学位論文要旨



No 216009
著者(漢字) 金田,晉
著者(英字)
著者(カナ) カナタ,ススム
標題(和) 形象と価値の現象学 : フッセルの美学思想を弾機として
標題(洋)
報告番号 216009
報告番号 乙16009
学位授与日 2004.04.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16009号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,健一
 東京大学 教授 藤田,一美
 東京大学 教授 松永,澄夫
 東京大学 助教授 小田部,胤久
 総合文化研究科 教授 村田,純一
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は2つの課題に取り組んだ。

1)エドムント・フッセルの書き記した草稿の中から、美学に関する断章を取り出し、それらを整理し、フッセルの美学思想を浮かび上がらせること。

2)フッセルの美学思想を現代の美学状況の中でとらえ返し、「媒体」あるいは「中間」に焦点を当てた美学理論として発展させること。第一の課題は「第1部 原理編」で、第二の課題は「第2部 展開編」で扱った。

 本論文の意義は、20世紀美学の基調をなした「現象学的美学」の研究が、従来フッセル現象学に祖をもつかずかずの変奏曲を解題、解説するという傾向が強かったのに対して、現象学の提唱者フッセルの論説そのものから美学的問題に取り組もうとした点にある。通常の研究者には、ルーヴァンやケルンにあるフッセル・アルヒーフでフッセルの生のマヌスクリプトを手にすることは困難である。さらに膨大な速記風に書きこまれたマヌスクリプト群から、みずからに関連するところを採りだしてくることはフッセル学者でなければ、不可能に近い。幸い、この数十年間「フッセリアーナ」が次々と刊行され、それらのマヌスクリプト群が一般研究者にも活用可能になった。私たちはこれまで未公刊であったフッセルの講義録、論文に直接当りながら、その美学思想を検討することができるようになったのである。

 著者はその中でも、フッセルのゲッティンゲン時代からの古い弟子ロマン・インガルデンの、実在的対象と理念的対象との間の第3の対象、志向的対象性の領域という問題提起、フライブルク時代の最後の弟子オイゲン・フィンクの「中動態的作用」によって構成される像という考え方が、フッセル自身の思想に近いと判断した。つまり、たんなるイメージ、想像、印象というふうに、意識の内的出来事とされてきた芸術の受容者の描く世界が、じつはみずからが構成したものをみずからが受容する、その能動、受動がくりかえされる特別の世界であり、それ固有の客観性の領域をなすことを立証しようとしたのである。本論文は、そうした観点からフッセルの思想をまとめるとともに、その思想の展開としての美学上の実験的思索をおこなった。

 本論文の構成は、大きく次のようになる。

 「序章 事実と現象」(14-44頁)は、本論文の基調を示す。フッセル生前に公刊された「超越論的現象学」宣言の書として知られる『イデーェン』第1巻冒頭に記された、「経験から出発し、経験にとどまる」の一文の解析からはじめる。これは『論理学研究』期の「事象そのものにとどまる」以来、フッセル現象学の一貫した主張であり、超越論的現象学においても変わることがない。現象についての理解はきわめて多様であるが、本章では事実(ト・デ・ティ)と現象(事象)、コギタツィオ、現象の構成の順を追って考察してゆく。

 「第1部 原理編」は8章からなる。フッセルの美学思想の分析、再構成することを目指す。

 「第1章 現象学的美学の展開」(46-68頁)は、フッセルが1907年1月、フーゴー・フォン・ホーフマンスタールにあてた書簡を美学的に考察した。『論理学研究』は、言語や美術の作品構造の分析に大きな影響をあたえたが、フッセルは1906年前後から「超越論的現象学」を唱えはじめる。フッセルへの最初の共鳴者ミュンヘン現象学グループとの交流から離反までを概観し、1906年末ゲッティンゲンを訪れたホーフマンスタールとの交流と新しい出発の思想的内実を、美学に照準を当てながら、明かにしようとした。

 「第2章 フッセルの美学」(69-100頁)は、フッセルがみずから「美学と現象学」と手書したファイル(Ms.AVI 1)に収められた草稿群のうちから、a)1906年ごろ、ホーフマンスタールとの出会い、対話が実現した前後に書かれた「美学」と題される草稿、b)「美的客観性」と題される覚書、c)1916年か1918年ごろに執筆されたと推定される「芸術理論に関して」と題される覚書を取り上げて、考察を加えた。a)では、フッセルの美学が、対象の存在には無関心であるが、対象の現出のしかたに関心を示す、「関心の美学」であることを明らかにした。b)では、「美的客観性」が、基づけFundierungという考えに立って、物質的自然、理論的作品世界に基づけられた価値論的世界という重層構造性を明らかにした。c)では、レアリズム芸術と純粋想像の芸術という2極を対にした芸術様式論、ジャンル論が提起された。

 「第3章 想像力の現象学」(101-128頁)は、想像力の性格に、サルトルのアナロゴンに媒介されたregarderを原モデルとする想像力論、メルロ=ポンティの現前、非現前が融合・緊張するvoirを原型とする動的知覚論としての想像力論、また両者を調停して作家の側から創造的想像力論に挑戦した野間宏の論を検討し、フィンクの「中動態的作用」を手引きとして、フッセルが提起した物理的像-像客観-像主観の構造解析とその意義を問うた。像意識が想像、想起と明確に区別され、物質的自然を媒体にして遂行される固有の活動であることを明らかにした。

 「第4章 価値意識の境位」(129-148頁)は、哲学の価値への関心を19世紀後半にさかのぼって考察し、その状況の中にフッセルの価値への視座の特質を探る。フッセル倫理学思想は、アプリオリにあたえられる原理、規範意識でなく、物質的自然に基づけられた複層的意識であることが明示された。

 「第5章 美的価値の現象学」(149-172頁)は、フッセルの価値哲学への関心を、かれの講義歴から辿りなおし、倫理的価値と美的価値を区別し、美的価値論の基本図式をえた。価値は想像力と並んで、フッセル美学の2大部門である。美的価値は、対象の存在にも対象から喚起される快不快の感情にもそのありかを求められるのでなく、対象がどのように呈示されるかというWie der Dargestelltheitに求められる点を明かにした。

 「第6章 キネステーゼ感覚と空間構成」(173-203頁)は、身体意識の中核としての「キネステーゼ感覚」とそれを軸とする空間構成を問う。フッセル現象学の功績に、身体を哲学問題として問い直した点がある。それは知覚においてだけでなく、想像においても同様である。「キネステーゼ感覚」とは「私は……できるIch kann」という身体特有の作用であり、動機づけ連関を担う。次ぎに、定位空間、視空間、触空間へと順次たどりながら、静態的空間構成から発生的空間への展開を追尋し、最後に芸術空間の構成に言及する。

 「第7章 志向的体験の構造」(204-231頁)は空間構成を、対象への志向的体験のほうに重点をおいてとらえ直す。まず認識にかわって19世紀末から哲学分野のキーワードになった「体験」概念を整理し、その中から志向的体験を取り出す。これによって構成される対象性は、物質的自然、身体的世界、心的世界、精神的世界へと順次基づけられながら、積層されてゆく。精神の所産たる芸術作品は物質的自然の層からはじまる4層からなる重層構造として示される。

 「第8章 感覚への現象学的定位」(232-254頁)は、近年哲学や美学の分野でクローズアップされてきた感覚問題への、知的状況を概観する。いずれの感覚も局所化された身体であり、「世界内存在」として位置づけられる。フッセルは身体を、物質的自然の層「アイステータAistheta」を最底部とし、キネステーゼ感覚によって能動的空間.時間構成をする定位的中心に立ち、心、精神の生起する場となって行く。身体は想像においても働く。こうした世界の境界線に立つ身体を踏まえたエステジオロギー(フッセルの命名)は美学に通じる感性論として展開させる必要がある。

 「第2部 展開編」は、以上の「原理編」を受けて、媒体、中間、再帰の領域に着地して、現象学的美学の展開を試みる。

 「第9章 中間性の美学」(256-275頁)は、フッセル最後の弟子フィンクがその出世作「現前化と像」において掲げた「中動態的作用」に着目し、これを、P.クレーの線の分析、ギリシア古典学者B.スネルのホメロスのギリシア語の研究等によって強化し、2人称-表出-現在-身体-想像力という展開軸にしたがって、この中動態的作用の世界を考察した。

 「第10章 かたちの現象学」(276-295頁)は美的意識において中枢的位置に立つ「かたち」をテーマにする。美的意識の関心がWie der Dargestelltheitに向けられるが、それは「かたち」と言いかえることができる。芸術制作においても芸術鑑賞においても、このかたちに着地させることが重要である。かたちは中動態的作用において成立する。サルトルやメルロ=ポンティのregarderやvoirという作用を再度確認することによって、その志向的対象としての「かたち」の構造を考察した。

 「第11章 隠喩の現象学」(296-319頁)は、イメージを増幅し、イメージを豊かにする文学的手法としての隠喩のありかたを考察する。隠喩を表すmetaphoraはもと他のところに移す」が本義であった。この隠喩を含めて比喩はドイツ語ではBild(像)という。指し示すものと指し示されるものとの関係が、ここでは継次的-直線的論理ではなく、同時的―並列的論理で表示されることになる。80年代、60年代の「言語学的転回linguistic turn」(ローティ)に対して「イメージ的転回imagic turn」、「像的転回iconic turn」(ベーム、フェルマン)ということが言われる。隠喩によって時間的存在としての言語芸術と空間的存在としての造形芸術との結合軸ができると考えられる。この隠喩をとらえ直すことによって、現象学的美学は一層豊かに展開されることになろう

審査要旨 要旨を表示する

 金田晉氏の博士学位申請論文『形象と価値の現象学――フッセルの美学思想を弾機として――』は、現象学の創始者であるドイツの哲学者エドムント・フッセルの美学思想を、その断片的テクストから再構成し、その発展の可能性を試みた研究である。20世紀の西洋美学における現象学の貢献は顕著なものがあったが、それは、初期現象学のガイガーやオーデブレヒト、インガルデンやハイデガー、更にはフランスのサルトル、デュフレンヌ、メルロ=ポンティらの著作によるものであって、フッセル自身の美学思想が語られることはなかった。この偏りは、フッセルの美学に関連する原稿が長らく公表されなかったという事情によるとともに、フッセルの美学関連のテクストが体系性を欠いた短いものであり、多くの著作に断片的に散見する洞察を渉猟したうえで解釈することを必要とすることも与っていた。本論文は、長年にわたってこの課題に取り組んできた金田氏の、その研鑽の結晶である。

 論文は現象学の本質を論ずる序章に続けて、第1部原理篇全8章、第2部展開篇全3章の全12章よりなっている。原理篇はフッセルの美学思想の再構成を目指す。そこに収録された研究の主題は、フッセル自身のテクストの解釈と初期現象学における美学的研究の状況など歴史的原点に関するもの(第1〜2章)、想像力を含む感性の問題(第3章、第6〜8章)、価値の問題(第4〜5章)だが、これらが相互に深く連関しあっていることは言うまでもない。その核心を敢えて数行に要約するならば、次のように言えよう。金田氏によれば、現象学の本領は、志向性を本質とする意識が、与えられた具体的で個的な、言い換えればいきいきとした対象のなかに、理念的本質を捉え構成してゆくところにある。この生きた具体性と理念的本質との緊張に立脚する現象学の特質は、美学思想においては、先ず、対象の現出の仕方に対する「関心」の美学という主張として現れるが、この「関心」は身体(特に「キネステーゼ感覚」)を介しての空間の能動的な構成と相関する。この特徴は、現象学的美学の特権的主題である想像力の諸契機にわたる分析においても強調される。すなわち、重視されるのは空想ではなく画像のような物質的基盤をもつ像に関わる想像で(「像意識」)、これに対応して、美的対象を成す諸層のなかでも物質的な具体性(「像客体」)の意義が論じられる。更に金田氏は、フッセルの美学のもう一つの中核をなす価値の問題についてもまた、知覚と平行してなされる価値構成が、先験的な規範意識のようなものではなく、志向的意識による今ここの具体的な体験であることを強調している。

 展開篇の3篇は、中動相、像の具体性、隠喩を主題とし、金田氏の独自の現象学的思索を展開している。特にその第1篇は、動詞の「中動相」のあり方に現象学の本質を見つつ、それに対応する藝術のあり方(2人称、表出、現在、身体、想像力)を論じたもので、氏の現象学の全体を描出するという意味を認めることができる。

 形式的な不備(結論的総論及び参照文献表の欠)や、やや説明に明晰さを欠く点が見られるものの、独自のテーマを設定し、徹底した哲学的検証を試みた本論文は、博士(文学)の学位に値する。本審査委員会はそのように判定する。

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