学位論文要旨



No 215859
著者(漢字) 原岡,文子
著者(英字)
著者(カナ) ハラオカ,フミコ
標題(和) 源氏物語の人物と表現 : その両義的展開
標題(洋)
報告番号 215859
報告番号 乙15859
学位授与日 2004.01.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15859号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 助教授 藤原,克巳
 東京大学 助教授 渡部,泰明
 東京大学 教授 末木,文美士
 総合文化研究科 教授 藤井,貞和
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、さまざまな登場人物たち、そして表現をめぐって、とりわけその両義的展開に着目し、『源氏物語』の構造、その奥行きを明らかにする試みである。『源氏物語』には、引き裂かれ、相反しながらにもかかわらず重なり、或いは、ずれ、幾重にも意味を響かせる言葉、人物、また関係が至る所に煌めいている。「両義的展開」とは、その動的な機構(メカニズム)を意味する語として用いるものである。例えば『源氏物語』正篇のおおよその骨格を大きく支えるものとして、光源氏と藤壷との密事を認めることができるが、既にここに「栄華」と「罪」という、引き裂かれ相反するものが、にもかかわらず一つに綯い合わされる機構を見取り得る。女君夕顔の中には、「聖」なる「性」、即ち「巫女性」と「遊女性」という二つのものが逆説的に綯い合わされており((1)4「遊女・巫女・夕顔」)、『源氏物語』に華麗な陰翳を滲ませる桜は、類い希な美の一方、滅びや死のイメージに通底する禁忌の恋に結ぶものとして姿を現す((2)5「『源氏物語』の桜考」)。

本論文の「両義的」、「両義性」という言葉は、ambiguite の訳語としてメルロ=ポンテイにより提示された現象の捉え方に発するものであって、二つの概念の対立を越えて、その逆説的な構造や、むしろ曖昧 (ambiguite) で多義的な現実の本質を解き明かすものと規定される。従って「両義的展開」とは、こうした二項対立を突き崩す言葉の成り立ちを踏まえ、相反する二つのものをめぐっての、対立を越える逆説の動的機構を指す概念を意味するものである。逆説や曖昧に充ちた両義性を湛えることによって、まさに『源氏物語』は、混沌と曖昧の中に投げ出された現実の生を撃つ豊饒を得る。本論文は、その意味で現実に向き合い続ける『源氏物語』の魅力の一端を解きほぐし、その文学史的位置を見定める試みと言える。なお美意識の受容、対比、また愛読の始発など、いずれも『源氏物語』との関わりに浅からぬものがある『枕草子』論二編、『更級日記』論三編をII・IIIとし、I「『源氏物語』の人物と表現-その両義的展開」の本編に加え文学史的展望への一助とした。

(1)「『源氏物語』正篇の人物たち」(2)「『源氏物語』の表現」(3)「宇治十帖の人物と表現」の三部から成るI「『源氏物語』の人物と表現」について、以下章を追って要旨を述べる。(1)「『源氏物語』正篇の人物たち」は、「光源氏像への視角」「女君たちをめぐって」「紫の上の物語」の三群十一章により構成され、本論文の約二分の一を占める。まず1「「主人公」光源氏をめぐる断章」では、「王者」としての超越的な美質の一方で、「あるがままの人間」としての悲しさを常に湛える、引き裂かれた像を光源氏に見取り、その両義的存在の中に、最も深く人間の本質的な問題の描き込められる機構を分析する。さらに2・3は共に源氏の邸に着目する論だが、2「光源氏の御祖母」では、桐壷の巻の野分の段の考察を通し、家の遺志を踏まえる祖母君の怨みと祈りとの籠もる更衣の里邸が二条院として始発する過程を顧み、光源氏の「王権」成就を拓く力に関わる構造を検証する。3「光源氏の邸」は、二条東院から六条院への、物語の「構想」の変化を考察する。二条東院に移り住むことを拒むことで、明石の君はより深くその像を完結する。またそれ故必然的に明石の姫君が二条院に導かれ、やがて大きく六条院にその栄華を開花させるために、二条東院はむしろ仕掛けとして用いられたと言える。こうした物語の流れの基底を支えるのは、桐壷更衣、明石一族、そしておそらく六条御息所の血縁の関係であった。2・3共々邸の在り方は、結局物語を貫く血筋の論理を炙り出す結果となった。

4〜8の「女君たち」群では、まず先にも触れた4「遊女・巫女・夕顔」において、夕顔の巻に鏤められた夕顔の遊女、そして巫女に関わる叙述を検証することで、古代の人々の心性に潜められた聖なる性の輝きを放つ女君造型を解明する。5「若紫の巻をめぐって」で問題としたのは、一見少女若紫の発見と二条院引き取りの物語と見える当該巻における藤壷の存在の重さである。奥手の少女紫の上への思いの深さは、藤壷思慕の切実さを証し、また少女との出逢いと藤壷故の罪障意識の始発が重ねられ、また北山の桜は遥かに密事と桜のイメージとの関わりを呼び起こす。6「六条御息所考」では、光源氏の今一人の高貴な恋人六条御息所をめぐって、その女君の視線、光源氏を「見る」在り方を辿ることにより、「ゆゑ」ある人柄、風雅と、「もののけ」という相反する属性が結合するその人物造型を読み解く。視線、視点への関心で連鎖する7「朝顔の巻の読みと「視点」」は、朝顔の姫君の再登場とそれ故の紫の上の苦悩を刻む当該巻が、結局光源氏の視点からの過往の整理という構造を潜めることを示す。8「朝顔の姫君とその系譜」は、その朝顔の姫君が、「朝の顔」に官能の華やぎを一面想起させつつ、他方無常やはかなさに結ぶ歌語「朝顔」のイメージに支えられ、思いを潜めたまま枯れる花、女君として結像する機構を解明、さらにそれが宇治十帖の大君像にも繋がることに言及する。

9〜11は「紫の上の物語」群だが、正篇の登場人物の中で、先の光源氏、そして紫の上論がそれぞれ三章を有する結果となったのは、もとより一対の主人公として、この二人が質量共に物語に大きな位置を占めることと関わる。9「紫の上の登場」では、北山での紫の上の登場が、ゆらめく髪、走る姿などによって、秩序に組み込まれる以前の原初の力を湛えることを指摘し、さらにその反秩序と無垢とは、その人の生涯を貫く「何心なし」という属性に連なることを論じた。10「紫の上への視角 片々」ii「仏教をめぐって」は、「何心なし」に貫かれた紫の上の最期の姿に、その人の救済を見取ることに発して、薫、浮舟と続く仏教、救済の主題に言及、i「読みと視点」は、初音の巻における六条院での紫の上の完壁な幸福に輝く姿を外側から見取る語り手の視点と、立ち上るある種のアイロニーを指摘しており、7の視点論にも繋がる切り口を持つ。11「紫の上の「祈り」をめぐって」では、「心にたへぬもの嘆かしさ」こそが自らの生を支える「祈り」だったと語る紫の上の言葉の逆説の機構に着目し、その人の最晩年の生を読み解き、「かぐや姫」の裔としての在り方を検証した。

(2)「『源氏物語』の表現」は、祭を始め物語に現れるさまざまな事象をめぐる表現、また言葉の展開に着目する五章をまとめる。まず3「『源氏物語』の子ども・性・文化」は、先の(1)9を踏まえつつ、『源氏物語』に息づく子どもたちが、紫の上のように神話的で反秩序的な在り方で姿を現すと同時に、他方従属し依存する存在として現れる、という両義的展開を薄雲の巻の明石の姫君の姿を併せ顧みることで考察した。もとより周縁、境界との深い関わりを説かれる両義的世界への関心に導かれた、子どもという周縁的な存在への注目であることを確認しておく。1「『源氏物語』の「人笑へ」をめぐって」は、それ以前の作品においては、殆ど会話にのみ用いられていた「人笑へ」が、内話に大きく取り込まれることで、登場人物の主体的内省を象り、一方地、移り詞の当該語が、現実に裏付けられた負の状況を語る機構を分析する。ここでの考察の対象は、主として正篇の用例だが、宇治十帖、とりわけ浮舟をめぐる「人笑へ」は、正篇とは逆に入水、死へと女君を追い込むものであった((3)4「浮舟物語と「人笑へ」」)。2「『源氏物語』の「祭」をめぐって」は、付編を含めて祭をめぐる、その華やぎと裏腹な人の心の寂寥や、内面を際立たせる叙述の在りよう、さらに祭を媒介とする六条御息所のもののけ発動の機構を説く。4「『源氏物語』の物語論・美意識」では、まず螢の巻の物語論を軸に『蜻蛉日記』の受容を顧み、日記序文の「そらごと」を逆手にする、「虚構」に真実を託す新たな物語誕生の構図を論じ、さらに美意識をめぐる『枕草子』受容の相をも顧みた。なお後者については、II2「『枕草子』の美意識」に、関連する問題を詳述している。5「『源氏物語』の「桜」考」は、『古事記』の木花之佐久夜毘売の挿話などに発する美とはかなさ、滅びを併せ持つ桜の古代心性の上に、『源氏物語』の禁忌恋と桜との結合の相の拓かれる様を読み解く。

(3)「宇治十帖の人物と表現」は、宇治十帖前半の物語を辿る1〜3の「宇治十帖の展開」群と、4〜7の「浮舟の物語」群に分かれる。1「宇治の阿闍梨と八の宮」では、まず宇治十帖の発端に置かれた薫と八の宮との交流にまつわるある種の錯誤、その仲立ちである阿闍梨の位置を見据えることで、第三部世界の仏道、宗教の皮肉な意味を摘抉する。2「「道心」と「恋」との物語」はさらに、宗教とのせめぎ合いの中に展開される恋の物語の方法を考察、3「幸い人中の君」では、外から中の君を見取る語り手の視座と、中の君の内面との乖離を通して浮かび上がる『源氏物語』の「幸ひ」の固有の構造を解明する。最後の女主人公として物語の終焉に切り結ぶ浮舟の論四章は、入水に至る前半の物語を「人笑へ」を軸に考察する4に始まり、その境界性(7「境界の女君」)、出家と救済の問題などを論じる。雨、水の力に清められ贖罪を果たしつつも(6「雨・贖罪、そして出家へ」)、その後の浮舟の出家はむしろ救済には結びつかず、かえって出家に至る過程に置かれた中将の恋が、これまで物語の築き上げた「あはれ」の世界を相対化し、物語を終焉に導く結果となることが最終的には検証された(5「「あはれ」の世界の相対化と浮舟の物語」)。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、『源氏物語』の、登場人物たちの心理的葛藤をきわめて精緻に織りなしてゆく近代小説にも連なるような位相と、神話学や民俗学の知見を俟って始めて明らかにされる古代的な位相とを深く交錯させることで、物語世界が生成展開してゆくダイナミズムを、「両義的展開」という視点から解明したものである。全体は3部28篇の論から構成されるが、23篇の論からなるI「『源氏物語』の人物と表現」が本論文の中心をなす。

I-(1)「『源氏物語』正篇の人物たち」では、まず光源氏の両義的なありがたさが多面的・重層的に明らかにされる。光源氏は、古代的な「色好み」の理想を生かされて多くの女性たちと交渉をもつが、その恋の内実には満たされぬ思いと苦悩とがあり、この物語に特徴的な「いとほし」「心苦し」といった心情語の頻出に見られるように、女性たちとの交渉は常に痛みの感覚を伴っている。光源氏は天与の美質に輝く超越的な存在であるとともに、脈絡のない情念の作用に突き動かされるような、矛盾に満ちた現実の人間の不透明さをも併せもち、愛執と道心の二つの相反する志向に引き裂かれて生きることを余儀なくされる人物だとする。また紫の上についても、とりわけ印象的なその少女時代の意味について、子どもの存在のもつ「両義性」の視点から新たな証明を当てている。すなわち反秩序的な荒ぶる童子神という神話的な元型と、秩序に従属し依存する女君というごく常識的なありかたとが二つながらに示されているが、それがそのまま光源氏の大邸宅六条院の秩序に組み込まれながらも、婚姻・出産が政治と結びついていたこの時代、むしろ「不生女」であることによって、固有の反俗世を生きえた紫の上の生の基底をなしているのだとする。

「両義性」という視点を導入することで、これら主人公の複雑な存在の様態が見事に解明されており、人物論研究の上でのすぐれた成果といえる。

I-(2)「『源氏物語』の表現」では、祭りや桜など、この物語において重要な場面を構成する諸要素について、それらが神話や民俗の深層からいかに豊かな物語生成の力を吸い上げているかを具体的に明らかにする。またI-(3)「宇治十帖の人物と表現」では、主人公薫の愛執と道心とがまさに両義的に複合したありかたをもつことを示し、宇治の中の君について、彼女を「幸せ人」と見なす世間の眼と、苦悩に満ちた彼女の内面との乖離がいかに深刻なものであったかを克明に分析する。この物語の語りそのものの中に構造化されたイロニカルで複眼的な視線が、それ以前の物語を徹底的に相対化し、浮船の物語をこれ以上は進展しえない極北にまでいたらしめているその様相を明らかにする。まことに宇治十帖論の白眉ともいうべき卓抜な把握といえる。

II「『枕草紙』の展開」では、『枕草紙』の美意識を中心に、またIII「『更級日記』の展開」では、「境界」の意味を中心に、作品世界の分析をこころみている。

「両義的展開」という視点を作品分析の根幹に据えた本論文は、その方法そのものが不可避的に孕む恣意的な思考から自由になりえない一面を一部に残しはするものの、この物語の近代小説にも連なるような位相と、神話や民俗の古層に深く依拠するような位相とを交錯させた物語生成の独自のダイナミズムを、ここまで説得的に解明した論文は以前には存在せず、その点において本論文の価値はきわめて高い。よって審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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