学位論文要旨



No 215970
著者(漢字) 西野,智昭
著者(英字)
著者(カナ) ニシノ,トモアキ
標題(和) 分子探針による化学選択性STM
標題(洋) Molecular Tips for Chemically Selective STM
報告番号 215970
報告番号 乙15970
学位授与日 2004.04.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第15970号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 教授 長谷川,哲也
 東京大学 教授 塚田,捷
 東京大学 助教授 島田,敏宏
内容要旨 要旨を表示する

1.序

 走査型トンネル顕微鏡(STM)により,原子レベルでの表面局所分析が可能になったが,試料化学種の同定は困難である.そこで,当研究室では従来の金属探針を化学的に修飾し,その吸着分子を探針として用いることによりSTMに化学種選択性を付与できることを初めて見出した.即ち,分子探針との水素結合などの学的相互作用を通じ,試料の特定の官能基・化学種の近傍においてトンネル電流が促進され,化学種認識が可能となる(Fig.1).これまで,探針-試料間の水素結合,および配位結合に基づく化学認識が当研究室より報告されている.

 そこで,(1)探針-試料間の電荷移動相互作用に基づく化学認識,(2)末端にcarboxy基を有するcarbon nanotubes(CNTs)を探針として用いた高分解能での化学種選択的なSTM観察,(3)様々な水素結合能を持つ分子探針を用いることによる化学種選択性の制御,について研究を行った.

2.電荷移動相互作用に基づく化学認識

 分子探針を用いたSTMにおいては,原理的に探針-試料間に電子波動関数の重なりをもたらす相互作用をその化学認識に用いることができる.そこで,電荷移動相互作用に基づく化学認識が可能とならないか検討を行った.

 fullerene誘導体(MPF,Fig.2b)で修飾した探針を用いてporphyrin誘導体のCo(II)錯体(CoPor,Fig.2a)を観察した.未修飾の探針を用いて観察されたSTM像においては,porphyrin環よりもCoがより明るく観察された(Fig.3a)のに対し,MPF分子探針を用いたSTM像においては,porphyrin環がその中心にあるCoよりもより明るく観察された(Fig.3b).これは,MPFのfullerene部位とCoPorのporphyrin環と電荷移動相互作用を形成し,その波動関数の重なりを通じてトンネル電流が促進されたためであると考えられる.

 さらに,free-base porphyrin誘導体(FBPor)とそのZn(II)錯体(ZnPor,Fig.2a)の混合物理吸着単分子膜をSTMにより観察した.未修飾金探針によるSTM観察においては,FBPor,ZnPor共にporphyrin環の中心は凹んで観察され,さらに両者のporphyrin環は同程度のコントラストであったため,両者を識別することはできなかった(Fig.4a).一方,MPF分子探針を用いた際には,両者が異なるコントラストで観察され,識別が可能であることが明らかとなった(Fig.4b).溶液中の存在比と表面上における異なるコントラストを持つporphyrin環の存在比との比較から,ZnPorのporphyrin環がFBPorのそれよりもより明るく観察されることが分かった.これは,ZnPorのHOMOがFBPorのHOMOよりもfullereneのLUMOとエネルギー的に近いため,より有利な電荷移動相互作用を形成し,従ってトンネル電流がより促進されたためであると考えられる.

3.CNT探針

 近年,CNTはそのユニークな構造的,電子的特性から注目を集めており,その応用の一例としてSTMや原子間力顕微鏡などの走査型プローブ顕微鏡(SPMs)の探針として用いられている.そこで,CNT,特により直径が小さく,従ってSPMの探針として用いた際にはより高分解能が期待できるsingle-walled carbon nanotube(SWNT)を用いて化学種選択的なSTM観察が可能にならないか検討を行った.

 従来,CNT探針は顕微鏡観察下で接着剤等を用いて金属のSPM探針上に固定化することにより作成されている.本研究ではより再現性良く探針を作成するために,溶液中からの固定法を開発した(Scheme1).SWNTはHNO3中で加熱環流することにより精製すると共にその末端にcarboxy基を導入した.4-mercaptobenzoic acid(4MBA)の自己組織化単分子膜(SAM)により修飾した金探針をZnSO4の飽和水溶液に浸し,続いてSWNTの懸濁液に浸した.Scheme1に従い作成した探針を透過型電子顕微鏡(TEM)で観察することにより,下地の金探針上にSWNTが固定されていることを確認した(Fig.5).

 未修飾金探針,SWNT探針,およびSWNT探針と同様に末端にcarboxy基を有する4MBAのSAMで修飾した探針を用いて分子内に2つのether酸素を含むdiether(C16H33O(CH2)11OC16H33)を観察した.未修飾金探針を用いた際には試料のether酸素は識別できないのに対し(Fig.6a),4MBA分子探針を用いて観察されたSTM像においては,2つのether酸素が明るい線のペアとして周期的に観察された(Fig.6b).これは4MBAと試料のether酸素が水素結合を形成し,この電子軌道の重なりを通じてトンネル電流が促進されたためであると考えられる.SWNT探針を用いて観察されたSTM像(Fig.6c)においても,試料分子の2つのether酸素に対応する明るい線のペアが観察され,これはSWNT末端のcarboxy基とether酸素との水素結合に起因すると考えられる.さらにFig.6bと6cを比較することにより,SWNT探針を用いた際には,SWNTの直径が非常に小さいため,SAM修飾探針を用いた場合よりも高分解能での観察が可能であることが分かった.

4.化学種選択性の制御

 分子探針を用いたSTMにおいては,探針-試料間の化学的相互作用に基づき,化学認識が可能となる.そこで,この相互作用強度が化学種選択性に及ぼす影響について検討した.種々の水素結合能を持つ分子(Fig.7)のSAMで修飾した探針を用いて,分子内,分子末端にそれぞれester結合,hydroxy基を含む直線状の分子behenic acid 16-hydroxyhexadecyl ester,C21H43COO(CH2)16OH(以下C21COOC16OH)を観察した.

 未修飾探針を用いた観察においてはC21COOC16OHのester結合,hydroxy基共に試料のその他の部位から識別することは困難だった(Fig.8a).一方,4MP修飾探針を用いて観察されたSTM像においては,明るい線が観察され(Fig.8b),その間隔から,この明るい線は試料のhydroxy基に対応する.これは,探針上の4MPの水素結合受容性のpyridine窒素が水素結合供与体であるhydroxy基のみと水素結合を形成し,トンネル電流が促進されたためであると考えられる.次に,水素結合供与性の官能基を持つ4MBSA,4MBA分子探針を用いた観察を行った.4MBSA修飾探針を用いることにより(Fig.8c),周期的な3本の輝線が観察されたのに対し,4MBA修飾探針(Fig.8d)ではFig.8bと同様に1本の輝線が周期的に観察された.Fig.8cで観察された3本の輝線はその間隔より,中央がhydroxy基,その両隣がester基に対応する.この結果は,4MBSAのsulfonyl基が試料のester結合,およびhydroxy基と水素結合を形成し,従って2種の官能基が共に明るく観察されたと考えられる.一方,Fig.8dの1本の輝線はその間隔から,試料のhydroxy基に対応すると考えられる.4MBAのcarboxy基はsulfonyl基と同様にester結合,hydroxy基と水素結合を形成できるが,その酸性度はsulfonyl基よりも弱いため,より有利な水素結合を形成できるhydroxy基のみが選択的に明るく観察されたと考えられる.

5.まとめ

 本研究を通じ,(1)電荷移動相互作用に基づく化学認識が可能である,(2)SWNT探針を用いることにより高分解能での化学種選択的なSTMが可能である,および(3)分子探針-試料間の化学的相互作用強度を調節することにより,得られる化学種選択性を制御できる,ことが明らかとなった.

(1)により,電子波動関数の重なりをもたらす3種の相互作用,即ち,水素結合・配位結合および電荷移動相互作用の各々に基づく化学認識が可能であることが当研究室により示された.これら3種の複数種,かつ複数の組み合わせにより,光学異性体の識別等,より高度な化学認識が可能となると期待される.(2)においては,carboxy基に対するアミド縮合を利用して種々の官能基をSWNT末端に導入することにより,上記3種の相互作用各々に基づくSTMにおける化学識別がSWNT探針を用いて高分解能で達成できると考えられる.さらに(3)で得られた知見に立脚し,糖鎖に含まれるhydroxy基・ester結合・ether酸素などの選択識別から,従来の分析手法では困難であった糖鎖の配列決定・構造解析が可能になると期待できる.

Fig.1. Chemical interactions between a chemically modified tip and sample facilitate electron tunneling.

Fig.2. Chemical structures of (a) sample and (b) tip-modifying molecules.

Fig.3. STM images of CoPor molecules observed with (a) unmodified Au and (b) MPF tips.

Fig.4. STM images of FBPor/Znpor molecules observed with (a) unmodified Au and (b) MPF tips.

Scheme 1. Preparation of SWNT tips from solution phases.

Fig.6. STM images of the diether molecules observed with(a)unmodified Au,(b)4MBA,and(c)SWNT tips.

Fig.7. Tip-modifying molecules.

Fig.8. STM images of C21COOC16OH observed with (a) unmodified Au, (b) 4MP, (c) 4MBSA (d) 4MBA tips.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は7章より成る.第1章および第2章は序論であり,本研究の背景,動機と目的が簡潔に述べられている.走査型トンネル顕微鏡(STM)により,原子レベルでの表面局所分析が可能となったが,表面化学種の識別は困難であることを述べた後,STMの金属探針を化学的に修飾し,その吸着分子を分子探針として用いることで探針と試料との水素結合または配位結合に基づき,化学種選択性が得られること,またその選択性は,探針と試料分子との相互作用に伴う電子波動関数の重なりを通じ,トンネル電流が促進されるためであることを述べている.本研究では,(1)探針-試料間の電荷移動相互作用に基づくトンネル電流促進の検証,(2)末端にcarboxy基を有するcarbon nanotubes(CNTs)を探針として用いることによる化学選択的なSTM観察の分解能の向上,および(3)探針の水素結合能を調節することによる化学種選択性の制御,を目的とすることが述べられている.

 第3章は電荷移動相互作用に基づくトンネル電流促進について論じている.高配向焼結グラファイト(HOPG)基板上に物理吸着したporphyrinのcobalt錯体(CoPor)を試料として,また,金探針上に化学吸着したfullerene誘導体を分子探針として用いている.未修飾金探針を用いてCoPorを観察した際にはcobaltイオンが明るく観察されるが,一方,fullerene探針を用いることによって,fullereneとporphyrin環との電荷移動相互作用に基づき,CoPorのporphyrin環のみが選択的に明るく識別できることを初めて見出している.さらに,中心金属を持たないfree-base porphyrin(FBPor)とそのzinc錯体(ZnPor)の混合物理吸着膜も試料として用いている.fullerene探針を用いることにより,CoPorと同様に,両者のporphyrin環の選択的な観察が可能であったが,FBPorと比べ,fullereneとより有利な電荷移動相互作用を形成できるZnPorがより明るく観察され,未修飾金探針では不可能であったFBPorとZnPorの両者の識別が可能であることを明らかにしている.以上の結果から,分子探針を用いることにより,水素結合・配位結合に加え,探針と試料との電荷移動相互作用に基づいても化学種選択性が得られること,また,相互作用強度の違いに基づく選択識別が可能となることを述べている.さらに,試料porphyrinを負に印加したときにはその分子像が得られるが,逆に,正に印加した際には分子像が全く得られないことを見出した.本実験において探針分子であるfullereneと試料porphyrinから成るtunnel junctionが分子整流素子とみなせることから,この現象をその整流作用に帰結し,分子探針を用いることによる,分子デバイスの新規機能評価法について述べている.

 第4章は末端にcarboxy基を有するCNT探針について論じている.直径がより小さく,従ってより高分解能が期待できるsingle-walled carbon nanotubes(SWNTs)を用い,4-mercaptobenzoic acid(4MBA)で修飾した金探針上へ,4MBAのcarboxy基,およびSWNT末端のcarboxy基とを,両者のzincイオンの配位結合を利用して架橋してSWNTを固定し,SWNT探針を作成した.このSWNT探針を用いて分子内にether酸素を有する分子を観察することによって,SWNT末端のcarboxy基との水素結合に基づき,試料のether酸素が選択的に観察できること,およびthiol誘導体の化学吸着により作成した従来の分子探針よりも高分解能での観察が可能であることを述べている.

 第5章は化学種選択性の制御について論じている.pyridine窒素,sulfonyl基,carboxy基を有する分子を分子探針として用いて,分子内および末端にそれぞれester結合およびhydroxy基を有する分子を観察し得られる化学種選択性について論じている.即ち,水素結合受容性のpyridine窒素を有する分子探針を用いた際には試料の,水素結合供与性のhydroxy基が選択的に観察でき,一方,水素結合供与性のsulfonyl基を含む分子探針を用いた際には,水素結合受容性であるhydroxy基・ester結合の両者が観察できること,またsulfonyl基と同様に水素結合供与性であるが,水素結合能が小さいcarboxy基を有する分子探針を用いることによって,より有利な水素結合を形成できるhydroxy基のみが選択的に観察できることを見出した.即ち,試料に複数種の官能基が含まれる際には,探針分子の水素結合能を調節することによって,それらの官能基の選択識別が可能となると述べている.第6,7章はそれぞれ総合的結論,参考文献である.

 以上のように,本研究では,分子探針のコンセプトとその実際の確立に関する研究を行い,(1)電荷移動相互作用によるトンネル電流促進に基づき,化学認識および分子デバイス新規評価法が可能となること,(2)SWNT探針を用いることにより,化学種選択的かつ高分解能でのSTM観察が可能であること,および(3)分子探針の水素結合能を調節することにより化学種選択性を制御できることを明らかにした.これは理学の発展に大きく寄与する成果であり,学位論文として充分な水準にあることが審査員全員によって認められた.なお,本論文は,各章の研究が複数の研究者との共同研究であるが,論文提出者が主体となって行ったもので論文提出者の寄与は十分であると判断する.

 従って,博士(理学)の学位を授与できると認める.

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/51219