学位論文要旨



No 215873
著者(漢字) 有田,正司
著者(英字)
著者(カナ) アリタ,マサシ
標題(和) 宇宙環境要素が二硫化モリブデン系固体潤滑膜のトライボロジー性能に及ぼす影響に関する研究
標題(洋)
報告番号 215873
報告番号 乙15873
学位授与日 2004.01.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15873号
研究科 工学系研究科
専攻 産業機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,正人
 東京大学 教授 塩谷,義
 東京大学 教授 酒井,信介
 東京大学 教授 金子,成彦
 東京大学 教授 光石,衛
 産業技術総合研究所 総括研究員 加藤,孝久
内容要旨 要旨を表示する

現在、米国、欧州、日本、ロシアなどの国際協力により、高度300〜500kmの比較的高度の低地球周回軌道(LEO : Low Earth Orbit)上に宇宙ステーションを打ち上げ、極微小重力環境下の材料実験、ライフサイエンス実験など多様な研究を長期間に亘って行う計画が推進されており、2008年1月に宇宙ステーションが完成する予定である。この中で日本は主に極微小重力環境下での科学実験を行うために用いられる日本実験モジュール(JEM : Japanese Experiment Module)「きぼう」を開発し、建設する。JEMには、マニピュレータ、実験用ペイロードなどを脱着、固定するラッチ機構などLEO空間に直接晒される可動機構部を有する各種の機器が搭載されている。

宇宙用機器は一旦宇宙に打ち上げられた後は保修作業が極めて困難なため、メンテナンスフリーで長期間の稼働を保証する信頼性設計が重要である。中でも摺動部、接触部を有する可動機構の信頼性を左右するのはトライボ設計であり、具体的には摩擦面、接触面の形状決定、摩擦面材料の選定の他、使用する潤滑剤の選定がある。従来、宇宙空間の特徴的な環境要素としてまず挙げられるのは高真空であり、高真空用潤滑剤としては二硫化モリブデン (MoS2) 系固体潤滑剤が多用されてきた。しかし、宇宙ステーションが周回飛行するLEO環境要素は高真空だけではない。1980年代初頭にLEOを周回するスペースシャトルの運用が開始されると、LEO実環境の大気主成分である原子状酸素がスペースシャトルの飛行速度に等しい相対速度約8km/秒で材料表面に衝突し、表面近傍の原子が原子状酸素と反応し、酸化が起こること、および高速の原子状酸素が衝突することによるスパッタリング作用により材料が徐々に失われることが判明した。

このため宇宙ステーションに使用される材料、潤滑剤も、原子状酸素をはじめとするLEO実環境要要素の影響を考慮して選定する必要が生じた。LEO実環境に直接曝露される部位に用いられる潤滑剤は、高真空環境下で蒸発しない、原子状酸素によるトライボロジー性能の劣化が少ないなどの性能が要求される。

原子状酸素がMoS2系固体潤滑剤の摩擦係数、寿命などに与える影響については、Cross、山口、Lifshitz、大前およびTagawaらなど多くの研究者が研究しており、一般的傾向として摺動初期の摩擦係数は高くなること、MoS2はMoO3などのMo酸化物に変化することが報告されているが、照射後の摩擦係数変化などトライボロジー性能変化の原因については十分に解明されてない。また、LEO実環境にMoS2系固体潤滑剤を曝露し、回収した後、トライボロジー性能を評価した研究は、本研究と Matsumoto らの研究のみである。しかしながら、Matsumoto らの研究ではMoS2の酸化程度を詳細に解析しておらず、トライボロジー性能変化の原因を解明していない。

そこで本研究では、LEO実環境に直接曝露される宇宙ステーション曝露部のラッチ機構部の潤滑剤として、真空環境用の固体潤滑剤として実績のあるMoS2系固体潤滑膜の使用を考え、原子状酸素や紫外線などのLEO環境要素がMoS2系固体潤滑膜の摩擦係数、寿命にどのような変化をもたらすか、またその原因はどこにあるのかを実験的に解明して、多種ある MoS2 系固体潤滑膜の中から最適の潤滑膜を選定する方針を提示した。

まず、チタン合金ディスク表面に焼成したMoS2系固体潤滑膜(スパッタ膜、無機バインダ塗布焼成膜、有機バインダ塗布焼成膜)に、地上で人工的に作り出した真空環境中で原子状酸素あるいは紫外線を照射するか、実際に宇宙空間に打ち上げてLEOで一定期間曝露後に回収し、LEOと同等の真空環境(10-5〜10-6Pa)でピン・オン・ディスク摩擦試験を行って、摩擦係数と寿命の変化を測定した。

次に、AES(オージェ電子分光)、XPS(X線光電子分光)、FT-IR(フーリエ変換赤外分光)を適用して、潤滑膜を構成する各原子の潤滑膜深さ方向分布と化学結合状態、バインダである高分子材料の分子構造を解明した。これらの実験と分析により、LEOの大気主成分である原子状酸素が秒速8kmの相対速度で曝露部の潤滑剤被膜に衝突すると、潤滑膜の表面から一定の深さまでMoS2が酸化されて摩擦係数の高いMo酸化物が生成することがわかった。MoS2系固体潤滑膜が低摩擦であるのは、MoS2がせん断抵抗の小さいグラファイトのような層状構造をもつからである。このMoS2の量が酸化により減少するため、摩擦係数が増加することがわかった。原子状酸素との衝突が長期間続けば摩擦係数の増加も大きくなる。これらの影響が最も小さいMoS2系固体潤滑剤はバインダにポリアミドイミドを使用する有機バインダMoS2塗布焼成膜であることが判明した。

また、太陽光線に含まれる紫外線と宇宙線は、有機バインダである高分子材料の分子鎖の架橋を促進して潤滑膜を強化するので、潤滑膜の寿命が延伸することが判明した。しかし、架橋部を切断して強度を低下させるという効果も併せもつので、有機バインダMoS2塗布焼成膜を調製するに際して、焼成する温度と焼成時間を加減し、バインダの架橋が過度に進行しないようにすることが重要であることがわかった。またこのようにすると、焼成に際してMoS2の酸化の程度が抑制され、低摩擦係数の維持に効果がある。

このように、最新の分析手法を適用することによってLEO環境要素がMoS2系固体潤滑膜のトライボロジー性能に与える影響が実際に解明され、宇宙ステーション曝露部の機構において使用可能なMoS2系固体潤滑膜をどのように調製すべきかについての有用な知見が得られた。

本論文は第1章の序論から第5章の結論およびAES、XPS、FT-IR分析の原理などについて述べた付録から構成されている。各章の記述内容は以下の通りである。

第1章は序論であり、本研究の背景、宇宙用潤滑剤として多用されているMoS2系固体潤滑剤の基本的性質、LEOの環境条件、宇宙ステーションが飛行するLEO実環境において原子状酸素と紫外線が材料および潤滑剤に与える影響の重要性、本研究に先行する研究の紹介と検討、本研究の目的と研究遂行の方針について述べている。

第2章では、本研究で用いた原子状酸素照射装置の性能と照射条件、この装置により人工的に原子状酸素を照射した3種類のMoS2系潤滑膜の摩擦係数と摩擦寿命をLEO実環境の真空度にほぼ等しい10-5〜10-6Paの真空度で測定した結果について述べる。また各種表面分析法を用いて潤滑膜表面が原子状酸素から受けた変化を調べ、原子状酸素との反応がトライボロジー性能に与える影響を明らかし、有機材料であるポリアミドイミドをバインダとするMoS2塗布焼成膜の受けた影響が最も軽微であることを述べる。

第3章では、その有機バインダMoS2塗布焼成膜に対して紫外線照射装置を用いて紫外線を人工的に照射し、第2章と同じようにLEO実環境の真空度にほぼ等しい真空環境下で摩擦係数、摩擦寿命を計測して、紫外線照射の影響を調べる。また、FT-IR分析を用いてバインダのポリアミドイミドが紫外線から受ける影響について調べ、紫外線がトライボロジー性能を変化させるメカニズムを調べる。

第4章では、第2章、第3章と同じポリアミドイミドをバインダとする有機バインダMoS2塗布焼成膜を付けた金属ディスクを宇宙空間に打ち上げてLEO実環境に曝露した後、回収し、地上で摩擦係数と摩擦寿命を計測する。次に各種表面分析手法およびFT-IR分析を用いて潤滑膜に生じた変化を調べ、LEO環境要素がこの固体潤滑膜に与えた影響とその性能変化との関係を明らかにする。また、第2章、第3章で述べた原子状酸素と紫外線の人工的な照射による性能変化と比較、検討し、人工照射実験結果とLEO実環境曝露実験結果との差異の原因を考察する。

第5章では、本研究の結論を述べる。

付録として、AESによる元素分析の原理、XPSによる化学結合状態分析の原理、FT-IRによる有機材料の化学構造分析の原理およびこれらの装置の仕様、性能を最後に載せる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「宇宙環境要素が二硫化モリブデン系固体潤滑膜のトライボロジー性能に及ぼす影響に関する研究」と題し、5章からなる。

高度300〜500kmの低地球周回軌道 (LEO : Low Earth Orbit) 上を秒速8kmで運動する宇宙ステーションには、実験用あるいは補給用のペイロードを脱着、固定するためのマニピュレータやラッチ機構が設けられる。これらは宇宙環境に直接曝露された状態で摺動・接触する可動部を有しており、長期間メンテナンスフリーで稼働することを保証するには信頼性の高いトライボ設計が要求される。中でも、摺動面、接触面の潤滑設計は極めて重要であり、高真空用の潤滑剤として十分な実績のある二硫化モリブデン系固体潤滑膜の使用が検討されている。しかし、原子状酸素や紫外線などLEO環境要素が、この潤滑膜の性能、寿命に与える影響は十分解明されておらず、信頼度の高いトライボ設計は困難である。

そこで本論文では、多種ある二硫化モリブデン系固体潤滑膜の中から最適の潤滑膜を選定し、目的に適うように設計するための指針を確立することを目的として、LEO環境模擬実験装置の使用とLEO実環境曝露の双方の手段により、複数の二硫化モリブデン系固体潤滑膜の性能、寿命に対してLEO環境要素が与える影響を定性的、定量的に明らかにするとともに、複数の手法を組み合わせて固体潤滑膜の表面分析を行ない、LEO環境要素の作用のメカニズムを解明するという研究を展開している。

第1章「序論」では、二硫化モリブデン系固体潤滑膜の潤滑作用、およびこの潤滑剤が宇宙用固体潤滑剤として有望であること、しかしLEO環境要素の中で化学的に活性な原子状酸素と太陽からの紫外線や宇宙線が潤滑膜に大きな影響を与える可能性があることを述べている。また、先行する関連研究の内容を論じ、次いで本研究の目的と研究方針を述べている。

第2章「原子状酸素が二硫化モリブデン系固体潤滑膜のトライボロジー性能に及ぼす影響」では、金属ディスク表面に各種の二硫化モリブデン系固体潤滑膜を成膜し、地上で人工的に作り出したLEO環境中で膜に原子状酸素を照射したあと、LEOと同等の真空環境でピン・オン・ディスク摩擦試験を行って、摩擦係数と寿命の変化を測定している。その結果、原子状酸素は摩擦係数を増大させるが、寿命にはほとんど影響しないことを見出している。さらに、オージェ電子分光(AES)とX線光電子分光(XPS)を適用して固体潤滑膜を構成する各原子の潤滑膜深さ方向分布と化学結合状態を詳細に論じ、グラファイトのようにせん断抵抗の小さい層状構造をもつ二硫化モリブデンが摩擦係数の高い酸化物に変化するために摩擦係数が増加すること、最も優れた性能を示す有機バインダ膜は、この酸化の度合いが少なくて二硫化モリブデンの残存量が多いことを見出している。

第3章「紫外線が有機バインダ二硫化モリブデン固体潤滑膜のトライボロジー性能に及ぼす影響」では、第2章と同種の金属ディスク表面に有機バインダ二硫化モリブデン固体潤滑膜を塗布焼成し、地上で人工的に作り出したLEO環境中で膜に紫外線を照射したあと、やはり第2章と同様にLEOと同等の真空環境でピン・オン・ディスク摩擦試験を行って、寿命の変化を測定している。その結果、紫外線を照射すると寿命は低下するどころか大幅に延伸することを見出している。そこでフーリエ変換赤外分光法(FT-IR)を適用して紫外線照射による有機バインダの分子構造の変化を詳細に検討し、もともと架橋反応が不十分であった樹脂が紫外線照射によって架橋反応が進行したためにバインダの機械的性質が強化されたことが寿命延伸の原因であることを見出している。

第4章「LEO実環境が有機バインダ二硫化モリブデン固体潤滑膜のトライボロジー性能に及ぼす影響」では、第2章、第3章によって最終使用目的に最も適うと判断された有機バインダ二硫化モリブデン固体潤滑膜を塗布焼成した金属ディスクを宇宙空間に打ち上げて実際のLEO環境に長期間曝露したあと回収し、第2章、第3章と同じ高真空ピン・オン・ディスク摩擦試験を行っている。その結果、摩擦係数は第2章の結果と異なってほとんど増加ぜず、一方、寿命は第3章の結果と同様に大幅に延伸することを見出している。そこで、AES、XPS、FT-IRを適用して固体潤滑膜の表面分析を行ない、二硫化モリブデンの酸化は膜の極薄い最表面にとどまること、有機バインダ樹脂の架橋が進行していることを見出し、実験結果の説明ができることを示している。また、第2章、第3章の実験結果との若干の差異は、人工照射装置による原子状酸素と紫外線の特性が実際のLEO環境を完全には模擬できていないことによって説明できることを示した。

第5章「結論」では、以上の知見を総括している。また付録として、本研究で使用したAES、XPS、FT-IRの分析手法の特徴と使用機器の性能についても述べている。

以上を要するに、本研究は従来明らかにされていなかった、宇宙空間における化学的に活性な原子状酸素と紫外線が二硫化モリブデン系固体潤滑膜の摩擦係数と寿命に与える影響、およびその作用のメカニズムについて、実験に基づく論証により明らかにしたものである。また、各種表面分析手法の複合的な利用方法の有効性、および優れた性能、寿命を保証する二硫化モリブデン系固体潤滑膜の調製方法をも提示しており、全体として工業並びに工学に対する寄与が大きい。

よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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