学位論文要旨



No 216004
著者(漢字) 呉,衛峰
著者(英字)
著者(カナ) ゴ,エイホウ
標題(和) 『新撰万葉集』研究
標題(洋)
報告番号 216004
報告番号 乙16004
学位授与日 2004.04.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16004号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 神野志,隆光
 東京大学 教授 三角,洋一
 東京大学 教授 菅原,克也
 東京大学 助教授 齋藤,希史
 大手前大 教授 川本,皓嗣
内容要旨 要旨を表示する

 『新撰万葉集』は、九世紀末の寛平五年(893年)に成立した和歌集である。『古今和歌集』の成立はその十二年後の延喜五年(905年)だから、文学史の見地からみて、まさに古今集成立の前夜に誕生したといえる。上下二巻からなる『新撰万葉集』は、それぞれの歌の左に、一首の七言絶句の詩が合わされていることから、『句題和歌』や『和漢朗詠集』、さらに後代の詩歌合という、歌と詩が同じ集に並べられる和漢併存の系譜に置かれることになる。

 しかし、歌と詩の内容上の不調和が目立つ『新撰万葉集』において、歌と詩がいかなる関係にあるのかは研究の中心である。従来、詩を歌の漢訳と見る翻訳説と、詩を歌の解釈と見る解釈説という二つの説があった。研究史的にみれば、近世以来のもっぱらの否定的評価をくつがえし、本格的な『新撰万葉集』研究を立ち上げたことで、小島憲之の功績が大きかった。しかし、詩を歌に対する平安人の解釈と見る小島説は、歌と詩の対応関係をうまく説明できない。同様、七言絶句の漢詩は三十一文字の歌の歌意を伝達するには長すぎるので、翻訳説も成立できない。

 本論文は、『新撰万葉集』における詩と歌の対応は、通意としての翻訳や、余情に対する解釈という関係より、和漢の比較という対照的関係をなしていると主張する。漢詩作者が作詩において、歌意を正確に写す、または歌の余情をあらわにするというより、歌を出発点として、歌意と呼応しながら、独立した詩の情趣を展開しようとしたのである。その結果として、歌の用語や題材などによって、とくに歌には詩的世界が詠まれる場合、番の詩は歌と類似する詩的世界を織り成しており、詩意は歌の翻訳なり解釈なりと言われるように歌意に近いのだが、ある題材やテーマに関して、和歌文学と漢詩文学の伝統があきらかに異なる文学的解釈をする場合、詩は詩的伝統にのっとって作られ、歌と異なる詩的世界をくりひろげる。このようにして、『新撰万葉集』における歌と詩は、和漢の文学伝統の交流と対比によって、ときには交差し、ときには平行して、融合したり対立したりしている。

 第一章である序論における以上の見地に立脚し、本論文は『新撰万葉集』の歌と詩の対応関係を解明すべく、第二章「歌の心・詩の意」、第三章「和漢比較の世界」、第四章「『新撰万葉集』の意義」の三章を通じて論を進める。

 第二章、「歌の心・詩の意」は、『新撰万葉集』の歌と詩の言葉(歌語・詩語)や題材を具体的に分析し、それぞれの和文学的と漢文学的本意本情を求めながら、それが歌と詩の番においてどのように対応されているのかを究明した。歌語や歌の題材については、万葉集における詠まれ方、古今集を含む八代集における詠まれ方などを通じて、歌におけるこの歌語や題材の本意を明らかにする。詩における詩語や歌と類似の詩の題材については、漢詩の伝統から、『毛詩』から『文選』、『藝文類聚』、『初学記』などの類書、白詩を中心とする唐詩までの詠まれ方を調べ、さらに道真を代表とする日本漢詩における応用も明らかにして、詩における常套的用法、つまり詩語の本意本情をもとめる。それから歌の歌語や題材は番の詩においてどのように詠まれているのかを、歌語や歌の題材の本意と、対応する詩語と詩の題材の本意と照らし合わせながら、詩の展開、歌に対する詩の対応をつぶさに見ていく。このように和漢の文学伝統をふまえて一番一番の歌と詩を読み比べながら、『新撰万葉集』の詩作者の作詩方針を探る。

 第二章は五つの節に分けて、五つの歌語詩語または歌の題材と詩の題材の対応を検討する。第一節は鹿が鳴くことに対する和文学と漢文学の違いを取り上げ、なぜ歌における妻恋いとしての鹿の鳴き声が、詩において君子の饗宴または友を求める声としての「鹿鳴」として展開されたかを追究する。第二節は歌の「あやめ草」、すなわち詩における「菖蒲」のイメージ対応を検討する。歌における、端午節の景物としての「あやめ草」が、詩において不老不死の薬に変身する様を追い、その対応の解明を試みる。第三節は、第二節の「あやめ草」と「菖蒲」の延長線上に、鶴の声の和と漢を調べて、『新撰万葉集』の歌と詩における具体的対応を見る。第四節は、歌における「松風入夜琴(松風夜琴に入る)」という漢詩的発想の吸収と、蝉の声との関連、そして番の詩における閨怨との関連を分析する。第五節は、歌における儚い蝉と、詩における悠然とした蝉の姿の対照を、漢文学における蝉のイメージと歌におけるそれの吸収の仕方をつうじて解析する。

 第三章、「和漢比較の世界」は、『新撰万葉集』の歌と詩の対応を、和漢文学のテーマ上の対応から考察した。

 第三章は二節からなる。第一節は、歌における禅門、詩における隠逸という、実は両文学伝統における隠逸観念の違いという視点から、『新撰万葉集』の歌と詩の内容的齟齬と対応の説明を試み、第二節は、和歌の恋と、それに対応する漢詩伝統の閨怨と男同士の友情という、和文学と漢文学の文学観念の違いを明らかにしながら、『新撰万葉集』の歌における恋が、番の詩がどのように対応するのかを分析した。

 本論文は第二章と第三章を通じて、『新撰万葉集』の歌と詩に、以下のような対応関係を認めることができた:

 一、題材や常套表現の面においては、鹿鳴(妻恋いと宴会、上秋57)、蝉(儚さと賛美、上夏34・39)、あやめ草・菖蒲(端午節の景物と不老不死の薬、上夏31)、鶴の声(不遇の嘆きと隠者の名声、上夏28)などの和歌・漢詩の内容的対応が存在する。

 二、主題の面においては、まずは恋と友情の対応。歌の主題が恋である場合、または恋でなくとも、歌の題材が和歌の伝統において恋と結び付けられることが多い場合、詩は友情で対応する(上夏36、上秋57、上冬91)。

 三、恋と閨怨の対応。恋の部の歌に対して、詩は全体的に閨怨で対応する。すなわち、恋の歌に対して、詩は友情と閨怨という二つのテーマで対応することになる(恋の部の歌と詩)。

 四、不遇と隠逸。不遇を嘆く歌に対して、詩は隠逸の賛美で対応する(上夏28)。

 五、梵門と隠逸。仏教関連のことをテーマにする歌に対して、詩は隠逸で対応する(上夏36、上冬92)。

 第四章、「『新撰万葉集』の意義」は、平安文学という和漢交流の場において『新撰万葉集』の意義の解明を試みるものである。これも二節構成で、第一節は本論文の結びであるが、本論文の内容をまとめあげ、『新撰万葉集』の歌と詩との対応関係と詩作者の作詩方針が如何なるものかを展望し、さらに本論文の結論から、『新撰万葉集』研究のこれからの課題を提起する。そして第二節、文学世界の比較対照という視点から、『新撰万葉集』を句題和歌、和漢朗詠集、元久詩歌合などの和漢併存の作品とそれぞれ比較して、『新撰万葉集』の特徴を浮き彫りにし、その歌集の文学史的意義の解明を試みる。

 結論としていえば、『新撰万葉集』の漢詩は、そのもとの和歌と類同の題材を扱うとき、漢詩である以上、和歌の内容よりは漢詩の特質、漢詩の伝統を優先させたのである。こうすると、同じ題材を扱う歌と詩とが並列して、一方は和歌の伝統に従って和歌的世界を繰り上げ、一方は漢詩の伝統に則って漢詩的な世界を展開する。

 最後に、『新撰万葉集』を句題和歌、和漢朗詠集、元久詩歌合などの和漢併存の作品とそれぞれ比較するとき、『新撰万葉集』には、歌と詩の間に融合と差異を同時に認める漢詩人のまなざしが感じ取られる。歌人のまなざしと詩人のまなざしを和漢併存の研究に導入することで、より立体的な平安文学像が見えてくる。この意味において、本論文は漢詩・漢詩人のまなざしを導入して『新撰万葉集』を考察した一つの試みとして受け止められることもできよう。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文「『新撰万葉集』研究」は、平安時代前半に成った(上巻序に寛平五年<893>、下巻序に延喜十三年<913>の日付がある)、和歌と七言絶句の漢詩とを組み合わせて載せる『新撰万葉集』について、その歌と詩との関係を考察したものである。この『新撰万葉集』は、上巻と下巻との間で、あきらかな断層があり、本論文は、その点に鑑みて上巻を考察の対象とする。そして、従来の研究では、漢詩が、歌の翻訳、あるいは歌の解釈として見られてきたことを批判して、歌と詩とが、和漢文学伝統の交流と対比において、交差あるいは平行するなかで、融合したり対立したりして文学的な磁場を作ることを見るべきだと提起する。その方法的提起は明快である。本論文は、その提起とともに、それをテキスト理解によって具体化したのであり、あらたな『新撰万葉集』研究の可能性をひらいたものと評価することができる。

 本論文は、第一章「序論」、第二章「歌の心・詩の意」、第三章「和漢比較の世界」、第四章「和漢併存の系譜」の四章から成る。第一章は方法的問題を提起し、第二、三章は、それをテキスト分析として具体化し、第四章では、文学史な見渡しのなかにこのテキストの位置付けを試みるという構成である。

 第一章の方法的立場は、研究史の批判的な振り返りから導かれる。従来の研究が、詩を、歌の翻訳ないし解釈としかとらえてこなかったことを批判して、歌と詩との「対照的関係」をとらえることを主張するのである。「対照的関係」というのは、歌と詩がそれぞれの文学伝統を負うものとしてありつつ、あわせ読むことによって映発して理解されるようなありようをいう。翻訳・解釈といった、一方向的な関係で理解されるべきではないという提起であり、『新撰万葉集』にとって新しい理解を拓こうとするものである。

 特筆されるのは、そうした方法的開拓が、テキストの読解によってささえられ、具体化されてゆくことである。第二、三章に展開されるテキストの読解(テキスト分析)は、本論文の真面目といってよい。きちんとテキストを読むというのは当たり前のことだが、その基本をつくしてゆくことは高く評価される。

 すなわち、第二章は、第一節「鳴く鹿の和と漢」、第二節「あやめ草と菖蒲」、第三節「鶴の声」、第四節「松の風琴の声に入る」、第五節「うつせみと蝉賛美」という標題が示すとおり、鹿・あやめ草(菖蒲)・鶴・琴・蝉といった素材をめぐって、作品に即して見てゆくのである。たとえば、第一節では、上巻・秋57の歌と詩について、歌が、鹿の声に感じられる秋の悲哀を歌うのに対して、詩は、鹿鳴という伝統的モチーフを負って、昔日の交歓と不在の友人への思いを表現するものとして「歌との接点を持ちながら」漢詩の伝統において展開することを析出してみせる。その手続きは、オーソドックスに用例をおさえ、実証的に論述がなされる。同じやりかたで他の素材についても検討を続けて、詩と歌との「対照的関係」というべきありようが確認されてゆくのであり、対象の取り上げ方が異なるが、第三章も同じ考察が続けられる。第三章は、第一節「梵門と隠逸」、第二節「恋と閨怨と友情」の二節から成るが、標題の示すように、主題領域というべき面からアプローチする。たとえば、第一節では、夏36のように、歌が「夏山に入る」と夏安居を歌うのに対して、番の詩は、隠逸の境地を表現するものとしてとらえられ、和漢対照のありようが確認され直されてゆくのである。

 本論文の主部たる第二、三章であるが、ここでは、論旨がさきに展開されるのでなく、素材を変えて同じ見地が繰り返し示される。展開性はもたないが、綿密なテキスト読解の繰り返しが、問題を掘り起こしてゆくのであり――歌と詩との違いをはっきり意識するなかにあるものとして、「遊戯性」をはらむという問題がとらえ据えられたことも注意される――、その説得性は高く評価される。

 第四章は、そうした『新撰万葉集』の歌と詩の関係把握に立って、文学史を見渡しながら、『句題和歌』『和漢朗詠集』『詩歌合』という和漢併存のテキストとは異なるものとして、『新撰万葉集』の特性を見定める。

 本論文によって、文学史的な位置づけをも視野に入れた『新撰万葉集』論の可能性が開示されたことは、『新撰万葉集』研究を推し進めるものとして、高く評価されてよい。

 今後の発展方向について、審査のなかでは「遊戯性」という問題を、詩作練習としてとらえることが考えられるという示唆も与えられたが、漢詩については、七言絶句という形式の選択そのものからして考える必要があることも指摘された。さらに、この上巻の考察を経て、あらためて下巻をどう見るかが課題となること(いったん上巻に限って見ることは正当な手続きだとしても、下巻をどうとらえ直すかが問われること)も指摘された。そうした発展がさらなる研鑽によって十分期待されるというのが、審査委員の一致した評価であった。

 また、詩の訓読に不安な部分が少なくないこと、用語の上で不適切なものが見られること、詩の解釈に関して揺れが認められること等、いくつかの弱点も指摘されたが、そうした欠点は本論文の価値を損なうものではないということが委員の一致する評価であった。

 したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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