する遺伝子変異株では、分生子形成と付着器形成の双方に変異がみられるものが多い。また最近のマイクロアレイ解析の結果から、分生子形成時と付着器形成時に複数の遺伝子が重複して発現していることが示されている。本研究で得られた結果もこれらの知見とよく一致している。Mbg1やAcr1はいもち病菌において付着器形成と胞子形成のそれぞれのシグナル伝達系の交差する点に位置しており、そのため、それぞれの欠損変異株では付着器形成と胞子形成に同時に変化が見られたと考えられる。本研究はMbg1とAcr1による胞子形成・付着器形成の制御メカニズムは、イネいもち病菌における胞子形成と付着器形成シグナル伝達経路が相互に制御しているということを示すものである

審査要旨 要旨を表示する

イネいもち病菌(Magnaporthe grisea)はイネの重要病原菌であるが、近年はモデル病原糸状菌として、遺伝・分子・ゲノムレベルでの解析が進められている。イネいもち病菌の感染には、イネに付着したいもち病菌の胞子が発芽して付着面の疎水性を認識し、感染特異的器官である付着器形成を誘導することが必要である。成熟した付着器では外壁のメラニン化と内部のグリセロール蓄積により膨圧が形成される。付着器内膨圧を利用して付着器からイネに侵入したイネいもち病菌はイネ組織内で伸展し、病斑から分生子柄を形成してその先端に胞子を着生する。付着器形成にはcAMPが2次メッセンジャーとして働くこと、付着器の成熟と感染にはMAPキナーゼPmk1が関与することが知られているが、その制御系は明らかになっていない。本論文はイネいもち病の感染に重要な役割を果たす胞子形成、付着器形成の制御機構について述べたものである。

BACベクター(Bacterial Artificial Chromosome)は安定して100 kb以上のDNA断片を挿入することができるため、マッピングが必要なゲノムサイズの大きな生物のライブラリー作製に利用される。本研究では、イネいもち病菌ゲノムDNAを用いて平均インサートサイズ約120 kb、約18ゲノムをカバーするBACライブラリーを作製し、本研究での遺伝子クローニングに利用した。

胞子形成様式が変異したイネいもち病菌変異株を単離し解析を行ったところ、この変異株ではコウジ菌Aspergillus nidulansの分生子柄形成様式修飾因子MEDA遺伝子のホモログであるACR1遺伝子にLINE型トランスポゾンが挿入されていた。ACR1破壊株 (acr1) では胞子形成様式の異常以外に付着器形成能とイネへの感染率の低下がみられた。acr1と野生型株の胞子からcDNAサブトラクションライブラリーを作製し、胞子形成期にacr1で発現が変化する遺伝子をマクロアレイ、定量的RT-PCRで確認したところ、acr1では分裂酵母Saccharomyces cerevisiaeのPcl1サイクリンホモログ (Mpcl1) およびグリコーゲンホスホリラーゼ (Mgph1) の発現が低下していることが示唆された。いもち病菌のacr1変異株においてはMpcl1の発現量の減少により分生子柄の形成様式が異常になったと考えられた。acr1変異株において付着器内のグリコーゲン分解活性が野生型の付着器と比較し非常に低下していたことから、acr1変異株ではMgph1の発現の低下に伴いグリコーゲンからのグリセロール生合成量が減少し、イネへの侵入に十分なグリセロール膨圧が付着器内につくられず、感染率が低下したことが示唆された。

真核生物では、ヘテロ3量体Gタンパク質によりcAMPシグナル伝達系、MAPキナーゼカスケードなどが制御されている。既知のイネいもち病菌変異株の形質から、イネいもち病菌において3量体Gタンパク質βサブユニット(MGB1)が付着器形成に関するシグナル伝達系を制御すると予想し、研究を行った。いもち病菌ゲノム中に1コピー存在するMGB1をクローニングし、MGB1破壊株(mgb1)を作製したところ、mgb1では胞子の発芽の遅延、誘導条件下での付着器形成能の欠損、感染能の欠損が観察された。mgb1はcAMP添加により異常形態の付着器を形成するが、感染能は回復しなかった。mgb1では分生子柄形成数が減少し、胞子形成率が約10%まで減少するが、培地にcAMPを添加すると、胞子形成率が野生型の約40%まで回復した。分生子内cAMP濃度はmgb1では野生型の約40%まで減少するが、MGB1を複数コピー導入した株では、付着器形成が親水表面上でみられると同時に、胞子内cAMP濃度が野生型よりも60%増加した。これらの結果により、Mgb1がcAMPシグナルを介して付着器形成や胞子形成を制御すること、植物への感染に必要であることが示された。

本研究では、イネいもち病菌において、Acr1が分生子柄形成様式制御、Mgb1が付着器形成誘導や感染の制御の核となる遺伝子であることが示された。また、Acr1やMgb1が胞子形成・付着器形成を同時に制御する機構を解析することにより、イネいもち病菌での胞子形成と付着器形成の制御経路が相互に交差していることを初めて明らかにした。本研究で得られた知見はイネいもち病菌における新たな形態形成制御モデルを提唱するものであり、今後のいもち病に対する防除戦略に基礎情報を提供するものである。よって審査委員一同は、本論文が、博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/51203