学位論文要旨



No 215920
著者(漢字) 山下,桂司
著者(英字)
著者(カナ) ヤマシタ,ケイジ
標題(和) ベニクダウミヒドラ Tubularia mesembryanthemum アクチヌラ幼生の着生に関する研究
標題(洋) Studies on Settlement and Metamorphosis of Actinula Larvae of the Hydroid Tubularia mesembryanthemum
報告番号 215920
報告番号 乙15920
学位授与日 2004.03.01
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15920号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伏谷,伸宏
 東京大学 教授 阿部,宏喜
 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 助教授 松永,茂樹
 東京大学 助教授 渡辺,俊樹
内容要旨 要旨を表示する

ベニクダウミヒドラ Tubularia mesembryanthemumは、群体性の海産ヒドロ虫類(刺胞動物)であり、定置網や臨海プラントの海水使用系統などに大量に付着して様々な被害を及ぼす。ほとんどのヒドロ虫類は、プラヌラ幼生と呼ばれる楕円球状の幼生をもつが、本種はアクチヌラ幼生と呼ばれる触手をもつユニークな形態の幼生を産出する。ヒドロ虫類幼生の着生に関する研究のほとんどが、プラヌラ幼生を対象としており、アクチヌラ幼生の着生に関しては不明の点が多かった。

そこで、本研究では、ベニクダウミヒドラに対する新しい付着制御技術の基礎となる知見を得ることを目的に、幼生の付着行動と細胞動態について詳細な観察を行うとともに、幼生の着生に関与する外因性ならびに内因性要因について種々検討したところ、多くの重要な新知見が得られた。その概要は以下の通りである。

自然海域におけるベニクダウミヒドラ群体の季節的な消長と幼生の遊出

先ず、相模湾長井港沿岸に設置された人工基盤上におけるベニクダウミヒドラ群体の消長を調べた結果、ほぼ通年、水深1〜10mの直射日光の当たり難い部位に群体が観察された。成熟群体は、2〜3月(表層水温12〜14℃)、6〜7月(20〜26℃)および10〜11月(24〜20℃)に見られ、特に水温の高い6〜7月に人工基盤のほぼ全面に繁茂した。群体はさらなる水温の上昇とともに急速に退行し、8月〜9月(26〜30℃)には群体の囲皮のみが残存するのみとなった。これらの結果から、ベニクダウミヒドラは、かなり広範囲の水温条件下で無性生殖による群体形成と有性生殖による幼生遊出を繰り返すことが明らかになった。さらに、群体の着生・繁茂が6〜7月にピークを示したことから、幼生の新規加入は、水温18〜22℃で最も多いと考えられ、また10月に出現する群体は、高水温によって一旦退行した群体の組織塊から再生したものと推定された。これらの群体は流水水槽による飼育により約1〜2ヶ月間成熟維持することが可能であった。なお、本種は雌雄異体であり、媒精後約4日で雌ポリプの生殖体からアクチヌラ幼生が遊出した。

幼生の着生過程における行動、形態変化および細胞動態

飼育中の成熟雌群体から幼生を多数持つポリプを切り取り、ビーカー内に静置すると、1ポリプ当たり20〜300個体の幼生が遊出した。得られた幼生を濾過海水で3回洗浄した後、以下の実験に用いた。なお、幼生の着生試験は、原則として暗条件下、水温19±1℃で行った。

先ず、微速度撮影ビデオと各種顕微鏡による幼生行動の詳細な観察を行った。アクチヌラ幼生は径約300μmのほぼ球状の体部から長さ約1〜1.5mmの触手が数本(多くは8本あるいは6本)放射状にのびたユニークな形状をしており、触手の先端はやや膨らんでいた。触手先端には粘着刺胞 (atrichous isorhizas) と呼ばれる一種類の刺細胞が充満しており、基盤表面に衝突した瞬間、触手先端から粘着刺胞が発射され、基盤上にアンカリングすることによって一次付着した。一次付着を繰り返しながら好ましい基盤を選ぶと、基盤表面に触手先端を押し付け捩りながら多数の粘着刺胞を放出・塗布する特異的な着生行動(刺胞塗布行動 "nematocyte-printing behavior")を示した。この行動と連動して、体底部を基盤に強く押し付けて基盤に最終定着を行った。体底部には好アルカリ性のセメント分泌顆粒をもつ分泌細胞群が存在しており、定着時にセメント物質が分泌される様子が観察された。また、遊出直後から定着・走根伸長にいたるまでの幼生と幼ポリプの触手の刺細胞組成や刺細胞の挙動を調べたところ、定着時の刺胞塗布行動と同期して、体部に多数待機していた別種類の刺細胞(貫通刺細胞と捲刺細胞)が体壁から触手へ匍匐移動(平均速度、9μm/min)することがわかった。結果として、幼生定着の前後で、触手の刺細胞組成が一次付着用の粘着刺細胞優占から摂餌・防御用の貫通刺細胞および捲刺細胞優占へとダイナミックに入れ替わることがわかった。

機械的刺激に対する幼生の反応と陽イオンの役割

次に、自然海域における海水流動を部分的に模擬した新規アッセイ法を用いて、幼生の付着行動を観察したところ、海水の撹拌と機械的な接触刺激によって幼生の一次付着と定着が強く促進され、撹拌中はキャピラリー上に付着し、撹拌を停止すると触手を伸ばしてキャピラリーから離脱するといった、海水の動きに応じた明瞭な反応を示した。また、これらの機械的刺激に対する反応は、幼生遊出後の時間に応じて急速に変化した。遊出後2〜4時間の若い幼生では一時的に付着しても撹拌停止後すぐに離脱するが、遊出後 1 日経過して十分に成熟した幼生では、1回の衝突でそのまま定着行動を開始して直ちに定着・変態を完了した。したがって、アクチヌラ幼生は遊泳能力が全く無いものの、海水の流動と停止に応じて一次付着と離脱を繰り返すことにより、基盤の選択を行え、また、幼生の機械刺激感受性は遊出後の時間とともに急速に高まると考えられる。

さらに、機械的刺激に対する幼生の反応と海水中の陽イオン濃度(特にCa2+)との関係について検討した結果、海水中のCa2+濃度を通常濃度の1/10(0.9mM)以下に減少させると、幼生の付着(機械刺激応答)はほぼ完全に抑えられ、一方通常海水に戻すとこの抑制は直ちに解除された。また、幼生の一次付着前後に、触手先端の細胞内Ca2+濃度が一過的に急上昇した。さらに、幼生の一次付着と細胞内Ca2+濃度上昇はともに、1μM以上のGd3+によって可逆的に抑制された。したがって、アクチヌラ幼生の付着には海水中のCa2+が必須であり、幼生の触手先端が基盤に衝突した瞬間、触手先端に存在する機械受容要型カチオンチャネルを介して海水中のCa2+濃度が触手先端細胞内に流入し、これが引金となって幼生の付着反応が開始されると考えられる。

幼生付着に及ぼす微生物フィルムの影響

多くの海洋生物幼生は、微生物フィルムによって付着・変態が誘起される。ベニクダウミヒドラ幼生も、流水中で形成された微生物フィルムによって付着が促進された。特に、浸漬1〜3週間の微生物フィルムがアクチヌラ幼生の付着を強く促進した。エタノールや加熱処理しても、この活性は変わらなかったが、過ヨウ素酸で処理すると、処理時間とともに活性は急速に低下した。また、レクチン(特にLCAとPSA)処理しても活性は強く抑制された。さらに、単離・培養した数種の付着珪藻について調べたところ、付着珪藻 Cocconeis sp. が着生を強く促進した。なお、活性には、LCA/PSA結合型糖鎖やフィルム表面の微細構造が重要な役割を果たしていると考えられる。

幼生の着生を制御する内因性シグナル

最後に、付着・変態に関わる幼生内シグナルについて検討した。既知のペプチド性神経伝達物質とその類縁体、ならびにそれらの断面について、アクチヌラ幼生の反応を調べた。バソプレッシンやFMRF-amide などの多くのペプチドには活性が見られなかったが、淡水産ヒドラの神経ペプチド (GPMTGLW-NH2) は5x10-7M以上で幼生の最終定着と変態を強く促進した。そこで、このペプチド断片について調べたところ、ペプチド鎖が短くなるほど活性が低下し、LW-NH2は活性を全く示さなかった。また、抗GLW-NH2抗体を用いた免疫染色では、若い幼生には抗原の発現がほとんど認められなかったが、成熟幼生(遊出後 1 日)には触手先端の感覚細胞と触手から体部に至る神経細胞および神経繊維に抗原ペプチドの発現が認められた。さらに、幼ポリプには触手先端に抗原性がほとんど認められなかったが、体壁部全般の神経網は陽性反応を示した。したがって、GLW-amide と免疫学的に相同な神経ペプチドが、アクチヌラ幼生の着生能の発現と着生を制御する内因性シグナル伝達に重要な役割を果たしていることが示唆された。

以上、本研究の結果、ベニクダウミヒドラのアクチヌラ幼生の付着・変態に関与する外因性ならびに内因性要因について検討したところ、これまでほとんど不明であったアクチヌラ幼生の行動と着生過程における刺細胞の動態を明らかにするとともに、幼生の着生には機械刺激、細胞内外Ca2+および微生物フィルム(特に付着珪藻)、ならびにGLW-amide 作動性神経系が関与することを実験的に証明することができた。本研究によって得られたこれらの新知見を基礎として、着生機序の解明や新しい付着制御技術開発への展開が期待される。

審査要旨 要旨を表示する

ベニクダウミヒドラ Tubularia mesembryanthemum は、群体性の海産ヒドロ虫類(刺胞動物)であり、定置網や臨海プラントの海水使用系統などに大量に付着して様々な被害を及ぼすが、本種が産出するアクチヌラ幼生の着生に関しては不明の点が多かった。

そこで、本研究では、ベニクダウミヒドラに対する新しい付着制御技術の基礎となる知見を得ることを目的に、幼生の付着行動と細胞動態について詳細な観察を行うとともに、幼生の着生に関与する外因性ならびに内因性要因について種々検討したところ、多くの重要な新知見が得られた。その概要は以下の通りである。

自然海域におけるベニクダウミヒドラ群体の季節的な消長と幼生の遊出

先ず、相模湾長井港沿岸に設置された人工基盤上におけるベニクダウミヒドラ群体の消長を調べた結果、かなり広範囲の水温条件下で無性生殖による群体形成と有性生殖による幼生遊出を繰り返すことが明らかになった。さらに、幼生の新規加入は、水温18〜22℃で最も多いことが分かった。これらの群体は流水水槽による飼育により約1〜2ヶ月間成熟維持することが可能であった。なお、本種は雌雄異体であり、媒精後約4日で雌ポリプの生殖体からアクチヌラ幼生が遊出した。

幼生の着生過程における行動、形態変化および細胞動態

成熟雌群体のポリプから遊出した幼生の行動を微速度撮影ビデオと各種顕微鏡によって詳細な観察を行ったところ、アクチヌラ幼生は径約 300μm のほぼ球状の体部から長さ約1〜1.5mmの触手(6〜8本)が放射状に伸びたユニークな形状をしており、触手の先端はやや膨らんでいた。触手先端には粘着刺胞が充満しており、基盤表面に衝突した瞬間、触手先端から粘着刺胞が発射され、基盤上にアンカリングすることによって一次付着した。一次付着を繰り返しながら好ましい基盤を選ぶと、基盤表面に触手先端を押し付け捩りながら多数の粘着刺胞を放出・塗布する特異的な着生行動を示した。この行動と連動して、体底部を基盤に強く押し付けて基盤に最終定着を行った。体底部には好アルカリ性のセメント分泌顆粒をもつ分泌細胞群が存在しており、定着時にセメント物質が分泌される様子が観察された。また、定着時の刺胞塗布行動と同期して、体部に多数待機していた別種類の刺細胞が体壁から触手へ匍匐移動することがわかった。すなわち、幼生定着の前後で、触手の刺細胞組成が一次付着用の粘着刺細胞優占から摂餌・防御用の貫通刺細胞および捲刺細胞優占へとダイナミックに入れ替わった。

機械的刺激に対する幼生の反応と陽イオンの役割

次に、自然海域における海水流動を部分的に模擬した新規アッセイ法を用いて、幼生の付着行動を観察したところ、海水の撹拌と機械的な接触刺激によって幼生の一次付着と定着が強く促進され、撹拌中はキャピラリー上に付着し、撹拌を停止すると触手を伸ばしてキャピラリーから離脱するといった、海水の動きに応じた明瞭な反応を示した。また、これらの機械的刺激に対する反応は、幼生遊出後の時間に応じて急速に変化した。すなわち、遊出後2〜4時間の若い幼生では一時的に付着しても撹拌停止後すぐに離脱するが、遊出後1日経過して十分に成熟した幼生では、1回の衝突でそのまま定着行動を開始して直ちに定着・変態を完了した。したがって、アクチヌラ幼生は遊泳能力が全く無いものの、海水の流動と停止に応じて一次付着と離脱を繰り返すことにより、基盤の選択を行い、また、幼生の機械刺激感受性は遊出後の時間とともに急速に高まると考えられた。

さらに、機械的刺激に対する幼生の反応と海水中の陽イオン濃度、特にCaイオンとの関係について検討した結果、アクチヌラ幼生の付着には海水中のCa2+が必須であり、幼生の触手先端が基盤に衝突した瞬間、触手先端に存在する機械受容型カチオンチャネルを介して海水中のCa2+が触手先端細胞内に流入し、これが引金となって幼生の付着反応が開始されると推測された。

幼生付着に及ぼす微生物フィルムの影響

多くの海洋生物幼生は、微生物フィルムによって付着・変態が誘起される。ベニクダウミヒドラ幼生も、流水中で形成された微生物フィルムによって付着が促進された。さらに、単離・培養した数種の付着珪藻について調べたところ、付着珪藻 Cocconeis sp. が着生を強く促進した。なお、活性には、LCA/PSA結合型糖鎖やフィルム表面の微細構造が重要な役割を果たしていると考えられた。

幼生の着生を制御する内因性シグナル

最後に、付着・変態に関わる幼生内シグナルについて検討した。既知のペプチド性神経伝達物質とその類縁体、ならびにそれらの断片について、アクチヌラ幼生の反応を調べた。バソプレッシンや FMRF-amide などの多くのペプチドには活性が見られなかったが、淡水産ヒドラの神経ペプチド (GPMTGLW-NH2) は5 x 10-7M以上で幼生の最終定着と変態を強く促進した。そこで、このペプチド断片について調べたところ、ペプチド鎖が短くなるほど活性が低下し、LW-NH2は活性を全く示さなかった。また、抗GLW-NH2抗体を用いた免疫染色では、若い幼生には抗原の発現がほとんど認められなかったが、成熟幼生(遊出後1日)には触手先端の感覚細胞と触手から体部に至る神経細胞および神経繊維に抗原ペプチドの発現が認められた。さらに、幼ポリプには触手先端に抗原性がほとんど認められなかったが、体壁部全般の神経網は陽性反応を示した。したがって、GLW-amideと免疫学的に相同な神経ペプチドが、アクチヌラ幼生の着生能の発現と着生を制御する内因性シグナル伝達に重要な役割を果たしていることが示唆された。

以上、本研究では、ベニクダウミヒドラのアクチヌラ幼生の付着・変態に関与する外因性ならびに内因性要因について検討したところ、これまでほとんど不明であったアクチヌラ幼生の行動と着生過程における刺細胞の動態を明らかにするとともに、幼生の着生には機械刺激、細胞内外Ca2+および付着珪藻フィルム、ならびに GLW-amide 作動性神経系が関与することを実験的に証明したもので、学術上、応用上寄与するところは大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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