学位論文要旨



No 215915
著者(漢字) 黒木,健郎
著者(英字)
著者(カナ) クロキ,ケンロウ
標題(和) 低速多価イオンによるプロトンスパッタリングの研究
標題(洋)
報告番号 215915
報告番号 乙15915
学位授与日 2004.02.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第15915号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山崎,泰規
 東京大学 教授 増田,茂
 東京大学 助教授 福谷,克之
 東京大学 助教授 植田,直光
 東京大学 教授 小牧,研一郎
内容要旨 要旨を表示する

大きなポテンシャルエネルギーをもった多価イオンが物質の表面に近づくと、表面からプロトンが多価イオンの強い価数依存性をもって放出されることが知られている。この価数依存性は多価イオンの運動エネルギーを小さくした低速の多価イオンにおいては非常に強くなる(価数の5 乗程度)ことが報告されている。この強い価数依存性は古典的障壁乗り越えモデル(COB モデル:Clasical Over the Barrier)によって説明できることが示されている。本研究では、多価イオンによるプロトンスパッタリングを研究するために、清浄表面実験が可能な超高真空実験槽を製作し、放出プロトンの二次元分布が測定できるTOF-2DPSD (Time Of Flight - 2Dimentional Position Sensitive Detector) 測定装置を開発して、低速の多価イオンを固体表面に衝撃し、放出プロトンの収量、二次元分布、放出エネルギーなどを測定した。

まず、本研究では4 価から12 価までのXe イオンを、超高真空中の熱処理によって再構成されたSi(100)-(2×1)清浄表面から作成したSi(100)-(2×1)H、Si(100)-(1×1)H 表面に衝撃したときのXe イオン1 個あたりのプロトン収量を測定した。実験結果を図1 に示す。図にはプロトンと同時に測定されたSi+イオン収量も表示している。プロトン収量はSi-(2×1)H、Si-(1×1)H 表面ともにq5 という非常に強い価数依存性を示していることがわかる。一方Si+イオン収量には価数依存性はみられない。同じようなプロトン収量の価数依存性はKakutani らが未処理表面に関して報告しており、その生成機構をBurgdorfer らはCOB モデルによって説明している。本研究におけるSi(100)-(2×1)清浄表面から作成したよく定義されたSi 表面からのプロトンスパッタリングにおいても、多価イオン衝撃によるプロトン生成機構はCOB モデルによって説明されると考えられた。

また、TOF-2DPSD 装置によって多価イオン衝撃による二次イオンの放出二次元分布とその放出エネルギーを測定した。図2 に色々なSi 表面からの放出プロトンの二次元分布を示す。Si-(2×1)H 表面からSi-(3×1)H、Si-(1×1)H 表面と表面上の水素原子数が増えると放出プロトンの二次元分布も広がっていた。Si-(2×1) H2O 表面においては表面上の水素原子数はSi-(2×1)H 表面よりも少ないが、放出プロトンの二次元分布は非常に大きく広がっていた。2DPSD 装置で測定される二次元分布は放出プロトンのSi 表面に平行なエネルギー成分を現している。Si 表面に垂直なエネルギー成分は放出プロトンのTOF から求めた。さらに、超高真空中の熱処理によって再構成されたSi(100)-(2×1)清浄表面に水素、重水素、水を吸着させて表面状態を変化させて、多価イオン衝撃によるプロトン収量の表面に対する依存性を測定した。図1 においてもSi-(2×1)H とSi-(1×1)H 表面では表面に吸着した水素原子数が2 倍程度しか変化していないのにプロトン収量は10 倍程度増加している。Si+イオン収量も3 倍程度増加している。Si(100)の各表面を3keV のXe8+イオンで衝撃したときのプロトン収量、Si+イオン収量、水素被覆率、放出プロトンエネルギー、表面Si+の寿命の一欄表を表1 に示す。表において(2×1)H、(3×1)H、(2×1) H2O の各表面は原子的に平坦な表面であり、(1×1)H と(1×1)D 表面は原子的にラフな平面であるとSTM の観測によって理解されている。

プロトン収量は(2×1)H と(3×1)H 表面では表面上の水素原子数と同程度であるが、同じように原子的に平坦な(2×1)H2O 表面においては表面上の水素原子数は(2×1)H 表面の8 割弱であるにもかかわらずプロトン収量は(2×1)H の3.5 倍となっている。原子的にラフな(1×1)H表面においては表面上の水素原子数は(2×1)H 表面の2 倍程度であるのにプロトン収量は(2×1)H の10 倍程度になっている。3keV のXe8+イオンで衝撃したときに表面上で生成されるプロトン量が表面上の水素原子数に対して一定であると仮定すると、これらのプロトン収量の変化は生成されたプロトンの中性化確率の違いを表していると考えられた。原子的に平坦な(2×1)H2O 表面においてプロトンの中性化確率が抑制されるのは(2×1)H2O 表面のSi-OH ボンドの水素がO 原子の上に存在するためにSi 表面からの距離が大きいためであると考えられる。(1×1)H 表面の水素原子に関しては、表面の凸凹によってSi の表面からの距離が実効的に大きくなっているためであると考えられた。原子的に平坦な表面ではSi+イオン収量は、プロトン収量とは対照的にほぼ同じであり、ラフな表面では増加していた。

電気的性質が同じで質量だけが異なる重水素吸着表面、(1×1)D 表面からの重水素イオン収量を測定して(1×1)H 表面からのプロトン収量を比較すると生成されたプロトンの生き残り確率を求めることができる(表1)。この確率から計算すると、Si-(1×1)H 表面においては、3keV のXe8+イオン1 個の衝撃で 0.9 個程度のプロトンが生成されていることになる。また、このプロトン収量と重水素イオン収量の比からプロトンの表面でのイオン寿命(0.6fs)を求めることができた。これは、後述する放出プロトンエネルギーから求められるSi+の表面でのイオン寿命(11fs)に比べて非常に短くなっていた。

Si-2x1H、-1x1H 表面からのプロトンとSi+収量の価数依存性(点線はq5 の依存性を示す。プロトンには価数依存性があるがSi+にはない)

Si 各表面の放出プロトン二次元分布

各種Si 表面におけるプロトン収量、Si+イオン収量、水素被覆率、放出プロトンエネルギー、表面Si+の寿命

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、第1章序論、第2章未処理表面からのプロトンスパッタリング、第3章水素終端Si表面からのプロトンスパッタリング、第4章水吸着Si表面からのプロトンスパッタリング、第5章実験結果のまとめ、第6章まとめ、の全6章からなっている。

低速多価イオンはそれに伴う強い電場と大きなポテンシャルエネルギーのために特異な振る舞いをすることが知られている興味深いプローブである。特に固体表面との相互作用では、中空原子生成や表面の改質効果などがこれまでも様々に議論されてきた。

本論文は、上記表面改質効果の一側面といえる2次イオン放出現象を、微視的によく定義された(well-defined)3種類の水素終端Si(001)面と重水素終端面、さらに水終端面に対して、低速多価イオンを用いて系統的に研究したこれまでにない研究報告である。このような実験は一般に破壊的(destructive)であり、従来の研究ではイオンによって変質した表面を観測していることがほとんどであった。本研究ではこのような表面状態の変化を極力避けるため、2次イオンの収集検出効率がほぼ100%になる検出系を作ることにより、表面状態を特定した観測を可能にしている。

論文申請者は、超高真空実験槽を設計製作し、放出イオンの3次元分布が測定できるTOF-2DPSD (Time Of Flight - 2Dimentional Position Sensitive Detector) 測定装置を開発した。さらに、得られた3次元情報をevent毎に取り込むインターフェースとそのデータを解析するプログラムを独自に開発している。

本研究では、まず、Si(100)-(2×1)H、Si(100)-(1×1)H表面に4価から12価までのXeイオンを入射させ、入射イオン1個あたりのプロトン収量を測定し、いずれの表面の場合も、q5という非常に強い価数依存性を持つことを見いだした。これは、入射イオンからの運動量移行によりはじき出されるSi+イオンの収量が入射価数に依存しないことと好対照で、低速多価イオンによるプロトン放出がSi+放出とは質的に異なる機構により引き起こされていることを明らかにした。この放出過程の違いはさらにプロトン収量を多価イオンの入射角の関数として観測することによっても確認されている。申請者は、以上の観測結果が古典的障壁乗り越えモデル(classical over barrier model)による多電子移行過程とその結果生成されるプロトンが再中性化される過程を考慮することによりほぼ説明できることを示した。

次に申請者は、放出プロトンの2次元分布と飛行時間分布を測定し、放出時におけるプロトンの3次元運動量分布を評価することに成功している。これからプロトン放出は、理論的に予想されているSi-Hボンドの方向ではなく、ほぼ表面垂直方向に起こること、Si-(2×1)H表面からSi-(3×1)H、Si-(1×1)H表面と表面上の水素原子数が増えるとともに、分布幅が広がることを見いだした。この傾向はやはりプロトンの再中性化過程を考慮することにより定性的には説明されている。Si-(2×1) H2O表面では、H2Oが解離吸着して形成されるSi-OHボンド上のHがプロトン放出に大きな寄与をすること、Si-(2×1) H2O表面に加熱処理を施すことによりプロトンの放出分布がSi-(2×1)H表面の場合に近づき、加熱によりOHボンドの酸素が表面下に潜り込むという現象が従来指摘されたより低い温度で既に起こっていることを示し、ここで開発された検出方法の感度が非常に高いことを示した。

さらに、電子状態がほぼ同じで質量だけが異なる重水素が吸着した表面、(1×1)D表面、に対して同様の実験を行った。この様にして得られた同位体効果と簡単なモデル計算を組み合わせることにより、多価イオン衝撃時の水素原子の電離確率とその後の再中性化確率が評価できることを示し、吸着位置におけるプロトンの再中性化寿命として0.6fsを得ている。一方、放出プロトンのエネルギー分布からは、Si+の再中性化寿命が11fsと求められた。これらの数値が具体的に求められたことは興味深いことであり、今後の理論的研究、他の系に対する実験的研究が待たれる。

以上、本申請者は、低速多価イオンとよく定義された表面というユニークな衝突系を、2次イオン放出現象を通して系統的に研究し、プロトン放出過程が多価イオンへの多電子移行と、その後の再中性化過程で半定量的に説明できることを示した。本研究は数名の共同研究者と共に進められたものであるが、実験装置の立ち上げ、実験の遂行、その後のデータ解析等、すべて本申請者が主体的に進めたものである。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50240