学位論文要旨



No 215955
著者(漢字) 岡田,公太郎
著者(英字)
著者(カナ) オカダ,コウタロウ
標題(和) 膜電位光学計側法による昆虫匂い情報処理系の研究
標題(洋)
報告番号 215955
報告番号 乙15955
学位授与日 2004.03.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15955号
研究科 工学系研究科
専攻 機械情報工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下山,勲
 東京大学 教授 井上,博充
 東京大学 教授 河内,啓二
 東京大学 教授 合原,一幸
 東京大学 教授 神崎,亮平
内容要旨 要旨を表示する

生体の神経系の活動を直接観察する手法の一つに膜電位感受性色素による神経膜電位イメージングがある.膜電位イメージングの方法は,計測対象神経を膜電位感受性色素により染色し,それに励起光を照射することで,膜電位感受性色素を励起し,発する蛍光を受光デバイスで受光することで行われる.膜電位の変化に対する膜電位感受性色素の蛍光変化量は小さく,100 mVの膜電位変化に対し膜電位感受性色素の蛍光強度は0.1%程度変化するに過ぎない.さらに,膜電位はミリ秒のオーダで変化する現象であるため,ミリ秒で高速撮影する必要がある.微弱な蛍光をミリ秒オーダで記録し,そこから蛍光強度の1/1000程度の信号を抽出するのが膜電位感受性色素によるイメージングであり,イメージングがノイズとの戦いといわれる由縁である.

昆虫の嗅覚系1次中枢は脊椎動物のそれと構造上の共通性が見られ,昆虫,脊椎動物を問わず,共通の匂い処理原理で機能していると考えられている.昆虫の嗅覚系システムは脊椎動物の嗅覚系に比べ非常に少ない神経により構成されており,嗅覚系の機能を研究するには適した材料であると考えられる.しかしながら本研究以前に昆虫の神経系に対し膜電位感受性色素を用いた膜電位イメージングの報告はない.昆虫の神経系は組織の大きさ,神経の大きさともに脊椎動物と軟体動物の中間に位置する.すなわち嗅覚系1次中枢の触角葉で膜電位イメージングを行う場合,標準的なシステムでは受光デバイスの1ピクセルが含む神経の個数が数十個であると推定される.このため,脊椎動物でのイメージングのように多数の神経(1ピクセルあたり1000個程度)の同期した活動を1ピクセルで得ることにより生じる信号強度の加算による増大効果は少なく,また,受光デバイスの1ピクセルが受光する膜電位感受性色素の蛍光はグリア細胞由来の蛍光を含むため軟体動物(細胞体が大きく,通常1ピクセルのカバーする領域より細胞体の方が大きい.そのため純粋に神経細胞からの蛍光のみ受光可能である)に比べ信号雑音非が低い.

本研究の目的は中枢神経系での匂い情報処理機能の解明に適している昆虫神経系で時空間的に神経活動を記録する手法である膜電位イメージングを成功させることである.

実験動物としては,触角葉匂い情報処理の膨大な先行研究のある事を理由に鱗翅目昆虫,特にエビガラスズメ,カイコガを選択した.これらの昆虫では性フェロモン処理系に関する研究が盛んに行われている.また,一般臭に対する触角葉の情報処理を調査するための対象として,マルハナバチを使用した.

昆虫神経系を計測対象とした膜電位イメージングシステムの構築にあたり,膜電位感受性色素の蛍光強度は励起光強度に比例することから,励起光用光源として可視光で安定したスペクトルを持ち6000 lm, 光量安定性 0.008%の条件を満たす励起光システムを試作した.さらに,複数の膜電位感受性色素を昆虫神経系に対する染色性を基準にスクリーニングし,続いて膜電位感受性色素の最適な濃度,染色時間を昆虫神経系に対する毒性を基準に求めた.その結果,色素名RH414,3 mg/mlの濃度で5分間の染色時間が最適であるとの結論を得た.これは通常使用濃度の約10倍の色素濃度であり,また,染色時間は通常の1/12程度の短さである.

また,膜電位感受性色素に最適な励起光および効率よい蛍光の受光のため,膜電位感受性色素の励起効率,蛍光スペクトラムを計測し,最適な励起/蛍光フィルタの特性を求めた.

またあわせてシステムのノイズ評価,電気刺激のアーチファクトの評価等を行い,安定して神経信号が計測可能な実体顕微鏡および倒立顕微鏡を用いた膜電位イメージングシステムの構築に成功し,実際にエビガラスズメの触角葉の刺激に対する応答を高時空間分解能(記録レート0.6 ms/frame,空間分解能16384点同時記録)で計測した.

構築した膜電位イメージングシステムにより,マルハナバチの触角葉の匂い刺激時の振動応答の解析結果および,雄カイコガにおける生態アミンであるセロトニンの触角葉神経への修飾を計測し,結果を示した.これにより構築した膜電位イメージングシステムが昆虫の神経系活動計測に十分応用可能であることを示した.

マルハナバチの触角を匂い物質により刺激した際,触角葉で20-30 Hzの振動が発生した.この現象を膜電位イメージングで捉えることに成功し,振動領域が糸球体単位であることを本手法により明らかにした.

さらに,カイコガの触角葉ではセロトニンが触角葉内で放出された場合,セロトニンの神経活動修飾効果は触角葉で局在化した領域のみに限られることを,膜電位イメージング法にて明らかにした.セロトニンを投与した場合,各領域での神経応答はセロトニンを投与しない場合と比較し,約30%程度の応答強度,応答期間の増大が観察された.神経応答強度および応答期間の増大が認められる領域は不均一であり,特に性フェロモン主成分の情報を処理すると考えられる触角葉中のtoroid領域で効果が顕著であることを明らかにした.

これらのことは,時空間的に神経活動を記録する膜電位イメージング法を用いたために得られた成果である.

本論文では,昆虫神経系を計測可能とする膜電位イメージング手法を開発し,それにより,昆虫の匂い処理1次中枢である触角葉の応答を次空間的に高分解能で記録した.さらに,匂い刺激により励起される振動応答を最大エントロピ法により,解析可能であることを示した.また,触角葉内でセロトニンの効果を可視化した.

これらの成果を具体的に示すと

昆虫神経系に対して高速,高分解能な膜電位イメージング手法を確立した.

昆虫の神経系において,膜電位イメージングは本研究以前に成功例はない.これは,昆虫の神経系が脊椎動物の神経系に比し,記録視野での神経密度が低く,測定対象物としては膜電位イメージングにおいて不利なものであることによる.

本研究により,複数種の昆虫にも適用できる膜電位イメージング手法を確立した.

実体顕微鏡での膜電位イメージングの成功

通常,膜電位イメージングは正立,もしくは倒立顕微鏡を使用して行われる.これはそれらの顕微鏡の対物レンズの開口数が大きいため,効率的に測定対象が発する蛍光を受光できるためである.しかしながらこれらのレンズは高開口数を得るため一般にレンズの焦点距離が短い(0.3 - 2 mm程度).そのため,たとえば昆虫の脳の応答を記録する場合,脳を摘出し,脳のみにして計測する必要がある.実体顕微鏡では対物レンズの開口数が小さいが,焦点距離が大きく(5 cm程度),測定のために脳を摘出する必要がない.本研究では実体顕微鏡を使用した系で膜電位イメージングに成功しており,昆虫の行動をモニタしながらの膜電位イメージングなどのより実態に近い計測が可能である.

匂い刺激時の神経応答のイメージングの成功

匂い刺激時の昆虫の触角葉での膜電位イメージングに成功した.また,MEMにより解析することで,より鮮明に応答を示した.

触角葉振動現象の空間分布の解明

触角葉において,匂い受容時に膜電位の振動現象が見られることが脊椎,無脊椎動物で報告されていた.これらは電気生理学的な電極による記録であり,振動領域は不明であった.本研究により振動の空間分布が明らかになった.

触角葉の振動単位の推定

本研究の結果は,触角葉の糸球体のサイズと振動領域のサイズはよく一致することを示した.すなわち,振動は糸球体単位で発生することを示唆した.

セロトニンの神経応答増強効果の可視化

生体アミンの一種であるセロトニンを触角葉に投与することで,セロトニンの神経応答増強効果を記録した.セロトニンの効果は(1)応答強度の増大化,(2)応答持続時間の長大化であることを明らかにした.さらにセロトニンの神経強度の増大化の効果は触角葉に均一に現れるのではなく,局在化していることを明確にした.これにより昆虫の触角葉で生体アミンの効果の計測が本手法により有効に行うことが可能であることを示した.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、「膜電位光学計測法による昆虫匂い情報処理系の研究」と題し、従来、昆虫の神経系に対して成功例を見なかった膜電位光学計測法を、手法の改良により昆虫の脳神経活動の記録法として確立し、さらに昆虫の脳から、匂い刺激時に発生する振動信号の領域の可視化、神経活動修飾物質であるセロトニンが効果を示す脳の領域を明らかにすることで手法の有用性を示したものであり、全4章より構成されている。

第1章は序論であり、研究の背景、従来の研究の概観と問題点の抽出、研究の目的および意義について説明している。昆虫の触角葉での匂い情報処理は脊椎動物の嗅球でのにおい情報処理と同一メカニズムと考えられており、脳における匂い情報処理メカニズムの研究にとり、昆虫の触角葉は大変注目を集めている領域である。昆虫の脳は神経密度が脊椎動物に比して低く、信号の加算効果が期待できない等の理由により、膜電位光学計側法で昆虫の脳神経活動を記録することは難しく、昆虫の脳での報告例はない。本研究の目的は膜電位光学計測法の改良により、昆虫の脳からの神経信号を記録し、計測システムとして確立することである。さらに脳の神経応答パターンを時空間的に記録することで手法の有用性を示すことである。

第2章は膜電位イメージング手法の確立と題し、膜電位光学計測法を昆虫の脳に対し適用する上での適切な諸条件のスクリーニング結果を示し、その結果得られた昆虫の脳からの神経活動の膜電位光学計測結果を高時空間分解能で示している。まず膜電位感受性色素の原理および、その蛍光強度を与える近似式を記述し、次に計測対象となる昆虫の触角葉の構造を記述している。神経活動による光学信号の高信号雑音比を得るため、すなわち、膜電位感受性色素の蛍光強度を増大させるために膜電位感受性色素の蛍光強度を与える式に含まれる各項の値を大きくするために実施した、以下の緒条件の決定および検証を記述している。すなわち、(1)高輝度高安定光源の試作、(2)高量子収率の膜電位感受性色素の選択、(3)励起光および蛍光の計測に最適な波長の決定、(4)計測に使用する対物レンズの選択、(5)計測に使用する受光デバイスのノイズ特性の評価、(6)神経単位面積あたりの膜電位感受性色素の限界濃度、(7)膜電位感受性色素の毒性の評価、(8)内因性信号の評価、(9)電気刺激のアーチファクトが神経信号に与える影響。これらの項目の実施により、「膜電位感受性色素の高濃度、短時間染色」、および「大光量による膜電位感受性色素の励起」という通常膜電位光学計測法では用いられない実験条件下に昆虫の脳の膜電位光学計測法に最適な条件が存在することを記述している。さらに試作したイメージングシステムについて、ハードウエアの記述をし、膜電位光学計測法により得られた信号の処理について記載している。最後に、試作されたシステムを用い実際の昆虫に本方法を適用し、得られた信号が神経信号であることを神経生理学的に確認している。

3章は膜電位イメージングの昆虫神経系への適用と題し、昆虫の脳に膜電位光学計測法を適用し、現在一般的に行われているガラス微小電極による細胞内記録法では不明であった脳の神経応答の領域について報告しており、これにより本手法の有用性を示した。まず、匂い刺激時のマルハナバチの触角葉で発生する神経信号を本研究により試作したシステムによりイメージデータとして記録し、記録データを最大エントロピ法により周波数解析した結果を示している。振動が発生している領域は糸球体と呼ばれる構造と大きさが一致しており、糸球体単位で振動が発生していることを示唆している。次に、カイコガ触角葉に神経活動を増長する効果を持つセロトニンを投与したときのセロトニンによる神経応答の変化を時空間的に評価している。セロトニンを放出する神経は触角葉に存在することは既知であるが、セロトニンが効果をおよぼす領域については不明であった。本計測により、触角葉内におけるセロトニンによる神経応答の増大が見られる領域には偏りがあり、特に性フェロモンの主成分を処理する領域において顕著に効果を表すことを示している。

4章は結論であり、本研究により明らかになった知見をまとめている。

以上のように本論文は昆虫の脳に対する膜電位光学計測法を確立し、エビガラスズメ、マルハナバチ、カイコガの複数種に適用し、その手法の有効性を実証したものである。本手法および本システムの試作手順、指針は昆虫のみならず、他の動物に対する膜電位光学計測法として同様に有効であると考えられる。よって本論文は博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/51218