学位論文要旨



No 216002
著者(漢字) 稲田,喜信
著者(英字)
著者(カナ) イナダ,ヨシノブ
標題(和) 魚群の運動メカニズムの研究
標題(洋)
報告番号 216002
報告番号 乙16002
学位授与日 2004.04.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16002号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 河内,啓二
 東京大学 教授 廣瀬,通孝
 東京大学 教授 堀,浩一
 東京大学 教授 下山,勲
 東京大学 教授 神崎,亮平
内容要旨 要旨を表示する

 多数の要素が集合した群の運動は、自然界の様々な種類の生物や駅や地下街における人間の動き、渋滞時の自動車の動きなどにおいて日常的に観察されるものである。これらの群運動を実現する個体間の相互作用のメカニズムについては過去にいくつかの数理モデルが提案され、個体間の相互作用に仮想的な「力」を想定する「物理モデル」や、個体間の相互作用を個体の位置関係に基づく「行動ルール」で記述する「ルール規範型モデル」が用いられてきた。これらのモデルはコンピュータシミュレーションによって自然界の群に類似した群運動を再現しているが、モデルが用いる個体間の相互作用のメカニズムは解析の簡便さを目的として便宜的に提案されたものが多く、自然界の群運動との間で十分な対応が取られていなかった。そこで本研究では実際の魚群の運動を観察し、観察された運動と十分に対応のとれた数理モデルを作成することによって群運動における個体間の相互作用の詳細を分析し、さらに自然界に見られる大規模な群運動の解析を行うことを目的としている。以下に各章ごとの要旨を述べる。

1)魚群の個体間の相互作用の分析

 第2章では、ムギイワシとボラの2種類の魚の10個体の群の運動を観察し、接近行動と平行行動という群運動に不可欠な2つの行動に注目して、これらの行動を分析する新しい手法を提案した。この方法は、個体同士の位置関係や移動方向に見られる相関に基づいて相互作用を分析する手法であり、従来の分析が個体対最近接個体間の一対一の相互作用を対象としたのに対し、個体対複数個体間の相互作用を対象とし、相互作用個体の位置や個体数、反応の時間遅れなどの多次元的なデータを取得できるものである。その結果、2種の魚の接近行動と平行行動との間に明らかな相違点と類似点が存在し、接近行動では相互作用個体が個体の正面に集中し、動きの時間遅れが小さかったのに対し、平行行動では相互作用個体が個体周辺に広く分布し、動きの時間遅れが接近行動より大きいことがわかった。一方で、相互作用個体の距離と個体数は双方の行動でほぼ一致し、個体から2BL〜4BL(BLは平均体長)の位置に存在する2,3個体と主に相互作用していることがわかった。

2)群運動の数理モデル

 第3章では、第2章で行った2種の魚の群行動の観察結果に基づいて群運動の数理モデルを作成した。観察結果に基づいて個体周辺に相互作用領域を設け、領域内の周辺個体の位置と行動ルールから個体の運動を決定するという「ルール規範型モデル」を作成した。このモデルを用いて計算機シミュレーションを行った結果、観察実験と同じ10個体の群で実際の魚群行動と類似性の高い動きを実現することができた。さらに、モデルに含まれる相互作用パラメータ(個体間の接近性や平行性、反発性の強さ、相互作用個体数、個体の運動の乱雑さなど)を操作することによって、パラメータが群全体の運動に及ぼす影響を詳細に分析した。その結果、個体間の接近性を強く、反発性を弱くするように相互作用パラメータを設定した時、群は分裂しにくくかつ小さく固まって運動した。また、個体間の平行性を強め、運動の乱雑さを抑えた時は、向きのばらつきが小さく前後に細長い群ができた。これにより、群の形状や運動の秩序、持続性といった群全体の運動の性質が個体間の局所的な相互作用と密接に関わっていることを確認できた。また、10個体の群と同じモデル、同じパラメータ値のまま個体数を50個体に増やすと群が非常に分裂しやすくなり、個体数の増加によって群の運動が不安定になることがわかった。この原因は個体数が増加すると群全体に占める相互作用個体数の比率が低下し、個体が得る情報が局所的なものとなって群全体の動きの均一性が低下するためであった。

3)群運動の秩序と柔軟性の分析

 第4章では、自然界における大規模な群がいかにして長時間、長距離にわたって群を安定に維持し、かつ緊急時に必要な回避行動を実現しているかを分析した。このため、モデルの相互作用領域の配置を若干変更し、分裂しにくくしたモデルを用いて50個体の群でシミュレーションを行った。群運動の持続性には整列性や直進性といった運動の「秩序」が必要であり、回避行動には変形のしやすさである「柔軟性」が必要であるが、この2つの性質は互いに相反する関係にあるため、これらが同じ群の中に共存するメカニズムを分析した。その結果、個体の運動の乱雑さと相互作用可能な周辺個体の個体数が、群運動の秩序に影響を与えるパラメータであり、乱雑さが小さく相互作用する個体数が多いほど運動の秩序が増加した。また、このパラメータは群運動の柔軟性にも影響し、乱雑さが小さく相互作用する個体数が2,3個体である時に回避行動が発生しやすく、柔軟性が増加した。さらに、群運動における秩序と柔軟性を両立させる条件を分析した結果、運動の乱雑さを抑え、相互作用個体数を2,3個体に保つことが2つの性質の両立に有効であることがわかった。最後に逃避行動における捕獲数を調べた結果、逃避行動の発生頻度が高いほど捕獲数が少ないことが確認され、群の柔軟性の高さが捕食者の攻撃に対する防衛効果を高めることがわかった。

 以上により、本研究は、魚群行動における接近行動と平行行動の特性を明らかにすることによって実際の運動と対応のとれた群運動モデルを実現し、それを用いて個体間の局所的な相互作用と群全体の動きとの関係を明らかにした。さらに、大規模な群運動の秩序と柔軟性の形成のメカニズムとそれらを両立するために必要な条件を明らかにした。現段階では、群の規模が大きくなるほど運動の計測や解析は困難となり、自然界に見られる大規模な群運動を定量的に分析するための新たな手法が望まれている。本研究では、実際の魚群の動きに基づいた群運動モデルによる数値シミュレーションの手法により、大規模な群運動の定量的な分析を可能にし、その制御機構の解明に道を開くことができた。

審査要旨 要旨を表示する

 工学修士稲田喜信提出の論文は「魚群の運動メカニズムの研究」と題し、本文5章および補遺1項から成っている。

 生物が群をなして活動することは多くの研究者の興味を引き、その意義や活動のメカニズムなどについて多くの研究が行われてきた。群には、ほ乳動物のようにその構成員の体力や能力に明確な差がある場合と、魚の群のようにその構成員がほぼ一様である場合があるが、本研究では後者をとりあげその運動メカニズムを調べている。このような群ではどのようにして群を保ち移動するのか、リーダーの存在が必要か否か、捕食者の出現時にいかに分裂して攻撃を避けるかなど多くの興味深い問題がある。従来の研究では群の構成員の間に仮想的な引力を仮定(物理モデル)したり、研究者の仮定した行動のルールをそれぞれの構成員に導入(ルール規範型モデル)したりして数値計算を行い、出現した群の形状や動態が実際に観察されるものに近いものかどうかで成果が議論されてきた。しかしこれらの研究では仮定したモデルの妥当性や検証が不足しており、またその議論も群の巡航状態に限られていた。

 このような観点から筆者は個体間の相互作用を観察することから始め、観察データに基づいた行動のルールを構築し、数値計算により複雑な群の行動を出現させることを試みている。さらに個体間のルールと群の運動の関係を詳細に調べるとともに捕食者の出現時の群の動態とその有効性を研究している。

 第1章は序論であり過去の群運動の研究を概観し、本論文の目的と意義を述べている。

 第2章では、水槽における魚群行動の観察とその結果を述べている。筆者は10個体程度のムギイワシの成魚とボラの幼魚をそれぞれ自由に群運動させて観察し、得られたビデオ画像から、対象としている個体が他の個体又は個体群と生じている接近行動と平行行動を定量的に抽出する方法を提案し、被行動をしている個体あるいは個体群の位置や個体数等を計測している。その結果、2種の魚群に共通の性質として、群に属するほぼすべての個体が平行行動をし、群の全域に分布する一方、接近行動をする個体はその約半数であり群の中央から後方のみに位置していること、個体と被行動をしている個体あるいは個体群との距離は個体の長さの2〜4倍の範囲に集中していることなどの定量的データを取得している。

 第3章では前章で抽出した定量的データに忠実にもとづいて、ルール規範型の数値計算モデルを構築し、実際の魚群と極めて類似した群運動を出現させることに成功している。さらに計算された群運動において個体の性質や個体間の相互作用が群全体の行動に与える影響を詳細に明らかにしている。

 第4章では大規模な自然界の魚群を対象にして解析を行っている。前章までで構築した10個体前後の小規模魚群のルールをそのまま大規模魚群に適用すると、群の全個体数に対する接近行動や平行行動の被行動個体数の割合が一定であれば、前章と同様に自然界の群に近い行動が出現する。しかし現実のイワシ等の大規模魚群では視覚や感覚器の制約によりそのように多数の被行動個体数を想定することは物理的に不合理であり、また先行する研究とも相反する。一方、群の全個体数に対する被行動個体数の割合が低下すると、群は不安定になり分裂する。筆者はこの点に留意して被行動個体数は増加させずに、行動ルールを引き起こす被行動個体の存在範囲を小規模魚群と大規模魚群で小改修することにより、自然界の魚群の行動を出現させることに成功している。さらにこの魚群に捕食者が現れた場合、巡航状態の行動ルールは何も変更せずに、それぞれの個体が単純に捕食者から遠ざかるというルールを一つだけ追加することにより、従来自然界で観察されてきた七種類におよぶ群の分裂パターンの全てを出現させることに成功した。従って、群の集合を司る秩序と捕食者の出現時の分裂を司る柔軟性が同一の個体間ルールによって共存できることが本論文によって示されたことになる。またこの時の数値計算結果から、群が分裂しながら捕食者の攻撃を回避する行動が、補食数を減少させる上で有効であることを明らかにし、さらに個体間の相互作用が群全体の行動に与える影響を大規模魚群に対しても詳細に調べている。

 第5章は結論であり、本研究で得られた新しい知見をまとめている。

 以上要するに、本論文は観測結果に基づく群個体間の単純なルールを提案し、それによって複雑な群行動を数値計算によって出現させることに成功したもので、ルール規範型モデルの適用性の広さと有効性を明らかにするとともに、魚群の運動メカニズムをより深く理解する知見を与えている。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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