学位論文要旨



No 215933
著者(漢字) 三室,仁美
著者(英字)
著者(カナ) ミムロ,ヒトミ
標題(和) ヘリコバクターピロリ菌の病原性タンパク質CagAの分子細胞生物学的解析
標題(洋)
報告番号 215933
報告番号 乙15933
学位授与日 2004.03.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第15933号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 深山,正久
 東京大学 教授 小俣,政男
 東京大学 教授 伊庭,英夫
 東京大学 教授 片山,榮作
 東京大学 助教授 俣野,哲朗
内容要旨 要旨を表示する

ヘリコバクターピロリ (Helicobacter pylori) は胃上皮細胞へ付着した後に、CagAタンパク質をIV型分泌装置によって胃上皮細胞内へ注入する。細胞内に移行したCagAは宿主因子に作用して、細胞運動能を亢進させて細長く伸展した形態変化(スキャッタリング)を引き起こす。このような形態変化は肝細胞増殖因子 (hepatocyte growth factor : HGF) で刺激した細胞にも認められ、CagAは細胞に何らかの増殖因子様刺激を与えている可能性が示唆されていた。CagAタンパク質を発現しているピロリ菌の感染は、萎縮性胃炎や胃がんのリスクファクターとして注目されており、CagAタンパク質により引き起こされる宿主細胞応答が、ピロリ菌の感染とその病態に密接に関わっていることが示唆されている。本研究では、ピロリ菌が胃上皮細胞に感染して引き起こす宿主応答反応の全容を明らかにすることを究極の目的として、第1章ではCagAタンパク質機能領域の解析及び宿主細胞側の結合因子との相互作用について、第2章ではCagAタンパク質の宿主上皮細胞における作用についてそれぞれ検討した結果、以下のような知見を得た。

CagAタンパク質の機能領域の解析

CagAは、免疫原性の高いタンパク質であり、分離株間で分子量は130-145kDaと異なる。特に、C末端近傍のGlu-Pro-Ile-Tyr-Ala (EPIYA) 配列モチーフを含む領域のアミノ酸配列やくり返し数は株間により異なり、ピロリ菌の病原性との関連も示唆されている。宿主細胞内に注入されたCagAはSrcファミリーチロシンキナーゼによってEPIYAモチーフ内のチロシン残基 (Y) がリン酸化されることが報告されている。一般に動物細胞内においては、チロシンリン酸化によるタンパク質の活性制御は細胞の増殖・分化・運動等の様々な局面において重要であることから、CagAのチロシンリン酸化状態が病原性と関連するのではないかと推定されていた。そこで、チロシンリン酸化修飾される領域を同定するために、N末端側領域およびC末端側領域を分割した様々なCagA変異タンパク質を上皮細胞に異所性に発現させて、それぞれの細胞溶解液中のチロシンリン酸化CagAタンパク質をウェスタンブロットにより解析した結果、チロシンリン酸化はC末端近傍のEPIYA繰り返し配列を含むPY領域内において検出された。

次に各種GFP-CagA融合タンパク質を胃上皮細胞株AGSに異所性に発現させると、野生型CagAやCagAのC末端側領域を発現する細胞ではスキャッタリングが誘導されたが、PY領域欠損変異(ΔPY)CagAを発現する上皮細胞ではスキャッタリングは誘導されなかった。また、5ヶ所のEPIYAモチーフすべてを含む領域(PY領域)全体を2つにわけて、前半の2つのEPIYAモチーフ領域と後半の3つのモチーフ領域を欠失した変異CagAは、十分な形態変化誘導能がないものの、弱いながらもEPIYAモチーフの数に応じた活性を保持していた。これらのことから、CagAが細胞にスキャッタリングを誘導するためにはPY領域のEPIYAモチーフを含む領域が必要であることが明らかになった。

CagAのチロシンリン酸化と形態変化

CagAタンパク質が引き起こすスキャッタリングは、PY領域内のチロシン残基のリン酸化が不可欠であるかを調べるために、5ヶ所のEPIYAモチーフのすべてのチロシン残基をフェニルアラニン残基に置換したチロシンリン酸化耐性CagA (F5-CagA) を発現するピロリ菌を作製した。フェニルアラニン残基はチロシン残基と立体構造上類似しており、周囲のポリペプチド鎖の立体構造に影響を与えずにリン酸化修飾耐性にできるアミノ酸である。このF5-CagAタンパク質を発現するピロリ菌をAGS細胞へ5時間感染させると、野生型のチロシン残基型CagA (Y5-CagA) を持つピロリ菌と同様にスキャッタリングが誘導されることを見い出した。この形態変化がCagAタンパク質に依存して誘導されることを確認するために、GFP-CagA融合タンパク質を胃上皮細胞に異所性に発現させると、F5-CagAは野生型のY5-CagAと同様にスキャッタリングを誘導した。これらのことから、CagAが細胞にスキャッタリングを誘導するためには、これまでの予想に反して、PY領域のチロシンリン酸化は必ずしも必要ではないことが示唆された。

CagAタンパク質と相互作用する宿主因子の同定

CagAが引き起こすスキャッタリングは、HGFの刺激によって誘導される細胞形態変化と似ていることから、細胞内でCagAは、HGFのレセプターであるc-Metと同じようなシグナルカスケード伝達分子をリクルートする可能性が考えられた。そこで、CagAタンパク質と、c-Metに関わるシグナル伝達分子であるGab1、PI3K (p85-SH2ドメイン)、Grb2、Nck、SHP-2をGSTに各々結合した組み換えタンパク質を結合させたビーズを、ピロリ菌を感染させたAGS細胞の溶解液と混合して、CagAタンパク質と各々の宿主因子の結合性を調べた。細胞溶解液を調製する時にチロシンホスファターゼ阻害剤を添加して、チロシンリン酸化CagAを用いた場合には、Grb2、NckおよびSHP-2にCagAが結合した。一方チロシンホスファターゼ阻害剤の存在しない状態では、非リン酸化CagAは、Grb2およびNckのみと結合した。

前述のようにチロシンリン酸化耐性のF5-CagAもスキャッタリングを誘導することができたことから、非リン酸化CagAにも結合するGrb2に焦点を絞り、さらに検討した。GFP-CagAを異所的に発現した細胞内においてもCagAとGrb2が会合しているかどうかを調べるために、Myc標識Grb2とGFP-CagAを共にCOS7細胞に発現させ、細胞溶解液に含まれるCagA複合体を、抗CagA抗体による免疫沈降法により調べた。野生型Y5-CagAとチロシンリン酸化耐性F5-CagAのいずれもMyc-Grb2と複合体を形成したが、ΔPY-CagAとは結合しなかった。すなわち、Grb2はPY領域のチロシンリン酸化とは無関係に、CagAのPY領域と結合することがわかった。

Grb2タンパク質のスキャッタリングにおける役割

Grb2は、分子量約25kDaのユビキタスなタンパク質であり、アダプタータンパク質としてシグナル伝達経路を仲介する分子である。リン酸化チロシン残基をもつアミノ酸配列を認識して結合するSH2ドメインを中央にもち、N末端およびC末端側に2つのSH3ドメインをもつ。これらのSH3ドメインが、RasのGTP-GDP交換因子であるSosのプロリンに富む領域に結合する。in vitro で解析したところ、CagAは、Grb2の中央のSH2ドメインとC末端側のSH3ドメインの2つのドメインにまたがって結合していた。さらにCagAが結合したGrb2分子は、Sosと機能的に結合してスキャッタリングを誘導するかを調べた。Sosとの結合に重要な2ヶ所のSH3ドメイン内に各々点変異を導入したGrb2変異体は、Sosとの結合能が失われているがCagAとの結合能は保持している。このGrb2変異体を細胞内に強発現させると、ドミナントネガティブ体として正常なGrb2-CagAの結合を競合的に阻害して、Grb2からSosへのシグナル伝達効率を低下させることが予想された。ピロリ菌の感染によって、野生型Grb2発現細胞では80%ほどの細胞がスキャッタリングを引き起こしたのに比べて、Grb2変異体発現細胞では僅かに16.5%の細胞しか形態変化を誘導しなかった。従ってCagAがリクルートしたGrb2分子は、シグナル変換器としてSosヘシグナルを伝達する重要な役割を果たしていることが示された。

CagAによるERKカスケード活性化

ERKカスケードは、増殖や分化などのさまざまな生命現象に関与している。そこでGrb2から下流へのシグナル伝達、すなわち、Grb2→Sos→Ras→Raf-1→MEK1/2→ERK1/2経路をCagAが活性化することができるかどうかを調べた。ピロリ菌が感染したAGS細胞の経時的なMEKの活性化を、活性化MEKに特異的な抗体を用いたウェスタンブロットにより解析した。野生型ピロリ菌の感染によりMEKの活性化は約2時間で増大し、その後減衰はするものの、24時間後も活性を保持していた。一方、CagA欠損変異 (ΔcagA) や、CagAの分泌ができないIV型分泌装置変異 (ΔvirD4) ピロリ菌は、野生型ピロリ菌を感染させた場合と同様に、感染初期は高い活性化を示すが、その後速やかに衰退した。すなわちCagAは宿主細胞内で、長期的にMEKの活性化を持続させうることを見いだした。このMEK活性の持続は、チロシンリン酸化耐性のF5-CagA変異体発現ピロリ菌においても同様であった。興味深いことに、HGFによるERKカスケード活性化は、初期の一時的な活性と、その後長時間持続する活性の二つの段階があり、特に後期の長時間持続活性が、スキャッタリング誘導に必要であることが報告されている。従ってERKカスケードの持続活性化により、CagAのHGF様活性が惹起されることが強く示唆された。

ピロリ菌によるスキャッタリング誘導はMEKによるERKの活性化に基づくことを確認するために、MEKの阻害剤であるPD98059存在下においてピロリ菌を感染させたときのAGS細胞の形態を観察した。するとスキャッタリングを引き起こした細胞の割合は、阻害剤がない場合には81.5%であったのに対して、阻害剤を加えると16.2%にまで減少した。これらのことから、CagAが誘導するスキャッタリングにはMEKの活性化が重要であることが明らかになった。

CagAによる細胞増殖亢進活性の解析

HGFのシグナル研究によく用いられているMDCK細胞は、HGF刺激によってスキャッタリング、管腔形成、そして細胞増殖を誘導することが知られており、上皮-間葉形質転換のモデル系であることが知られている。そこでY5-CagA、F5-CagA、ΔPY-CagAを恒常的に発現するMDCK細胞株を作製した。Y5やF5-CagAを発現する細胞は、HGF添加した細胞と同様に細胞の運動能が亢進して1つずつの細胞が分散したような形態変化を示す一方で、ΔPY発現細胞は、細胞分散が全くみられなかった。さらに、Y5あるいはF5-CagA発現細胞は、ΔPY-CagA発現細胞やコントロール細胞に比べて1.5倍以上の細胞増殖活性を示した。これらのことから、CagAのPY領域は、そのチロシンリン酸化に非依存的に、ERKカスケードを活性化させ宿主細胞にスキャッタリングと細胞増殖活性を誘導することが明らかになった。

CagAによるアポトーシス抑制活性

次に、ピロリ菌の感染によって宿主細胞に注入されたCagAタンパク質が、宿主細胞死を調節する作用があるかどうかを検討した。ピロリ菌が感染した胃上皮細胞にスタウロスポリンでアポトーシスを誘導すると、野生型ピロリ菌感染細胞に比べて、ΔcagAピロリ菌感染細胞の細胞死の頻度が高く、CagAタンパク質が宿主細胞内で抗アポトーシス活性を示すことが示唆された。この、CagAによる宿主細胞の抗アポトーシス作用は、MEK阻害剤を添加した場合にはみられなかったことから、CagAによるERKカスケードの活性化によって、宿主細胞に誘導されるアポトーシスが抑制されることが明らかになった。

ピロリ菌の感染に起因する胃がんの発症においても、他の胃がんと同様の多段階進行機構が考えられている。発がんに至る背景には、癌遺伝子や遺伝子修復機構などの素因、免疫系遺伝子の多型、生活環境など複雑な数多くの要因による生体恒常性維持機構の長期的な不均衡があると考えられている。ピロリ菌の胃粘膜長期定着を通じて、CagAタンパク質によって引き起こされるシグナル伝達カスケードの亢進が、正常な胃粘膜におけるアポトーシスと細胞増殖のバランスを崩し、長期的には発がんの危険性が増大する可能性が考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、病原性細菌であるヘリコバクターピロリ菌が胃上皮細胞に感染して引き起こす宿主応答反応の全容を明らかにするために、ピロリ菌の病原性タンパク質CagAの機能領域の解析、宿主細胞側の結合因子との相互作用解析、およびCagAタンパク質の宿主上皮細胞に対する生理活性の解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

野生型ピロリ菌から分泌されたCagAタンパク質が、様々な上皮細胞に形態変化(スキャッタリング)を誘導すると共に、チロシンリン酸化されることが示された。CagAタンパク質機能領域を解析した結果、CagAが宿主細胞にスキャッタリングを誘導するためには、CagAタンパク質PY周辺領域(特にC3領域)の細胞膜局在性に依存したPY領域の細胞膜局在が必要であることが示された。CagAによるスキャッタリング誘導活性にはPY領域のEPIYA配列を含む領域が不可欠であるが、PY領域のチロシンリン酸化は必ずしも必要ではないことが示された。

宿主細胞側の結合因子との相互作用を解析した結果、CagAはEPIYA配列中のチロシンリン酸化修飾とは関係なく、PY領域を介して growth factor receptor bound 2 (Grb2)と直接結合することが示された。CagAがリクルートしたGrb2分子は、細胞内でSosヘシグナルを伝達することが示された。また、CagAのスキャッタリング誘導活性には Ras/Raf/mitogen-activated kinase (MAPK) kinase (MEK)/extracellular signal-regulated kinase (ERK) カスケードの活性化が重要であることが示された。

CagAタンパク質の宿主上皮細胞に対する生理活性を解析した結果、MDCK細胞においてCagAのPY領域は、チロシンリン酸化に非依存的にERKカスケードを活性化させて、細胞に細胞運動能、分化能および細胞増殖活性を誘導することが示された。

CagAによる宿主上皮細胞のアポトーシスにおけるCagAの作用を解析したところ、CagAはMEKの活性化を介して、ピロリ菌感染もしくはスタウロスポリンによって誘導される宿主細胞死を抑制することが示された。したがって、ピロリ菌の胃粘膜長期定着を通じて、CagAタンパク質によって引き起こされるシグナル伝達カスケードの亢進が、正常な胃粘膜におけるアポトーシスと細胞増殖のバランスを崩し、長期的に胃疾患の危険性が増大する可能性が考えられた。

以上、本論文は、病原性細菌であるピロリ菌の病原タンパク質CagAの宿主標的因子の1つがGrb2タンパク質であり、CagA-Grb2の会合により活性化されるMEK/ERKカスケードの亢進が、CagAタンパク質による生理活性に重要であることを明らかにした。本研究は、ピロリ菌の胃粘膜感染機構と病態の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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