学位論文要旨



No 215863
著者(漢字) 中村,泰治
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,ヤスハル
標題(和) 恐慌と不況の段階理論
標題(洋)
報告番号 215863
報告番号 乙15863
学位授与日 2004.01.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 第15863号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小幡,道昭
 東京大学 教授 柴田,徳太郎
 東京大学 教授 丸山,真人
 東京大学 助教授 矢坂,雅充
 信州大学 教授 青才,高志
内容要旨 要旨を表示する

(課題の設定)いわゆる景気循環を描きながら発展すること,これは他の経済システムには見られない資本主義経済の大きな特徴といってよいだろう。そこで経済学者たちは,資本主義経済の本質的特徴を剔出し,その特徴に基づいてさまざまな景気循環論を展開してきた。しかし景気循環の各局面が等しく議論されてきたのではない。中心的な論点になったのは,恐慌や不況が生じるのは何故かということであった。いわゆる恐慌の必然性や不況の根本原因をめぐる論議である。この中でユニークな議論をしたのは宇野弘蔵氏であった。すなわち,従来の議論がいわば「ヨコ(需要と供給)の不均衡」に注目したとすると,氏は「タテ(資本と労働)の不均衡」に注目した。また,従来の議論で信用制度の扱いが曖昧であったとすると,氏は個別資本の競争と内的関係をもつものとして信用制度を位置付けた。そして資本蓄積が進展すると労働力が不足し,これが利潤率を下落させるとともに利子率を上昇させ,両者の衝突から恐慌が発生するとしたのである。こうした氏の議論には強い恐慌の必然性が含まれていると見て,多くの論者が追随したことは周知のことであろう。

しかしこの種の恐慌論には,方法と内容の両面から見て大きな問題点があるのではなかろうか。また恐慌の必然性に傾斜するあまり,恐慌後の不況論については論理のツメや一貫性などが不足しているのではなかろうか。そこでここでは,新たな方法によって,好況から恐慌が発生する必然性とその恐慌から不況が発生し・持続し・終焉する必然性を論じよう。そして現実のさまざまな景気循環に対して方法と内容の両面からヨリ整備された分析基準論を手に入れることにしよう。

(恐慌論の理論的位置)まず,方法的には,原理論で恐慌が説き得るかという問題があるだろう。これまで宇野理論では恐慌論は当然にも原理論に含まれ,恐慌の必然性こそが原理論の総括的課題であると考えられてきた。しかし労働力が資本家的に生産されないからといって,労働力が必ず不足するといい得るだろうか。労働力の供給事情によっては労働力の需要増に供給増が対応していくこともあり得るだろう。そうとすると,原理論では労働力の供給事情は資本蓄積に対し中立的と想定しておく方がいいのであり,その方が資本主義経済の自立的構造を一般的に明らかにすることになるのではなかろうか。他方,自由主義段階では非資本家的な一次産品や労働力が周期的に不足したという事実があった。そこでこれを基礎に労働力の再生産の場として「プロレタリア家族」を想定すれば,労働力の不足による利潤率の低下もある種の必然性をもっていい得るであろう。大規模な不均衡と性急な信用恐慌を含む恐慌論は,原理論というより特定の発展段階を抽象の基礎としたいわば中間理論として展開した方が無理がないのであり,またそうならば,恐慌論は原理論ではなく中間理論の1つとして位置付けることができるであろう。

(資本過剰と商品過剰)次に,内容的には,最初に恐慌論の中心問題である資本過剰と商品過剰の関連を明確にして,後述の展開に作業指針を与えておくのがいいだろう。これまで需給の不一致や不均衡が強調され,その累積から恐慌さらには不況が説かれることが多かった。しかし価格機構が作動すると考える限りその累積をいうのは簡単ではあるまい。これに対し,中間理論らしく労働力の生産点や消費点まで立ち入り新たな要因でその特殊性を明確にするならば「タテ(資本と労働)の不均衡」を説くことは容易であろう。とはいえ「ヨコ(需要と供給)の不均衡」が恐慌の原因にならないというのではない。恐慌はむしろ資本過剰を「根本的原因」とし商品過剰を「表層的原因」とする立体的な関係で生じるのではなかろうか。しかも,これまであまり論じられなかったが,こうした関係で恐慌だけでなく不況についても一貫した説明をすることができるのではないかと思われる。

(好況期の発展機構)さて,景気の各局面に入ると,発展段階の分析理論という性格から最初に好況期の蓄積機構をとりあげ前提的に問題しておいていいだろう。これまで好況期は総体的な需給不均衡が累積する時期と見られることが多かったが,産業資本と短期信用の蓄積機構で総需給の不均衡の累積をいうのは容易ではない。しかし資本主義が無政府的な経済である以上,むろん需給不均衡はある。生産部門のそれぞれに需給不均衡があり,これは各生産部門の資本の利潤率の不均等として現れるだろう。そこで実際に支配的資本をリーダーとする不均等な発展が見られたこと基礎に,利潤率に応じた「不均等発展モデル」を作るならば,好況期とは高利潤率の資本グループをリーダーとする不均等だが活発な資本蓄積が見られる時期といってよいであろう。

(恐慌の発生機構)続く恐慌期では,恐慌の契機となる利子率上昇の原因がやはり最大の問題であろう。事実これまでに恐慌論の分析基準としての有効性を高める意図をもって,物価騰貴と金・物価騰貴と実現困難・中央銀行と金流出といった関係で利子率の急上昇を説く試みが数多く示されている。しかし,そもそも原理論の枠内で利子率の急激な上昇が説き得るのかという疑問があるが,たとえ中間理論次元の議論だとしても,物価騰貴は説き得るのか・実現困難は利子率の上昇の原因というより結果ではないのか・中央銀行を説いてよいのかといった疑問があるだろう。そこで,ここではいわゆる流動性リスクを重視する信用論を前提に,実際の金の流入なき流出という事態は金を退蔵されたのと同じであるという理解から,「貨幣退蔵」という原理的には不合理な行為を媒介に流動性リスクが増大し利子率が急上昇し信用恐慌が発生するとした。

(景気の底入れメカニズム)恐慌とともに景気は下降するが,早晩自動的に底入れをする。しかしそれは従来からいわれている要因,たとえば新技術を含む設備投資・消費財部門の有利化・基礎消費の維持といった要因によるのではないだろう。それらには本格的な景気回復要因ではないのか・価格機構と整合性があるか・労働者の貯蓄という非本質的要因を前提にしているのではないかといった問題点が指摘できるからである。そこで価格機構が作動しても・労働者の貯蓄がゼロであっても・景気を底入れさせる要因を探す必要があるが,それは恐慌の結果の中にあるだろう。すなわち恐慌後には賃金が下落するが,これを「根本的原因」として「不均等発展モデル」を見れば,「表層」では剰余価値の分配関係で有利となる残存資本グループがいて,これがリーダーとなって景気を底入れさせるのではないかと考えられる。

(景気停滞の根本原因)底入れ後も景気はしばらく停滞を続けるだろう。この原因については固定資本の残存による供給圧力・流動性保有による有効需要の不足などが強調されてきた。しかし産業資本的蓄積と価格機構の関連を考えると「ヨコ(需要と供給)の不均衡」によって景気停滞が説明され得るだろうか。これに対し,労働力に主体性や習熟性という要因が付着していることを考慮に入れると,賃金にはある程度下方硬直性があるといえるだろう。そうとすると,景気停滞の「根本的原因」はやはり剰余価値率の低迷という「タテ(資本と労働)の不均衡」であり「ヨコ(需要と供給)の不均衡」はそこに起因する「表層的原因」ということができるのではなかろうか。

(景気回復と「中間恐慌」)固定資本の更新投資によって景気は本格的に回復するが,そのさい「中間恐慌」が発生するといわれる。しかし不況末期には労働力が過剰化していることから見ても,これは本格的恐慌とは性格を異にするといえよう。そこでその原因であるが,無政府的な経済では固定資本の更新投資は不均等に行われる。そこでそれは「不均等発展モデル」でいえば,一つの更新投資ブームと別の更新投資ブームとの時間的ズレから生じる混乱であり,直接には「ヨコ(需要と供給)の不均衡」による表層的な「恐慌」ではないかと思われる。

(中間理論と過渡期理論)以上,中間理論として恐慌論を論じてきたが,これに蓄積促進要因や逆に蓄積制約要因を入れていくと,別の発展段階を分析する中間理論や実際の長期不況などの段階間の過渡期を分析する過渡期理論にも変換可能なものであろう。この意味でここでの議論は,そうした現実へ架橋する理論群の基本理論になり得るものではないかと思われる。(以上)

審査要旨 要旨を表示する

論文概要

本論文は、資本主義経済を特徴づける景気循環に関する理論を包括的に構築することを課題としてしている。1頁あたり35字28行で237頁の本文と、目次および引用・参考文献で構成されている。本文は9章で構成されているが、その概要を示せば以下のとおりである。

第1章「課題の設定」では、新旧古典派、ケインズ派、マルクス派との対比を通じて、宇野弘蔵氏の景気循環論の意義が評価されている。本論文によるとその最大のメリットは、需給不均衡説対均衡説、内生説対外生説、商品過剰説対資本過剰説といった、対立する諸説を総合し、景気循環という複雑な過程全体を包括的にとらえる視座を構築したところにある。しかし、この宇野氏の理論ならびにその立場を支持し発展させた諸理論(以下宇野理論と概括する)のうちにも、景気循環論をどのような抽象レベルで理論化するかという方法論的問題、需給不均衡論の位置づけ、好況期における競争の不均衡化作用の処理、恐慌の激発性(信用収縮における非原理的要因)の分析、底入れの仕組み、停滞の持続原因の解明、「中間恐慌」の意味、さらに蓄積機構が困難に直面した過渡期の理論化など、なお未解決な課題が残されているとして、それらの概要が示されている。

まず第2章「恐慌論の理論的位置 中間理論としての恐慌論」では、大内力氏など例外もあるが、原理論を恐慌論で締めくくる体系が一般化しつつあること、しかし、恐慌論の展開には価値論や再生産表式論などと同じ抽象レベルでは扱えない独自の条件が不可欠であり、その点で原理論とは区別し中間理論として考察されるべきことが指摘される。宇野理論が、大規模で全面的な不均衡を日常的部分的不均衡とはっきり区別し、恐慌の根本原因を労働力商品に求めたことは高く評価しなくてはならないが、それを支える、好況期を通じて労働力需要が増大し賃金騰貴に至るという基本命題は、労働力の供給側も独自の条件を想定しないかぎり一般化できず、労働力供給のベースとなる家族構造など、原理論の内部で説明することが困難な外的要因の追加が不可欠であるという。このような主張は、馬場宏二・山口重克氏の中間理論的拡張、大内力氏の架橋理論としての恐慌の形態変化論や「理論的仮説」の方法などの批判的検討をふまえ、第1理論(新原理論)と第2理論(中間理論)とへの理論体系の再分割、自由主義段階、帝国主義段階、国家独占資本主義段階といった複数の中間理論の中の基礎理論としての恐慌論という方向に展開されている。

第3章「資本過剰と商品過剰 恐慌の根本原因と表層的原因」では、資本過剰=根本・原因、商品過剰=付随的現象・結果、という宇野理論の通説が再検討され、資本過剰だけで恐慌が説明できる(商品過剰なしで説明すべきである)という立場が根底から見直される。本論文は、資本過剰、商品過剰をともに恐慌の「原因」ととらえたうえで、根本原因と表層的原因とに分けるものである。つまり(1)両者がなければ恐慌も(そして不況も)説明できないのであり、(2)両者をともに説明要因とするためには、原理論ではなく中間理論の領域で展開するほかないというのであり、原理論は資本過剰論のみでまず構成され、中間理論のレベルで商品過剰論を追加・補足するという立場は支持できないというのである。

以上の方法論的準備を経て、第4章「好況期の発展機構資本間の不均等な発展」から景気循環の各論に移る。この第4章では、なぜ好況中期から考察をはじめるのかという、古くから論じられてきた問題が取りあげられ、ここからはじめることにより、均衡論と不均衡論の相対化(総合)がはじめて可能となるからだと回答している。ここから置塩信雄氏の立場に対しては、金融資本的な要因、すなわち投資の独立性ないしは利潤率への依存性などを事実上導入しているという批判がくだされ、また宇野氏に対しても物価騰貴に関して、総需要・総供給の一般的乖離に還元しなかった点は評価できるが、その原因を好況末期における商人資本的投機に限定し、けっきょく物価騰貴は原理論ではあつかえないとしてしまった点は見直さなければならないという。こうして本章では、部分的な需給不均衡を含んだ分析の必要が提唱され、リーダー的部門を伴う不均等発展として好況を位置づけることで、均等化こそが好況的拡張の条件だとみる通説(宇野の一面)が相対化される。

第5章「恐慌の発生機構」では、典型的な激発的恐慌の必然性、現実的な恐慌の発生メカニズムが考察される。この問題に関してこれまで提示されてきた諸見解、すなわち、好況末期に資本間の不均等性が増大し、商人資本的投機が発生する点に注目し、激発性の原因として、部分的に商品過剰を導入する立場、あるいは中央と地方の国内格差、ないし積極的に対外関係を想定し金流出を想定する立場、さらには一般的物価上昇説(鈴木鴻一郎編『経済学原理』など)、返済還流遅滞説(山口重克氏など)、準備率低下(伊藤誠氏など)などを理由に、急激な信用収縮を説く立場が検討される。しかしそれらは、いずれも不均質な破壊(もっとも弱い部分とその周辺の破壊)を説明できないところに限界があり、それはけっきょく原理論内部ですべてを説明しようとした結果であるという。この章では、労働力供給の限界を労働者の家庭のあり方をふまえて明らかにしたうえで、好況末期には不均等な発展がかえって激化し、そのもとで相対的に利潤率が低く困難を抱える産業部門との信用関係がつよい銀行のなかに、引き締めに転ずるものが発生し、これを中心とした貨幣退蔵という原理的規定とは言い難い要因によってはじめて恐慌の発生も説明できるという積極説が対置されている。

第6章「景気の底入れメカニズム」では、恐慌後の急性的な収縮がどのようなかたちで終息するのか、といういわゆる底入れの問題が論じられる。これは激発恐慌がどのような原因で発生すると考えるかに依存する。従来、恐慌の主たる原因が(1)労働力不足(剰余価値率低下)、(2)準備金不足(信用収縮)、(3)販売困難(需要不足)に求められてきたことをふまえてみると、恐慌後にはこれに対応して(1)価格の低落(部門間の不均衡)、(2)賃金の低落(資本賃労働間の不均衡)、(3)利子率の低下といった事態が生じるとされている。そうだとすると、底入れはどのようにして進むのか、本論文では、恐慌により賃金が多少とも低下したことを背景に部分的に蓄積がはじまると、好況期における不均等発展と恐慌時の破壊の不均質性によって累積された部門間の極端な不均衡が解消する点に底入れの主因が求められていると考えられる。いいかえると、恐慌後も賃金の下落は相対的に弱く資本賃労働間の不均衡は解消されず、これが不況の持続要因となるというのである。

第7章「景気停滞の根本原因」では、不況の持続性の問題が考察されている。通説は(1)消費財部門の特殊性(2)基礎的消費の存在(3)新技術の導入といった要因を中心に、総需要、総供給の関係から説明するのであるが、宇野理論にも、価格の低迷など部門間の不均衡を主因とする立場と、剰余価値率の低迷という資本賃労働間の不均衡に着目する立場とがある。本論文は、(1)労働者が「半経済人」という性格をもち、(2)資本家もどこまでも競争的に労働力商品をやすく買うというわけにはいかない要因(技能、意欲)に制約される点を根拠に、恐慌後の賃金低落が狭い限度にとどまるという点を不況の持続原因として重視する立場をとっている。

第8章「景気回復と「中間恐慌」」では、不況から好況への転換点に検討が加えられている。不況期は緩やかな上昇(拡大)を伴い、このなかで中間恐慌が発生する可能性がある点が指摘され、それは部分的で軽微かもしれないが、固定資本の更新が周期性をきめるとすれば、本来の恐慌以上に周期性を示し、不況と好況とを画するとされる。この中間恐慌が発生する場合、その主因は部門間の不均衡によるものと考えられるという。すなわち、好況末期の労賃上昇による剰余価値率の低迷は本来の恐慌では解消せず、相対的に高い賃金の制約を回避すべく、固定資本の更新に向かう動機は不況期を通じて潜在するが、資金の形成に時間がかかるため実際の投資には制約が伴う。そのなかで、一部に更新投資がはじまると部門内で競争的な投資の集中が発生し、これが局所的な投資ブームをうむ。しかし、それは経済全体への波及力を欠き、早期に破綻する傾向をもつ。この点で中間恐慌は、資本賃労働の不均衡に由来する本来の恐慌とは対照的な原因によるという。そして、この中間恐慌を画期に部門間のアンバランスが解消されると、やがて全面的な固定資本の更新を経て好況へと進むとされている。

終章「中間理論と過渡期理論」は、産業資本的蓄積機構を前提として中間理論の基礎理論として再構成された景気循環論が、資本主義の歴史的発展に対してどのように適用されるのか、その意義を展望している。すなわち、中間理論の中の基礎理論が構築されることにより、古典的帝国主義段階、国家独占資本主義段階には、それぞれに応じた追加的要因によって、新たな中間理論として展開してゆくことができるという。また、大不況、大恐慌、さらには世界大戦など、段階間の過渡期(危機の時代)の解明には、過渡期理論を別に用意する必要があるが、それも中間理論を基礎に構築できることが展望されている。

評価

以上のような内容を有する本論文の積極的意義を述べれば、つぎのようになる。

第1に、方法論的な整理の成果があげられる。従来の経済原論における恐慌論あるいは景気循環論の位置づけ方に対して抜本的な反省が加え、固有の意味での原理論とは区別される、独自の想定を追加した中間理論として展開されるべきだという考え方が提起されている。これにより、価値論や資本蓄積論など、原理論の基礎的な部分と同じ抽象レベルで論じたために、労働力の供給構造や信用機構の内部編成など、景気循環論との関わりで無理があった展開や不問に付されてきた限界が明示されるようになった。このような理論的な整理は、同時にまた、資本主義の歴史的発展のなかで変化してきた景気循環の現実に、基礎理論がどのようなかたちで媒介的に適用されるのかに関して方法論的手続きが厳密化された。これまで多くの研究が、19世紀イギリス資本主義を念頭におきながら、その事実に依拠して展開された景気循環論を含む原理論を当然の前提としてきたが、この方法が含む問題点を根底から見直した点は評価されてよい。

第2に、従来の諸説の総合化があげられる。現実の景気循環は歴史的な現象であり、それ自身きわめて複雑な要因が連鎖するかたちで進展する。その点で個々の循環は固有の特性をそれぞれ具えており、したがって歴史的なアプローチによる解明を不可欠とするものといってよい。しかし、それはまた繰り返す側面では各循環に通じる一般的な性格をも具えている。これまで原理論のレベルでこの複雑な景気循環をすべて説明しようとするなかで、さまざまな対立する諸説が提示されてきた。恐慌の基本原因をめぐる資本過剰論と商品過剰論、利子率上昇は金流出によるのか返済還流遅延によるのか、不況の持続は部門間のアンバランスによるのか実質賃金の相対的高位によるのか、不況の好況への転換は中間恐慌を伴うのか否かなど、二者択一が迫られてきたのである。本論文はこうした諸説を充分吟味し、対立する諸説相互の関係を検討しそれらを総合的にとらえる観点を示している。それは、景気循環論を固有の意味の原理論の領域の内部に限定して展開するのではなく、中間理論として新たな展開の場を設定したことによって可能となった面がある。現実の景気循環は複雑であり、たとえば資本過剰と商品過剰とは密接に作用しあい発現するのに対して、原理論では資本過剰に限定してひとまず説明を与え、商品過剰説的な側面は段階論なり現状分析なりであらためて考察するといったアプローチもみられた。むろん、諸説を折衷し併記するのでは理論とはならないが、景気循環のような複雑な現象に対しては連動する諸契機の関係を明らかにすることのほうが重要な意味をもつ。本論文が随所で示した諸説の総合化は、歴史的現象として景気循環を解明する理論のあり方を模索する試みとして一定の意義を認めることができる。

第3に評価されるべきは、景気循環の諸局面全体を対象とした射程の広がりがある。従来、宇野理論では多くの場合、好況から恐慌の発生の過程に焦点が集められており、必ずしも景気循環の全過程を等しい密度で解明されてきたとはいえない。本論文は、方法論的な反省を基礎に、とくにこれまで好況から恐慌にいたる局面に比べ充分研究されてきたとはいえない、恐慌から不況への移行、不況から好況への転換の局面が正面から分析されている。またたとえば、好況期に関して部門間の不均等発展が強調さているのも、それが不況の持続や好況への再転換の解明につながる点を意識してのことであるなど、景気循環の諸局面を有機的に捉える工夫がさまざまに施されている。さらに、不況から好況への転換に関して理論的な解明を試みたことも無視できない。従来、不況と好況は連続的に捉えられてきた傾向があるが、この間に中間恐慌を介する断絶面が存在する点を可能なかぎり理論化する、新しい試みが示されている。こうした点をふまえて振り返ってみると、激発的・全面的・周期的恐慌に焦点を絞る通説的展開は、19世紀イギリスの景気循環を強く念頭におくものだったことがわかる。これに対して、好況と不況の交替を一般的に捉える本論文は、資本主義の歴史的発展段階に対して、理論の展開方法と適用方法とを開示する可能性を有している。

第4に、景気循環を捉えるうえで、商品経済的な関係に還元できない外部性を明示した点も重要である。本論文では、従来暗黙のうちに供給の側面に強い限界を設けてきた労働市場に関して、それが労働者の家族のあり方についての一定の仮定を含む点を明確にしている。中間理論として外部性を取りいれることにより、労働力商品に関する理論も拡張可能となり、その再生産のもつ半商品経済的な特性が考察対象とされることで、景気循環の変容に対する理論化の方向性も示されている。また、恐慌から不況に至る過程に関して、恐慌の発生原因と不況の持続要因とを別にするのではなく、労働力商品の特殊性に基礎をおく、利潤率の低迷で一貫して捉える立場も提示されている。従来、不況の持続性に関する充分な説明がなされてこなかった点でこれは重要なポイントである。全体として、これまで断片化されやすかった景気循環論の全過程を射程に収めて、好況、恐慌、不況という局面の移行、関連についての詳細な考察を加えている点、そのための方法論的な基礎を深化させている点、現実への理論の結びつきに関しても積極的な方法が模索されている点、などが本論文の長所として評価できる。しかし、本論文にも、以下のような、疑問とすべき論点、さらに研究すべき未解決の問題がないわけではない。

第1の問題は、景気循環論を中間理論として位置づける際に導入された、主要な外部性の処理に関わる。本論文では、この点が労働力商品を中心にして論じられ、そこでエンゲルスによりながら、プロレタリア家族という概念が外的条件として導入されている。たしかに、従来の労働市場がどのような労働者を想定しているのか、単身成人者なのか、婦人、児童を含む家族構成員全体なのか、それとも家族を扶養するような成人労働者なのか、こうした点は不問に付してきた。本論文では、中間理論の領域で、財産相続や伝統的縁戚関係などから解放された、自由な労働者どうしが愛情に基づいて形成する家族形態を資本主義において一般性を有する家族として想定するという手続きを踏んでいる。しかし、この家族形態が他の労働者の生活様式と比べてどこまで中間理論の中の基礎理論を構成する資格をもつのか、説得的であるとはいえない。

第2の問題は、外部性が覆う範囲に関わる。本論文は労働者の生活様式のほかに、銀行組織に典型的に現れる国家との関わりなども一種の外部性を意味するものとして取りあげられている。恐慌現象の発現においては、信用機構のあり方が深く関わるが、その形態は本来の原理論のレベルでは激発恐慌を誘発するような特殊な組織化を理論的に導出できないというのである。この点もまた、激発恐慌をもたらすような銀行組織が中間理論でどのような資格で導入可能なのか、その一般性に疑問が残る。さらに、この意味での外部性には、自然環境に関わるような資本主義にとっての本来的な外部性も同じく強調されてよい面をもつ。労働力商品の供給限界を、労働力の形成に不可欠な輸入農産物の供給の非弾力性に置き換えるような議論もあるが、自然環境の制約という問題もこうしたかたちで労働力商品の供給制限との類似性を単に示唆するだけでは不充分であり、さらに本格的に理論化すべき課題として残されている。

第3に、好況期における不均等発展という考え方にも再検討すべき問題がある。本論文では、宇野理論が商品過剰という側面を原理論では捨象すべきである、あるいはせいぜい資本過剰の結果であるとしてきたのに対して、これもまた、恐慌の表層的原因であるとして、中間理論では取りあげる必要があるとした。そのさい、好況期の不均等発展という概念が重要な役割を与えられているのであるが、この不均等性がもっぱら部門間の不均等性、リーダー的な部門の主導性という側面に限定されている。しかし、今日までの現実の景気循環の歴史を広く振り返ってみると、部門内における不均等発展、寡占的な支配構造といった要因も、景気循環に大きな影響を及ぼしてきた。また、部門間の不均等発展という点では、土地所有の制約の問題も含めて、第1次産品部門との関係も考慮されてよい。こうした点で、中間理論における不均等発展の捉え方は、その射程がやや狭いところに限界をかかえている。

第4に、不況から好況への移行局面に関しても難しい問題が存在する。これまでの景気循環論において相対的に手薄であったこの局面に積極的に踏み込んだ検討を加えたことは本論文の功績をなすが、その論理にはなお明確にされるべき点が残る。景気循環論の全局面を通じてみると、本論文では恐慌の基本的条件を賃金騰貴に求め、それに続く不況の持続原因を相対的に高位の賃金水準に見いだしているが、この不況からの脱出は、もっぱら固定資本の更新、新技術の導入によってもたらされるとしている。すなわち、一度あがった賃金水準は基本的には低下することなく、もっぱら相対的剰余価値の生産による剰余価値率の改善が好況への転換契機となることになっている。しかし、物価水準の動向も含め、景気循環の全局面を通じて、実質賃金はどのように推移するのか、もし、従来論じられてきたような実質賃金の下落が考えられないというのであれば、その理由はなにか、明確にされる必要がある。

第5に、方法論に関する整理にも再考すべきところがある。本論文では、狭義の原理論に条件を追加することで中間理論を構成し、そのなかで19世紀イギリスの事実に照応するような景気循環論を提示している。そしてこれを中間理論のなかの基礎理論として位置づけ、さらに蓄積促進要因や制約要因を入れてゆくことで、古典的帝国主義や国家独占資本主義などに対応する別の発展段階を分析する中間理論にも変換可能であるという。しかし、この場合、中間理論のなかの基礎理論という意味は、必ずしも明らかではない。それぞれの中間理論は、おのおの固有の蓄積促進要因、阻害要因を固有の外的条件として抱えているのであり、それらはいわば対等に併置される関係にあるとみることもできるはずである。そうではなく、そのうちの一つが基礎理論となるということがどうしていえるのか、従来の原理論と段階論という区別を設けたうえで、原理論を基準にして19世紀イギリス資本主義がもっとも原理像に近いすがたを示していると考えた宇野弘蔵氏の方法との区別も、この点では判然としない。また段階間の移行を解明する過渡期理論というのも、中間理論を前提することでどのように構成できるのか、その具体化は今後の課題として残されている。

以上のような問題は残されているが、本論文は博士(経済学)の学位を授与するのに充分な研究成果を含むという点で審査員全員の評価は一致した。

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