学位論文要旨



No 215963
著者(漢字) 下村,武史
著者(英字)
著者(カナ) シモムラ,タケシ
標題(和) 動的電気複屈折測定法の開発とその高分子系への応用
標題(洋)
報告番号 215963
報告番号 乙15963
学位授与日 2004.03.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15963号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,耕三
 東京大学 教授 田中,肇
 東京大学 教授 雨宮,慶幸
 東京大学 助教授 岡本,博
 東京大学 講師 木村,康之
内容要旨 要旨を表示する

本研究では動的電気複屈折測定法の理論的な整備並びに測定装置の開発を行い、高分子系に幅広く適用し、そこから得られた知見をもとに本測定法の優位性を示すことを目的とした。

高分子の希薄溶液において分子配向または分子変形により誘起される電気複屈折応答は基本的に2次の非線形応答となるために、線形応答とは異なり時間域と周波数域との間にこれまで明瞭な関連付けがなされていなかった。そこで、まず動的電気複屈折測定法の理論的整備を目指し、一般的な時間発展方程式から時間域を記述する非線形余効関数および周波数域を記述する非線形応答関数の導出を行った。その結果、従来の時間域測定では2つの特徴的な時間軸を有する非線形余効関数を1つの時間軸に関して積分した形でその応答が得られるのに対して、周波数域では2つの特徴的な周波数軸を有する非線形応答関数の一部すなわちある周波数軸での切片のみを観測しているということわかった。このため、時間域と周波数域を関係づけるには2次元非線形余効関数または2次元非線形応答関数を測定することが必要であることが明らかとなった。また、周波数域での測定において得られるn次の非線形応答関数の直流成分(dc成分)はn-1次の非線形応答関数と等価な情報をもち得ることが示された。この非線形余効・応答関数は無摂動の拡散演算子の固有値と固有関数を用いて容易に記述可能であるので、その具体的な計算によりこれまで定式化がなされている分子配向による電気複屈折緩和に加えて、定式化がなされていない分子変形など他のメカニズムによる電気複屈折緩和を容易に計算することが可能となった。

次に、具体的な例として、この非線形余効・応答関数を分子配向における電気複屈折緩和、分子変形における電気複屈折緩和それぞれの場合に導入し、それぞれの電気複屈折緩和の表式の導出を行った。分子配向における電気複屈折緩和の場合には、特に周波数域の測定を行うと、2ω成分からは配向緩和に関する情報が、dc成分からは内部運動(キャリア移動)に関する情報が分離して観測されるという結果を得た。また、分子変形における電気複屈折緩和の場合には、2ω成分からは変形緩和に関する情報が、dc成分からは内部運動(キャリア移動)に関する情報が分離して観測されるという結果を得た。さらに、それぞれのdc成分は線形誘電緩和と完全に等価な情報を有することが明らかとなった。以上のように、本研究で用いた手法を用いることで、幅広い系における電気複屈折応答の解析が可能となることが示された。

以上のモデルを検証するために、実際に2次元非線形応答関数が測定可能である電気複屈折緩和測定装置の製作を行った。2次元非線形応答関数測定のための対象としては高分子電解質ポリスチレンスルホン酸ナトリウム塩(NaPSS)水溶液系を用いた。図1に測定した2次元非線形応答関数を示す。測定された2次元非線形応答関数から周波数域の応答を再現すると、2ω成分からは高分子電解質の配向緩和が観測された。この緩和時間からは高分子の流体力学的なサイズを求めることができ、無塩系では高分子電解質が伸び切っているという結果を得た。また、dc成分からは高分子鎖に強く束縛されたカウンターイオンの高分子主鎖方向の揺らぎと、緩く束縛されたカウンターイオンの高分子主鎖に垂直方向の揺らぎが観測された。これらの結果は従来報告されているものと一致し、本測定法の妥当性が示された。さらに、測定された2次元応答関数を2次元フーリエ変換した2次元余効関数を用いて、時間域の応答の再現が可能であることを示すことに成功し、時間域、周波数域の等価性を実験レベルで確認することに初めて成功した。

次に、分子配向による電気複屈折緩和の代表例として導電性高分子ポリ(3-ヘキシルチオフェン)(P3HT)の溶液に動的電気複屈折法の適用を試みた。これまでに導電性高分子などの電子・光機能性高分子に動的電気複屈折法が適用された例はほとんどない。低ドープ状態におけるP3HTの塩化メチレン溶液において周波数域電気複屈折緩和を測定したところ、2ω成分からは導電性高分子鎖の配向緩和が、dc成分からは疑似双極子型の配向緩和(LF緩和)と2種類の誘起双極子型の緩和(MF、HF緩和)が観測された。2ω成分にみられる配向緩和の緩和時間およびdc成分にみられるLF緩和からは高分子鎖の主鎖形態に関する情報を得ることができるため、温度・溶媒変化による高分子主鎖形態の変化を調べた。その結果、温度や溶媒の変化により色変化するクロミズム現象が、高分子の形態のロッドーコイル転移によるものであることを分子の流体力学的なサイズの変化という形で観測することに成功した。これまで、光吸収スペクトルからその形態変化が提案されていたが、実際のサイズの変化を詳細に観測したのは今回が初めてである。また、dc成分にみられるMF、HF緩和は導電性高分子内のキャリア伝導に関する情報を与える。HF緩和は導電性高分子の分子量にあまり依存しないローカルなキャリア拡散モードであり、高周波誘電緩和測定の結果を合わせて考えると、その拡散距離は100モノマー程度、拡散定数は2×10-3 cm2/sと得られた。また、この拡散定数はこれまで報告されているポーラロン、バイポーラロンの分子内拡散定数とほぼ同程度となった。一方、MF緩和は分子量に強く依存し、分子量が短くなるにつれて消滅してしまうモードであり、その拡散定数は1.6×10-5 cm2/sと得られた。このことからMF緩和は高分子全長程度に渡るキャリア拡散モードであることがわかる。すなわち、低ドープにおける導電性高分子の分子内伝導にはπ電子共役構造の欠陥に挟まれた100モノマー程度のローカルな領域をキャリアが拡散するモードと、そうした欠陥を乗り越えながら高分子鎖全長程度を拡散するモードの2種類が存在することが明らかとなった。また、後者の拡散定数には高分子のトランスーゴーシュ変換が重要な役割を演じていることが示唆される。

次に、構造形成による電気複屈折緩和の代表例として導電性高分子ポリアニリン(PANI)とシクロデキストリン(CD)の混合系における包接錯体形成過程への適用を行った。CD はグルコースから成る環状の分子であり、環の外側が親水性であるのに対して、内側が疎水性であるために、内側に有機分子を包接することが知られている。また、線状高分子との間でネックレス状の包接錯体を形成することが報告されている。そこで、線状高分子として導電性高分子を用いることで、導電性高分子が絶縁性の環状分子により被覆された分子レベルでの被覆導線いわゆる分子被覆導線の作製を試みた。N-メチル-2-ピロリドンを溶媒とするPANI とβ-CD の混合溶液中において、室温では電気複屈折信号を観測することができなかったが、255 K以下の温度で急激に電気複屈折信号が増大する様子を観測することができた。これは PANIの主鎖形態が255 K付近で棒状に変化することを意味している。PANI単体ではこのような形態変化は観測することができないため、このことはPANIがCDを次々に串刺しにしたネックレス状の包接錯体すなわち分子被覆導線が形成したことを意味している。この構造体は導電性高分子の主鎖形態を棒状に制約し、ゴーシュなどのキャリア伝導の欠陥を排除することができるため、分子エレクトロニクスにおける配線材料として期待される。

最後に、分子変形における電気複屈折緩和の代表例としてw/oマイクロエマルションドロップレットへの適用を行った。水、イソオクタン、2-メチルヘキシルスルホコハク酸ナトリウム(AOT)3成分混合系の油中水滴相(L2相)おいて周波数域電気複屈折緩和を測定したところ、2ω成分からはドロップレットの変形緩和を観測することができた。この緩和時間からは水滴を取り巻く界面活性剤膜の曲げ弾性率を求めることができた。すなわち、中性子スピンエコーなどの大がかりな装置で測定することの多い曲げ弾性率を実験室レベルの簡便な装置により測定できることを明らかにした。また、このL2相は温度によって不安定化し、その相分離点近傍における膜の弾性率が温度とともに柔らかくなる様子を確認した。一方、dc成分には観測した周波数範囲内で明確な分散を観測することができなかった。これはこのドロップレット内の分極のタイムスケールが10 MHz以上であったことを意味している。

以上のように本研究では動的電気複屈折測定法を幅広い対象に適用し、非線形応答ならではの多彩な情報が得られること示してきた。本研究がきっかけとなって電気複屈折緩和法がさらに発展、普及していくことを期待する。

NaPSS水溶液における2次元非線形応答関数 (a)実部、(b)虚部

審査要旨 要旨を表示する

本研究では2次非線形応答としての動的電気複屈折測定法の理論的な整備並びに測定装置の開発を行い、高分子・ソフトマテリアル系に幅広く適用し、そこから得られた知見をもとに本測定法の優位性を示すことを目的としている。

本論文は8つの章により構成され、各章の概要は以下の通りである。

第1章では序論として本研究で注目した電気複屈折法に関する従来の取り扱いが紹介されている。高分子溶液における分子配向、変形により誘起される電気複屈折は基本的に2次非線形応答であるが、従来この非線形性という点がおろそかにされてきた。本章では特に、この非線形性応答という点に着目し、既存の取り扱いに対する問題提起を行っている。

第2章では第1章で提起した問題点を受けて、一般的な時間発展方程式から非線形余効関数および応答関数の導出が行なわれている。従来の時間域測定では非線形余効関数をある時間軸に関して積分した形でその応答が得られるのに対して、周波数域では非線形応答関数の一部すなわちある周波数軸での切片のみを観測しているということが示され、時間域と周波数域を関係づけるには2次元非線形余効関数または応答関数を測定することが必要であることが明らかにされた。この一般的な非線形余効・応答関数の具体的な計算により、これまで定式化がなされていない分子、構造変形などによる電気複屈折緩和を容易に計算することが可能となった。そこで、具体例として、この非線形余効・応答関数を分子配向における電気複屈折緩和、分子変形における電気複屈折緩和それぞれの場合に導入し、それぞれの電気複屈折緩和の表式の導出が行われている。特に周波数域の測定を行うと、dc成分からは内部運動(キャリア移動)に関する情報が、2ω成分からは配向緩和または変形緩和に関する情報が分離して観測されるという結果が得られた。さらに、それぞれのdc成分は線形誘電緩和と完全に等価な情報を有することを明らかとした。これにより幅広い系に適用可能な電気複屈折応答解析の一般的な処方せんが提示された。

第3章では以上のモデルを検証するために、実際に2次非線形応答関数測定のための電気複屈折緩和測定装置の製作について詳細に述べられている。

第4章では高分子電解質水溶液系を対象に、実際の2次元非線形応答関数測定について述べられている。測定された2次元応答関数を2次元フーリエ変換した2次元余効関数を用いて、時間域の応答の再現が可能であることを示すことに成功し、時間域、周波数域の等価性を実験面から確認することに初めて成功した。

第5章では分子配向による動的電気複屈折の代表例として導電性高分子ポリ(3-ヘキシルチオフェン)(P3HT)溶液への適用について述べられている。低ドープ状態におけるP3HT塩化メチレン溶液において、2ω成分からは導電性高分子鎖の配向緩和が、dc成分からは疑似双極子型の配向緩和(LF緩和)と2種類の誘起双極子型の緩和(MF、HF緩和)が観測された。配向緩和の緩和時間およびLF緩和からは高分子鎖の主鎖形態に関する情報が得られ、この緩和時間から温度、溶媒変化によるクロミズム現象をともなう高分子形態の変化に関する詳細な検討が行われている。また、分子量にあまり依存しないHF緩和はローカルなキャリア拡散モードに対応し、分子量に強く依存するMF高分子全長程度に渡るキャリア拡散モードであることが明らかにされた。このように、導電性高分子にはπ電子共役構造の欠陥に挟まれたローカルな領域をキャリアが拡散するモードと、そうした欠陥を乗り越えながら高分子鎖全長程度を拡散するモードが存在すると結論づけられている。

第6章では構造形成による動的電気複屈折の代表例として導電性高分子ポリアニリン(PANI)とシクロデキストリン(CD)の混合系における包接錯体形成過程への応用について述べられている。CD は線状高分子との間でネックレス状の包接錯体を形成することが報告されているため、線状高分子として導電性高分子を用い、導電性高分子が絶縁性の環状分子により被覆された分子被覆導線の作製が試みられた。PANI とβ-CD の混合溶液中において、低温で急激に電気複屈折信号が増大し、PANIがCDを次々に串刺しにしたネックレス状の包接錯体すなわち分子被覆導線が転移的に形成されたことが確認された。この構造体は導電性高分子の主鎖形態を棒状に制約し、ゴーシュなどの欠陥を排除できるため、分子エレクトロニクスにおける配線材料として期待できることが記されている。

第7章では分子変形における動的電気複屈折の代表例としてマイクロエマルション系への適用について述べられている。水、油、界面活性剤3成分混合系の油中水滴相(L2相)おける動的電気複屈折測定から、ドロップレットの変形緩和を観測され、この緩和時間から水滴を取り巻く界面活性剤膜の曲げ弾性率を求めている。また、このL2相は温度によって不安定化し、その相分離点近傍で膜の弾性率が温度とともに柔らかくなる様子が確認された。中性子スピンエコーなどの大がかりな装置で測定することの多い曲げ弾性率を実験室レベルの簡便な装置で測定できる利点が示されている。

第8章では、本研究により得られた知見を総合的にまとめるとともに、今後の展望が述べられている。

以上のように本論文で著者は、動的電気複屈折測定法を理論、実験の両面から開発し、幅広い対象に適用することで極めて有意義な知見が得られること示した。これは、この分野の基礎学術的な発展のみならず、近年期待されているナノテクノロジー分野、特に単一分子の電気・光機能分野への応用において、その進展に寄与するところが大きい。よって、本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認められる。

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