学位論文要旨



No 215919
著者(漢字) 森田,貴己
著者(英字)
著者(カナ) モリタ,タカミ
標題(和) 深海魚α-アクチンの高水圧適応の分子機構に関する研究
標題(洋) Studies on molecular mechanisms underlying high pressure adaptation of α-actin from deep-sea fish
報告番号 215919
報告番号 乙15919
学位授与日 2004.03.01
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15919号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 教授 伏谷,伸宏
 東京大学 教授 阿部,宏喜
 東京大学 教授 田之倉,優
 東京大学 助教授 落合,芳博
内容要旨 要旨を表示する

魚類には水深6000 mにも及ぶ深海に生息している種が知られている。海洋は水深10 m毎に水圧が約1気圧上昇することから、水深6000 mでは約600 気圧の水圧が生じていることになる。こうした高水圧は化学反応の法則のもとにある生物の様々な生体機能に悪影響することが知られている。深海魚といえども、その生体機能は浅海性魚類や陸上動物のそれと基本的に変わらないと考えられる。このため深海魚の高水圧適応機構については古くから関心が持たれ多くの研究が行われてきた。しかしながら、生体機能の根幹を成すタンパク質について構造と高水圧下での機能との関係を明らかにした報告はこれまでにない。

このような背景の下、本研究では深海性ソコダラ類のヨロイダラ Coryphaenoides armatus およびシンカイヨロイダラ C. yaquinaeの骨格筋α-アクチンをcDNAクローニングし、演繹アミノ酸配列から高水圧適応に関わるアミノ酸を推定した。そして、両深海魚から精製したα-アクチンの高水圧下での生化学的性状を調べて数種の動物から精製したものと比較し、高水圧適応に必須のアミノ酸を同定した。得られた成果の概要は以下の通りである。

ホカケダラ属 (Coryphaenoides) の分子系統樹の作成

ホカケダラ属のソコダラ類は、浅海から深海と幅広い水深に生息する同属種が存在することから、深海魚の特性を探る様々な研究に用いられている。本研究ではまず、比較生化学研究を行う対象魚を選択することを目的として本属の分子系統樹を作成した。ホカケダラ属の深海性ソコダラ類ヨロイダラおよびシンカイヨロイダラと、浅海性ソコダラ類イバラヒゲC. acrolepis、カラフトソコダラC. cinereus、ムネダラC. pectoralis、ヒモダラC. longifilis およびハナソコダラC. nasutus、アウトグループとしてテナガダラ属テナガダラ Abyssicola macrochir とトウジン属オニヒゲ Caelorinchus gilberti の各魚種からミトコンドリア12S rRNAおよびcytochrome oxidase subunit I (COI)遺伝子の配列をそれぞれ829 bpおよび444 bp決定した。次に、12S rRNA およびCOI遺伝子の各配列から最大節約法、近隣接合法および最尤法の3描画法を用いて分子系統樹を作成した。12S rRNA の配列から得られた系統樹は 3 描画法とも同一の樹形を示したが、COI 遺伝子の配列では3描画法とも異なった樹形を示した。そこで12S rRNA と COI 遺伝子の両配列を組み合わせ、系統樹を作成した。その結果、描画法によらず信頼性の高い一つの系統樹が得られ、本系統樹から深海性および浅海性ソコダラ類がホカケダラ属の進化の初期の段階で分岐したことが示された。形態的特徴やペプチドマッピングによるこれまでの系統樹では、深海性ソコダラ類がホカケダラ属の進化の最終段階で分岐されていた。本研究で用いた解析方法はこれまでのものより信頼性が高いことが既に知られている。以上の系統樹解析を参考に、深海性ソコダラ類であるヨロイダラおよびシンカイヨロイダラの比較対象魚として、浅海性ソコダラ類からイバラヒゲおよびカラフトソコダラを選択した。

深海性ソコダラ類α-アクチンの高水圧下での性状変化

深海性ソコダラ類のヨロイダラおよびシンカイヨロイダラ、浅海性のソコダラ類イバラヒゲ、淡水魚のコイおよび陸上動物のニワトリの骨格筋からα-アクチンを精製し、高水圧下での性状を調べた。まず、アクチンの重合に要する時間を調べたところ、深海性ソコダラ類のα-アクチンは60 Mpa(600気圧)で大気圧の2.7倍の時間を要した。これに対して、深海性ソコダラ類以外のα-アクチンは、圧力が10 Mpa を越えると重合に要する時間が急激に長くなり、60 Mpa では大気圧の5.6-7.3倍にも達した。次に、各α-アクチンの重合の臨界濃度を調べた結果、深海性ソコダラ類は20 Mpa 以下の圧力では他の生物よりも高い濃度を必要としたが、20 Mpa を越えてもその濃度は、ほとんど変化しなかった。一方、深海性ソコダラ類以外の生物のα-アクチンは20 Mpa を越えると臨界濃度が上昇し、深海性ソコダラ類のそれより高い値となった。続いて、重合に伴うα-アクチンの体積増加量を調べたところ、深海性ソコダラ類のα-アクチンは大気圧下においても増加量が少なく、圧力が上昇してもこの性質は変化しなかった。一方、浅海性ソコダラ類とニワトリのα-アクチンは圧力上昇に伴って体積増加量が減少し、この変化は重合アクチンの体積の減少によることが推定された。コイのα-アクチンは他とは異なり、圧力上昇に伴って体積増加量も上昇した。この変化は、単量体アクチンの体積の減少に基づくことが推定された。

深海性ソコダラ類α-アクチンの cDNA クローニング

深海性ソコダラ類のヨロイダラおよびシンカイヨロイダラと浅海性ソコダラ類のイバラヒゲの骨格筋から cDNA ライブラリー法により、他の浅海性ソコダラ類カラフトソコダラの骨格筋からは PCR 法によりα-アクチンの cDNA クローニングを行った。その結果、4種類のソコダラからそれぞれ2タイプずつのα-アクチン cDNA が単離された。近隣接合法を用いて塩基配列をクラスター解析したところ、浅海性ソコダラ類のα-アクチンはアクチン-1とアクチン-2aの2タイプに、深海性ソコダラ類のα-アクチンはアクチン-2aとアクチン-2bの2タイプに分類された。ノザンブロット解析および定量RT-PCR法によって、これら3タイプのα-アクチン mRNA はいずれも骨格筋中での発現が確認された。その存在比はアクチン-1/2aが0.67、アクチン-2b/2aが4.1-4.3であった。2次元電気泳動法によってアクチン-2b/2aのタンパク質重量比は4.5-4.8と測定され、mRNA の存在比とほぼ一致した。

深海性ソコダラ類α-アクチンの高水圧適応に必須のアミノ酸の同定

演繹アミノ酸配列において、深海性ソコダラ類に特異的なアクチン-2bタイプは、浅海性ソコダラ類に特異的なアクチン-1タイプと比べてQ137K、A155SおよびV54AまたはL67Pの計3カ所にアミノ酸置換を示した。

既報のα-アクチンの立体構造から、N末端から155番目のアミノ酸はATPと、137番目のそれはCa2+との結合に関与するアミノ酸であることが示された。なお、ATPとアクチンの結合にはCa2+も関与する。そこでまず、Quin 2およびε-ATPを用いて、Ca2+とATPのα-アクチンからの解離に及ぼす圧力の影響を調べた。その結果、深海性ソコダラ類のα-アクチンは圧力の影響をほとんど受けなかったのに対し、浅海性ソコダラ類を含めた他生物種のα-アクチンでは20 Mpa を越えた時点から圧力の影響を受け、解離が促進された。これらの測定結果から、Q137K およびA155S の両置換は深海性ソコダラ類のα-アクチン分子内に Ca2+とATP が高圧によって押し込まれるのを防ぎ、深海性ソコダラ類に高水圧適応を付与していることが示唆された。そのメカニズムとして、Q137Kの置換によりアミノ酸側鎖の電荷を負から正に変えCa2+との間に反発力を生じさせること、Q137KとA155S の両置換がアミノ酸側鎖を大きくする方向にあることなどが考えられた。

続いて、α-アクチンのトリプトファンの自家蛍光を高水圧下で測定したところ、Ser-155のみを持つ深海性ソコダラ類のα-アクチンは高水圧下においても蛍光量が変化しないのに対して、Ser-155とAla-155を持つアイソフォームが混在する浅海性ソコダラ類のα-アクチンではその蛍光量が減少した。この結果から、深海性ソコダラ類のα-アクチンは浅海性ソコダラ類のそれに比べて高水圧に安定な構造を持つことが明らかになった。なお、Ala-155のみを持つコイのα-アクチンの測定結果から深海性ソコダラ類のα-アクチンの高水圧下での構造安定性はA155Sのアミノ酸置換によると推定された。

次に、サブドメイン2中に存在するV54Aまたは L67P の置換の役割を調べた。サブドメイン2はアクチンが重合する際、他のアクチン分子と接触する領域の一つである。そこで、このサブドメイン2に結合することが知られているdeoxyribonuclease I (DNase I)とアクチンの結合実験を高水圧下で行った。その結果、深海性ソコダラ類のα-アクチンは高水圧下においても DNaseI と結合することが示され、高水圧下で深海性ソコダラ類のα-アクチンが重合できるのは、サブドメイン2中の置換が重要であると推定された。以上のように深海性および浅海性ソコダラ類の特性の大きな違いが、数個のアミノ酸置換で説明できることは、ホカケダラ属における両系統が進化の初期の段階で分岐したことと関連するものと考えられる。

以上、本研究により深海性ソコダラ類のα-アクチンで高水圧適応に必須なアミノ酸が特定された。また、本研究ではホカケダラ属の信頼できる分子系統樹が作成され、深海魚が深海へ進出した道筋も示唆された。本研究は、深海魚のタンパク質の一次構造と高水圧適応の関係の一端を初めて明らかにしたもので、その成果は比較生化学上、資するところが大きいと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

ある種の深海魚は水圧が600 気圧にも及ぶ深海に生息している。その高水圧適応機構については古くから関心が持たれてきたが、タンパク質について構造と高水圧下での機能との関係を明らかにした報告はこれまでにない。本論文では深海性ソコダラ類のヨロイダラ Coryphaenoides armatus およびシンカイヨロイダラ C. yaquinae の骨格筋α-アクチンをcDNAクローニングし、高水圧適応に関わるアミノ酸を推定した。さらに、両深海魚から精製したα-アクチンの高水圧下での生化学的性状を調べて数種の動物から精製したものと比較し、高水圧適応に必須のアミノ酸を同定した。得られた成果の概要は以下の通りである。

ホカケダラ属のソコダラ類は、浅海から深海と幅広い水深に生息する同属種が存在することから、深海魚の特性を探る様々な研究に用いられている。本論文ではまず、比較生化学的研究を行う対象魚を選択することを目的として、ミトコンドリア12S rRNA および cytochrome oxidase subunit I (COI) 遺伝子の部分配列を決定し、本属の分子系統樹を作成した。本系統樹から深海性および浅海性ソコダラ類がホカケダラ属の進化の初期の段階で分岐したことが示された。以上の系統樹解析を参考に、深海性ソコダラ類であるヨロイダラおよびシンカイヨロイダラの比較対象魚として、浅海性ソコダラ類からイバラヒゲおよびカラフトソコダラを選択した。

次に、深海性ソコダラ類2種、浅海性のソコダラ類イバラヒゲ、淡水魚のコイおよび陸上動物のニワトリの骨格筋からα-アクチンを精製し、高水圧下で重合に要する時間、臨界濃度及び重合に伴う体積増加量を調べた。いずれの分析においても深海性ソコダラ類のα-アクチンは、大気圧下とほぼ変わらぬ性状を示した。

さらに、深海性ソコダラ類と浅海性ソコダラ類の骨格筋からα-アクチンのcDNAクローニングを行った。その結果、それぞれ2タイプずつのα-アクチンcDNAが単離された。ノザンブロット解析、定量RT-PCR法および2次元電気泳動法から、これらα-アクチンmRNA およびタンパク質のいずれも骨格筋中に存在していること、その存在量は高水圧に適応したタイプがいずれの形態でも多く存在していることが示された。

次に、演繹アミノ酸配列において、深海性ソコダラ類に特異的なアクチンのタイプは、浅海性ソコダラ類に特異的なタイプと比べてQ137K、A155SおよびV54AまたはL67Pの計3カ所にアミノ酸置換を示した。既報のα-アクチンの立体構造から、155番目のアミノ酸はATPと、137番目のそれはCa2+との結合に関与するアミノ酸であることが示された。そこでまず、Quin 2およびε-ATPを用いて、Ca2+とATPのα-アクチンからの解離に及ぼす圧力の影響を調べた。これらの測定結果から、Q137KおよびA155Sの両置換はα-アクチン分子内にCa2+とATPが高圧によって押し込まれるのを防ぎ、深海性ソコダラ類に高水圧適応を付与していることが示唆された。そのメカニズムとして、Q137Kの置換によりアミノ酸側鎖の電荷を負から正に変えCa2+との間に反発力を生じさせること、Q137KとA155Sの両置換がアミノ酸側鎖を大きくする方向にあることなどが考えられた。続いて、α-アクチンのトリプトファンの自家蛍光を高水圧下で測定した結果、深海性ソコダラ類のα-アクチンは浅海性ソコダラ類のそれに比べて高水圧に安定な構造を持つことが明らかになった。次に、サブドメイン2中に存在するV54AまたはL67Pの置換の役割を調べるため、サブドメイン2に結合することが知られている deoxyribonuclease I (Dnase I)とアクチンの結合実験を高水圧下で行った。その結果、深海性ソコダラ類のα-アクチンは高水圧下においてもDNase I と結合することが示され、高水圧下で深海性ソコダラ類のα-アクチンが重合できるのは、V54AまたはL67Pの置換が重要であると推定された。

以上、本論文により深海性ソコダラ類のα-アクチンで高水圧適応に必須なアミノ酸が特定された。また、ホカケダラ属の信頼できる分子系統樹が作成され、深海魚が深海へ進出した道筋も示唆された。さらに本論文は、深海魚のタンパク質の一次構造と高水圧適応の関係の一端を初めて明らかにしたもので、その成果は学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50241