学位論文要旨



No 215973
著者(漢字) 松本,精一
著者(英字)
著者(カナ) マツモト,セイイチ
標題(和) 山梨県高根町小池地区坪刈帳にみる稲作の変革過程
標題(洋)
報告番号 215973
報告番号 乙15973
学位授与日 2004.04.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15973号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,洋平
 東京大学 教授 田中,忠次
 東京大学 教授 岩本,純明
 東京大学 助教授 塩沢,昌
 日本獣医畜産大学 教授 松木,洋一
内容要旨 要旨を表示する

1.緒 言

 わが国においては、稲作による米が江戸時代以降の社会を支えてきたものであり、稲作を支える農業用水の開発により「瑞穂の国」と呼ばれる国土の開発が行われて今日の国土基盤が造られてきた。わが国の農業は、その中心を水田農業を主体としてきたため、農業技術は稲作技術が中心であったが、国土の狭小さから土地節約的な性格をもっていた。そのため、わが国農業は土地生産性の上昇によって発展・成長してきた。また、わが国の稲作生産力は、地域的格差を伴いながら、いくつかの上昇期と停滞期という局面をみせて発展してきた。このため、稲作の収量の動向を見る場合には、地域格差と生産力発展の局面をふまえた検討が必要であると考える。

 本研究では、八ヶ岳南麓の標高650mに位置する山梨県高根町小池地区に残る『坪刈帳』の約200年間の記録を基礎資料とした。坪刈帳の記録内容、農家が領主に差出した文章、国・県の統計資料等から、中山間地における稲作の発展過程を跡づけ実証し、理論の展開を行なった。江戸後期から約200年間にわたる稲作生産力が変革していく過程を、土地改良を含む農業技術面から検討したものが本研究である。

2.稲作生産力に変革過程に関する既往の研究

 稲作農業の発展に関する研究は、今日までさまざまな視点からなされている。このことは、稲作に直接的に関連する育種・農作業・肥料及び防虫害・農業機械・農地開発・土地改良などの個別的な技術を対象とした多くの研究を生む結果になってきた。近世から現代に至る稲作技術に関する研究としては、古島敏夫の『日本農業技術史』をはじめ、『日本農業発達史』、『農業土木史』がある。また、地域農業の発展の歴史としては、新潟平野での土地改良による圃場乾湿状況と稲作発展、佐賀平野における稲作の佐賀段階・新佐賀段階での営農技術の展開方向に関する研究がある。

 本研究は、地域における近世から現代にいたる稲作の展開過程、稲作における技術体系の変遷、集落組織の歴史的な性格、農業技術の変遷等の分析をおこなったものである。集落的な分析は、研究の細分化・拡散化をまねくが、地域稲作史の個別特質を都道府県等の全体像の中で位置づけることにより、中山間地での地域農業の発展の歴史を跡づけできるものと考える。

3.山梨県の稲作の変遷

 山梨県の稲作は、果樹栽培の進展等による水田転換により水田面積が一貫して低減している。県内市町村の水田面積の推移は、甲府盆地市町村が面積を減少させたのに対し、高根町が属する北巨摩郡が面積を維持している。また、市町村別の水稲単収では、北巨摩郡の市町村が高い単収をあげている。八ヶ岳南麓の町村は、従来、高冷地で収量の安定性に欠けていたが、保護苗代による早期栽培の普及で成育期間の延び、施肥料の増加とあいまって収量の増加と安定化が図られた。近年の山梨県の稲作生産力の増大は、北巨摩郡の水田減少が少なかったことに加え、八ヶ岳南麓の単収の増加によるものといえる。日本における高収量地帯の北進と同様に山梨県においては高標高地域への山登り現象が確認できた。

4.山梨県高根町小池地区にみる稲作の歴史的変遷

 山梨県高根町は、八ヶ岳南麓の標高600〜1,300mに広がる中山間地農村である。農地の変遷をみると、寛文年間(1661〜72)の1,057町が、昭和40年(1965)には1,775haに増加した。この増加は、高冷地に適した品種の開発や営農技術、水利条件に規定されて、旧村の農地開発の時期に差異が生じていた。開発は、標高800m以下の旧村では江戸初期に、900mの旧村では江戸末期〜明治時代に、1,000mの旧村では大正時代〜昭和戦後期に行われた。一方、標高800m以下の旧村では、灌漑用水の不足で増加割合が低く抑えられていた。町最大の村山六ヶ村堰では、天保9年(1838)に上流の旧村の水田増加により水利紛争が発生し、各分水口に木枠による分水幅の規定が確立し、これにより下流旧村の開田が抑制されることになった。

 高根町小池地区は、町の南部、標高650mに位置する集落で、昭和55年(1980)の農地は、田21.0ha、畑25.6haの46.6haである。農地の変遷をみると、寛文年間には11町であり、明治10年には16.9町に増加し、さらに昭和40年には18.3haであった。地区の水田整備は、明治末期〜大正初期の畦畔直しと暗渠排水、昭和30年代前半の暗渠排水、昭和56〜60年(1981〜85)の圃場整備があった。農業経営は、江戸期〜明治中期は水稲と雑穀、明治中期〜昭和40年代は水稲と養蚕、昭和50年代以降は水稲となっている。農家は、明治36年〜昭和55年(1903〜80)の間で、農家の1/3が消滅、ほぼ同数が分家等新設、2/3が継続して維持されていた。地区のゆるやかな歴史的な変化を確認できた。

5.坪刈帳の記録

 小池地区では、集落行事として坪刈を行っている。この坪刈は、圃場中央で1坪の稲を刈取り、これを基に収量を予想するものである。文化6年〜明治9年(1809〜76)は上毛・中毛・下毛(稲)の3圃場で行う作柄調査で、また、明治10年〜現在(1877〜2003)は1等田〜7等田の固定した7圃場で行う地位調査である。なお、この圃場は圃場整備されたが、ほぼ同じ地点で継続している。

 坪刈帳の内容は、文化6年(1809)の坪刈田の作柄、1坪籾収量、耕作者、品種、実施日であったが、以後、1坪株数、地区総籾収量、1升籾重量、1株穂数等が加えられた。坪刈の主体は、江戸期には小池村の地主、長百姓、百姓代の村方三役であった。明治維新後には村方三役的な機能をもつ小池組(昭和5年(1930)小池特別会に改組)に引き継がれている。責任者は、江戸期〜大正期が地主層、昭和初期〜農地改革が自作層、農地改革後が自作化した農家であり、集落指導者層の変化が確認できた。坪刈の意義は、文化年間の年貢納入方式は定免法であり、領主と村との関連で村請年貢の破免検見の目的で、地租改正〜農地改革は、地主と小作人間の小作料の納入算定の目的で行われ、農地改革以降は、こうした意義を失い作柄調査となっている。

5.小池地区坪刈帳にみる稲作の変遷

 『坪刈帳』の1坪籾収量をみると、江戸末期(1809)に1坪籾収量が1.2升水準(10a当たり換算270kg)で高い生産力を有していた。小池地区の稲作は、2回の急上昇期をもつ4段階の生産水準で推移していた。第1段階は江戸末期〜明治時代(1809〜1911)、第2段階は大正時代〜昭和戦後期(1912〜49)、第3段階は昭和25年〜昭和50年代(1950〜84)、第4段階は昭和60年〜現在(1985〜2003)となっていた。第1〜第3段階までは、各階における収量の成長率は、段階を経るに従い率を高め、昭和50年代には1坪籾収量が2.4升(540kg)に達し、江戸末期の2倍となった。しかし、第4段階は収量が減少に転じた。また、2回の急上昇期は、第1期が大正初期で、第2期が昭和30年以降である。1坪籾収量と高根町の単収との比較では、ほぼ同様な変動が確認でき、坪刈資料の有意性が示された。品種は、195年間で113品種が栽培されており、江戸末期〜明治中期に在来品種が、明治中期〜大正期に統一品種が、昭和初期以降に改良品種が導入されていた。在来品種が長期間の栽培、統一品種、改良品種が短期間の栽培であった。また、品種の導入時期と収量の関連では、常に多収量品種を導入し、地域の農業技術の発展とあいまった適地適作(籾)の原則が守られていた。

6.収量に及ぼした農業技術

 個別稲作技術をみると、肥料では江戸末期〜明治期は刈敷・堆厩肥、大正期に硫安・加里肥料の使用、大正後期に大豆粕使用、昭和30年代に堆厩肥から化学肥料に転換された。農作業では、江戸末期〜昭和30年代は馬耕(後牛耕)のほかは人力であったが、昭和40年代以降に農業の機械化が進み、圃場整備後に中型農業機械が普及した。また、昭和28年(1953)冷害を契機に保温折衷苗代が普及した。上・中・下田毎の1坪籾収量と圃場条件との関連をみると、明治10年〜明治末期の第1段階では、上田収量比で中田が76〜86%、下田が63〜67%であり、大正期〜第二次大戦後の第2段階では、中田が82〜90%、下田が52〜63%あった。大正前期の急増加は、化学肥料や大豆粕の投入や統一品種の導入など営農技術の向上を背景としている。この時代の暗渠排水は、裏作対応の整備であったが収量格差は改善されなかった。戦後期〜昭和50年代の第3段階では、上田収量比で、圃場整備前が中田92〜96%、下田68〜78%であったが、圃場整備後には96〜101%となった。第3段階の収量増加は、保温折衷苗代、化学肥料、有機農薬、多収性品種等の総合的な営農技術の向上を背景としている。昭和30年代前半の暗渠排水は、中田が収量を上げたのに対し、下田が約70%水準であった。圃場整備は下田収量の増大に寄与した。昭和50年代後半以降の第4段階では、平成期に収量を下げたが、コシヒカリが78%を占め、量から質への米作りの転換があった。戦後期を通じて収量が急増した背景には営農技術の進歩であるが、各等田がもつ土地条件による固有生産性は、圃場整備で均質化されたといえる。

8.結 言

 各章の研究成果について要約するとともに、今後の課題を示した。

関連文献松本精一(1999):坪刈帳が語る江戸から平成までの米作りの歩み(その1)山梨県高根町小池地区の『稲作坪刈帳』、農林統計研究 通巻第93号、PP.14-30松本精一(1999):坪刈帳が語る江戸から平成までの米作りの歩み(その2)稲作の収量増に及ぼした農業技術の変遷、農林統計研究 通巻第94号、pp.1-12松本精一(2004):山梨県高根町小池地区における稲作収量増加の歴史と農地整備状況、農業土木学会誌、掲載予定
審査要旨 要旨を表示する

 わが国の農業は水田農業を主体としてきたため,農業技術は稲作技術を中心とした土地節約的な性格で発展してきた。稲作の生産力は,地域的格差を伴いながら,いくつかの上昇期と停滞期という局面をみせて発展してきた。このため,稲作の収量の動向を見る場合には,地域格差と生産力発展の局面をふまえた検討が必要である。

 本研究は,地域稲作の発展過程に関する研究の中で,山梨県高根町小池地区に残る約200年間の『坪刈帳』を基礎資料として,坪刈帳の記録内容,農家差出文章,統計資料等から過去約200年間にわたる稲作生産力が変革していく過程を,土地改良を含む農業技術面から検討し,稲作の発展過程を跡づけ実証し,理論の展開を行なったものである。

 序章における研究の背景,目的及び既往の研究に続き,第1章では,山梨県における稲作の歴史的な変遷を分析している。山梨県の水田面積は,戦後一貫して低減している中,八ヶ岳南麓町村が面積を維持し,また,これら町村が高い稲作単収をあげていることを示し,わが国における高収量地帯が北進したのと同様に山梨県においては高標高地域への山登り現象があることを明らかにした。

 第2章では,山梨県高根町及び小池地区における稲作の歴史的な変遷を分析している。高根町農地の開発は,標高800m以下の旧村が江戸初期,900mの旧村が江戸末期〜明治時代,1,000mの旧村が大正時代〜昭和戦後期に行われ,稲作の高標高地域への展開時期を示した。また,小池地区の水田は,明治以降2回の暗渠排水,1回の圃場整備が行われたこと,地区の農業経営は江戸期〜明治中期が水稲と雑穀,明治中期〜昭和40年代が水稲と養蚕,昭和50年代以降が水稲であったことを示した。

 第3章では,小池地区に残る坪刈帳の内容を紹介している。この坪刈は,文化6年(1809)〜明治9年は上・中・下毛(稲)の作柄調査,明治10年以降は1等田〜7等田の地位調査で,その内容は,1坪籾収量,品種,1坪株数,1升籾重量等である。坪刈は,江戸時代における年貢納入方式による領主と村との関連で村請年貢の破免検見の目的で行われ,地租改正〜農地改革は地主と小作人間における小作料の納入算定を目的として行われ,その後は作柄調査であることを示した。

 第4章では,坪刈帳の内容を分析整理している。1坪籾収量が江戸末期の1.2升水準から現在の2.4升に上昇してきた局面を,2回の急上昇期をもっ4段階の生産水準で推移してきたことを示している。この局面は第1段階が江戸末期〜明治時代,第2段階が大正時代〜昭和戦後期,第3段階が昭和25年〜昭和50年代,第4段階が昭和60年以降としている。また,1坪籾収量と高根町の単収との比較により、坪刈資料の有意性を示した。さらに品種の導入時期と収量の関連では,常に多収量品種を導入し,地域の農業技術の発展とあいまった適地適作(籾)の原則が守られていたことを明らかにした。

 第5章では,収量に及ぼした個別稲作技術の推移をみると,肥料では明治期までは刈敷・堆厩肥,大正期に硫安・カリ肥料の使用,昭和30年代に化学肥料に転換,農作業では昭和30年代までは馬耕(後牛耕)・人力,昭和40年代以降の農業機械化の進展,圃場整備後の中型農業機械の普及,また,昭和28年冷害を契機に保温折衷苗代が普及したことを示した。さらに,上・中・下田毎の1坪籾収量と圃場条件との関連を調査し,大正前期と昭和30年代前半の暗渠排水は,中田の収量を上げたこと,昭和50年代の圃場整備は下田の収量を上げたことを確認し,戦後期を通じて収量が急増した背景には営農技術の進歩があるが,各等田がもつ土地条件による固有生産性は,圃場整備で均質化されたことを明らかにした。

 以上のように,本研究は,地域稲作の発展過程について,その200年にわたる坪刈帳により稲作生産力が変革していく過程を,品種,土地改良等の農業技術面から整理し,跡づけ実証し,理論の展開を行い,これまで研究の少なかった中山間地稲作の長期的な発展過程について検討したものであり,学術上,応用上貢献するところが少なくない。よって,審査委員一同は,本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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