学位論文要旨



No 216005
著者(漢字) 栗原,浩英
著者(英字)
著者(カナ) クリハラ,ヒロヒデ
標題(和) コミンテルン・システムの中のインドシナ共産党 : 太平洋地域におけるシステムの消長
標題(洋)
報告番号 216005
報告番号 乙16005
学位授与日 2004.04.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16005号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 教授 柴,宜弘
 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 教授 石井,明
 早稲田大学 教授 白石,昌也
内容要旨 要旨を表示する

 小論は「コミンテルン」を中枢(モスクワ)・各共産党現地党組織を基軸とする組織機構とそこを移動する人員・物資からなる巨大なシステム,すなわちコミンテルン・システムとみなす観点に立脚しながら,その成立から消滅に至るまでの時期を対象に,インドシナ共産党のシステムにおける位相を明らかにすることを目的としている。その場合,コミンテルン・システムを前期コミンテルン・システム(1919〜35)と後期コミンテルン・システム(1935〜43)に分けて論じようとするのが,小論の依拠する立場である。

 前期コミンテルン・システムの特徴は,戦略面でシステム中枢が世界革命と一国革命との間を漂流し,後者に傾斜しつつも前者と決別することができなかった点にある。組織面においては,地域書記局や共産党指導幹部養成機関を支柱とする中枢,中間指導機関,共産党現地党組織という基本構造が1920年代末には形成された。前期コミンテルン・システムの下でインドシナをシステム中枢と接合させる上で重要な役割を果たしたのは,現在の東南アジアや中国を包含する太平洋地域を舞台としたシステム関連要員による労働者の組織化を中心とした実践活動の展開であった。その中で,システム中枢と太平洋地域の結節点として中国の占める比重が高まり,中間指導機関である極東ビュローが設置されたり(上海),モスクワの東方勤労者共産主義大学(КУТВ/クートゥフ)に各地から派遣される留学生の集合地点がおかれたりした。グエン・アイ・クオックが広州で後のベトナム共産党・インドシナ共産党の前身ともなるベトナム青年革命会を創設するのも(1925年),彼が孫文政権支援のためにソ連国家とシステム中枢から派遣されたボロジン顧問団の随行員として当地で活動するという状況の下で可能になったのであった。そして,1920年代後半にはインドシナ出身者の恒常的なКУТВ在籍が示すように,システム中枢とインドシナを結ぶ人的な交流も確立されるに至った。

 システム中枢の主導でインドシナ共産党結成の動きが本格化する1929年末は,まさにシステム中枢における東方書記局を中心とした東方地域指導体制の整備,ならびにシステム中枢とインドシナを含む太平洋地域との人的な交流の進展と軌を一にしていた。しかし,1930年に入ってからのベトナム共産党の結成(1月)からインドシナ共産党の成立(10月)へと至る過程,さらにはその後の同党中央委員会とシステム中枢との指導・連絡回路の稼動状況は,交信に要する長大な時間が両者間の意思疎通を阻害するという前期コミンテルン・システムに内在する根本的な欠陥を早くも露呈させることになった。しかも,このような現象は,太平洋地域の共産党――同時期のフィリピン共産党あるいは1920年代前半のインドネシア共産党――にも共通しており,システム内である程度普遍的な性格をもつものであった。

 1935年3月にインドシナ共産党再建のためにマカオで開催された同党第1回党大会をシステムとの関連において考察すると,そこには二つの側面があったといえる。一つは,前期コミンテルン・システムに内在する諸矛盾の集中的な表現ともいうべきものであった。システム中枢に対するハー・フイ・タップの自己主張は,システム中枢で養成された指導幹部がモスクワを離れた後もシステム中枢に対して忠誠であり続ける保障は何らないことを示していた。それはとりもなおさず,システム中枢で養成された共産党指導幹部を遠隔操作することによって,世界各地で共産主義革命の実現を図ろうとしていたシステム中枢の基本戦略が揺らぎつつあったことを意味していた。第1回党大会の第二の側面は,それが機能不全に陥ったシステムを改革しようとする試みであったということである。とりわけ,海外指導委員会廃止と東方書記局の「南太平洋支部」設置提案は,前期コミンテルン・システム中枢の伝統的な太平洋地域へのアプローチを排し,中国を経由しない強力な中間指導機関を「南太平洋」に設置することと,「南太平洋」を基盤としたインドシナ,マラヤ,シャム3国共産党による一国革命の枠組を超えた広域革命の可能性を追求しようとした点でシステム自体の改革を追求する内容を備えていた。

 これらの提案は最終的にはシステム中枢の同意を得られずに,「時期尚早」という理由で頓挫させられるが,その直後,システム中枢における機構改革によって前期コミンテルン・システム中枢自身も消滅し,新たに後期コミンテルン・システム中枢がこれにとって替わることになる。後期コミンテルン・システムの形成は,インドシナ共産党第1回党大会とは趣を異にするものの,やはり前期コミンテルン・システムを改革しようとする動きに発していた。後期コミンテルン・システム中枢を荷う指導者となるディミトロフやマヌイリスキーは,システム中枢を軸とする指導体制の一元化と効率性の追求,システム中枢機構の軽量化や,「コミンテルン支部」の強化を主張していた。

 実際には後期コミンテルン・システムの下で,前期コミンテルン・システム中枢の支柱となってきた地域書記局とКУТВをはじめとする共産党指導幹部養成機関が廃止された。前者は九つの個人書記局にとって替わられたが(1935年),後者の継承機関は設けられないまま,幹部養成機能を特定の共産党に委任しようとする方針がシステム中枢から示された。こうして,1930年代末までに前期コミンテルン・システム中枢の名残をとどめる要素を完全に払拭する中で,後期コミンテルン・システム中枢は前期コミンテルン・システム中枢の荷ってきた活動や業務を一部の共産党に委任する姿勢を明確にしていった。インドシナ共産党に対して,後期コミンテルン・システム中枢はフランス共産党に指導を委譲する方針をとり,ここにシステム中枢とインドシナ共産党を直接に結ぶ指導・連絡回路は途絶し,システム末期にはインドシナ共産党は支部にも数えられなくなる。太平洋地域においては,同様にフィリピン共産党に対しては米国共産党,マラヤ共産党に対しては中国共産党がそれぞれ指導的な立場を占めるようになる。

 後期コミンテルン・システムの下でシステム中枢と切断されたインドシナ共産党中央委員会は,システム中枢の提起した全般的な路線に従う一方で,徐々に独自な戦略を模索していった。インドシナ共産党のシステム中枢からの自立的傾向には,前期コミンテルン・システムに内在する交信上の欠陥を克服する必要に迫られたという面とともに,後期コミンテルン・システム中枢が事実上同党に対する指導を放棄するという事情によっても後押しされたという二つの要因があった。1936年から37年にかけて展開された統一戦線政策導入に伴う指導部内の対立は,システム中枢から自立した戦略や思考の先駆けともなるべき性質をももつものであった。その後,1939年から41年にかけて,インドシナ共産党指導部は路線面のみならず,人材面でも土着化の傾向を強くしていった。1936年以降,指導部はハー・フイ・タップやレ・ホン・フォンのようなКУТВ留学幹部と,海外留学経験のない土着共産主義者の連合体であったが,その内容は次第に変化をみせる。1938年には党成立以来КУТВ留学幹部が独占してきた中央委員会書記長というインドシナ共産党指導部の最重要ポストが,初めて土着共産主義者グエン・ヴァン・クーによって掌握された。

 しかし,サイゴンを拠点とするグエン・ヴァン・クー指導部が1940年〜41年にかけて壊滅状態に陥ると,党中央組織再建の主導権はトンキンで活動していた土着共産主義者たちの手に移る。1940年11月にバクニンで成立したチュオン・チン臨時指導部は土着共産主義者のみで構成された党成立以来最初の指導部であった。ここに1938年以来,広西・雲南を中心に中国南部でインドシナ共産党国内組織との接触に努力していたグエン・アイ・クオックが接合することによって,1941年5月の第8回中央委員会総会においてチュオン・チン指導部が発足するに至った。これと同時に,1940年から41年にかけてハー・フイ・タップやレ・ホン・フォンら有力なКУТВ留学指導幹部がコーチシナでフランス植民地権力によって拘禁・処刑されるなど,強制的に抹殺されてしまったことも,土着共産主義者の台頭を促進した大きな要因となった。

 チュオン・チン指導部もКУТВ留学幹部(グエン・アイ・クオック)と土着共産主義者の連合体ではあったが,グエン・アイ・クオックはハー・フイ・タップのように自ら指導的地位を求めることはせず,土着共産主義者を指導的地位につけて自らはベトミンの統一戦線運動に専念していった点で,ハー・フイ・タップやレ・ホン・フォンとは明らかに行動様式を異にする人物であった。そして,チュオン・チン指導部に結集した人々こそが,第2次世界大戦後の党と国家――ベトナム民主共和国,インドシナ共産党・ベトナム労働党――の中核部分を荷っていくのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、コミンテルンを多くの内部機構と要員を擁する巨大な複合体としてのコミンテルン・システムと位置づけ、このシステムの内部におけるインドシナ共産党の歩みを、コミンテルン・システムの中枢指導機関および中間指導機関とインドシナ共産党との相互作用を通じて検討し、コミンテルン・システムが掲げた国際主義の実態と限界を論じたものである。

 本論文では、コミンテルンの歴史を、世界革命への志向が存在し、共産党を地域ごとに指導・管轄する地域書記局が存在した前期(1919年〜35年)と、コミンテルンのソ連の国家的利益への従属化が進み、世界革命への志向が希薄化し、地域書記局が廃止された後期(1935年〜43年)に区分している。

 本論文は、序章、三部構成の本論、および終章から構成されている。

 まず、序章「『コミンテルン』からコミンテルン・システムへ」では、コミンテルンを巨大な複合体=システムととらえる立場と、先行研究との関係での本論文の課題設定が行われている。

 第一部「前期コミンテルン・システムの形成過程とインドシナ共産党」は、前期コミンテルン・システムが次第に成長する1920年代から1930年までの時期を扱い、コミンテルン・システムの成長のなかに、どのような形でインドシナが包摂されていったかを検討している。

 第二部「前期コミンテルン・システムの中のインドシナ共産党」は、ベトナム共産党の結成とそのインドシナ共産党への改称が行われる1930年から、インドシナ共産党の第一回党大会が開催される1935年までの時期を扱い、コミンテルン・システム中枢が、モスクワの幹部養成機関で訓練された後に現地に戻った共産党指導幹部を遠隔操作するという、コミンテルンの基本戦略が、インドシナ共産党の場合、どの点で機能しなかったのかを、システム中枢・中間指導機関・現地党幹部という三者関係のダイナミズムを通じて検討している。

 第三部「後期コミンテルン・システムの中のインドシナ共産党」は、1935年からコミンテルンが解散される1943年までの時期を扱い、システム中枢からの指導体制の一元化と効率化のためにとられた地域書記局廃止という後期システムのもとで、システム中枢とインドシナ共産党を直接に結ぶ指導連絡回路が途絶し、インドシナ共産党内部では土着幹部の台頭がおこる過程が分析されている。

 終章「インドシナ共産党にコミンテルン・システムが残したもの」では、コミンテルン・システムの国際主義の限界を論じたのち、なぜグエン・アイ・クオックだけが、コミンテルン・システムに深くかかわりながら、コミンテルン解散後も党指導者としての地位を保ちえたのかを、彼がインドシナへのアプローチにおいて常に中国とトンキンを重視してきたことなどによって説明している。

 本論文は、1990年代以降に利用可能になったコミンテルン文書を駆使した、世界的に見ても最初の「コミンテルンとインドシナ共産党」に関する本格的研究である。

 本論文の画期的な貢献は二つの点に要約することができよう。第一は、従来のインドシナ共産党史においては、その時々のコミンテルン中枢の意図を体現していたと考えられてきた、1930年10月の第一回中央委員会でのチャン・フーや、35年の第一回党大会でのハー・フイ・タップの立場が、実はコミンテルン中枢や東方局の考えとはずれた「自主的」なものであったことを、コミンテルン文書を分析することによって解明し、インドシナ共産党史の書き換えをせまるとともに、コミンテルンがシステムとしてもっていた問題点を浮かび上がらせることに成功している点である。

 第二は、豊富な史料の発掘と活用が、筆者に、従来の「インドシナ共産党とコミンテルン」研究の多くのような一国史的なアプローチではなく、広域的なアプローチを可能ならしめ、そこからコミンテルンの「太平洋沿岸」への関心や、ハー・フイ・タップのコミンテルン東方書記局への「南太平洋支部」設置案など、当時の国際共産主義運動が今日東南アジアと呼ばれている地域をどのように把握しようとしていたのかを解明し、この動きのなかにインドシナ共産党を位置づけるという、従来の東南アジアの共産主義運動史になかった史実の発掘と視座の広がりを達成している点である。インドシナ・東南アジアの場合には、コミンテルンの前期システムから後期システムへの移行によって、東方局という地域を一括していた書記局が解体され、植民地宗主国共産党に従属した扱いがなされるという、コミンテルン・システム上の位置づけに大きな変化があったことも、本論文が解明した重要なポイントである。

 このように、本論文は、コミンテルン史、東南アジア政治史、インドシナ共産党史の研究に、傑出した新しい峰を築いた研究である。

 審査では、(1)本論文で使用されている「民族」「エスニシティ」の概念規定が不明確である、(2)「土着共産主義者」という用語の意味が不鮮明な面がある、(3)太平洋地域の共産党組織に対するコミンテルンと中国共産党の影響の重なりと競合が解明されると、より望ましかった、(4)インドシナ共産党とコミンテルンとの関係および共産主義運動の土着化という点からはきわめて重要な出来事と思われる1930年代のサイゴンにおけるトロツキストとの共闘の問題に言及されれば、さらに興味深いものとなろう、(5)かなり重要だと思われる問題の設定が、論文の途中でなされている、(6)路線や政策をめぐる対立を、コミンテルン・システムのなかで置かれた立場の相違によって説明するという組織論的アプローチは、新鮮で説得的ではあるが、その歴史的な意味づけ、従来の解釈との関係を、より体系的に明示する工夫が欲しい、などの本論文の弱点、問題点が指摘された。

 しかしながら、審査委員会は、こうした弱点は本論文の従来の研究史に対する画期的な貢献を否定するものではなく、本論文は博士論文として必要な水準を十分に達成していると判断した。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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