学位論文要旨



No 215913
著者(漢字) 青柳,直子
著者(英字)
著者(カナ) アオヤギ,ナオコ
標題(和) 心拍変動長周期ゆらぎの生理学的機序
標題(洋)
報告番号 215913
報告番号 乙15913
学位授与日 2004.02.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 第15913号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山本,義春
 東京大学 教授 渡部,洋
 東京大学 教授 金森,修
 東京大学 教授 武藤,芳照
 東京大学 教授 衞藤,隆
内容要旨 要旨を表示する

ヒトがこの世に生を受けてから死に至るまで、一時も休むことなく絶えず心臓は拍動を続ける。心拍動には1拍毎の変動(心拍変動)があることが知られており、その時系列データをスペクトル解析すると、長周期領域で1/fβ型のパワースペクトルを持ち、フラクタル成分がその領域でのパワーの多くを占めることが報告されている。

心拍変動は、高周波(>0.15H;周期長6.7秒以下)、低周波(0.04〜0.15Hz;同6.7〜25秒)、超低周波(0.04〜0.0033Hz;同25〜303秒)、極低周波(<00033Hz;同303秒以上)帯域の4つの周波数帯域で構成される (Task Force of the North American Society of Pacing and Electrophysiology and the European Society of Cardiology,1996)。これらのうち、周期長が約30秒までの短周期変動の成因については、呼吸や血圧調節の影響を受けることが知られている。日常生活下において観察される心拍変動には、このような秒単位の周期長の変動以外に、内因性因子(レニンーアンジオテンシンシステム、体温調節作用)や外因性因子(身体運動、食事、睡眠・覚醒などの日常生活行動)に起因する長周期性の変動などが重畳しており、これら多様な時間スケールを持つ複数の制御システムによる影響が反映されると考えられる。

心拍変動の長周期成分については、そのパワーやスペクトル指数βが心疾患患者の予後予測指標として有効であることや、その時間一周波数構造が健常者と心疾患患者とでは異なるといった臨床的有用性を示す報告が近年見受けられる。しかしながら、その成因の生理学的機序は明らかではない。長周期帯域での内因性因子のひとつとして考えられるレニンーアンジオテンシンシステム(血液量の保持と昇圧作用により血液循環を調節する機構)の影響に関しては、その知見の殆どが心疾患患者を対象として得られたものであり、健常者については十分なデータ長に基づく検証がなされていない。同様に、体温調節作用の影響についても統一的見解が得られていない。

一方、身体活動が心拍変動の変化をもたらす影響の大きさを考慮すると、睡眠・覚醒(休息・活動)や食行動などの種々の行動要因は心拍変動の長周期成分の主要な寄与因子のひとつであると考えられる。しかしながら、心拍変動と行動(身体活動)の長期同時計測に基づく検証はこれまでになされておらず、身体活動の影響については明らかではない。

これらの状況を鑑み、本論文では、新規に開発した携帯型長期生体信号記録機器を用いて、(1)心拍変動・身体活動の長期モニタリング下、(2)行動(身体活動)を含む外因性因子の制限下、(3)アンジオテンシンン変換酵素阻害剤(カプトプリル)服用時における心拍変動の長周期成分の様相について各々観察した。健常者を対象としたこれらの実験結果に基づき、身体活動、体温調節作用、レニンーアンジオテンシンシステムが心拍変動長周期成分に及ぼす影響について検討し、心拍変動長周期ゆらぎの生理学的機序の解明を試みた。

身体活動の影響

若年被検者6名を対象として、日常生活(自由行動)下における心拍変動・身体活動(鉛直方向の体幹加速度の積分値)を6日間計則した結果、これらに概日周期性があることが確認された。また、これまで報告されているような呼吸リズムに相当する高周波成分やMayerリズムに相当する低周波成分以外には、特徴的な周期的成分は24時間以内すなわちサーカディアン(概日)振動以下には存在せず、少なくとも健常者については超低周波(ULF)帯域の振動成分が一様にスケーリングされている可能性が示唆された(paragraph)。さらに、概日周期以外にも数時間単位での行動リズムが存在し、これが心拍変動の長周期ゆらぎに関与している可能性が示された。

次に、長周期帯域で観察された心拍変動のスケーリング則が、循環調節システムに固有の内因性因子に起因するのか、それとも日常生活行動などの外因性因子に起因するのか、という点を明らかにするために、コンスタントルーチン法を適用して心拍変動に影響を及ぼすと考えられる外因性因子(身体活動、姿勢、食事、睡眠)を約27時間厳密に制限した(対象者;若年男性7名)。その条件下での応答を、同被検者を対象とした日常生活(自由行動)下(デイリールーチン)における観察結果と比較した(表1)。その結果、ディリールーチンでは、心拍変動と身体活動のパワースペクトルは、全周波数帯域においてべき型に一様にスケーリングされていた。一方、コンスタントルーチンでは、周期長約1時間に相当する対数周波数-3.5Hzまでは、心拍変動のパワースペクトルにべき型のスケーリングが観察され、それより長周期の帯域では平坦化するという特徴が見られた。身体活動のパワースペクトルについては、対数周波数-4Hzまでのスケーリングとそれ以下の周波数帯域においてパワーが減少する傾向がみられた。対数周波数-3.5Hzを境界値として、心拍変動の長周期帯域におけるパワースペクトルの特徴が顕著に観察されるようになったことから、この境界値をもとに長周期帯域を新たに2つに設定(新超低周波帯域;対数周波数-1.4Hz〜-3.5Hz、新極低周波帯域;対数周波数-3.5Hz以下)し、心拍変動のパワースペクトルを比較したところ、両ルーチン条件下において新超低周波帯域(周期長25秒〜1時間相当)までは同様にスケーリングされており、これは身体活動の有無に関わらず示された。この帯域におけるパワーには有意差は認められなかった。これらの結果より、新超低周波帯域における心拍変動の成因は、内因性因子すなわち循環調節システムの動態を反映したものであることが示唆された。また、それより低周波の領域における心拍変動の成因は、日常生活行動などの外因性因子による影響を反映している可能性が示唆された。

体温調節作用の影響

コンスタントルーチンにおいて、深部体温の差分データのパワースペクトルは広帯域に渡り平坦化しており、べき型のスケーリングは観察されなかった。また、深部体温と心拍変動のコヒーレンスについては、概日周期性以外では高い相関関係は見られなかったことより、心拍変動の長周期帯域におけるフラクタル性は体温調節作用に起因するものではなく、その成因は体温調節作用とは異なる可能性があることが示唆された。

レニンーアンジオテンシンシステムの影響(表1)

カプトプリルおよびプラセボ服用時における心拍変動には、広帯域に1/fβ型のパワースペクトルが観察された。スペクトル指数には両剤間で変化は認められなかった。カプトプリルの服用により、超低周波(VLF)帯域におけるパワーに有意な低下が見られたが、その他の周波数帯域では有意差は認められなかった。これらの結果より、健常者においては、超低周波 (VLF) 帯域の成因としてレニンーアンジオテンシンシステムの関与がある可能性が示唆された。しかしながら、これはスケーリング則には大きな影響を及ぼすものではないと考えられ、レニンーアンジオテンシンシステムの関与がみられなくても、心拍変動長周期成分のフラクタル性は存在するということが示唆された。

本論文において、健常者を対象として、日常生活下における心拍変動と身体活動の長期モニタリング、コンスタントルーチン法、アンジオテンシン変換酵素阻害剤服用実験、時間一周波数解析などの解析手法を組み合わせることにより、心拍変動の長周期ゆらぎの成因として、(1)約1時間より長周期の領域では、行動(身体活動)要因の影響を強く受けること、(2)それより高周波の帯域(周期長25秒〜1時間)においては、内因性機構すなわち循環調節システムによる影響を反映し、そのうち周期長25〜303秒の帯域では、レニンーアンジオテンシンシステムによる血圧調節が関与している可能性があること、(3)体温調節作用の影響は小さいこと、が示唆された。本論文において新規になされた一連の試みにより、心拍変動長周期ゆらぎの生理学的機序の一部を明らかにすることが出来たと考えられる。

長期測定期間(6日間)中の心拍変動と身体活動の10秒間平均値データから算出したパワースペクトル(n=6)

縦軸をパワースペクトル、横軸を周波数としてパワースペクトルを両対数表示した。図中のプロットは、RRI(心電図RR間隔)及びBM(身体活動)の平均パワー±標準誤差が示されている。

心拍変動長周期帯域のパワースペクトルに及ぼすレニンーアンジオテンシンシステムと身体活動の影響

VLF:超低周波帯域(対数周波数-1.4Hz〜-2.48Hz)、ULF:極低周波帯域(対数周波数-2.48Hz以下)、new VLF:新超低周波帯域(対数周波数-1.4Hz〜-3.5Hz)、new ULF:新極低周波帯域(対数周波数-3.5Hz以下)、βa:超低周波帯域以下、及びβb:新超低周波帯域において算出された回帰直線の傾きの絶対値

審査要旨 要旨を表示する

ヒトの心臓拍動間隔の時系列データ(心拍変動)は、自律神経活動の評価や心疾患の病態像把握の有効な指標として、また生体複雑系の代表例として、近年盛んに研究がなされている。本論文は、生理学的機序の未だ不明な心拍変動の長周期成分について、身体活動、体温調節、レニンーアンジオテンシン系 (RAS) の及ぼす影響を実験的に調べたものである。

第1章では、心拍変動の生理学的機序に関するこれまでの知見をまとめている。周期約30秒以上の長周期成分より抽出した指標が、心疾患の病態把握や予後判定に有効であることを示した近年の知見に触れるとともに、長周期成分の成因として提案されている身体活動、体温調節、RASに関する従来の知見が信号解析処理上不十分であること、それゆえその生理学的機序についてほとんど明かにされていないことを指摘し、本研究の位置づけおよび意義を明確にしている。

第2章および第3章では、新たに開発された長期心拍変動・身体活動記録装置の動作確認を行った後、この装置を用いて6日間に渡る日常生活下の連続計測を行い、長周期領域の心拍変動には複雑系に特徴的なスケール則が観察されること、また一部の周波数帯域では身体活動が心拍変動の主要な寄与因子であることを明らかにしている。これらの結果をふまえ、第4章では、身体活動を含む外因性因子を26時間厳密に制御した条件下で心拍変動の計測を行い、周期25秒〜1時間の領域では日常生活下と同様なスケール則が観察されるが、それより長周期の領域では変動の有意な減少によるスケール則の消失がみられることを明らかにした。すなわち、周期約1時間までの心拍変動は複雑な循環調節系の固有な動態を反映したものであるが、それより長周期領域における心拍変動は、日常生活行動などの外因性因子による影響を受けることが明らかになった。さらに、同時に測定した深部体温時系列は、心拍変動時系列との相関が低く、同様なスケール則が観察されなかったことから、この領域の心拍変動への体温調節の寄与は小さいことを示した。また第5章では、RASの影響を調査するため、アンジオテンシン変換酵素 (ACE) 阻害剤服用下で同様の実験を行い、ここでもACE阻害剤はスケール則には大きな影響を及ぼさず、RASの寄与は小さいと結論している。

第6章では、本論文で得られた研究成果をまとめた上で、心拍変動長周期成分を臨床指標に用いる際には身体活動の影響を考慮する必要性があると指摘、さらに、心拍変動の周期約1時間までの固有変動成分が循環調節機能の評価において有用な指標を提供する可能性について論じている。

以上のように、本論文は心拍変動長周期成分の生理学的機序に関して新たな知見を提示、特に、循環調節系固有の複雑変動成分の存在を実験的に証明した点で、今後さまざまな分野での研究の発展に大きく寄与するものであるといえる。よって、本論文は博士(教育学)の学位論文として優れたものであると判断された。

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