学位論文要旨



No 215867
著者(漢字) 村上,仁
著者(英字)
著者(カナ) ムラカミ,ヒトシ
標題(和) 中国北西部における予防接種注射を介したB型肝炎ウイルス伝播の危険度
標題(洋) Risk of transmission of hepatitis B virus through childhood immunization in northwestern China
報告番号 215867
報告番号 乙15867
学位授与日 2004.01.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第15867号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大塚,柳太郎
 東京大学 教授 牛島,廣治
 東京大学 教授 甲斐,一郎
 東京大学 教授 小林,廉毅
 東京大学 助教授 土屋,尚之
内容要旨 要旨を表示する

研究目的:現在、発展途上国で、不衛生な注射による血液媒介性疾患の伝播が問題になっている。全ての注射のうち予防接種が占める割合は5%前後とされているが、対象となる乳児はB型肝炎感染後キャリアー化しやすく、その伝播予防は特に重要である。中国では人口の10-14%がB型肝炎キャリアーであり、HIV感染も1995年以降急増している。本研究は、(1)中国北西部の末端における予防接種員の危険な注射、廃棄行動の実施率を推定すること、(2)危険な予防接種注射による接種対象者のB型肝炎感染危険度を推定すること、(3)最も頻度の高い危険行動(針だけを換えた同じガラスシリンジによる複数の乳児間の回し射ち)に関連する要因を同定することを目的として行った。

研究方法:中国の行政単位は国、省あるいは自治区、地区、県、郷あるいは鎮、村から成る。本調査の対象地域は中国北西部の4省1自治区(山西、陝西、寧夏、甘粛、青海)で、対象地域全体の約10万人の末端予防接種員(主に村医であるが、一部は郷・鎮医)を、各省・自治区ごとに調査母集団とした。日本の県に相当する県と日本の市町村に相当する郷・鎮をクラスターとした多段階集束抽出法により、各省180人、総計900人の末端予防接種員を抽出し、郷・鎮ごとに自記式質問票調査を2000年8月に実施した。再使用(ガラス)注射器と使い捨て注射器を併用している接種員が省により18.3-56.6%にのぼり、両者の使用割合の正確な回答を得ることは困難なため、同じシリンジあるいは針による回し射ちの実施率は最大推定値(併用者は全てガラス注射器を使用と仮定)と最低推定値(併用者は全て使い捨て注射器を使用と仮定)の区間で表した。完全接種児の感染危険度(10万人当たり)の推定は、結果の項に示した、注射による血液媒介性疾患の伝播の危険度の推定式を用い、1984-1987年に4省(湖南、河南、河北、黒竜江)で行われた大規模な血清疫学調査における0歳児のB型肝炎血清抗原、抗体陽性率ならびに今回の調査対象省・自治区の1999年のB型肝炎ワクチン接種率、危険な注射を実施していると回答した末端予防接種員の割合で近似した危険な注射の割合(実施群と非実施群間で対象人口に有意差なし)、先行研究による針刺し事故後の感染率 (30%) により推定を行った。この推定において、接種回数 (n) を1999年の公式報告接種率から計算される実際の数に置き換え、1999年に対象地域を含む全国で行われたB型肝炎の血清疫学調査の結果と対比することにより、2歳未満児のB型肝炎感染に対する危険な予防接種注射の人口寄与危険度割合を、陝西、甘粛両省につき推定した。山西、陝西両省は対象地域人口の66%を占め、社会文化的に類似し、接種数も近似しているため、これら2省のデータにて、最も頻度の高い危険行動である、針だけを換えた同じガラスシリンジによる複数の乳児間の回し射ちと、接種員の職位や教育水準、執務地域の経済指標、ガラスシリンジや注射針の充足度、予防接種形態、接種者の血液媒介性疾患の知識、危険な注射に対する態度等との関連を調べた。質問票調査に先立ち、1999年10月に山西、陝西両省の計11郷・鎮においてそれぞれ約10人(のべ109人)の予防接種担当の村医によるフォーカスグループ討論を行い、予防接種注射の質的情報を収集し、質問票に反映した。

調査結果:危険な注射、滅菌、廃棄の実施率:末端予防接種員のうち、危険な注射、廃棄行動の実施率を見ると、省により最低7.2-55.0%が回し射ちを実施し、そのほとんどは、同一のガラスシリンジで針だけ換えて行われていたが、低率ながら使い捨て注射器でも同様のことが行われていた。煮沸や高圧蒸気滅菌と併用している者も含め2.8-46.3%が使用後のガラス注射器を湯に漬ける、アルコール綿で拭くといった不充分な方法で滅菌していた。8.9-23.3%は使用後の使い捨て注射器を無処理で一般ごみとして廃棄していた。

被接種者へのB型肝炎伝播の危険度:下記の数理モデルによる推定の結果、完全接種児(BCG、3種混合、麻疹、B型肝炎)10万人当たり、最も少ない山西省で年間135-625人、最も多い青海省で3120-3433人の感染が、危険な予防接種注射を通じて起こっていると推定された。1995年に実施された血清疫学調査において、0-2歳児の充分なサンプル数が得られている陜西、甘粛両省にっき、危険な予防接種注射の2歳未満児のB型肝炎感染に対する人口寄与危険度割合 (population attributable-risk %) を推定すると、それぞれ11.7-27.2%、11.9-19.3%であった。

Kane 推定式 : P(inf)=1-{1-P(sus)×P(ex)×P(trans)}n

P(inf)=1年間にある子供が不衛生な注射によって特定の血液媒介性疾患に感染する確率

P(sus)=ある子供が特定の血液媒介性疾患に未感染で、防御レベルの免疫を持っていない確率

P(ex)=ある子供が非安全注射によって血液媒介性疾患に暴露される確率(回し射ちの実施率×特定の血液媒介性疾患の対象者におけるキャリアー率)

P(trans)=暴露後感染が成立する確率(針刺し事故の研究に基づく。B型肝炎では30%)

n=注射数(中国の予防接種では、生後9ヶ月までに計8回)

接種者の知識、態度:血液媒介性疾患の種類、伝播経路、健康への影響に関する教科書的知識は、ほとんどの接種員が持っていたが、「回し射ちはやむをえない」など回し射ちを正当化する態度が広く浸透していた。

針だけを換えたガラスシリンジによる回し射ちとの関連要因:最も頻度の高いこの危険手技と統計学的に有意 (p<0.05) に関連していた要因のうち、全ての省・自治区で共通していたものは、接種員の態度のうち「接種対象者が多い場合回し射ちはやむを得ない」「地域や親も回し射ちを容認している」という2つであった。4つの省、自治区で共通していた要因は、予防接種用のシリンジの低い充足度と、「1人1針1シリンジ」原則を実施する自信の欠如であった。

フォーカスグループ討論のまとめ:延べ25発言のうち10発言が予防接種における回し射ちを認め、それに関連して「回し射ちの方が多くの子供を早く接種できるので、ワクチン有効性が高い」「家庭訪問接種では、ガラスシリンジを人数分持ち歩くと破損しやすい」「回し射ちの方がワクチン廃棄率が少なく、ワクチンを節約できる」などの発言が得られた。ガラス注射器と使い捨て注射器を併用する場合、その併用の仕方は接種員によりまちまちであった。使用済みの使い捨て注射器具の廃棄については、ほとんどが村衛生室や訪問した家庭など接種場所で焼却していると発言したものの、使用済みの注射器が村の雑貨店で子供用のおもちゃとして販売されたり、市場で売られたりしているとの情報も得られた。

考察:本研究により、予防接種による乳児のB型肝炎感染の危険は、公衆衛生上大きな問題であることが示された。台湾における先行研究では、予防、治療を問わず筋肉注射の2歳未満児のB型肝炎感染に対する人口寄与危険度割合は80%であり、治療注射は、予防接種よりはるかに大きな感染経路である可能性がある。本研究でも、多くの接種員が臨床治療も兼任し、治療注射でも回し射ち実施頻度は高かった。予防と治療両面で、安全な注射を統合的に促進する必要がある。本研究では行動の指標は自記回答であり、行儀バイアスにより危険な行動の実施率が過小評価された可能性がある点は、最大の制約である。しかし、実地検分を行うと、地方政府担当者の同行が義務付けられていることから、かえって接種員の回答や所見の妥当性を損なう可能性があるため、敢えて採用しなかった。中国は地域多様性が大きく、本研究の結果を中国の他地域に一般化することはできない。感染危険度の推定に使用された数理モデルは、集団行動モデルであり、また、0歳児の抗原、抗体保有率に他の時期、地域の調査データを用いていること、回し射ち実施率を回し射ちを実施している接種員の割合で近似している点から、推定精度には一定の限界がある。針だけ換えた回し射ちでは、肉眼的な血液の混入は確認されにくいが、このような注射が肝炎を伝播することは文献的に多く報告され、さらに中国では接種前、血管内注射防止のため、血液の逆流を確認するため陰圧をかけることを要求しているため、その危険性は議論の余地がないと思われる。取るべき対策として、第一に注射器具の供給体制の整備と、第二に接種員の態度、行動の変容がある。前者においては、現在世界的潮流として、再使用不能型注射器(auto-disable syringe : ADシリンジ)の導入が進められており、これを念頭におき、本研究で未整備であることが判明した使用済み注射器の回収、廃棄システムの構築が必要である。後者においては、態度、行動の変容に照準を合わせた教育・トレーニング介入を行うこと、モニタリング、監督制度を整備することが必要である。

結論:対象地域の予防接種注射は、B型肝炎伝播の大きな危険性をもたらしていた。注射器具の不足は危険な注射行動に強く関連している。再使用不能型注射器(ADシリンジ)の導入は、改善への選択肢の1つであるが、回収・廃棄手順の合意作りがまず必要である。接種員は血液媒介性疾患の基礎知識は広く有していたが、注射の安全性に対する態度・認識に問題が多かった。非安全行動に直結した態度・認識を有効に取り上げ、知識伝達のみに偏らないトレーニングと、実効性のあるモニタリング、監督制度の開発が不可欠である。

中国北西部の末端予防接種員による危険な注射、滅菌、廃棄の実施率(各省N=180)

対象地域での危険な予防接種注射によるB型肝炎感染危険度の推定

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、中国北西部の4省1自治区(山西、陜西、寧夏、甘粛、青海)で、対象地域全体の約10万人の末端予防接種員(主に村医であるが、一部は郷・鎮医)を、各省・自治区ごとに調査母集団とし、多段階集束抽出法により抽出した末端予防接種員に対し、予防接種注射の安全性に関わる知識、態度、行動の自記式質問票調査を行い、(1)中国北西部の末端予防接種員間の危険な注射、廃棄行動の実施率の推定、(2)危険な予防接種注射による接種対象者のB型肝炎感染危険度の推定、(3)最も頻度の高い危険行動(針だけを換えた同じガラスシリンジによる複数の乳児間の回し射ち)に関連する要因の同定を試みたものであり、以下の結果を得ている。

末端予防接種員のうち、危険な注射、廃棄行動の実施率を見ると、省により最低7.2-55.0%が回し射ちを実施し、そのほとんどは、同一のガラスシリンジで針だけ換えて行われていたが、低率ながら使い捨て注射器でも同様のことが行われていた。煮沸や高圧蒸気滅菌と併用している者も含め2.8-46.3%が使用後のガラス注射器を湯に漬ける、アルコール綿で拭くといった不充分な方法で滅菌していた。8.9-23.3%は使用後の使い捨て注射器を無処理で一般ごみとして廃棄していた。

Kane らの提唱する数理モデルを用いた推定の結果、完全接種児(BCG、3種混合、麻疹、B型肝炎)10万人当たり、最も少ない山西省で年間135-625人、最も多い青海省で3120-3433人の感染が、危険な予防接種注射を通じて起こっていると推定された。1995年に実施された血清疫学調査において、0-2歳児の充分なサンプル数が得られている陜西、甘粛両省につき、危険な予防接種注射の2歳未満児のB型肝炎感染に対する人口寄与危険度割合 (population attributable risk%) を推定すると、それぞれ11.7-27.2%、11.9-19.3%であった。

血液媒介性疾患の種類、伝播経路、健康への影響に関する教科書的知識は、ほとんどの接種員が持っていたが、「回し射ちはやむをえない」など回し射ちを正当化する態度が広く浸透していた。

最も頻度の高いこの危険手技と統計学的に有意 (p<0.05) に関連していた要因のうち、全ての省・自治区で共通していたものは、接種員の態度のうち「接種対象者が多い場合回し射ちはやむを得ない」「地域や親も回し射ちを容認している」という2つであった。4つの省、自治区で共通していた要因は、予防接種用のシリンジの低い充足度と、「1人1針1シリンジ」原則を実施する自信の欠如であった。

山西、陜西両省の計11郷・鎮においてそれぞれ約10人(のべ109人)の予防接種担当の村医によるフォーカスグループ討論を行ったところ、延べ25発言のうち10発言が予防接種における回し射ちを認め、それに関連して「回し射ちの方が多くの子供を早く接種できるので、ワクチン有効性が高い」「家庭訪問接種では、ガラスシリンジを人数分持ち歩くと破損しやすい」「回し射ちの方がワクチン廃棄率が少なく、ワクチンを節約できる」などの発言が得られた。ガラス注射器と使い捨て注射器を併用する場合、その併用の仕方は接種員によりまちまちであった。使用済みの使い捨て注射器具の廃棄については、ほとんどが村衛生室や訪問した家庭など接種場所で焼却していると発言したものの、使用済みの注射器が村の雑貨店で子供用のおもちゃとして販売されたり、市場で売られたりしているとの情報も得られた。

以上、本論文は中国北西部の予防接種注射が、B型肝炎伝播の大きな危険性をもたらしていることを明示し、同時に注射器具の不足、接種員の態度が、血液媒介性疾患伝播をもたらす危険な注射行動に強く関連していることを明らかにした。本研究は、これまで治療注射に限られていた、発展途上国の注射によるB型肝炎伝播の危険度の推定を、予防接種注射について数量的に行った初めての研究であり、今後の対策に示唆を与える上でも重要な貢献をなすものであり、学位の授与に値するものと考える。

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