学位論文要旨



No 215883
著者(漢字) 朝岡,潔
著者(英字)
著者(カナ) アサオカ,キヨシ
標題(和) 広食性系統を用いたカイコの食物選択に関与する味覚神経機構の解析
標題(洋)
報告番号 215883
報告番号 乙15883
学位授与日 2004.02.02
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15883号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,正彦
 東京大学 教授 田付,貞洋
 東京大学 教授 永田,昌男
 東京大学 助教授 石川,幸男
 東京大学 助教授 嶋田,透
内容要旨 要旨を表示する

桑を主な食物とするカイコは、摂食刺激物質の単離・同定、人工飼料の開発、食性突然変異系統の作出などの多彩な研究蓄積があるうえ、味覚器官の数が少なく、小腮の味覚細胞の性質は既に解っているため、食物選択と味覚の関係を調べるための研究材料として優れている。本研究では、カイコを用い、味覚が摂食行動へ及ぼす影響や、未知の味覚器官の形態と性質の解析を進めるとともに、実用系統の選抜により育成した広食性蚕品種を含めた数種の食性異常系統の味覚機能を調べることにより、食物選択に関与する味覚の神経機構についての解析を行った。

広食性蚕系統の選抜とLP-1人工飼料摂食性の遺伝的解析

本研究の発端は、低コスト人工飼料を摂食する実用的な広食性蚕品種の育成である。このため、カイコの摂食性が最も低いとされる低コスト人工飼料LP-1を用いて育成中の系統の摂食性の検索と選抜を行い、人工飼料摂食性に関する遺伝的解析を行った。

掃き立て4日後の毛振るい率は、日本種が一般に高く中国種が劣った。また、LP-1飼料をよく摂食する系統は他の人工飼料の摂食性も高い傾向にあった。一方、1齢期で摂食性が良好であった系統は4齢でも良好であった。実用系統としての育成が有望と判断された系統については摂食個体を継代し、以降、蛾区及び個体選抜を繰り返した結果、日本種4系統、中国種1系統を得た。これらのF1は両親の中間程度の摂食性を示し、1つの組み合わせは後に日601号×中601号として品種指定された。選抜系統のLP-1飼料摂食性は劣性の主遺伝子により支配されることが判明した。一方、他種の人工飼料に対する摂食性を無選抜系統と比較したところ、系統及び飼料によって選抜効果が異なったため、飼料の組成の違いにより異なる遺伝子が関与する可能性が示唆された。

カイコの摂食行動の時間的解析とその飼料・系統間差異

摂食性を調べるための指標として、上記の毛振るい率のほか、従来から摂食量や排糞数等が用いられてきたが、試験時間が長い場合は、飼料に含まれる栄養や毒性物質の影響、慣れや学習等の要因が摂食行動に関与することが考えられる。そこで、比較的短時間内における「摂食」「静止」と、餌の探索や味見の行動を含んだ摂食以外の活動の「探索」の3つの行動の時間記録を行う方法について検討し、味物質の影響やその系統間差異の解析を行った。

日137号×支146号を用い、桑と2種類の人工飼料で3時間記録したところ、ミール(近接する摂食時間からなる一連の食事期間)の構成に違いが見られた。特に桑は人工飼料に比べて最初のミール時間、2回目のミールまでの静止時間が顕著に長く、また4齢までの餌の経験がこれらに影響する可能性が示唆された。味刺激溶液を浸透させたペレット飼料を与え45分間の記録を行ったところ、ショ糖やイノシトールの摂食促進効果は見られなかったが、苦味物質(10mMサリシン、0.05mM硝酸ストリキニーネ)の摂食阻害効果が、合計の摂食時間や探索時間、摂食開始までの時間等に現れることが判った。そこで、広食性蚕の日601号×中601号と沢Jについても調べたところ、100mMサリシンと0.05mM硝酸ストリキニーネに対しては両系統で摂食阻害効果が見られたため、広食性蚕は苦味物質を全く感知しない訳ではないが、摂食阻害効果の程度がやや弱い傾向があることが判った。

カイコの味覚器官の微細形態とその系統間差異

鱗翅目昆虫幼虫の味覚器官には、小腮粒状体上の外側有柄感覚子(LS)と内側有柄感覚子(MS)がよく知られているほか、上唇の腹側に存在する上咽頭感覚子(EP)についての記載があり、小腮肢にも嗅覚とともに味覚機能があるといわれている。カイコのこれら感覚器の形態に関しては詳細な報告がなかったため、その基本的な形態を調べ、広食性を含めた系統間での比較を行った。

走査型電子顕微鏡観察により、LS、MSはともに先端部の突起の長さは約10μm、基部を合わせた全体の長さは70〜80μm程度あり、先端には味孔が存在した。小腮肢の先端には高さ3〜5μmの8個の錐状感覚子が存在し、中心部の3個は多孔性、周辺部に位置する5個は単孔性であった。上咽頭には、3対の棘状感覚子のほか1対の窩状感覚子と2対の鐘状感覚子が存在した。窩状感覚子の中心の約1μmの突起の先端には単孔が見られ、本研究では電気生理実験により応答も確かめられたため、味覚機能を持つEPであることが判った。メチレンブルー染色により、LS、MS、EPとも感覚突起の基部から70〜100μm離れて細胞体を持ち、感覚子先端に樹状突起を伸ばす複数の双極性神経細胞が観察された。EPには3個の神経細胞が存在した。日140号×支145号と日601号×中601号についてはLS、MSの横断切片を透過型電子顕微鏡で観察したが、感覚子間、及び品種間で顕著な違いは認められず、それぞれ5個の神経細胞が存在した。形態的な特徴から1個は機械受容細胞と思われる。広食性蚕を含む9系統について外部形態を比較したところ、LS、MSの先端部の形状に系統による特徴が存在し、通常8個である小腮肢の錐状感覚子数が異なる個体も少なからず見られたが、これらと食性との関連はなかった。

カイコの上咽頭感覚子味覚細胞の電気生理学的解析

カイコの小腮の味覚機能については、LSには糖受容細胞、イノシトール受容細胞が、MSには苦味物質受容細胞が存在することなどが電気生理学的な研究により既に判っている。糖は摂食促進的に働き、イノシトールにはショ糖の摂食促進作用を相乗的に高める効果があるとされる。苦味物質受容細胞は、昆虫では一般にデターレント細胞とよばれ、この応答が摂食阻害行動を引き起こすといわれている。一方、カイコのEPの味覚細胞については全く調べられていなかったため、その電気生理学的性質を調べた。

塩や酸に対しては少なくとも2種のスパイクが見られ、顕著ではないが濃度応答もみられた。これにイノシトールを加えると新たにスパイクが加わり、濃度の増加とともにスパイクの数と高さが増加した。糖類には応答がないため、イノシトール受容細胞が存在することが判った。硝酸ストリキニーネ、サリシン等の苦味物質に対しても大きなスパイクが濃度応答するため、デターレント細胞が存在すると思われた。

日601号×中601号、沢J等の広食性蚕系統の味覚応答

広食性蚕の日601号×中601号、沢J、及び沢Jと中02号を交配してLP-1飼料の食性関連遺伝子を導入したCSJ02は、LP-1飼料の摂食性に関しては3系統とも同一の遺伝子に支配されている可能性が高い。そこで、これら広食性蚕の味覚応答を記録し、この遺伝子の機能を探るとともに食性と味覚との関連を調べた。

LSの糖受容細胞とイノシトール受容細胞について、ショ糖とイノシトールに対する濃度応答を上記広食性の3系統と日137号×支146号、中02号の計5系統で比較したところ、系統による違いは見られたが食性との相関はなかった。MSのデターレント細胞の濃度応答を比較したところ、硝酸ストリキニーネに対しては顕著な違いはないが、サリシンに対しては広食性蚕の閾値が高かった。EPのデターレント細胞の応答にも同様な違いが見られた。また、フロリジンに対して沢JのMSのデターレント細胞の応答閾値が正常蚕に比べて高い点でサリシンと類似の差が見られた。一方でニコチン、ブルシン、20-ハイドロキシエクダイソンに対しては各濃度で沢Jのスパイク頻度が高かった。さらに1mMで応答を比較したアルブチン、アミグダリンに対しては、沢Jには応答がほとんどなかった。したがって、デターレント細胞の苦味物質に対する感受性は、系統や物質によって異なり、食性の違いと関連があることが示された。そして、食性関連遺伝子がO-配糖体のような特定グループの苦味物質の感受性を支配し、デターレント細胞の応答する物質の種類やその感受性の違いが食性の違いに関与すると考えられた。

食性異常突然変異蚕Npsの摂食行動とその味覚の関与について

前記の広食性蚕の他にも、異なる遺伝子に支配される食性異常系統が知られている。このうち、γ線照射によって作られた突然変異であるNpsが発現する異常形質を探索する目的で、同一蛾区に分離するNps-Ze個体と正常個体の間で、苦味物質に対する摂食行動、味覚細胞の電気生理的応答及び軸索投射経路の比較を行った。

摂食行動は、硝酸ストリキニーネやサリシン溶液を浸透させたペレット飼料を与えて、摂食開始までの時間と45分間の合計摂食時間等を比較した。その結果、Nps個体に対する摂食阻害作用はいずれの指標においても低く、また個々の摂食時間の平均が長い傾向が認められた。味覚細胞の応答は、LS、MSからショ糖、イノシトール、硝酸ストリキニーネ、サリシンに対する濃度応答を記録したが、スパイク頻度の時間的変化や濃度応答にはいずれも違いが見られなかった。味覚細胞の軸索投射は、単一感覚子からコバルトリジンを取り込ませてホールマウント観察したが、食道下神経節から脳に投射する経路に大きな違いはなかった。この結果は前記の広食性蚕とは異なり、Nps個体ではデターレント細胞の応答が必ずしも摂食行動や食性とは関連しないことを示している。おそらく、味覚細胞が受容して中枢神経系に伝達した情報が、運動神経に至るまでのネットワークのどこかに異常があるために正常に処理されないものと思われる。

以上のように本研究では、味覚がカイコの摂食行動に及ぼす影響を摂食時間の記録から見いだし、味覚感覚子、細胞の基本的形態を明らかにしたほか、上咽頭感覚子については3個の細胞を新たに同定した。さらにこれらの成果をもとに、数種の広食性系統の摂食行動、味覚器官の形態、味覚細胞の応答を正常系統と比較することにより、食物選択に関与する味覚神経機構の一端を明らかにすることができた。特に、デターレント細胞の物質選択的な感受性が食性を支配する可能性を示唆した上記5の結果は、昆虫の寄主変換の進化的過程のモデルともなる重要な発見である。一方、Npsについては異常形質を特定するには至らなかったが、中枢神経系における味覚情報処理過程の遺伝的変化が食物選択、さらには寄主変換に関与することを示したことは意義深い。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、カイコの食性異常系統を用いて、食性の遺伝的性質の解析、味覚刺激物質による行動の解析、味覚器官の形態と電気生理的性質の解析をすすめ、これらの系統間比較を行い、カイコの食物選択に関与する味覚神経機構を解析したもので、6章からなる。

広食性蚕系統の選抜とLP-1人工飼料摂食性の遺伝的解析

家畜用の飼料素材を用いて線形計画法により設計した低コスト人工飼料の一つであるLP-1人工飼料に対する摂食性を育成中の実用系統等について検索・選抜を試み、人工飼料摂食性に関する遺伝的解析を行った。その結果、選抜系統のLP-1飼料摂食性は劣性の主遺伝子により支配されることが判明した。一方、他種の人工飼料に対する摂食性を無選抜系統と比較したところ、系統及び飼料によって選抜効果が異なったため、飼料の組成の違いにより異なる遺伝子が関与する可能性が示唆された。

カイコの摂食行動の時間的解析とその飼料・系統間差異

「摂食」「静止」「探索」の3つの行動の時間記録により、味物質の影響やその系統間差異の解析を行った。正常系統を用い、桑と2種類の人工飼料で3時間記録したところ、ミール(近接する摂食時間からなる一連の食事期間)の構成に違いが見られた。味刺激溶液を浸透させたペレット飼料を与えたところ、ショ糖やイノシトールの摂食促進効果は見られなかったが、苦味物質の摂食阻害効果が、合計の摂食時間や探索時間、摂食開始までの時間等に現れることが判った。

カイコの味覚器官の微細形態とその系統間差異

小腮粒状体の外側有柄感覚子(LS)と内側有柄感覚子(MS)、上唇の上咽頭感覚子(EP)等の感覚器の基本的な形態を調べ、広食性を含めた系統間での比較を行った。その結果、LS、MSはともに先端部の突起の長さは約10μm程度で先端に味孔が存在した。小腮肢の先端には高さ3〜5μmの錐状感覚子が存在し、中心部の3個は多孔性、周辺部の5個は単孔性であった。上咽頭には、3対の棘状感覚子、1対の窩状感覚子、2対の鐘状感覚子が存在し、窩状感覚子の中心の約1μmの突起の先端には単孔が見られ、電気生理実験により味覚機能を持つEPであることが判った。EPには3個の新たな神経細胞が発見された。正常系統と広食性系統では、感覚子間、及び系統間で顕著な形態的違いが認められなかった。

カイコの上咽頭感覚子味覚細胞の電気生理学的解析

未知であったカイコのEPの味覚細胞について電気生理学的性質を調べた結果、塩や酸に対しては少なくとも2種のスパイクが見られ、これにイノシトールを加えると新たにスパイクが加わり、濃度の増加とともにスパイクの数と高さが増加したことから、イノシトール受容細胞が存在することが判った。苦味物質に対しても大きなスパイクが濃度応答するため、EPにもデターレント細胞が存在すると考えられた。

日601号×中601号、沢J等の広食性蚕系統の味覚応答

広食性の3系統と正常2系統の糖受容細胞、イノシトール受容細胞、デターレント細胞について、各種物質に対する応答を調べた。その結果、デターレント細胞の苦味物質に対する感受性は、系統や物質によって異なり、食性の違いと関連があることが示された。また、食性関連遺伝子が特定の苦味物質の感受性を支配し、デターレント細胞の応答する物質の種類やその感受性の違いが食性の違いに関与すると考えられた。

食性異常突然変異蚕Npsの摂食行動とその味覚の関与について

γ線照射による食性異常突然変異蚕Npについて、苦味物質に対する摂食行動、味覚細胞の電気生理的応答及び軸索投射経路の正常個体との比較を行った。その結果、苦味物質のNps個体に対する摂食阻害作用はいずれの指標においても低く、また個々の摂食時間の平均が長い傾向が認められた。味覚細胞の応答、および食道下神経節から脳への軸索投射の経路には大きな違いはなかった。Nps個体ではデターレント細胞の応答が必ずしも摂食行動や食性とは関連しないことを示していた。

以上要するに本論文は、カイコの食物選択に関与する味覚神経機構を広食性系統を用いて解析したもので、カイコの摂食行動に及ぼす味覚の影響、味覚感覚子と感覚細胞の基本的形態を明らかにし、上咽頭感覚子に3個の細胞を新たに同定したほか、デターレント細胞の物質選択的な感受性が食性を支配する可能性を示唆し、Npsは中枢神経系における味覚情報処理過程の遺伝的変異であることを示した。これらは昆虫の寄主変換の進化的過程を考察する上で重要な発見であり、学術上、応用上、有意義な知見を得ている。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/49027