No | 215931 | |
著者(漢字) | 北條,理恵子 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | ホウジョウ,リエコ | |
標題(和) | TCDDの母体暴露がラットの行動および脳の形態におよぼす性特異的影響 | |
標題(洋) | Sexually Dimorphic Behaviors and Brain Morphology in Rats Prenatally Exposed to TCDD | |
報告番号 | 215931 | |
報告番号 | 乙15931 | |
学位授与日 | 2004.03.01 | |
学位種別 | 論文博士 | |
学位種類 | 博士(獣医学) | |
学位記番号 | 第15931号 | |
研究科 | ||
専攻 | ||
論文審査委員 | ||
内容要旨 | ダイオキシン類は、WHO(世界保健機構)や我が国では、「ポリ塩素化ジベンゾ-p-ダイオキシン(PCDDs)、ポリ塩素化ジベンゾフラン(PCDFs)及びコプラナーPCB(Co-PCBs)を含めた3種類の化合物の総称」と定義されている。いずれも強毒性で、人類または他の生物への不可逆的な悪影響が懸念されるため、わが国や欧米諸国で汚染軽減対策が進められている環境汚染物質である。なかでも2,3,7,8-四塩素化ジベンゾ-p-ダイオキシン(2,3,7,8-tetrachlorodibenzo-p-dioxin; TCDD)は、ダイオキシン類のプロトタイプであり最強毒性を有するとされている。 脂肪組織に蓄積されたダイオキシン類は、妊娠・授乳中に胎盤および母乳を通じて発達中の胎児に移行する。TCDDを妊娠ラットに投与すると、妊娠動物自体にはまったく影響が観察されない微量投与であっても、仔ラットの生殖器系が障害を受けることが報告されている。発達中の器官は、ダイオキシ類に特に敏感だと考えられ、その胎児への影響は極めて深刻な問題である。しかしながら、ダイオキシン曝露が発達期の脳に与える影響についての研究はほとんど行われていないに等しい。本研究では、妊娠期における低用量のTCDDの母体曝露が発達中の胎仔脳におよぼす影響について、ラットを用いて検証した。TCDDがおよぼす影響の指標として、仔動物が成熟してからの記憶・学習行動と脳の形態に焦点を当て調べた。 最初に、記憶学習行動についての行動実験を行った。妊娠8日目のSprague-Dawley(SD)ラットにそれぞれ0、20、60、180ng/kgのTCDDを経口投与した。胎生8日目における胎仔脳は、前脳胞が終脳と間脳に分かれる頃であり、従って大脳皮質には胚芽神経上皮のみが認められる時期である。TCDDを曝露した母ラットから生まれた仔が90日齢時よりレバー付きオペラント実験箱を用い、課題に応じたレバー押し反応を解析するSchedule-controlled operant behavior (スケジュール制御性オペラント行動;SCOB)実験パラダイムでのオペラント行動について解析した(45分間のセッションを1日一回、週5日間、計62セッション)。最初の32セッションでは、Incremental Fixed Ratio(固定比率強化スケジュール;FR)強化スケジュールを行った。FRスケジュールでは、レバーをある一定の回数押すたびに報酬(エサなど)を提示する。すなわちFR11ではレバー押し11回目毎に報酬が提示される。本実験でのIncremental FR強化スケジュールでは、FR1から始まり、4セッション毎にFR比率を6、11、21、31、41、51、71と段階的に増加させた。Incremental FR強化スケジュール終了後、Multiple(Mult)強化スケジュールを30セッション行った。Mult強化スケジュールは、2種類の強化スケジュールが組み合わされたもので、本実験ではFR11と、differential reinforcement of low rate (DRL) 10 秒強化スケジュールを交替で提示した。DRL強化スケジュールは低率反応に対して選択的に報酬を提示するスケジュールで、反応と反応の間に一定の待ち時間を要求する。本実験では直前のレバー押しから10秒以上経過後の反応に対して報酬を提示した。10秒以内の反応に報酬は提示せず、時計もその時点で再びゼロにリセットした。FRを1分間、DRLを5分間、セッション終了まで交替した。報酬を50個提示し終えた時点、またはセッション開始から45分経過した時点いずれかでセッション終了とした。FRとDRLを分けて分析を行い、それぞれの反応率、強化率(1回の報酬獲得あたりの反応数)を算出した。 オペラント行動に雌雄差が見られることはよく知られており、レバー押し行動に対してオスは高率、メスは低率で反応する。したがってレバーを押した回数に応じて報酬を提示する課題ではオスがより報酬を獲得し、反応と反応の間隔をあけてゆっくりした反応に報酬を提示する課題ではメスのほうが効率良く反応する。本研究のMult強化スケジュールにおける対照群における結果からも、このような雌雄差が確認できた。すなわち、高反応であるオスはFRにおいてメスよりも報酬を多く獲得し、逆にDRLではメスのほうがより多くの報酬を獲得した。そしてTCDD曝露の影響は、このようなオペラント行動の雌雄差に強く現れた。すなわち、TCDD曝露群のオスはコントロール群よりも反応率が低くなり、一方メスのTCDD曝露群はコントロール群より高率を示した。TCDDの影響は曝露量依存的ではなく、オスメスともに60ng/kgでTCDD曝露群とコントロール群との反応率の差が最大となった。したがって、60ng/kgで反応率の雌雄差が最小になり、性特異的な行動パターンが消失した。 またこれらの曝露影響がみられた動物について、生後(PND)30、60および90日齢時に自発的運動量自発運動量を測定した(各15分間)。自発運動数、自発運動持続時間の合計、自発運動の平均持続時間、自発運動終了時から次の自発運動開始までの平均潜時について検証したところ、TCDD曝露によるラットの自発運動量に有意差はみられず、時期による差もみられなかった。この結果からも、前述のオペラント行動の変化は、運動量変化等による副次的影響ではなく、オペラント行動すなわち記憶学習機能に対するTCDDの影響をあらわしていることが示唆された。 そこでMultFR11DRL10秒強化スケジュール下でのFRとDRLのそれぞれの反応の雌雄差(オスの反応数からメスの反応数を減じたもの)から、ベンチマーク用量 (BMD) を算出した。BMDとは、用量と影響の大きさに関する実験データ(本実験の場合はそれぞれの強化スケジュールにおける反応率の雌雄差)を活用し、用量-反応関係の反応曲線に適合する数式モデルを用いて、理論上のLOAEL(最低影響量)を算出する理論値である。BMDの算出には、米国EPA(Environmental Protection Agency) が開発したBenchmark dose software(BMDS)を使用した。FR反応率の雌雄差における10パーセント影響量(ED10)は2.77ng/kg、1パーセント影響量(ED01)は0.27ng/kgであり、DRL反応率の雌雄差は、ED10が2.97ng/kg、ED01は0.30ng/kgであった。以上の結果より・発達期のダイオキシンは、きわめて微量の曝露であっても、仔動物に影響を及ぼし、成熟後の記憶・学習機能に影響を及ぼす可能性が強く示唆された。そしてオペラント行動における雌雄差は、ダイオキシン曝露に対して極めて鋭敏に反応しうると考えられた。BMD理論によって示された理論的LOAELは極めて低い値であり、現在人の体内負荷量と推定されている10pg TEQ/kgをはるかに下回る値である。 次の実験ではTCDDの母体曝露が仔ラットの発達中の脳の形態にどのような影響を及ぼすかを検証した。妊娠8日目の母ラットに180ng/kgのTCDDを曝露し、仔ラットが90日齢時に脳の組織切片(H. E染色)を作成し、大脳皮質に着目し、その厚さと細胞数を測定した。PaxinosとWatson(1986)のBrain mapに基づき、Bregmaから-1.8、-3.8および5.8mmレベルを測定部位として選択した。さらに、Kreig(1946) の大脳皮質のエリアマップに基づき、Bregma-1.8mmではエリア2と3、-3.8mmではエリア17と18a、-5.8mmではエリア17、18a、39の皮質の厚さを測定した。2人の測定者がブラインドで各エリアを3同ずつ測定し、その平均値を算出した。スライドは光学顕微鏡付属のカラーカメラでコンピュータにディジタル画像として取り込み、画像解析・計測ソフトウェア(Image Pro Plus)を使用して大脳皮質表面から第6層までの距離を測定した。 コントロール群のオスは、前頭部(bregma-1.8と3.8mm)は右半球が厚く、頭頂部(bregma-5.8mm)は左半球が厚かった。またTCDD曝露群も同様の結果で、皮質の左右差がコントロール群と異なる部位は1か所だった。コントロール群のメスは、前頭部は左が右より厚く、頭頂部は右が厚かった。TCDD曝露群は、前頭部で5か所中4か所、頭頂部では3か所中すべてで左右の厚さがコントロール群と逆のパターンを示した。この結果、TCDDは性特異的な影響を与え、大脳皮質の厚さに関してはメスのほうがオスより大きな影響を受けたことがわかった。次に、Bregma-3.8mmのエリア17と18aにおける大脳皮質内の細胞数を測定した。結果、2つのエリア内における総細胞数はコントロール群とTCDD曝露群に有意差はみられなかった。しかしながら、細胞をサイズ別に6つに分けてみたところ、オスのTCDD曝露群はコントロール群に比べて、大きいサイズの細胞より小さいサイズの相対的比率が大きいという結果が得られた。メスでは細胞のサイズの変化は見られなかった。以上の結果から、大脳皮質の厚さにおいては雌がTCDDの曝露に対しより大きな影響を受けたが、細胞数ではオスにおいて細胞サイズの比率が変化していることが明らかとなった。 以上、行動実験と形態学的実験の二つの結果をまとめると、まず行動試験では、60ng/kgというきわめて低用量の母体曝露により仔動物においてオペラント行動にみられる雌雄差が消失することが明らかとなった。形態学的実験では、180ng/kg曝露により大脳皮質の厚さにみられる雌雄差が消失することが明らかとなった。両者の結果から、ダイオキシン曝露の影響は、脳の機能的・形態学的雌雄差に顕著にあらわれることが強く示唆された。ダイオキシン曝露により生殖器系に影響があらわれる事から、ダイオキシンが脳に及ぼす影響としても、これまでは性行動など生殖機能にかかわる脳機能が注目され、曝露影響について議論されてきた。しかし本研究では、記憶・学習機能、そして大脳皮質の形態といった高次脳機能についての雌雄差に着目した。そしてこのような、いわば「非生殖機能における雌雄差」に、発達期のダイオキシン曝露の影響が顕著にあらわれることを新たに示した。脳機能、特に非生殖機能における雌雄差については、人間では個体差も大きく、化学物質曝露の影響も顕在化しにくいことが推測される。そしてより豊かな社会を目指す現代の生活者の懸念は、まさにこのような顕在化しにくい影響であるとも言える。本研究で行ったオペラント行動とその雌雄差についての解析は、ダイオキシンをはじめ多くの環境中化学物質の影響評価を行う際の極めて鋭敏な指標として有用であろう。そして本研究で得られた成果は、今後のダイオキシンのリスク評価に寄与し、生活者の安全と安心に貢献することと信ずる。 | |
審査要旨 | 脂肪組織に蓄積されたダイオキシン類は、妊娠・授乳中に胎盤および母乳を通じて発達中の胎児に移行する。これまでTCDDの妊娠ラットへの曝露により、子ラットの生殖器系障害が誘起されることが報告されている。他方、本研究は妊娠期のTCDD低用量母体曝露が発達中の胎子脳に及ぼす影響について、記憶学習行動と脳の形態に焦点を当て検索したものである。 記憶学習行動実験では、妊娠8日目のSprague-Dawleyラットに0または20、60、180ng/kgのTCDDを経口投与し、子ラットが90日齢に達した時にレバー付きオペラント実験箱を用いてスケジュール制御性オペラント行動(SCOB)実験を開始した。SCOBには雌雄差があり、正常個体ではレバー押し行動でオスは高率に、メスは低率に反応することが知られている。本研究の対照群でも雌雄差が確認され、オスはメスより高率で反応した。TCDD曝露の影響はこの雌雄差に強く現れた。すなわち、TCDD曝露群のオスはコントロール群より反応率が低く、メスの曝露群はコントロール群より高率を示した。また、TCDDの影響は曝露量依存的ではなく、20、180ng/kgで雌雄差が消失(反応率がほぼ同値)し、60ng/kgでは雌雄パターンが逆転(メスがオスより高率)した。 他方、暴露群の子ラット出生後(PND)30、60、および90日齢時に自発運動量を測定した結果、対照群との有意差はみられなかった。従ってSCOBの変化は、運動量の変化などの副次的影響ではなく、SCOBすなわち記憶学習機能に特異的なTCDDの影響であることが示唆された。 また記憶学習試験の結果からベンチマーク用量 (BMD) を算出した。BMDは用量と影響の大きさに関する実験データを活用し、用量-反応関係の反応曲線に適合する数式モデルを用いて、理論上のLOAEL(最低影響量)を算出する方法である。ここではFRとDRLという2種類のレバー押し課題の反応の雌雄差(オスの反応数からメスの反応数を減じたもの)を使用した。FRの反応率の雌雄差における10パーセント影響量(ED10)は2.77ng/kg、1パーセント影響量(ED01)は0.27ng/kgであった。DRLの反応率の雌雄差は、ED10が2.97ng/kg、ED01は0.30ng/kgであった。以上からTCDDは極めて微量の曝露でも成熟後の記憶学習機能に影響を及ぼす可能性が強く示唆された。またSCOBにおける反応雌雄差はTCDD曝露に極めて鋭敏に反応することが示唆された。BMD理論での理論的LOAELは人の体内負荷量と推定されている13μg TEQ/kgをはるかに下回る値であった。 次にTCDDの母体曝露が仔ラットの発達中の脳の形態に及ぼす影響を検証した。妊娠8日目に180ng/kgのTCDDを曝露し、仔ラットが90日齢に達した時の脳の組織切片を作成し、大脳皮質の厚さと細胞数を測定した。対照群のオスは、頭頂部分では右半球が、後頭部は左半球が厚かった。TCDD曝露群も同様の結果であった。一方、対照群のメスは、頭頂部は左が、後頭部は右が厚かった。TCDD曝露群は1か所を除く全ての部位で左右半球の厚さが対照群と逆のパターンを示した。大脳皮質の厚さに関してはメスがオスより大きな影響を受け、TCDDは性特異的な影響を与えた。次に、大脳皮質内の細胞数を測定した。総細胞数は対照群とTCDD曝露群に差はなかったが、細胞をサイズ別に6つに分けたところ、オスのTCDD曝露群は対照群に比べ小さいサイズの細胞の相対的比率が大きくなった。メスに変化はなかった。以上の結果から、大脳皮質の厚さではメスが、細胞数ではオスがTCDDの曝露の影響を大きく受けたことが示唆された。 本研究ではTCDD曝露の影響は、子ラット脳の機能的・形態学的雌雄差に顕著に現れることが示唆された。TCDD曝露は生殖器系に影響が現れるため、これまで脳においては性行動など生殖機能に関わる機能が注目されてきた。しかし、本研究では記憶学習機能、大脳皮質の形態などの高次脳機能の雌雄差に着目し、「非生殖機能の雌雄差」に発達期のTCDD曝露の影響が顕著であることを新たに明らかにした。脳機能の雌雄差は、人間では個体差も大きく内分泌攪乱化学物質による曝露の影響も顕在化しにくいと思われるが、より豊かな社会を目指すには、まさにこのような顕在化しにくいリスクを科学的に評価する必要がある。本研究で行ったSCOBとその雌雄差の解析は、多くの環境中化学物質の影響評価の鋭敏で有用な指標となりうる方法であると考えられる。 よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。 | |
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