学位論文要旨



No 216010
著者(漢字) 橋本,雄
著者(英字)
著者(カナ) ハシモト,ユウ
標題(和) 中世日本国際関係史の研究
標題(洋)
報告番号 216010
報告番号 乙16010
学位授与日 2004.04.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16010号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村井,章介
 東京大学 教授 五味,文彦
 東京大学 教授 藤田,覚
 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京大学 助教授 六反田,豊
内容要旨 要旨を表示する

 本論文の課題は、中世日本における国際関係の構造と展開とを明らかにすることにある。中世日本社会は権力の分散状況を特質とするため、《国境をまたぐ地域》と親和性の高い国家/社会であるわけだが、《地域》概念を歴史的規定性のあるものとするためには、《国家》と《地域》の相克するさまを視野に入れなくてはならない(村井章介氏)。これまで、海禁政策を採る中国・朝鮮の国家と、倭寇・倭商など多民族混合海域集団との角逐については、一定の研究蓄積が存するが、中世日本における《国家》と《地域》との関係についてはほとんど研究がない。《国境をまたぐ地域》のもっとも華やいだのが中世という時代であったのだとすれば、環シナ海域に臨む中世日本《国家》が等閑視されて良いはずがない。したがって、本論文では、国際関係を通じてみた、中世日本における《国家》と《地域》の関係史を志向する。具体的には、中世日本の国家的代表権とも規定される外交権がどの勢力によって掌握され、運用されていたのかという点に注目していく。素材は、外交権が中世日本において明確に存在した「室町幕府外交」である。

 第1部「室町幕府外交体制の構造と展開」では、その室町幕府外交体制のあり方を構造的に解明した。

 I章「室町幕府外交体制論・序説」では、それまでの日本の対外関係の諸段階と異なる、幕府外交の独自な諸側面を究明し、既往の「日本国王」論の《脱構築》を試みた。足利義満時代において日明册封関係が樹立され、ここに完全に室町幕府が外交権を掌握したわけだが、それが単純な天皇外交権の継承でなかった点は重要である。これまでの議論は、素朴な権原論や本質主義に囚われてきたものであり、室町殿の達成・獲得した多様な外交権の諸側面を見逃してきた。恐らく、天皇家と室町殿との相対的関係にばかり目を奪われてきたためであろう。また、足利義教の册封をめぐってこれまで注目されてきた、三宝院満済による「義教=国王・執政」説が、実は二度の遣明船派遣・経営に深く関わる彼自身の利己的な発言であったことも判明した。明朝から「日本国王」に册封されたからといって、中世日本国家の国王になれたわけではない。筆者は、常識的に、中世でも国王=天皇であったと考える。

 II章「遣明船の派遣契機」では、まず、十年一貢の貢期の基準点が「寧波入港」時点であることを解明して、十年一貢制度の開始時期が1453年、景泰約条のときであったことを推定した。そして、十年一貢制の施行前、不定期に発せられていた遣明船が如何なる契機で発遣されたのかを調べると、《回礼》と《代始め》との二つが浮かび上がる。前者は、来日した明使船の帰国時に付して発遣された遣明使のことであり、後者は、室町殿の任右大将や内裏造営を契機に発遣されたそれのことである。とくに注目すべきは、その後者の《代替り》が「日本国王」――室町殿、将軍在職に関係ない幕府政権の首長――でなく室町将軍のそれであった点であり、このことは、遣明船が国内向けの代替り宣言の一環であったことを雄弁に物語る。

 III章「外交文書と外交使節の発遣システム」では、主に『蔭凉軒日録』『善隣国宝記』など五山禅林史料を用いて、使節がいかに選ばれ、外交文書がいかに作られ交付されたか、を考察した。その結果、対明関係と対朝鮮関係とでは、儀礼的な位置付けに歴然たる差のあることが明らかとなった。こうしたシステムは、恐らく伝統的な外交観――中国対等・朝鮮下位――に基づくものだが、たとえば遣朝鮮使僧に将軍が会わない、復命の義務も存在しない、という事態は、朝鮮関係の情報が幕府に環流していかない結果をもたらした。対外観や情報論の問題を考える上で、こうした外交システム論が不可欠な所以である。

 IV章「外交使船の経営構造」では、遣明船や遣朝鮮船の経営規模や経営構造を論じ、極力、そのバランスシートを解明した。幕府や経営者(守護大名・寺社勢力など)、貿易商人らのそれぞれの収益を算定したのである。従来、客商らの収益は1.8倍程度とされてきたが、今回の検討の結果、2.5倍程度であることが判明した。また、本章で明らかになったのは、前章で指摘したような対明/対朝鮮関係の違いというよりも、むしろその共通点であった。遣明船・遣朝鮮船は、どちらも当時の代官請負システムを援用して経営されていたのである。こうした、「取る/取られる」の収取・請負システムが、外交使船の経営構造内部に矛盾を増大させ、延いては十六世紀の《倭寇的状況》を生み出したのであろう。

 V章「日明勘合再考」では、日明関係を律した基本制度の一つ、日明勘合の形状・様式と運用方式について論じた。本章の検討結果により、従来の通説に大幅な修正を迫ることになった。たとえば、(1)宣徳年間の日字勘合は使われた、(2)勘合は第一義的に文書を書き込むための料紙であり、おもて面に文書(別幅咨文)を書くことで複合文書として完成した(=裏書きなどあり得ない)、(3)永楽・宣徳勘合は、日字勘合を遣明使が携えていったが、景泰勘合(及びそれ以降?)は逆に本字勘合を携えていくように転換した、(4)寧波の乱(1523年)以後、大内サイドと細川サイドの新・旧勘合の争奪戦を背景として、遣明船は新旧双方の勘合を携行することを義務づけられた――新旧両勘合査証体制が成立した――といった諸点が判明したのである。

 以上に見てきたような室町幕府外交体制とは、おおむね《国家》と《地域》の相生・補完関係であったわけだが、それでは、両者は如何にして相克・対立していたのだろうか。本論文第2部では、《国家》と《地域》のせめぎ合いの舞台として、いわゆる偽使問題を選択した。これは、外交使節の実際の派遣主体を考察する研究分野である。具体的には、対馬-博多などの《地域》に生きる偽使派遣勢力が、室町殿の施行する《国家》の符験外交体制(外交使節資格証明システム)とどのように対峙したのか、という観点から考察を試みている。

 IV章「王城大臣使の偽使問題と日朝牙符制」では、従来真使であると信じられてきた15世紀後半段階の幕府有力者(畠山・左武衛・細川・伊勢などの「王城大臣」)名義の朝鮮への使節が、ほぼすべて対馬-博多勢力による偽使であったことを突き止めた。研究史上の「朝鮮観論争」(1980年代後半)を克服するためには、まず通交者の実体を把握することが必要だからである。偽王城大臣使の通交は、偽使群の廃絶を目的に足利義政の提言で導入された日朝牙符制により途絶し、これ以後、偽使派遣勢力にとって、牙符制は容易に越えがたいハードルとして屹立することになる。

 VII章「朝鮮への「琉球国王使」と書契-割印制」では、対馬-博多地域の偽使派遣勢力が国家の機先を制して、偽琉球国王使の割印制を朝鮮王朝と契約し、安全裡に偽使を仕立て得るシステムを作り上げたことを明らかにした。この偽使勢力の書契-割印制は、何故か、割印も図書印(「琉球国王」印)も失われたため、15世紀の末には失効してしまう。

 VIII章「肥後地域の国際交流」では、港町高瀬の発展を立軸に、菊池氏名義の遣朝鮮使の偽使問題を横軸にして、肥後地域の国際交流の様相を考察した。14世紀半ば、元明交替・前期倭寇猖獗を契機に「大洋路」(明州[寧波]-博多ライン)が忌避されると、有明海に面した高瀬は、これに代わる「南島路」(福建-琉球ライン)の帰着点として一時的に繁栄を見た。また、肥後菊池氏の朝鮮通交については、15世紀後半以降の菊池殿使送はすべて対馬による偽使であると推断した。とくに、文明初年の宗貞国の博多出兵と相前後して、菊池氏名義をはじめ、偽使の通交名義が分裂した例が見えるようになる事実は、対馬の島内政治と九州陸地政治史との連関性を物語るだろう。

 IX章「「二人の将軍」と外交権の分裂」では、偽使創出手腕に長けた対馬博多勢力にあっても容易に切り崩せなかった幕府の外交権(符験外交体制)が、外ならぬ幕府・将軍権力の分裂という現象によって、符験とともに分散・崩壊していく過程を推論した。1493年、明応の政変(足利将軍廃立事件)で足利将軍家が義稙-義維系と義澄-義晴系とに分裂し、それぞれが、自身の保身のために日朝牙符を地域権力にばらまいた(第一・二牙符は大友氏、第四牙符は大内氏へ。第三牙符は不明)。そして、従来から博多とつながりの深い対馬は、博多に出先機関を置くこれら地域権力と接触し、いくつもの牙符を確保・借用することに成功したのである。今回新たに、これまで大内・細川・宗氏の陰に隠れてさほど目立たなかった大友氏が、16世紀の日明・日朝関係いずれにおいても無視できない役割を果たしていたことを確認できた。

 X章「永正度の遣明船と大友氏」では、永正度遣明二号船は純粋に細川船であり、また大友氏は細川氏を介して16世紀初頭に日明勘合三枚を入手したという結論を丁寧に跡づけた。なお、行論の副産物として、九州地域の諸史料に登揚する「中乗」が、中世日本に普遍的な「上乗」(海賊衆が一人乗船することで航海の安全が保障される慣行)と同一存在だということも判明した。

 本論文の検討を通じて、中世後期日本の国際関係における《国家》と《地域》の相互関係のあり方が仄見えてきたと言えよう。また、第2部で積極的に導入した偽使問題という問題視角により、応仁・文明期以後の国際関係史について、ようやく一定の見通しがつけられたのではないか。

 今後の課題については、対馬-博多・京都以外の《地域》論・境界論や、琉球王国をめぐる国際関係史など、様々な問題群が考えられるが、16世紀後半以降の、多元的な《地域》の"外交権"のあり方の究明は、とりわけ重大な課題だと認識している。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、15世紀を中心とする日本の国際関係についての通説的理解を、《国家》と国境をまたぐ《地域》との共存と対抗という観点から、主として日本側に残された諸史料の徹底的な読み直しを通じて、塗りかえることを試みた意欲的な研究である。

 まず序章で、先行研究について、朝鮮・中国の《国家》と《地域》との対抗に注目する余り、日本の中世《国家》が国際関係を規定した側面が見落とされてきた、とその不備を指摘する。そして第一部では、外交権を掌握する室町幕府が明・朝鮮との間に設定した外交システムを詳細に明らかにする。ついで第二部では、《地域》を支える人間結合として対馬・博多連合勢力に着目し、彼らと室町幕府や朝鮮政府との虚々実々のかけひきを浮き彫りにする。

 その結果、次のような注目すべき新見解が提示された。

 遣明船派遣の国内的契機としては、将軍の代替わりに伴う右大将拝賀が重要であり、そこには代替わりの徳政という性格がある(第II章)。禅宗五山が担った外交文書・外交使節の発遣業務において、対明と対朝鮮とでは、システムのあり方と重要度の認識の双方において、大きな落差があった(第III章)。遣明船の発遣経費の主要部分は、乗り込む商人が支払う荷物運賃でまかなわれていた(第IV章)。日明間で機能した勘合とは、割印を捺した紙面の余白部分に咨文や別幅という外交文書を書き込んだ複合文書である(第V章)。有力守護大名や琉球国王の名義で朝鮮に赴いた使者の大部分は、対馬・博多連合勢力が仕立てた「偽使」であり、朝鮮政府はその資格審査のために牙符や割印によるチェック・システムを設けていた(第VI・VII章)。1493年の政変で将軍権力が二つに分裂し、それぞれが九州の地域権力と結びついて、勘合や牙符という将軍の外交権の徴表を切り売りし、その結果16世紀には地域権力が外交権を掌握する事態が生まれた(第IX・X章)。

 本論文の学説史に対する貢献は、つぎの三点に要約できる。

(1)近年めざましく進展した室町〜戦国時代政治史研究の成果を咀嚼し、その上に国際関係を位置づけることにより、国内的および対外的な契機の統一的把握に成功した。

(2)当該期の国際関係で重要な役割を担う勘合・牙符・割印などについて、史料の徹底的な読み直しを行い、形状・機能・保持者について多くの新知見を示した。

(3)「偽使」という存在が当該期の国際関係において果たした独特かつ重要な役割を、彼らの流す情報の真偽を慎重に弁別しつつ、《地域》論の立場から鮮明にした。

 このように本論文は、日本中世後期の国際関係研究を大きく塗りかえた業績である。措定された《地域》が日朝間の対馬・博多連合勢力のみで物足りないこと、遣明船の経営構造分析における数字の処理に再検討の余地があること、16世紀に訪れる国際関係の新段階については見通しに留まったことなど、不満を感じさせる部分もなくはないが、本論文の意義を損なうほどの弱点ではない。

 以上より、本委員会は、本論文を博士(文学)の学位を授与するにふさわしい優れた業績として認めるものである。

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