学位論文要旨



No 215881
著者(漢字) 椛木,信幸
著者(英字)
著者(カナ) カバキ,ノブユキ
標題(和) 水稲の直播適性の解明と栽培管理技術の開発に関する作物生理生態学的研究
標題(洋)
報告番号 215881
報告番号 乙15881
学位授与日 2004.02.02
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15881号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 坂,齊
 東京大学 教授 大杉,立
 東京大学 教授 森田,茂紀
 東京大学 教授 米山,忠克
 東京大学 助教授 山岸,順子
内容要旨 要旨を表示する

現在わが国のコメは中型機械の一貫利用による機械移植栽培によって高位安定生産されている。しかし近年世界的な農産物の輸出入自由化攻勢によりコメの内外価格差が問題とされ、生産コストの低減が強く要請されるようになった。これに対応した生産技術として、直播栽培の導入が規模拡大および省力化に有力と考えられ、各地で検討されている。

しかし、直播栽培の定着にはかなりの困難が伴い、コメの生産性が低下するか、または普及の拡大が停滞しているのが現状である。その最大の原因は、植物として最も弱い初期段階が、移植栽培においては育苗により人為的に保護されているのに対して、直播では直接本田に播種して栽培を開始するので、気象、土壌及び生物害等、地域のおかれた様々な条件の影響を受けて、水稲の生育が大きく変動し、コメの収量と品質を恒常的に維持するのが困難なことにある。

これを改善して生産を安定化するためには、直播条件下における水稲の基本的な生育反応を明らかにした上で、その弱点を克服するための品種あるいは生育制御技術を開発する必要がある。また一方では、総合的見地から、導入する地域の条件に適合した栽培体系を確立する必要がある。

本研究では、水稲の生産形態が移植から直播へ移行する場合に水稲にどのような特性が要求されるか、さらに栽培管理についてはどのような問題が起こり、改善するにはどうしたらよいかということを、実証的に明らかにすることを目的とした。

このため、直播水稲の特性については、出芽・苗立ちに決定的な影響を及ぼす低温生長性、本田の生長で重要な雑草との競合特性、および生産力向上のために有望なハイブリッドライスの特性に着目し、生理生態的見地からの検討を行った。また地域の状況に応じた栽培管理として、北陸地域とタイ東北部において実際の栽培を行い、問題点とその解決方策についての検討を行った。

直播水稲の初期生長および生育阻害要因の解明

直播水稲の幼芽・幼根の低温下での生長曲線には18℃と12℃の2か所に変曲点が存在し、生育阻害を誘起する限界温度となっていた。これらの内12℃は熱帯植物において低温障害(Chilling injury)が起きる温度に一致していたが、18℃は障害不稔、移植苗の活着等、水稲に特有の生育障害が起きる温度域であり、直播の播種時の気温にも相当するので、直播の初期生育促進上考慮すべき温度域と考えられた。これらの変曲点が存在する生理的機構を明らかにするために、呼吸代謝について検討した結果、発芽種子の呼吸、チトクロームCオキシダーゼおよび高エネルギー物質アデノシン三燐酸(ATP)の温度反応においては変曲点が認められず、呼吸代謝が関与している可能性は小さいと考えられた。一方、タンパク質合成への温度の影響を、発芽種子に吸収させたアミノ酸14Cーロイシンあるいは幼植物の根に吸収させた15Nー硫安の植物体タンパク質分画への取り込み速度から検討した結果、とくに18℃以下の温度域で大きく阻害され、タンパク質合成系に変化が起きていることが明らかになった。

世界各国の品種を用いて、異なる生育時期(発芽期、従属栄養期、独立栄養期)における生長速度の検討を行った結果、ロシア・ヨーロッパ等高緯度地帯の品種がわが国やアジアの品種より低温下における生長速度が大きいことが認められた。一方、湛水直播において土中播種した場合でみると、空気中で生長速度が大きいロシア・ヨーロッパの品種よりわが国の品種の生長が優れていた。

雑草と直播水稲との競合特性の解明

我が国の寒冷地(東北地域)において、本田での初期生育において直播水稲は移植より著しく劣り、かつミズガヤツリ、タイヌビエ、オモダカの生育量より小さかった。幼植物の低温下での生長力はミズガヤツリ、オモダカ、ヘラオモダカで高く、遮光条件下での生長はオモダカ、クログワイで高かった。このように水稲は雑草種より不良環境適応性が低く、とくに寒冷地における直播栽培において問題となることが明らかになった。さらに雑草種の窒素吸収特性を窒素吸収量とそれに伴う乾物増加量の関係(窒素利用効率)から検討した結果、3つの群に分けられた。この中で窒素利用効率が高いタイヌビエとミズガヤツリは多肥条件下でも繁茂量が大きく、直播水稲への強害草となることが認められた。

熱帯モンスーン気象条件下にあるタイ王国東北部天水田における雑草発生相を明らかにするために、土壌水分をかえた検討を実施した。低水分条件ではカヤツリグサ科が先行して、土壌水分の増加とともに広葉およびイネ科雑草が発生することが認められた。水稲品種カオドマリの出芽はカヤツリグサ科雑草より低水分条件下で旺盛であり、直播における耕種的雑草防除の可能性が示唆された。

日印交雑ハイブリッドライスの直播適性の解明

日本型とインド型品種の交配により作成されたハイブリッドライスの生育収量特性と直播への利用の可能性について検討した。ハイブリッドライスの発芽は親品種の内で早いほうに近く、分げつ期になると旺盛な茎数の増加により乾物生産速度(CGR)に高いヘテロシスを示した。ヘテロシスの程度はその後低下するが、出穂後に高い乾物生産を維持して再び高くなった。収量特性としては、頴花数生産能力が高く、登熟歩合は雑種不稔のためやや低かったが、千粒重は大きく高収であった。施肥に対する反応は、施肥量の増加につれて乾物生産、頴花数ともに大きくなり、増収効果が高かった。低温や寡照条件下の生長力は栄養生長期は高かったが、生殖生長期には不稔が多発することが問題点として指摘された。

これらのことからハイブリッドライスの初期生育量が大きいこと、低温・遮光条件下での生長力が高いこと、施肥による増収効果が高いこと、穎花数生産能力が高いこと、および生育の全般にわたって乾物生産速度が高いことの5つの特性が、直播水稲の生産力向上のために有効であることが明らかになった。

北陸重粘土水田における高密度潤土散播栽培の開発

北陸地域に適合した直播様式として、高密度潤土散播栽培の検討を行った。品種は耐倒伏性良食味品種キヌヒカリを用い、代かき後にトラクタ装着のブーム式ブロードキャスターにより酸素発生剤無粉衣の催芽種子を播種した。播種量は苗立ちの確保と雑草発生の抑制のため通常より多く、7〜10kg/10aに設定した。播種後は出芽促進のため2〜3週間湛水しなかったが、重粘土質土壌のため乾きにくく常に湿った潤土状態を保ち、除草剤の効果は十分であった。苗立ち後の水稲が5葉期に達した時に、深水管理(水深約10cm)を4週間行うことにより、下位節から発生する過剰な分げつの発生を抑制し、出穂期の1茎重および茎基部澱粉含量が高まって登熟が向上した。施肥は生育初期の過繁茂を避けるために追肥重点方式としたが、幼穂形成期頃に葉色が低下し、穂肥を施用する態勢になった。収量は稚苗移植並みかやや少ない程度であり、登熟歩合、千粒重は向上することが認められた。本栽培の水稲は密植であるため幼穂形成期の窒素含量が低下し、倒伏の抑制が容易であるとともに、重粘土地帯で食味上問題となる玄米蛋白含量を低下させることができた。

タイ王国東北部天水田地帯における不耕起乾田直播栽培の開発

タイ王国東北部の天水田地帯に適合した直播様式として、乾田直播栽培の検討を行った。雨期始めの降雨の開始時期および降水量の年次変動は大きく、水稲の作付けに大きな影響を与えた。雑草防除等の十分な栽培管理を行った場合の乾田直播水稲の収量は、干ばつで移植時期が遅れた年は移植水稲より高く、降雨が通常あるいは洪水年においては移植水稲並みであった。干ばつ年においてはとくに不耕起播種の効果が高く、耕起播種に比べて土壌水分の維持効果が高く、旺盛な初期生育を示した。大規模栽培のために駆動型溝切りディスクとドリルシーダから成る不耕起播種機を試作して農家圃場で実証試験を実施し、周辺の移植水稲並みの収量を得た。

不耕起乾田直播の雑草防除としては、天水田特有の雑草の発生相と水稲の生育状況からみて、播種前の非選択性除草剤の2回処理、播種4週後の選択性茎葉処理剤の施用が有効であった。乾田直播水稲の栄養状態の改善には、緩効性窒素肥料および土壌改良材(苦土、石膏、ケイカル)が有効であり、旺盛な生育により収量性が増加した。深耕や心土破砕のような土壌処理の効果も高く、砂質土壌において土層深くまで土壌硬度を低下して、直播水稲の生育・収量への向上効果を示した。

以上のように、本研究では作物の生理生態学的見地から、直播水稲の生育の安定化と生産力向上のための要件を明らかにするとともに、地域の状況に即した栽培体系を確立した。本成果は、今後のわが国のみならず、東南アジアも含めた水稲の直播栽培における技術手法の開発と普及に役立つ基礎的知見として大きな示唆を与えるものといえる。

審査要旨 要旨を表示する

現在わが国のコメは中型機械の一貫利用による機械移植栽培によって高位安定生産されている。しかし近年世界的な農産物の輸出入自由化攻勢によりコメの内外価格差が問題とされ、生産コストの低減が強く要請されるようになった。本研究では、水稲の低コスト大規模生産を達成するための有力な手段と考えられる直播栽培を取り上げ、生産の安定化と普及を促進する見地から、直播に必要とされる水稲の特性を解明するとともに、その成果に基づいて地域に適合した栽培管理技術の開発と実証を行った。

本論文は6章からなり、第1章では水稲直播栽培の現状と問題点について概説した。第2章では直播水稲の出芽・苗立ちに決定的な影響を及ぼす水稲の温度反応について検討し、水稲の生長曲線には18℃と12℃の2か所に質的変化を示す変曲点が存在することを見出した。この生理的機構として、呼吸代謝系については両温度域における変曲点が認められなかったが、タンパク質合成系については、アミノ酸14C-ロイシンあるいは15Nー硫安の植物体タンパク質分画への取り込み速度がとくに18℃以下の温度域で大きく阻害され、直播水稲の生長の阻害要因の一つとなっていることを明らかにした。

一方、低温下における生長速度の量的変異を世界各国の品種を用いて検討した結果、ロシア・ヨーロッパ等高緯度地帯の品種がわが国やアジアの品種より低温下における生長速度が大きいこと、また湛水による嫌気条件下での生長はわが国の品種が他国原産品種より比較的優れており、これらの素材を用いた品種開発が有望であることが示唆された。

第3章では、直播水稲の苗立ち後に問題となる雑草との競合特性について検討した。我が国の寒冷地(東北地域)においては、直播水稲はタイヌビエ等の主要雑草より劣った生育経過を示したが、この背景として水稲は低温下における生長力が雑草より低く相対的に不利な立場にあることを明らかにした。一方熱帯のタイ王国東北部天水田の乾田直播栽培においては、雨期始めの土壌水分が生長の制約要因となるが、水稲は雑草より低水分条件下でも出芽が旺盛であり、耕種的雑草防除の可能性もあることが示唆された。

さらに水稲との競合関係において重要な雑草の窒素吸収特性を検討し、水稲の施肥条件と雑草害の関連を明らかにした。この中でとくに窒素利用効率が高いタイヌビエとミズガヤツリは多肥条件下でも繁茂量が大きく、直播水稲への強害草となることが認められた。

第4章では、現在最多収水準にある日印交雑ハイブリッドライスの直播への利用の可能性について検討した。ハイブリッドライスは初期生育において、旺盛な茎数の増加により乾物生産速度(CGR)に高いヘテロシスを示し、また出穂後も高い乾物生産を維持した。収量特性としては、頴花数生産能力が高く、登熟歩合は雑種不稔のためやや低かったが、千粒重は大きく高収であった。施肥反応としては、施肥量の増加につれて乾物生産、頴花数ともに高まり、増収効果が大きかった。低温や寡照条件下の生長力は栄養生長期は高いが、生殖生長期には不稔が多発することが問題点として指摘された。これらの結果から直播における生産力向上の要件として、初期生育量が大きいこと、低温・遮光条件下での生長力が高いこと、施肥による増収効果が高いこと、穎花数生産能力が高いこと、および生育の全般にわたって乾物生産速度が高いことの5つの特性が重要であることが明らかになった。

第5章では、排水不良で肥沃度が高い重粘土壌が広く分布する北陸地域に適合した直播様式として、高密度潤土散播栽培の検討を行った。品種は耐倒伏性良食味品種キヌヒカリを用い、代かき後にトラクタ装着のブーム式ブロードキャスターにより酸素発生剤無粉衣の催芽種子を高密度(7〜10kg/10a)で播種した。播種後は出芽促進のため2〜3週間湛水しない潤土状態を保ち、苗立ち後の水稲が5葉期に達した時に、深水管理(水深約10cm)を4週間行って下位節から発生する過剰な分げつの発生を抑制した。施肥は生育初期の過繁茂を避けるために追肥重点方式としたが、幼穂形成期頃に葉色が低下し、穂肥を施用する態勢になった。収量は稚苗移植並みかやや少ない程度であり、登熟歩合、千粒重は向上することが認められた。本栽培の水稲は密植であるため幼穂形成期の窒素含量が低下し、倒伏の抑制が容易であるとともに、重粘土地帯で食味上問題となる玄米蛋白含量を低下させることができた。

第6章では、熱帯モンスーン気象条件下にあるタイ東北部の天水田地帯に適合した直播様式として、乾田直播栽培の検討を行った。4年間の現地試験の結果、雑草防除等を十分な栽培管理を行った場合の乾田直播水稲の収量は移植水稲並みであった。干ばつ年においてはとくに不耕起播種の効果が高く、耕起播種に比べて土壌水分の維持効果が高く、旺盛な初期生育を示した。大規模栽培のために駆動型溝切りディスクとドリルシーダから成る不耕起播種機を試作して農家圃場で実証試験を実施し、周辺の移植水稲並みの収量が得た。

不耕起乾田直播の雑草防除としては、天水田特有の雑草の発生相と水稲の生育状況からみて、播種前の非選択性除草剤の2回処理、播種4週後の選択性茎葉処理剤の施用が有効であった。乾田直播水稲の栄養状態の改善には、緩効性窒素肥料および土壌改良材(苦土、石膏、ケイカル)が有効であり、旺盛な生育により収量性が増加した。深耕や心土破砕のような土壌処理の効果も高く、砂質土壌において土層深くまで土壌硬度を低下して、直播水稲の生育・収量への向上効果を示した。

以上、本研究では作物の生理生態学的見地から、直播水稲の生育の安定化と生産力向上のための要件を明らかにするとともに、二地域における各状況に即した栽培体系を確立したものであり、今後のわが国のみならず、東南アジアも含めた水稲の直播栽培における技術手法の改善・開発及び普及に役立つ基礎的知見として、学術上また応用上極めて価値あるものである。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)に値するものと認めた。

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