学位論文要旨



No 216003
著者(漢字) 金,香淑
著者(英字)
著者(カナ) キム,ヒャンスク
標題(和) 朝鮮神話の源流 : 「バリ公主神話」と「ダンクン神話」を巡って
標題(洋)
報告番号 216003
報告番号 乙16003
学位授与日 2004.04.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16003号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 神野志,隆光
 東京大学 教授 竹内,信夫
 東京大学 教授 大澤,吉博
 東京大学 教授 伊藤,亜人
 東京大学 助教授 岩本,通弥
内容要旨 要旨を表示する

 朝鮮神話は『三国史記』(1145年)『三国遺事』(1281年頃)などの文献で伝わる文献神話と、民間で伝承された口伝の巫俗神話がある。巫俗神話は、文献神話と同一の構造(「本プリ」=神の由来や神聖性を叙述した部分)を持つとされ、これらの巫俗神話が長い間口承されたあと、文字として採録され、文献に定着したという見方が、今日の学界の定説となっている。ところが、中世の文献に記述された神話と、近代になってから採録された巫俗神話のテクストには約一千年という時間的隔たりがある。さらに文献神話の代表とされる「ダンクン神話」が、個人の編纂である『三国遺事』には記されているが、正史たる『三国史記』には記されていないという記録の問題も存在する。そのため従来の朝鮮神話研究は、神話テクストそのものの分析より、歴史的背景などを絡ませ、神話の原型が失われ操作されたことを前提としてなされてきた。特に文献神話に見られる仏教的な用語や要素を、表面的な「潤色」あるいは「仮借」に過ぎないとし、神話の原型を推定することで「朝鮮固有のもの」を探ろうとする傾向が強かった。このような流れは、崇儒抑仏の政策を標榜していた朝鮮王朝時代に始まり、朝鮮の文化・民族を抹殺しようとした日本の植民地時代、これと立て続けにアメリカと西欧の影響下で始まった近現代を通して連綿と続いている。

 筆者は拙著『朝鮮の口伝神話 「バリ公主神話」集』(和泉書院、1998年)において、文献神話と同一の構造が指摘され、朝鮮神話の原型とされる口伝の「バリ公主神話」について、複数の異本を日本語訳した。その上で、従来踏み込んだ研究のなかった「本プリ」について分析し、「バリ公主神話」の神の神聖性がどのような世界観に基づいて語られているのかという問題を検討した。本論は、そこでの試論を発展させ、口伝神話と文献神話を同時に考察の対象とすることで、朝鮮神話の本質と成立と経緯に迫ろうとするものである。

 本論では、まず口伝神話の重要な要素である巫俗について概説的に述べた上で、「バリ公主神話」の特徴を明らかにした。遺棄された末娘が、死にかけた両親のために様々な苦難を経て蘇生薬を入手するという「バリ公主神話」のストーリーは、朝鮮の伝統的な霊魂観に加えて仏教思想を反映している。特に主人公の苦難の道のりが、仏教の「十王経」の思想に基づいて展開されている事実は、テクスト分析で得られた重要な結果である。さらに「本プリ」の考察を通じて、神の神聖性が帝釈天など仏教の神に保障されていることが実証された。

 次に朝鮮神話の代表とされ、「バリ公主神話」と同じ構造を持つと指摘される「ダンクン神話」を取り上げた。戦前そして戦後の韓国・北朝鮮において、ダンクンが民族自尊の象徴として、民族の球心的役割を果たしてきた経緯を考察したあと、従来の研究における最大の論点に迫った。すなわち、「昔有桓因【謂帝釈也】」というテクストの記述は、『三国遺事』の編者たる僧・一然の「潤色」と見なせるかどうか、という問題である。テクスト分析の結果、ここでいう「帝釈」はその性格や役割のにおいてインドラ神や仏教の帝釈と重なり合っていることが明確になった。「ダンクン神話」に表れた「天」と「天下」の関係は、王の権能とその世界が仏法の守護神たる帝釈に保障されていることを示している。このような仏教的世界像の構築には、『三国遺事』の根底をなす「新羅中心思想」(三国のうち、地上仏国土を標榜した新羅を理想の国家として最上に置く考え)が大きく影響している。『三国遺事』一つの作品と見た場合、編者の意識が反映されているのはむしろ当然のことであり、あるがままのテクストを直視せず、その「原型」を推定することに多くの労力を費やしてきた従来の研究方法は誤りであったと言える。

 「バリ公主神話」と「ダンクン神話」について考察した結果、朝鮮神話における仏教の役割は、先行研究で言われてきたのより遥かに大きいと考えることができる。従来、朝鮮神話の根幹は「巫俗原理」であるとされ、朝鮮固有の「天神思想」がその源流であるとされてきた。しかし、テクスト分析の結果、「ダンクン神話」から「天神」の存在を読み取ることは不可能である。また、口伝神話を文献神話の「原型」とする、いわゆる「巫俗神話起源説」も根拠に乏しい。むしろ、時代や巫堂の個性によって変化する巫歌の特性、そしてそこに濃厚に反映された「新羅中心思想」から考えれば、口伝神話の方が文献神話を題材として成立した可能性を指摘することができる。歴史書等から朝鮮における巫俗の実態を考察すると、今日見られる口伝神話の形が、三国時代以前から伝承されていたとは考えられない。従来の「巫俗神話起源説」は、中世の文献を通じて古代神話を推定するという、方法上の重大な誤りを犯している。結論を言えば、「朝鮮神話」は「朝鮮固有のもの」から形作られたのではなく、『三国遺事』などの作品において、仏教など外来思想の枠組みの中で初めて成立したと考えられる。

 現代韓国では、日本神話の研究も、朝鮮神話の「原型」を推定するための傍証として利用されているという実態がある。本論の結論は、朝鮮神話の成立史に新たな観点を提示するものであり、将来の日韓神話の比較研究など、東アジア諸文化の成立を解明するためにも重要な契機となるだろう。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文「朝鮮神話の源流――「バリ公主神話」と「ダンクン神話」を巡って――」は、民間の巫俗のなかに伝えられてきた口伝の神話のうち最も代表的な「バリ公主神話」と、中世の文献『三国遺事』に記された「ダンクン神話」とを取り上げて、朝鮮における神話がどうとらえられるべきかということを考察したものである。従来の研究が、両者にきわめて濃厚に見られる仏教的要素を後から付加されたものとして、これを排除して「原型」を考え、民族の神話をもとめようとしてきたことに対して、本論文は、仏教的要素を、本質にかかわるものとしてとらえ、根本的に異なる見地を提起するものである。朝鮮神話の把握の本質に関する考究として、本論文の意義は大きい。

 本論文は、序章「朝鮮神話研究の諸問題」、第一章「「バリ公主神話」研究:口伝神話に見られる仏教的要素と神の神聖性」、第二章「「ダンクン神話」研究:文献神話における「帝釈」とその世界像」、第三章「朝鮮神話の成立と仏教」の四章から成る。序章で研究史を批判的に振り返り、第一、二章では神話テキストの検証を通じて、その立場を具体化し、第三章において方法的問題として結論付けるという構成である。

 序章では、中世の文献にあらわれたものや、近代に採集された巫俗の伝承から、朝鮮神話の「原型」をもとめてきた研究史が、批判的に振り返られる。その「原型」のもとめかたは、テキストに見られる仏教的要素を「潤色」とし、それ以前の固有のありようを探ることを無条件の前提とするものであった。そこでは、テキスト理解自体は問われることがあまりにもすくなかったことが批判される。

 それに対して、本論文は、テキスト理解から出発する。テキスト理解を経ることによって、口伝であれ、文献であれ、神話的物語が、仏教的世界像によってはじめてかたちづけられたということがとらえだされるのである。

 第一章では、巫俗の伝承する口伝神話のうち、「バリ公主神話」を取り上げるが、多くの異伝を見合わせるという手続きをとりながらすすめられる(そのために、採集された複数の異伝を日本語訳し、本論文に先立って『朝鮮の口伝神話 「バリ公主神話」集』<和泉書院、1998年>を刊行した、その労は特筆される)。そのテキスト読解を通じて、遺棄された末娘が、死にかけた両親のためにさまざまな苦難を経て蘇生薬を入手するという話の、基本的な世界像は「十王経」によっていることがあきらかにされた。仏教的要素は、「潤色」というレベルの問題ではなく、物語を成り立たせる、あるいは物語を可能にしている、枠組みの問題ととらえるべきことが明確にされたのである。巫俗原理を読み取ってきた従来の研究は、ここで根本から見直しが要求されることとなった。

 第二章では、『三国遺事』の「ダンクン神話」を検討する。天から降った桓雄が熊女と交わって生んだ子が壇君であり、朝鮮を建国したという、よく知られた話である。朝鮮民族の最古の建国神話と考えられてきたものであるが、そこには「帝釈」(桓雄の父桓因はすなわち「帝釈」だという)が主宰神として登場し、世界像という点でも、地上仏国土として新羅をえがき、その世界が仏法の守護神である「帝釈」に保障されるものとしてあるのであって、仏教的世界像が機軸となる。それがテキストに即して読み取られるべきだということを明確にしたのであり、ここでも従来の研究の根本的な見直しを要求するのである。

 こうして、口伝神話も文献神話も仏教によって成り立ったととらえることを経て、第三章は、朝鮮神話の起源についての従来の研究の根本的な転換をもとめる。こうした神話に固有の民族文化の原型をもとめてきたことから離れるべきだというのであり、朝鮮神話研究の基本問題にいたるのである。

 テキスト理解を通じて提起されるものとして、本論文の示すところは説得的である。また、テキスト理解抜きに原型をもとめ、「神話」を作り出してきたともいえる、朝鮮神話論の虚構を衝き、方法の本質をえぐるものとしてきわめて刺激的である。今後の朝鮮神話研究に多大な問題を投げかけることが期待される。論述はほぼすべてが朝鮮神話の分析に費やされるが、日本における現在の神話研究を学んだことから得たものによって本論文はなされたのであり、比較研究の成果として評価される。

 ただ、仏教ということに関して、朝鮮中世における仏教の把握が不十分であり、「十王経」を受容したことと道教とのかかわり等について究明する必要があること、また、韓国の研究史の分析が一面的に過ぎることなどが、本論文の弱点として審査委員から指摘された。しかし、そうした欠点は今後の研鑽によって補われうるものであり、本論文の価値を損なうものではないということが委員の一致した評価であった。

 したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク