学位論文要旨



No 215905
著者(漢字) 魚住,孝至
著者(英字)
著者(カナ) ウオズミ,タカシ
標題(和) 宮本武蔵 : 日本人の道
標題(洋)
報告番号 215905
報告番号 乙15905
学位授与日 2004.02.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15905号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 竹内,整一
 東京大学 教授 佐藤,康邦
 東京大学 助教授 菅野,覚明
 共立女子大学 教授 佐藤,正英
 お茶の水女子大学 教授 高島,元洋
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、宮本武蔵 (1582-1645) について、確かな史料に基づいて、その生涯の真実を明らかにするとともに、術技の内容を踏まえながら『五輪書』を詳しく解釈して、その思想を明らかにし、武蔵の思想史的な位置づけを図ろうとしたものである。

武蔵については、江戸中期からの様々な伝承・逸話・伝記等には想像で書かれた部分が多く、虚像が積み重なって、その真実の姿が分からなくなっている。『五輪書』も、武蔵の手になるのか疑う説がある上、従来のテキストには欠落や誤写した箇所が見られ、内容に関しても術技を踏まえた正確な解釈はなされていない。書・画・細工についても、贋作と思われるものがかなりある。明治以来、武蔵に関する多くの本が出されているが、武蔵の全体像を解明しようとする学問的研究はほとんど皆無の状況である。

そこで本研究は、武蔵に関する諸資料を網羅的に調査・収集するとともに、それらを整理し、史料批判をして、虚像を排し、確かなものを見極めることにした。著作については、諸写本を集め、文献学的考察を行なって武蔵のものを確定するとともに、諸写本を照合して、欠落や誤写を正した本文を得ようとした。術技口伝書や伝承術技も参考にしながら、個々の著作の内容を正確に解釈することに努めた。また書・画・細工については、作品を実見して様々な面から考察し、基準作を決め、それに基づいて真作か否かを鑑定する。さらに二天一流各派の相伝術技の調査を行ない、術技口伝書も参考にして、術技の原形を考察することにした。

その結果、これまで知られていなかった三点が武蔵の著作と判明した。この内『兵道鏡』は、24歳の時のもので、養父の術理との関係を示すとともに、勝負時代の武蔵の思想の出発点を示し、『五方之太刀道』は、武蔵自筆の漢文の序文で、『五輪書』の元来の序であることが判明した。武蔵の著作は『五輪書』も含め六点で、これらから思想が展開していく過程を見通すことが出来た。(武蔵作とされていた『十智』等三点は偽書と判明。)新出文献の翻刻、書・画・細工の鑑定結果、諸資料を整理して、資料篇に掲載した。

第一部は、武蔵の生涯を、彼が生きた時代の社会状況を踏まえながら、明らかにする。

第一章は、生い立ち。生誕地については諸説あるが、最も古く確実な養子伊織の資料に拠って、武蔵は天正十年 (1582) に播磨の赤松氏の末裔の田原家に次男として生まれたが、生家が誕生二年前に合戦で敗れていたので、豊臣秀吉による兵農分離の政策が強行された天正年中、9歳までに、美作にいた同族の宮本無二の養子となったと考えられる。『五輪書』に「生国播磨の武士」と書く武蔵には、武功で名を立てんとする戦国武士の精神が底流にあった。養父の無二は、主家の新免姓を名乗ることを許され、足利将軍より「天下無双」の号も賜って、二刀を遣う当理流を創始した一流の武芸者であった。武蔵は少年期から関が原の戦いの年まで、この養父に当理流を仕込まれていたと見られる。

第二章は、二十代の武者修行期について。新免家中は、関が原の戦いでは西軍方主力の宇喜多勢で戦ったが敗れ、九州の黒田家に入った。武蔵も、養父と行を共にしたと思われる。2年後、21歳で上京して武者修行を始め、29歳までに60余度勝負する。23歳の時、名門吉岡一門に挑戦して三度戦い完勝し、「天下一」を称した。この直後から翌年にかけて『兵道鏡』を書き、28箇条の術理を書いて円明流を立てたことが判明した。若き武蔵は、養父の『当理流目録』を踏まえながら、自分の実戦体験を合わせて術を冷静に分析していたことが分かる。

巌流小次郎との勝負は、武蔵没後八十年以上経って歌舞伎で上演され有名となったが、大きく遅れて敵を焦らし、櫂を削った木刀で勝ったというのは『二天記』(1776) の創作で、古い資料には同時に会して戦うとある。諸資料と『兵道鏡』の術理から、勝負の実際を推測し記した。

第三章は、「謎の二十年間」と呼ばれる三十代から五十代について。慶長18年の日出藩主の日記『木下延俊日次記』によって、この時代には有名武芸者が優遇されていた実状を見た。2年後の大坂夏の陣に徳川譜代の水野家の騎馬武者として出陣した武蔵は、陣後播磨に戻り、姫路に入封してきた譜代の本田家に養子三木之助を仕えさせ、自らは客分として遇された。寛永三年 (1626)、甥の伊織を養子として隣藩の小笠原家に出仕させ、自らも客分として移った。伊織は5年後、若くして藩の家老に出世した。武蔵は出仕しなかったが、譜代の客分として優遇されており、水墨画を初め諸芸に学びながら、兵法の道理を追求していた。7年後の島原の乱には、惣軍奉行として藩兵を率いた伊織を助け出陣し、大将の役割もよく分かったと思われる。「五十歳の頃、道に達した」と『五輪書』に書くが、新たに判明した56歳の時の『兵法書付』は、勝負の様々な場面を列挙して述べ、こうした積み重ねがあって道理に達したと思われる。

第四章は、晩年の熊本時代。資料は多いが史料批判が必要で、よく引用される藩主への口上書や三家老に宛てた書状は偽書である。最近発見された自筆の書状により、武蔵から求めて熊本藩に入り、藩主の客分として厚遇され、二天一流も急速に広まったことを示した。寛永十八年 (1641) の『兵法三十五箇条』は、柳生宗矩の高弟であった藩主に提出するので、『兵法書付』の術理を他流の目から見直し、比喩を用いて高度な心得を書いたものである。だがその藩主が急逝したので、改めて若い武士に兵法書を書き遺そうとした。漢文序の『五方之太刀道』を読むと、自ら見出した剣術の理は合戦に通じ、「百世」に通じる普遍的なものだという自負していたことが分かる。しかしこの漢文の序を止め、自身の言葉で書いたのが現行の『五輪書』の和文の序である。『五輪書』五巻は、病中最期まで書き直し仕上げんとした、武蔵畢生の書である。

第二部は、『五輪書』に即して武蔵の思想を論じる。「五輪書」の名は18世紀になって言い出された書名で、武蔵自身は五巻の書とだけ言っていた。地の巻で五巻の構成を予告しているが、各巻の条目も整理されており、五巻で剣術を核とした武士の生き方を書こうとしたものである。

第一章は、地の巻について。総論的に兵法を論じる。士農工商の社会の中で、武士を戦闘者として位置づける。鑓・長刀・弓・鉄砲の使い方も論じるが、剣術で戦い方を知れば、合戦にも通じるとし、士卒も大将も共に知るべきものとする。士卒と大将を、大工に喩え、技を磨き実力があれば棟梁にもなれるとするところに、実力で将に出世せんとした戦国武士の精神が窺える。武士は、技でも、心でも、生き方でも、また将として人を使い、国を治めることでも、全てにおいて人に勝つことを求めている。また諸芸の道を引いて、兵法にも常に鍛錬すべき「道」としての性格を与えようとしている。

第二章は、水の巻について。剣術技法を示す。まず術の基礎として、心持、身なり、目付などを詳しく書くが、どこにも居付かず、即座にいかようにも動き得る「生きた」体を基準とする。太刀遣いは、最も振りやすく切りやすい「太刀の道」に即することを原理とする。それを自分の感覚で精妙に掴むために「五方の構」からの「五つのおもて」という五本の形を示す。構や形の外形にとらわれず、その都度敵を切りやすい様に構え、「太刀の道」に即して遣えと言う。形稽古の意味をこのように明確に言い切った論は他には見られない。以上の理を示した後、敵の拍子の逆を取る、入り身の仕方、大勢との戦い方等、実戦的な心得を記し、最後に「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とすべし」と稽古の心得を説く。水の巻は、武蔵の剣術論の合理性と体系性、道の追求の仕方をよく示している。

第三章は、火の巻について。戦い方を書く。まず戦う場の状況全てを、自分に有利に、敵には不利にする工夫が示される。常に自分が主導権を握り、敵が技を出そうとするところを抑え、技を出せなくせよと言う。実際の戦い方としては、まず敵の強い所・弱い所を見抜いて、敵が無理な動きとなるよう仕向け、心理的にも動揺を誘って、敵に崩れが見えた瞬間に一気に攻め切れと説く。これらの戦い方は、剣術だけでなく、合戦にも通用するとする。

第四章は、風の巻について。他流の誤りを指摘することを通じて、自分の理論の正しさを確証する。他流のように特殊な術理にとらわれずに、いつでも通用する理を求め、教え方も、秘伝とすることを否定し、学ぶ者に合わせて導くべきだとする。

第五章は、空の巻について。道の鍛錬を徹底するためには、常に空を思いとって、自らを顧みとらわれをなくせと言う。地の巻以下の道理に徹すれば、「道理を得ては道理を離れ」「おのづから打ち、おのづからあたる」如くになり、迷いのない澄んだ「実の空」に至る。空を言っても、禅の思想によるのではなく、自らの道の追求の中から出た言葉として用いている所に、武蔵の徹底性が見られる

おわりにでは、武蔵の兵法の道を貫いた生き方と『五輪書』に示された思想は、道元、世阿弥、心敬、千利休、松尾芭蕉等に見られる、一つの道を徹底して修し深めていけば普遍的な道に達するという日本の思想的伝統の中から生まれてきたものであり、武士として個の意識を強烈に持って生き抜いた武蔵に、道というものが端的に現われていることを論じた。

資料篇には、武蔵の著作を確定した文献学的考察と校訂した本文を示した。書・画・細工の確実性の度合いにより五分類した一覧表を掲げた。二天一流の相伝術技の原形を推定した論も載せた。また武蔵に関する江戸期の諸資料を、内容ごとに分類して時代順に掲げ、明治以降の文献は、研究上価値あるものに限り挙げた。

審査要旨 要旨を表示する

審査の対象となった本論文は、宮本武蔵について、周辺諸資料を収集・整理し史料批判を厳密に行ない、評伝・逸話等で流布した虚像を正すととも、『五輪書』等、その全著作を思想解読し、宮本武蔵の新たな思想史的位置づけを図ったものである。

第一部は、武蔵の実生涯を史料的に解明している。江戸時代以来積み重ねられてきた様々な虚像を排して、信頼しうる史料のみに基づき、また養父や養子、その他関係した周辺人物をふくめ武蔵が生きた時代の社会の状況も合わせ論じることで、より実像に近い武蔵像が描かれている。すでに二刀を遣った一流の武芸者であった養父のもとで少年期から鍛錬し、武者修行で実戦勝負をしていた20代半ばにすでに勝負の術理を書いた『兵道鏡』を著していたこと、壮年期は譜代大名の客分となり諸芸を嗜んでいたこと、晩年の『五輪書』に至るまでの具体的な過程など、本論文において初めて明らかにされている。

第二部は、武蔵の思想の集大成ともいえる『五輪書』を、形・動きなど身体感覚の裏付けを持った言葉で具体的に解釈した上で、その「兵法の道」を思想史的に位置づけている。核となる剣術について武蔵は、術の基礎を重視して自らの体の感覚に基づいた術理論を追求し、太刀遣いにも合理的な原理を見出し、その稽古法を明確にした上で、実践的な心得を展開したことが跡づけられている。また剣術における戦い方は、合戦の場にも応用可能であることを示し士卒から大将まで心得るべき兵法の論として展開し、さらにその兵法の理は諸芸にも通じるとともに、「空」を思い取って修練に徹すればおのずから迷いのない「実の空」に至りうることを示して、それを「道」として把握しようとした所以が明らかにされている。その上で、道元、世阿弥、心敬、千利休、松尾芭蕉等のそれぞれ終生追求された「道」-「修行」のあり方の伝統を踏まえながら、武蔵は、武士として個の意識を強烈に持ちながら実戦武術であった「兵法」を、生涯追求すべき人の「道」へと高めたと評価している。

資料編には、諸写本を渉猟した研究によって初めて武蔵のものと判明した三つの著作(『兵道鏡』、『兵法書付』、『五方之太刀道』)の文献学的考察とその翻刻、『五輪書』の6写本を校合して従来のテキストの不備を校訂し、さらに書状や水墨画の鑑定・分類一覧表、二天一流の伝承技術等の諸資料、その他周辺も合わせた関係諸資料も整理して載せている。

以上のように本論文は、これまで学術的に本格的に研究されてこなかった宮本武蔵を綿密な史料批判に基づきその全体像を明らかにするとともに、それを日本の武道、ひいては道一般への普遍的理解に繋げようとしたものとして高く評価することができる。「人を殺すこと」の技術の精錬の倫理学的な意味や、「道」の徹底が普遍に繋がるという普遍の内実の解明など、さらに考察すべき課題は残されているが、審査委員会としては、本論文が博士(文学)の学位に十分ふさわしいものと判断した。

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