学位論文要旨



No 215892
著者(漢字) 細野,耕司
著者(英字)
著者(カナ) ホソノ,コウジ
標題(和) 明治初期の司法建築に関する研究
標題(洋)
報告番号 215892
報告番号 乙15892
学位授与日 2004.02.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15892号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 長澤,泰
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 助教授 藤井,恵介
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、明治元年から明治14年までの期間に於ける裁判所の設置、海外視察、中央の司法施設、地方の裁判所、初期の法廷を検証し、明治初期の裁判所を中心とした司法建築を考察し、次のことを明らかにした。

裁判所の設置

廃藩置県後、中央集権の確立と共に司法省が設置され、府県が管轄していた司法権を司法省が接収し、全国の法律の統一を目指した。府県の裁判所の設置は先ず東京府から行われ、東京周辺と京都・大阪・の関西に設置され、次に開港場、薩長土肥の旧四藩に設置された。更に、騒動のあった九州に裁判所が集中的に配置された。また、司法省の庁舎は北町奉行所に設置され、後に旧藩邸を修繕して仮庁舎とした。白洲(法廷)は庭に接する位置から、建物の中央部に移り、白洲内部に手摺(柵欄)を設けていた。

海外視察

最初の視察は明治4年2月から同年8月に行われた英国領香港・シンガポール視察で、監獄と裁判所の体裁と方法の視察であった。囚獄権正小原重哉等は英国副領事ジョン・ホールの案内で香港に於いてはヴィクトリア・ゼール監獄や裁判所を視察した。この監獄はパノプチコン様式の十字型監獄であった。シンガポールではマクネール少佐(Major J. F. A McNair Colonial Engineer)と面会した。彼はシンガポールの旧最高裁判所(now Parliament House)の増築工事や Outram Road Prison、Government House 等の設計監督を担当していた。視察後の明治5年11月、日本で最初の十字型の監獄案を作成し「監獄則並図式」を頒布した。同7年8月に西洋監獄、同8年7月に東京裁判所の新築が行われた。

明治4年11月から同6年3月の岩倉使節団は、佐々木高行を司法理事官にベルリンの裁判所・監獄を熱心に視察した。

明治5年9月から同6年9月の司法省視察団は、香港の裁判所、監獄、フランス領サイゴンの監獄を視察し、フランスではパリ重罪裁判所、リヨン裁判所を視察し、特に陪審法廷を熱心に視察していた。

中央の司法施設。

司法省(明治4年7月9日設置)

司法省は明治4年7月に旧九條邸(旧本多美濃藩邸)を庁舎として、修繕して利用していたが、明治14年7月に、司法省の新築案が浮上した。この新築案は司法省で最初の煉瓦造であった。計画案は煉瓦造2階建、中央に中庭を配した長方形の口の字型平面であった。規模は桁行約30間、梁行25.5間であった。平面は正面中央に玄関、その両脇を階段室、中庭周りに廊下を配し、四隅に階段室を設けた。1階は会計課、官員詰所、銀行、宿直室等である。2階は正面中央に応接所、その左右に刑事局長、民事局長、背面に議事堂、庶務室が並んだ。1、2階共壁中央に爐(マントルピースか)が各階12箇所設けられていた。建築費は12万円であった。しかし、この新築案は実施されなかった。

東京裁判所(明治8年7月10日落成)

日本に於いて最初に裁判所と称された裁判所である。東京裁判所は表門、門候所、両脇に呼出人控所、下調所が並び、その奥の中心に裁判所庁舎が配置されていた。裁判所庁舎は矩形平面の二階建、陸屋根トタン葺、正面中央に10角形3階建の階段室を設けた。1階は白洲(法廷)を4部屋、2階は事務関係の諸室を配置していた。同一建物の上下階で機能(事務と法廷)を明確に分けていた。江戸時代の司法関係の建物には全くない形式が現れた。

裁判所庁舎内部の法廷は、上段、中段、下段の3段形式で手摺、傍聴席が設けられていた。床は四半敷きであった。これらの法廷の特徴は進入通路が裁判官と一般人を明確に分離(裁判官は室内側から法廷に入る。一般人等は外部から入る。裁判前に打合せ出来ないようにするため、)していたことである。現在の裁判所の法廷と方針は同じであった。

大審院(明治10年3月18日落成)

大審院は表門、門候詰所、本庁、呼出人控所、湯呑所、用場等で構成された。本庁は木造2階建、桁行16間、梁間7間で、凸型平面として玄関を突出させ、外観は白漆喰大壁、1階三方を吹き放し廊下としていた。屋根は入母屋であった。平面は1階に法廷(白洲)を四箇所設け、2階は事務室及び院長室関係とした。小屋組は基本的にキングポストであった。

東京上等裁判所(明治11年3月12日落成)

東京上等裁判所は本庁、下調所、呼出人控所、湯呑所、門候所、門から成り、周囲を角柵又は丸太柵で囲っていた。本庁を中心に左右対称形に配置していた。

本庁は木造2階建、凸型平面、1階に玄関、法廷2ヶ所を配置して、正面の三方を吹き放し廊下としていた。2階は事務室関係の諸室が配置されていた。

法廷の進入方法、法廷内部は東京裁判所と同じ、附属屋の下調所(江戸時代の与力が事前調査の尋問を行った白洲と類似した法廷)2棟には法廷小10ヶ所(上段・下段の2段形式、手摺も設置していた。傍聴席はない。)を設けた。

区裁判所計画案(明治5年4月13日伺)

裁判所は西洋造庁舎、囚獄、腰掛、西洋風表門、丸太柵で構成されていた。西洋造庁舎は中央部の一部を2階建とし、屋根は寄棟、外壁は大壁であった。平面は正面中央を入口とし、事務室関係の諸室、その両脇に法廷(計6ヶ所)を設けていた。司法関係者は室内から、一般人は屋外から入る形式であった。正面には吹く放し廊下は無く、外観は非対称であった。この計画案は実施されることはなかった。

宮下知幹

当時、司法省が最重視した東京裁判所、西洋監倉を設計した人物は松代藩士の宮下知幹であった。彼は元松代藩の兵制士官学校の助教であった。彼の上司の教授は函館五稜郭を設計した武田斐三郎であった。彼は同校でフランス語の教本で西洋砲術の授業を行っていた。宮下は同校が廃校後、明治6年に大蔵省土木寮、工部省製作寮を経て、明治7年4月に司法省営繕課に転任し司法省営繕課の責任者として明治23年まで勤務した。

地方の裁判所設置の経過と裁判所建築の特徴。

明治5年8月、欧州の裁判所制度を模範とする事を決定し、フランス式の司法職務定制を実施し、裁判所を司法省臨時裁判所・司法省裁判所・府縣最判所・区裁判所とした。15庁が設置された。当時は県庁内部に設け開庁していた。

明治8年5月、最高裁判所としての大審院が設置され、裁判所制度は大審院・上等裁判所・地方裁判所・区裁判所となり、地方の裁判所の設置が急務となった。明治10年2月に地方裁判所の設置費が18万7500円の増額となった。11年度の新築は16庁と急速に建設した。しかし、建設費が急騰すると、政府は明治11年5月「府縣廳舎新築内規標準」の坪単価に合わせるように指示した。

この当時の上等裁判所建築は、明治8年10月に仮庁舎を設置した。敷地内には事務室、白洲、呼出人控所、湯呑所、仮監倉、門番所、表門を設けた。白洲は新築され、執務関係の庶務、出納、検事室等も新築、修繕が行なわれた。室内は絨緞を敷き硝子建具を入れた。

明治9年から12年に上等裁判所は新築され、本庁舎、下調所2棟、呼出人控所、土蔵、門番所、表門、その周囲を角柵で囲った。

本庁舎は木造2階建、凸型平面、正面中央に玄関、その後に法廷2ヶ所を設け、更に、その両翼に下調所2ヶ所を設け、渡り廊下で結んだ。本庁舎は1階を法廷関係、2階を執務室関係とし、法廷は前項と同様、一般人と司法関係者を分離した。

明治8年から13年の府県裁判所の特徴を纏めると以下となる。

裁判所は、表門、門候所、呼出人控所、本庁舎、下調所(2ヶ所)、湯呑所、土蔵から構成された。本庁舎は木造2階建、凸型平面、52坪から91坪の規模、屋根は寄棟、切妻を組み合わせた屋根、外観は漆喰の大壁、開口部は半円形欄間、上げ下げ窓が多い。内部は1階に玄関ホール、法廷2ヶ所、正面に吹き放し廊下、背面にも廊下を設け両翼の下調所を結んだ。2階は大小の部屋を設け執務室関係の諸室とした。基本は上等裁判所と同じであった。

また、明治7年の熊谷裁判所は非対称な平面構成で、本家の左側のみ渡り廊下で結ばれた白洲があり、町奉行所の白洲位置と似ている。また、横浜裁判所は外国人が多いためか、法廷内部が非常に特徴がある。白洲を「外国人白洲」と「日本人白洲」に分けている。白洲内部は「裁官ノ席」「陪審席」「代言人」「証人」など設け、更に、法廷の半分近くが傍聴席であった。法廷には裁判官も一般人も室内から入る形式であった。

明治15年1月、フランス法を模した冶罪法は施行後、裁判所制度は大審院1庁、控訴裁判所7庁、始審裁判所90庁、治安裁判所180庁を設置した。

明治15年の治罪法の施行に向けて裁判所の建設は再び急いだ。13、14年度に控訴裁判所1庁、始審裁判所13庁、治安裁判所38庁を新築した。その建設費用は34万円で、この頃になると始審裁判所の設置が一定の水準に達し、治安裁判所が増える傾向にあった。

初期の法廷

法廷の形式は明治元年から明治3年5月頃までは江戸時代の奉行所の白洲形式(座敷・薄縁・板縁・砂利)を踏襲していた。明治4年に英国領香港・シンガポールの裁判所を視察後の明治5、6年に法廷は大きな変化をした。法廷の法檀が直線型からU型に変わったった。英国領香港・シンガポールで見聞した裁判所は記録から陪審法廷(中央に裁判官、その下に書記官、裁判官に向かって左側に12人の陪審席、右側に原告人、罪人、警察官2名が並んだU型)で、その影響を受けたと考えられる。明治15年頃には法檀をU型から直線型に変わり、民事法廷と刑事法廷に分かれ、中階は残り書記官の席のままであった。手摺(柵欄)はなくなった。明治25年になると、中階が無くなり、檀上に裁判官、検事、書記が座った。現在の法廷とほぼ同じであるが、現在、檀上に座るのは裁判官のみである。

以上から、

当初、庁舎は旧藩邸を修繕して仮庁舎とした。白洲(法廷)は庭に接する位置から、建物の中央部に移り、白洲内部に手摺(柵欄)を設けた。

明治4年から同6年の海外視察は、裁判所と監獄に変化を与えた。裁判所の法廷は白洲形式から西洋思想の陪審法廷形式になった。一部の監獄は十字型監獄に変わった。

近代的な東京裁判所や西洋監獄を設計したのは、旧松代藩の兵制士官学校の助教であった宮下知幹であった。宮下は大蔵省土木寮、工部省製作寮を経て司法省営繕課に転任した。

裁判所は本庁は凸型平面とし、1階は法廷、2階は執務室とした。本庁の両翼に下調所を配置して、ベランダ、渡り廊下で結んだ。

法廷は明治3年頃まで江戸時代の奉行所の白洲と同じ形式であった。香港・シンガポール視察後には「コの字」型の法廷(陪審法廷)に変化した。明治15年になると法廷は「コの字j型から直線型になり、明治25年に現在の法廷に近い法廷となった。法廷の動線計画は明確に別けられて、司法関係者は室内側から、一般人は外側から入廷した。

明治9年から14年頃の裁判所本庁の特徴を纏めると以下となる。

裁判所は基本的に本庁、下調所、呼出人控所、湯呑所、門候所、表門から成り、本庁を中心に左右対称に配置されていた。

本庁は木造2階建、凸型平面とし、両翼に下調所(2ヶ所)を設け、それをベランダ、渡り廊下で結んだ左右対称形とした。また、1階平面も左右対称形であった。

敷地に余裕があるにもかかわらず本庁は、建物を2階建として1階は法廷、2階は執務室等とし、上下階で機能を別けた。外観は屋根を入母屋、寄棟とし、外壁を白漆喰大壁とした。

江戸時代の町奉行所と平面を比較すると、裁判所は法廷部分を最優先し大きな面積を占めた。

法廷は基本的に2ヶ所設け、内部は白洲の影響を強く残し、上階、中階、下階の3段構成であった。しかし、下階部分は手摺、傍聴席など西洋思想の施設を取り入れていた。

下調所(江戸時代の与力が奉行の判決前に取調べを行った2段形式の白洲)は、法廷の横に配置され、前時代の影響を残していた。

明治初期の裁判所は裁判を行う法廷(白洲)を優先し、町奉行所のような行政部分、執務部分、生活部分を縮小し、法廷部分を拡大した。2階建の1階部分は法廷、別棟の下調所と渡り廊下で結び、裁判エリアを構成し、2階部分は判事局、検事局、書記局、会計課等で、上下階で機能を分離した。裁判所は本庁の1階平面及び本庁を中心に附属施設の下調所(2棟)、呼出人控室(2棟)等を左右対称に配置したのが大きな特徴となった。なお、この後に増大する訴訟に対して、裁判所は法廷の数は増すが、法廷部分より事務、執務部分が増加し、凸型平面からE型、日型平面に移行し、建物は大型化するが、法廷部分は全体の中で縮小し、特徴の薄れた平面となった。

審査要旨 要旨を表示する

本研究(「明治初期の司法建築に関する研究」)は、今まで不明確であった明治初期の裁判所の設置、海外視察、中央の司法施設、地方の裁判所、初期の法廷について多くの資料を基に検証し下記の事項を明らかにしている。

新政府は廃藩置県後に全国の司法権の統一を目指し、府県裁判所の設置を急いだ。先ず東京府から行い、次に東京周辺と京都・大阪の関西に設置し、開港場、薩長土肥の旧四藩に設置した。更に、騒動のあった九州に裁判所を集中的に配置した。裁判所設置が政治的な意味合いを含んだ配置であったことを明らかにしている。

初期の中心的な司法施設として司法省庁舎は北町奉行所に設置し、後に旧藩邸を修繕して仮庁舎とした。この時の白洲(法廷)は江戸時代のように庭に接する位置から、建物の中央部に移り、白洲内部に手摺(柵欄)を設けていたことを明らかにしている。

海外視察については、最初の視察である明治4年の英国領香港・シンガポール視察に於いて囚獄権正小原重哉は香港ではヴィクトリア監獄と裁判所を視察した。この監獄はパノプチコン様式の放射状型監獄であった。シンガポールではマクネール少佐と面会した。彼はシンガポールの旧最高裁判所の増築工事やOutram Road Prison、Government House等の設計・監督を担当していた。彼からパノプチコン様式監獄の考案者であるベンサムの遺説の説明を受けていた。彼らの視察した裁判所は欧米で始まって間もない陪審制の陪審法廷を絵図で報告していた。また、明治4年末の岩倉使節団の佐々木高行司法理事官はベルリンの裁判所・監獄を熱心に視察した。明治5年の司法省視察団はフランスに於いてパリ重罪裁判所、リヨン裁判所を視察し、特に陪審法廷を調査していたことを明らかにいる。

視察後の明治5年末に日本で最初の十字型の監獄案を作成し「監獄則並図式」を頒布した。同7年に西洋監獄、同8年に東京裁判所の新築を行い、東京裁判所の詳細な内容を明らかにしている。

裁判所建築では特に法廷に於いて明治3年頃までは江戸時代の奉行所の白洲形式を踏襲していたが、海外視察後の明治5、6年に法廷は欧米の陪審制の陪審法廷に変わった。(当時の日本には陪審制度はなかった。)これは英国領香港・シンガポール、イギリス、フランスで見聞した陪審法廷の影響を受けたことを明らかにしている。

また、視察団は当時監獄施設において病死(結核等)が多いのを問題として、西洋の監獄の換気施設、上下水道施設について調査していた事実をも明らかにしている。

次に、司法省が最重視した司法施設である東京裁判所、西洋監倉を設計した人物が松代藩士の宮下知幹であることを明らかにしている。彼は元松代藩の兵制士官学校の助教であった。彼の上司の教授は函館五稜郭を設計した武田斐三郎であった。彼は同校でフランス語の教本で西洋砲術の授業を行っていた。宮下は同校が廃校後、明治6年に大蔵省土木寮、工部省製作寮を経て、明治7年4月に司法省営繕課に転任し司法省営繕課の責任者として明治23年まで勤務したことを証明している。

この当時全国に配置された裁判所は基本的に本庁、下調所、呼出人控所、湯呑所、門候所、表門から成り、本庁を中心に左右対称形に配置していた。本庁は木造2階建、凸型平面とし、両翼に下調所(2ヶ所)を設け、それを渡り廊下で結んだ左右対称形とし、本庁の1階は法廷、2階は執務室とした。1階平面は玄関を中心に左右に法廷(民事系法廷、刑事系法廷)を配置した左右対称形であること、江戸時代の町奉行所と平面を比較すると、裁判所は法廷部分を最優先し大きな面積を占めた。法廷は基本的に2ヶ所設け、内部は江戸時代の白洲の影響を強く残した上階、中階、下階の3段構成であった。しかし、内部に手摺、傍聴席を設けるなど西洋思想を取り入れていた。また、法廷の他に下調所(江戸時代に於いては白洲横に設けられ、与力が奉行の判決前に取調べを行った2段形式の白洲)があり、法廷の横に配置され、江戸時代の影響を残していた。

明治初期の裁判所は裁判を行う法廷(白洲)を優先し、町奉行所のような行政部分、執務部分、生活部分を縮小し、法廷部分を拡大したことを明らかにした。なお、この後に増大する訴訟に対して、裁判所は法廷の数は増すが、法廷部分より事務、執務部分が増加し、凸型平面からE型、日型平面に移行し、建物は大型化するが、法廷部分は全体の中で縮小し、特徴の薄れた平面となったことを明らかにした。

以上、多くの資料調査により維新後の裁判所設置の特徴を明らかにしている。初期の裁判所がイギリス及びフランス陪審制の陪審法廷の影響を受けたことを明確にしている。また、監獄は主にイギリスの放射状監獄の影響を受け、更に換気設備、上下水道設備の必要性を理解して調査していたことを明らかにしている。初期の裁判所と監獄を設計した人物(松代藩士宮下知幹)の経歴を明らかにし、擬洋風建築が司法建築に於いては大工出身者ではなく旧藩士(兵制士官学校助教)の設計であったことを証明している。また、東京及び全国に配置した裁判所建築の過程と特徴を明らかにしている。また、資料として司法技師の経歴を記すなど、本研究によって今まで不明であった明治初期の司法施設(裁判所建築を中心として)の特徴と変遷を明らかにしている。

よって本論文は博士(工学)の学術請求論文として合格と認められる。

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