学位論文要旨



No 215868
著者(漢字) 林,同文
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,ドウブン
標題(和) 心房性ナトリウム利尿ペプチドによる心筋細胞の肥大抑制効果とその分子機序における研究
標題(洋) Molecular Mechanism of Inhibitory Effect on the Development of Cardiomyocyte Hypertrophy Induced by Atrial Natriuretic Peptide
報告番号 215868
報告番号 乙15868
学位授与日 2004.01.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第15868号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大内,尉義
 東京大学 教授 高本,眞一
 東京大学 教授 山崎,力
 東京大学 講師 平田,恭信
 東京大学 講師 竹中,克
内容要旨 要旨を表示する

背景および目的

心臓は絶えず収縮と弛緩を繰り返すという独特の機能を有する、高度に分化・発達した器官である。その主な構成成分である心筋細胞は分化後も分裂能を維持し、胎生期には活発に分裂・増殖を続けるが、出生と同時にその分裂能を喪失し、以後の心臓の成長は、個々の心筋細胞の大きさが増すこと(生理的肥大)による。この心筋細胞が血行動態的負荷などに反応して生理的な成長以上に大きくなった場合を肥大と呼ぶが、心肥大は本来、圧負荷増大に対して心室壁応力を正常範囲内に保つための合目的的な心筋の代償機転として形成され、その適応機構の破綻によって高率に心不全に移行する。

また、最近の疫学的臨床研究により心肥大は虚血性心疾患や不整脈、突然死などの独立した危険因子であることが示され、その診断と病態把握だけでなく、予防・治療を行うことがますます重要になってきた。心肥大・心不全の形成機序について、最近ではこの病態に引き続き生じる代償機構の働きが注目されており、現在まで特に交感神経系やレニンーアンジオテンシン系 (RAS)、バゾプレッシンといった神経体液性因子の研究が進んでいる。これらの因子は心不全で賦活化され、水・ナトリウム貯留の方向に働き血圧を維持しようとする。しかし、これらの代償機構は慢性心不全では過剰に働き、かえって心臓の前後負荷を増大させ心機能を低下させることも知られている。この悪循環に対する生体内ホメオスターシスとして種々の counter regulation 機構が働いており、その一つとして心筋自体から分泌されるナトリウム利尿ペプチドの作用が挙げられる。また、多くの臨床研究において、ナトリウム利尿ペプチドの血中濃度の測定は、心不全の重症度、その予後に相関することも知られている。

心肥大形成において、機械的伸展刺激だけでなくアンジオテンシンII (AngII) やエンドセリンー1 (ET-1) といった液性因子が大きく関与することがこれまで報告されてきた。臨床応用として、最近話題となっているAngII受容体拮抗薬などもこの研究応用によるものである。このように肥大を誘導する因子のメカニズムにおいては多くのことが知られているが、肥大を抑制する物質については知られていないことが多い。

ナトリウム利尿ペプチドは心肥大、心不全の際に分泌が亢進して血中濃度が上昇し、ナトリウム利尿・血管拡張・交感神経系抑制作用の他、RASの抑制作用を介して血行動態的に心臓への前後負荷を軽減させる。これらの作用からナトリウム利尿ペプチドは心肥大に対して抑制的に働くといえるが、この作用は心負荷軽減による二次的なもので、肥大心に対するその直接的な働きは不明な点が多い。

これらのことから、ナトリウム利尿ペプチドのうち、代表的な心房性ナトリウム利尿ペプチド (ANP) を用いて、心肥大作用において心筋細胞に対するその直接的な分子メカニズムを解明することを目的として本研究を行った。

方法

本研究は新生仔ラット培養心筋細胞を用いて行った。まず、心筋細胞において肥大の最も優れた指標となる蛋白合成能を、[3H] phenylalanine の取り込みを測定して検討した。同時に、抗ミオシン抗体であるMF20を用いて心筋細胞を特異的に染色し、個々の細胞の大きさを測定した。これらは液性因子AIIおよびET-1を用いて心肥大を誘導し、前処置としてANPおよびそのセカンドメッセンジャーとして知られる cyclic GMP (cGMP) の analogue である8-Bromo-cyclic GMP (8-B-cGMP) を添加することでそれぞれ比較検討した。

また、同様なプロトコーノレで、種々の心肥大反応におけるANPの影響を検討した。まず、心肥大時に発現が亢進する遺伝子 (c-fos, ANP, BNP) の発現、転写活性を、Northern Blotting 法および Luciferase assey 法を用いて、心肥大時に活性化するリン酸化酵素ERK (extracellular signal-regulated kinase) の活性を in gel assey 法を用いて検討した。

さらにその抑制メカニズムを追求するため、ERKの抑制蛋白として知られるMKP-1 (MAP Kinase Phosphatase-1) に着目した。MKP-1は腎臓メサンギウム細胞などでANPによって誘導され、細胞増殖抑制作用が認められている。まず、心筋細胞においてもANPによって誘導されるかどうかを Northern Blotting 法および Western Blotting 法を用いて検討した。また、MKP-1を心筋細胞に導入して、心肥大時に発現が亢進ずる遺伝子 (c-fos, βMHC) の転写活性を Luciferase assey 法を用いて解析した。

結果および考察

ANPは心肥大を誘導する液性因子による心筋の蛋白合成をcGMPを介して抑制する

AngII, ET-1の24時間刺激によって、対照群と比較してそれぞれ約1.5倍・1.9倍に蛋白合成能は増加を認めたが、ANP (10-7M) の前処置により、増加した分のそれぞれ約80%・60%の抑制を示した。またここでANPのセカンドメッセンジャーとして知られるcyclic GMP (cGMP) の analogue である 8-Bromo-cyclic GMP (8-B-cGMP) を用いて同様に前処置を行ったところ、それぞれ約50%・45%の抑制を示した。さらにcGMP dependent protein kinase 阻害薬を添加することで、ANPによる抑制効果が低下した。これらの結果から、ANPがAngII, ET-1による心筋肥大を抑制し、それはcGMPを介していることが考えられた。

ANPは心肥大を誘導する液性因子による肥大反応をcGMPを介して抑制する

次に、心肥大反応として重要視される細胞内情報伝達経路のリン酸化酵素が、ANPによってどのように関与するかを検討した。まず最初に、心肥大時に発現が誘導されることが知られる c-fos・BNP・ANP遺伝子について解析した。その結果、Ang II, ET-1刺激によって各遺伝子の発現や転写活性の亢進が誘導されたが、ANP前処置により、その亢進した発現や活性は有意に抑制された。また同様に、cGMPの前処置においても有意な抑制を認めた。これらのことから、遺伝子発現・転写活性レベルにおいてもANPは肥大反応に抑制的に作用することが示された。

さらに心肥大に重要なリン酸化酵素ERKにおいて、Basal level での活性を、ANPの処置濃度を変え、また時間経過を追って検討した。この結果、ANPは濃度10-7Mより、また処置時間60分より有意にERKの Basal level 活性の抑制を示した。また8-Br-cGMP処置では、濃度10-3Mより、処置時間60分より同様にERK活性の低下を有意に認めた。

以上、心筋細胞内情報伝達経路において、ANPは肥大に重要とされるリン酸化酵素活性の抑制作用を持ち、またcGMPがこの抑制に関与していることが示唆された。これらの解析をまとめると、前述した蛋白合成の抑制だけでなく、心筋肥大に重要な遺伝子の発現、情報伝達系レベルでの抑制が示された。

ANPは心筋細胞においてcGMPを介してMKP-1 (MAP Kinase Phosphatase-1) を誘導する

ANPが心肥大を抑制することを、細胞内リン酸化酵素活性レベルまでさかのぼって検討しMAPKを抑制することを示した。さらにその抑制メカニズムを追求するため、MAPKの抑制蛋白として知られるMKP-1 (MAP Kinase Phosphatase-1) について検討した。その結果、培養心筋細胞でANP (10-7M) 添加によってmRNAレベルでは30分をピークに、タンパク質レベルでは120分をピークにその発現の亢進を認めた。このことからANPによるMAPKの抑制は、MKP-1の誘導が関与している可能性が示された。

MKP-1は心肥大時に発現が亢進ずる遺伝子の転写活性を抑制する

最後にMKP-1による遺伝子発現における作用を検討した。MKP-1遺伝子を心筋細胞に導入し、心肥大時に活性化されることが知られている c-fos, βMHCのプロモーターレポーター遺伝子を Luciferase assay 法を用いて解析した。AngII刺激によって c-fos, βMHC遺伝子の転写活性は約2倍の亢進を示したが、MKP-1遺伝子を同時に発現させることによってその活性が低下した。さらにMKP-1を過剰発現させた心筋細胞はAngIIによるタンパク合成を抑制した。このことからMKP-1は心肥大に重要な遺伝子発現において抑制的に働くことが示された。

結論

以上の結果をまとめると、AngII, ET-1といった液性因子により誘導される心筋肥大において、ANPは(1)蛋白合成(2)遺伝子発現(3)細胞内情報伝達系のリン酸化酵素活性を抑制した。また、ANPはMKP-1遺伝子・蛋白の発現を誘導し、このMKP-1の発現亢進によってリン酸化酵素活性、遺伝子発現の抑制に関与していることが考えられた。さらにこれらの抑制にはcGMPが関与している可能性が示唆された。これらの結果から、ANPはナトリウム利尿作用、血管拡張作用、交感神経系抑制作用などから心臓への負荷を軽減し二次的に心肥大抑制に働くだけでなく、心筋細胞に対して直接的に肥大抑制作用を示すことが明らかになった。

結語

本研究の意義は、ANPの作用が心臓への圧・伸展負荷の解除といった二次的な役割だけでなく、直接心肥大に対して抑制的に働くこと、さらにその分子メカニズムを一部解明したことにある。このことは、急性心筋梗塞や心不全におけるANP静注薬の投与が、心筋リモデリングを抑制し、患者予後に影響を与えることの裏付けにもなると考えられる。

また、心筋細胞から分泌されるANPは、心筋細胞自体、すなわちオートクラインに negative feedback regulation として作用していることが考えられる。このことは、心筋細胞から分泌されるANPにおいて、圧・伸展負荷によって促されるだけでなく、自己分泌調節機能を有することを示すものである。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は心臓から分泌されるナトリウム利尿ペプチドが、二次的、すなわち血行動態的に心負荷の解除に作用することは知られるが、心筋細胞に対しての直接作用は未知の部分が多く、これらを明らかにするため、新生仔ラット培養心筋細胞の系を用いて、心肥大反応として重要な細胞内情報伝達経路を中心にその分子メカニズムを解明することを試みたものであり、下記の結果を得ている。

心肥大を誘導する液性因子 AngiotensinII (AngII), Endothelin-1 (ET-1) による刺激によって、蛋白合成能は対照群と比較してそれぞれ約1.5倍、1.9倍の増加を認めたが、心房性ナトリウム利尿ペプチド (ANP ; 10-7M) の前処置により、それぞれ約80%、60%の抑制が示された。またANPのsecond messenger である cyclic GMP (cGMP) の analogue、8-Bromo-cyclic GMP (8-Bromo-cGMP) を用いて同様に前処置を行ったところ、それぞれ約50%、45%の抑制が示された。さらにcGMP dependent protein kinase 阻害薬を同時に添加することで、ANPによる抑制効果が低下し、cGMP分解酵素阻害薬を同時に添加することで抑制効果は増強することが示された。

心肥大時に発現が誘導されることが知られる c-fos・BNP・ANP遺伝子について解析した。

その結果、Ang II, ET-1刺激によって各遺伝子の発現や転写活性の亢進が誘導されたが、ANP及び8-Bromo-cGMPの前処置において、その亢進した発現レベルや活性レベルは有意に抑制されることが示された。

心肥大に重要なリン酸化酵素ERKに対して、Basal level 活性を、ANPの処置濃度及び添加時間を追って検討した。この結果、ANPは濃度10-7Mより、また処置時間60分より有意にERKの Basal level 活性の抑制を示した。また8-Bromo-cGMP処置では、濃度10-3Mより、処置時間60分より同様にERK活性の低下が示された。さらにAngII, ET-1によって活性化したERKをANP及び8-Bromo-cGMPの前処置において抑制することが示された。

ANPによるERK抑制メカニズムを追求し、MAPK系の抑制蛋白MKP-1 (MAP Kinase Phosphatase-1) について検討した。その結果、ANP (10-7M) 添加によってmRNAレベルでは30分、蛋白レベルでは120分をピークにその発現が亢進することが示された。

MKP-1による心肥大抑制の機能を解析するため、MKP-1遺伝子を Lipofection 法により心筋細胞に導入して過剰発現させ、Luciferase assay 法を用いて、心肥大時に発現が亢進する c-fos, βMHC遺伝子の転写活性を解析した。AngII刺激によってこれらの転写活性は約2倍の亢進を示したが、MKP-1遺伝子を過剰発現させることによってその活性を有意に低下させることが示された。さらにMKP-1遺伝子を過剰発現させた心筋細胞において、AngII刺激による蛋白合成能の増加が有意に抑制されていることも示された。

まとめると、AngII, ET-1といった液性因子により誘導される心筋肥大において、ANPは蛋白合成、遺伝子発現、リン酸化酵素活性を抑制した。また、ANPはMKP-1遺伝子及び蛋白レベルの発現を誘導し、このMKP-1の発現亢進によってリン酸化酵素活性、遺伝子発現、蛋白合成の抑制に関与することが示された。すなわち、ANPはナトリウム利尿作用、血管拡張作用、交感神経系抑制作用などから心臓への負荷を軽減し二次的に心肥大抑制に働くだけでなく、心筋細胞に対して直接的に肥大抑制作用を示し、さらにこれらのメカニズムには second messenger であるcGMPが関与することが明らかになった。

以上、本論文は新生仔ラット培養心筋細胞において、細胞内情報伝達経路を中心とした解析から、ANPが心筋細胞に直接心肥大抑制的に働く分子メカニズムを明らかにした。本研究はANP静注薬の投与が急性心筋梗塞や心不全における心筋リモデリングを抑制し患者予後に影響を与える臨床効果の基礎的裏付けになり、臨床上も重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク