学位論文要旨



No 215930
著者(漢字) 鳴海,多惠子
著者(英字)
著者(カナ) ナルミ,タエコ
標題(和) ヤママユガ科の絹糸の形態的構造特性に関する研究
標題(洋)
報告番号 215930
報告番号 乙15930
学位授与日 2004.03.01
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15930号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,正彦
 東京大学 教授 田付,貞洋
 東京大学 教授 永田,昌男
 東京大学 助教授 石川,幸男
 東京大学 助教授 嶋田,透
内容要旨 要旨を表示する

絹糸を吐糸する昆虫は多いが、「絹」として実用的に利用されているのはカイコが吐糸する家蚕糸とヤママユガ科昆虫が吐糸する野蚕糸である。野蚕糸と家蚕糸はフィブリルの束状の集合から構成されているが、数種の野蚕糸の中にはボイドが存在することが報告されおり、また、野蚕の絹糸腺内の液状絹にも独特な液胞が存在することが観察されていた。ボイドの存在が野蚕糸の独特の風合いと光沢をもたらすと考えられており、ボイドの発生機構および形態変異に関して系統的に追究する研究が必要とされている。

本研究は、野蚕糸の形態的構造特性の解明を目的として、繭層中のフィブロイン繊維から衣料素材の織布中のフィブロイン繊維に至るまでの、ボイドの存在の確認とその形態特性および形態変化について数量的解析を行い、それらを規定する遺伝的要因、飼育等の環境要因、および製品化の工程における物理的要因について検討し、ボイドの分布形態の制御の可能性を追究した。研究の概要は以下の通りである。

繭層フィブロイン繊維の形態的構造特性

ヤママユガ科の13種とカイコガ科のカサンとクワコおよびミノガ科のオオミノガの繭層フィブロイン繊維について、走査型電子顕微鏡および透過型電子顕微鏡で観察したところ、ヤママユガ科の繭層フィブロイン繊維中にはカイコガ科やミノガ科のフィブロイン繊維には見られない、13種に共通する構造としてボイドが存在することが確認された。ボイドの形状は繊維軸方向に長い柱状をなし、横断面の形状は概して楕円形を呈するが、その大きさや数の多寡には明確な種間差異がみられた。また、1つの繭の中でも繭層の部位による差異、さらに1つのフィブロイン繊維断面における分布位置による差異がみられた。そこで、これらのフィブロイン繊維の構造特性を数量的に解析するために、電子顕微鏡写真を解析対象とする、画像処理による計測システムを構築した。このシステムによるボイド形態の特徴の評価が、顕微鏡観察による直視的評価との一致性が高く、微小でかつ大量に存在するボイドの形状を精度高く、迅速に計測する上で有効であることを確認した上で、紡織繊維材料として実用的に利用されているタサールサン、テンサン、サクサン、ムガサン、シンジュサン、エリサンの6種の繭層フィブロイン繊維のボイドの形状について数値的に解析した。解析項目をボイドの面積、扁平度、フィブロイン繊維断面中の総数およびフィブロイン繊維断面積に対するボイドの総面積の占める割合(占有面積率)とし、個体間差異および個体内差異について検討した。

その結果、1フィブロイン繊維断面中の平均ボイド数はムガサン、タサールサン、テンサンで多く、ボイドの平均断面積はタサールサンが0.2μm2であるのに対し、サクサンは0.03μm2と種間差異が明確に分析できた。フィブロイン繊維断面積に対するボイドの占有面積率およびその繊維断面による変異の多少から、タサールサンのフィブロイン繊維が最も多孔性であることやムガサン、エリサンのフィブロイン繊維断面によるボイドの分布に変異が大きいことが示された。また、ボイドの分布形態は繭層の位置による差異は吐糸経過による形態変容と考えられ、ボイドの形態決定にフィブロイン繊維の繊維化機構との関係が推測された。

蚕体内におけるボイドの形成過程と形状変化

繭層フィブロイン繊維中のボイドの分布形態の解明およびボイドの発現機構の追究を目的として、テンサン幼虫の絹糸腺内の液状絹中のボイドの存在の確認および存在形態を解析した。その結果、ボイドは後部糸腺から直径10μm程度の液胞あるいは気胞として分泌され、後部糸腺から前部糸腺まですべての位置において存在し、各位置によるボイドの形態的特徴が認められた。ボイドの形態変化はいったんは分裂し小径化するが、中部糸腺では融合し、さらに、中部糸腺と前部糸腺の境界付近からのボイドの径は著しく減少し、中部糸腺までは球形であった形状が、縦断面の扁平度が急激に増加していることから、この付近がボイドの柱状化の開始位置であり、繊維化の開始と考えられた。

以上の結果から、ボイドは絹糸腺の腺細胞から分泌され、液状絹の流動とともに液状絹の粘性の変化、絹糸腺の形状の狭窄およびに繊維化による伸張を受けて形状の変化を生ずることが確認された。

ボイドの形態決定における環境的支配

繭層フィブロイン繊維中のボイドの分布形態は種による特徴が明確にあり、本来、同一種において個体差があってもその差は他の種との特徴の差異を凌駕するものではない。しかし、短日飼育による休眠サクサンと長日飼育による非休眠サクサンの繭層フィブロイン繊維中のボイドの分布形態には著しい差異があることから、ボイドの形態における飼育環境の影響について検討した。その結果、休眠と非休眠性のサクサンの繭およびフィブロイン繊維の形状には差異はみられなかったが、ボイドの形態には著しい差異が認められた。すなわち休眠サクサンでは、ボイドの形状は小さく、数も少ないという特徴があり、ボイドが存在するフィブロイン繊維は観察数の半数に満たなかった。それに対し、非休眠サクサンでは、種間比較において最も多孔性を示したタサールサンに匹敵するほどボイドの形状は大きく、数も多い事が分かった。このことから、ボイドの形態決定に環境的要因が関与することが明らかとなり、遺伝的に均一な集団のボイド量は飼育環境の操作により策定が可能であり、人為的な構造特性の発現への応用が図れることが示唆された。

ボイドの形態決定における遺伝的支配

ボイドの形態に明確な差異のあるテンサンと休眠サクサンの種間交雑を行い、交雑F1と両親の繭層フィブロイン繊維の構造の比較からボイドの形態決定に関わる遺伝的支配について検討した。その結果、交雑F1では親の代のテンサンとサクサンのフィブロイン繊維の形状とボイドの分布形態の比較において、フィブロイン繊維はややテンサンの形質が強く発現したが、ボイドの形態は、個体によって休眠サクサン型とテンサン型の双方があらわれ、交雑F1は両親のボイドの形態が分離して発現することが示された。

織組織中のボイドの形態的特徴と形態変化の要因解析

繭層フィブロイン繊維中に存在するボイドは、種々の工程を経て最終製品である織布となるまで、その分布形態を維持しうるものであるかどうか、市販の野蚕織布中のフィブロイン繊維の構造解析から追究した。その結果、野蚕織布中のボイドの形態は、繭層フィブロイン繊維中のボイドに比してその存在様相は著しく異なる例が多く、概してボイド数が小さく、少ない傾向にあった。繭層フィブロイン繊維中のボイドと異なった存在様相は、「縮小化」「条斑化」「ボイドの形状の崩れ」の4パターンに類例化できた。さらに、フィブロイン繊維の断面の扁平度とボイドの扁平度との間には高度な相関が認められ、布に成形する過程での物理的作用の影響が考えられた。このことから、ボイドの存在に起因する布特性を、製品化の工程における負荷を調整することにより人為的に操作することの可能性がうかがえた。このことを製糸・精練工程に関して実験的に検証したところ、煮繭の段階でボイドの縮小化と条斑化が生ずることが確認できた。さらに煮繭後のフィブロイン繊維への加重により、ボイドは崩れなど、さらに形状の変容が著しくなり、ボイドの閉鎖もあり得ることが実証された。 以上の結果より、フィブロイン繊維の構造は繭層フィブロイン繊維より緻密化することが判明したが、各工程における物理的負荷の制御により、新たな風合い特性をもつ野蚕製品の開発が可能であることが示唆された。

以上、要するに本研究は、ヤママユガ科13種の繭層フィブロイン繊維中のボイドの形態的特徴が種に固有の構造的特性であることを数値的に明らかにし、これを絹糸腺内の液状絹の形態と比較することにより、ボイドの形成過程と分布形態が環境的要因と遺伝的要因により支配されていること、および製品化の工程における膨潤と加圧によりボイドの縮小と扁平化が起きることを明らかにしたものである。このことは、野蚕種に固有の形質を持つ絹糸の形態を、飼育から製糸・製織の過程の条件設定により技術的に制御することが可能であることを示したものである。

審査要旨 要旨を表示する

絹糸を吐糸する昆虫は多いが、絹糸として実用的に利用されているのはカイコ(家蚕)とヤママユガ科昆虫(野蚕)が吐糸する繭糸である。数種の野蚕の絹糸腺の液状絹と繭糸にはボイドが存在することが報告されており、これが野蚕糸の独特の風合いと光沢をもたらすと考えられていることから、ボイドに関する系統的な研究が必要とされている。

本論文は、野蚕糸の形態的構造特性の解明を目的として、電子顕微鏡観察を基にボイドの形態特性の数量的解析を行い、それを規定する遺伝的要因、環境要因、および製品化工程における物理的要因を検討し、絹糸の形態の制御の可能性を追究したものである。

繭層フィブロイン繊維の形態的構造特性

【繭層中のフィブロイン繊維の構造特性の観察】:ヤママユガ科の13種とカイコガ科の2種およびミノガ科の1種の繭を、電子顕微鏡で観察したところ、ヤママユガ科の13種全ての繭層繊維中に他科には見られないボイドが存在していた。ボイドの形状は繊維軸方向に長い柱状をなし、横断面は概して楕円形を呈し、その大きさや数の多寡には明確な種間差異がみられ、繭層の部位および繊維断面の位置による差異もみられた。

【フィブロイン繊維の構造特性の数量的解析方法の開発】:フィブロイン繊維の構造特性を数量的に解析するために、画像処理による計測システムを構築した。これを用いて、実用されているタサールサン、テンサン、サクサン、ムガサン、シンジュサン、エリサンの繭層繊維について、ボイドの面積、扁平度、フィブロイン繊維断面中の総数と総面積、およびフィブロイン繊維断面積に対する総面積の割合(占有面積率)等を数値的に解析した。

【繭層中のフィブロイン繊維のボイドの形態の数量的解析】:1フィブロイン繊維断面中の平均ボイド数はムガサン、タサールサン、テンサンで多く、ボイドの平均断面積はタサールサンが0.2μm2であるのに対し、サクサンは0.03μm2と種間差異が明確であった。ボイドの占有面積率とその繊維断面による変動の大少から、タサールサンの繊維が最も多孔性であること、ムガサン、エリサンでは占有面積率の変動が大きいことが示された。

ボイドの形態決定における環境的要因および遺伝的要因

【蚕体内におけるボイドの形成過程と形状変化】:テンサン幼虫の絹糸腺内の液状絹中のボイドの形態を解析した。ボイドは後部糸腺から直径10μm程度の小胞として分泌され、後部糸腺から前部糸腺まですべての位置に存在し、各位置による形態的特徴が認められた。中部糸腺と前部糸腺の境界付近からボイドの径は著しく減少し、球形から円柱形への急激な形態変化が開始することから、この付近が繊維化の開始位置と考えられた。

【ボイドの形態決定における環境的支配】:サクサンの短日飼育(休眠性)と長日飼育(非休眠性)の繭およびフィブロイン繊維の形状には差異はみられなかったが、ボイドの形態には著しい差異が認められた。短日飼育では、ボイドの形状は小さく、数も少なかったのに対し、長日飼育では、大きく、数も多かった。このことから、ボイドの形態決定に環境的要因が関与することが明らかとなり、ボイド形態を人為的に制御できる可能性が示唆された。

【ボイドの形態決定における遺伝的支配】:テンサン雌と休眠サクサン雄の種間交雑を行い、交雑F1と両親の繭層フィブロイン繊維の構造の比較からボイドの形態決定に関わる遺伝的支配について検討した。その結果、交雑F1では繊維の形態はややテンサンの形質が強く発現したが、ボイドの形態は個体によって休眠サクサン型とテンサン型の双方があらわれ、両親のボイドの形態が分離して発現していた。

織組織中のボイドの形態変化の要因解析

【織組織中のフィブロイン繊維のボイドの形態的特徴】:繭層フィブロイン繊維と市販の野蚕織布の繊維構造を比較した。その結果、野蚕織布中のボイドの形態は、繭層フィブロイン繊維中のボイドに比して「縮小化」「条斑化」「ボイドの形状の崩れ」など著しい変化がみられ、フィブロイン繊維の断面の扁平度とボイドの扁平度との間には高度な相関が認められたことから、布に成形する過程での物理的作用の影響が考えられた。

【製糸および精練工程におけるボイドの形態変化】:製糸・精練工程において繊維にかかる負荷による形態変化を実験的に検証したところ、煮繭と繰糸の段階でボイドの縮小化と条斑化が生ずること、および精錬・製織工程における繊維への加重により、ボイドはさらに形状の変容が著しくなり、ボイドの閉鎖もあり得ることを実証し、各工程における物理的負荷の制御により、新たな風合い特性をもつ野蚕製品の開発が可能であることを示唆した。

以上、要するに本研究は、ヤママユガ科の繭層フィブロイン繊維中のボイドの形態的特徴が種に固有の構造的特性であることを数値的に明らかにし、絹糸腺内の液状絹の形態との比較からボイドの形成過程と分布形態が環境的要因と遺伝的要因に影響されていること、および製品化の工程における膨潤と加圧によりボイドの縮小と扁平化が起きることを明らかにしたものである。これは、飼育から製糸・製織の過程の条件設定により絹糸の形態を技術的に制御することの可能性を示したもので、学術上、応用上、有意義な知見を得ている。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク