学位論文要旨



No 216013
著者(漢字) 鈴木,康司
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,コウジ
標題(和) 乳酸菌のビール混濁性に関する研究
標題(洋)
報告番号 216013
報告番号 乙16013
学位授与日 2004.05.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16013号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北本,勝ひこ
 東京大学 教授 祥雲,弘文
 東京大学 教授 依田,幸司
 東京大学 助教授 横田,明
 東京大学 助教授 中島,春紫
内容要旨 要旨を表示する

 ビールに生育し混濁事故を引き起こすビール混濁菌は、現在でも世界のビール業界において大きな問題であり、約70%の事故実例は乳酸菌を原因としたものである。従って、これらのビール混濁乳酸菌を迅速に検出および同定することは、ビール工場における微生物環境改善ならびに製品検査を実施する上で、極めて重要である。検出された細菌のビール混濁性を判定する方法として、最も精度が高い手法は、実際の製品ビールに植菌するものである。しかし、本法では結果が得られるまで早くとも数日から、多くの場合は数週間を要するのが現状である。このため、検出された細菌のビール混濁性を迅速に判定できる方法が望まれていた。

 ビールはアルコールを含むこと、無酸素状態であること、栄養成分が少ないこと、抗菌作用を持つホップ成分を含む等の理由により、生育しうる細菌の菌種は極めて少ない。日本で醸造される典型的なビールにおいては、Lactobacillus brevis、L. lindneri、 Pediococcus damnosus、Pectinatus frisingensisならびにPect. cerevisiiphilus等に限定される。この中でもL. brevisならびにL. lindneriのビール混濁性は群をぬいて強く、ビール産業にとっては脅威的な存在として知られている。このため、従来ビール醸造業界では、既知のビール混濁菌種に対して同定検出法の開発を行い、検出菌のビール有害性判定を実施してきた。代表的なものとして、遺伝学的手法を応用した菌種特異的PCR検査法があげられる。本手法は、数時間以内に検出細菌を菌種レベルまで推定できる点で優れている。

しかしながら、本法は未知のビール混濁菌種が出現した場合、対応が後手へと回るため、微生物事故を絶対に発生させないことを至極の目的とする網羅的微生物検査体制の構築にとっては必ずしも十分とは言えない。本論文では、菌種を越えて乳酸菌のビール混濁性を判定できるtrans-species genetic markerという概念を提唱し、新しい切り口の微生物検査法として提案すると共に、本微生物検査を実施すべき理論的な裏づけについて考察する。本論文は以下の3章からなる。

1.新規ビール混濁乳酸菌Lactobacillus paracollinoidesの提案および同定検出法の開発

 筆者らは、最もビール混濁性が強いとされるL. brevisならびにL. lindneriと同等に強いビール混濁性を持つLactobacillus sp. LA2、LA7ならびにLA8株をビール工場環境から単離した。本株は16S rDNAの全長解析の結果、L. collinoides JCM1123Tと約99%の相同性を示した。その一方で、DNA-DNAハイブリダイゼーション試験の結果では、ビール工場環境から検出された3株はDNA相同性に関してお互いに70%以上の相同性を示し同一菌種グループであると考えられたが、L. collinoides JCM1123Tとの相同性は46.8%から57.6%であり、L. collinoidesに属さない新菌種群であることが示唆された。また、L. collinoidesについてビール混濁性を調査した結果、ビール工場環境検出菌と対照的に全くビールに生育することはなかった。さらに、フラクトースの資化性についてもビール工場環境検出菌とL. collinoidesとは識別可能であった。以上の3点の差異から、新ビール混濁乳酸菌Lactobacillus paracollinoidesを提案した。

 新たなビール混濁細菌が見出されたため、本菌種を特異的に検出同定できる検査系をPCR法に基づき開発を行った。上流プライマーは16S rDNA塩基配列をもとに設計し、下流プライマーは16-23S rDNA ITS領域の塩基配列をもとに設計を実施した。その結果、従来16S rDNA領域のみでは判別が困難であったL. collinoidesを含めたその他の乳酸菌種およびビール工場環境頻出菌に対して特異性を持った検出同定法の開発に成功した。

2.乳酸菌のビール混濁能を判定できる遺伝子マーカーの探索

 前章では、既存の種に属さないにも関わらず強いビール混濁能を持つ乳酸菌が出現する事例を示し、新有害菌種の出現に対応して実施する微生物検査法構築について述べた。しかしながら、本施策による網羅的微生物検査法の構築は常に後手に回るため、未知の混濁細菌種の出現に事前に対応できない。そこで、菌種同定法と異なる切り口でビール混濁能判定が可能となる方法を模索することとした。

世界で最初に見出され、ホップ耐性遺伝子であることが実証されたhorAは、L.brevis ABBC45株から見出された遺伝子であるにも関わらず、菌種を越えてビール混濁性を判定できる遺伝子マーカー(Trans-species Genetic Marker (TGM))であるという点で注目を集めた。しかしながら、本遺伝子マーカーは、ビール混濁性を持つL. paracollinoides LA7株、LA8株では検出することができないこと、L. brevis ABBC45株から、horAを欠損させたABBC45C株にもビール混濁性が残存していたことから、一つの遺伝子マーカーでは漏れのない検査体制を構築することは困難であることが明らかとなり、新たな遺伝子マーカーを探索することとなった。

 まず、horA遺伝子を保有しないL. brevis ABBC45C株に残存するホップ耐性因子の生化学的解析を行った結果、本株のホップ耐性はエネルギー源としてProton Motive Force (PMF)を利用するタイプの多剤排出ポンプにより付与されていることが推察された。次に、L. brevis ABBC45C株から、通常培養温度より高い37℃で継代培養することにより、ホップ耐性を完全に失ったホップ感受性株ABBC45CC株を取得した。ABBC45C株と変異株ABBC45CC株との間に差異を見出すため、両株間のプラスミド構成を比較した。その結果、pRH45IIと名づけたプラスミドに異変が起きていることが判明した。そこで、本プラスミドの全塩基配列解析を実施した結果、23.4kbのプラスミドであった。サザンハイブリダイゼーション試験ならびに塩基配列解析の結果、ABBC45CC株では本プラスミドの12.6kb部分が欠落していることがわかり、残存部は再結合して小型のプラスミドとしてABBC45CC株に存在していた。欠落部には12個のOpen Reading Frame (ORF)が存在しており、その中のORF5が11〜12回膜貫通型膜タンパク質をコードしているようであった。この特徴は、上述したPMF型多剤排出ポンプの典型的なものであったため、 L. brevisおよびL. paracollinoidesにおける本ORFホモログの有無とビール混濁性との相関性をPCR法およびサザンハイブリダイゼーション法で調査した。57株について調べた結果、ORF5ホモログとビール混濁性の有無は完全に一致していた。以上のことから、ORF5は本2菌種を判定できる有用な遺伝子マーカーであることが判明した。一方、もう一つの遺伝子マーカーであるhorAは、ORF5を保有しないビール混濁乳酸菌であるL.lindneriのビール混濁性を正しく判定できるため、これらの遺伝子マーカーを併用することにより、漏れのない検査体制につながることがわかった。

3.ビール混濁能判定マーカーの遺伝学的解析およびビール混濁乳酸菌発生機構に関する考察

 これまでビール醸造微生物学では、乳酸菌のホップ耐性は安定した形質であることが定説であり、ホップ耐性株からホップ感受性株の取得はできないとされてきた。その一方で、同一菌種内においても、ホップ耐性を持つ株と持たない株が存在しており、ビール混濁乳酸菌がどのような機構で発生したかについては謎に包まれていた。

 筆者らは、ビール混濁乳酸菌L. brevis ABBC45株から、horA遺伝子およびORF5という異なる2つのプラスミド上に存在する遺伝子を欠損させることにより、完全にビール混濁性を失った株の取得に成功した。そこで、本現象が一般的に発生する現象であるか否かについて、ビール混濁性を持つL. brevis 5株(ABBC44、ABBC46、ABBC64、ABBC104およびABBC400)ならびにL. paracollinoides (LA2T株およびLA9株)について、それぞれ37℃ならびに30℃で継代培養を行った。その結果、すべての株からビール混濁性を失った株の取得に成功した。このことから、ビール醸造微生物学の定説に反し、乳酸菌のビール混濁性は不安定な形質であることを示すことができた。

 これらの変異株について調査した結果、野生株すべてがhorAならびにORF5を共に保有する株であるのに対し、変異株ではすべての株について2つの遺伝子マーカーを検出することはできなかった。このことから、両遺伝子マーカーは比較的脱落しやすい遺伝子であることが示唆された。また、これら2つの遺伝子マーカーが乳酸菌のビール混濁能の本体であると仮定した場合、どこかに供給源がない限りビール混濁乳酸菌は消滅していく運命にある。そこで、筆者らはhorAおよびORF5が転移性遺伝子であり、本来無害な乳酸菌を有害菌化しているという仮説を持った。

 本仮説を検証するため、ORF5周辺に存在するORF3-7について、ビール混濁能を持つL. paracollinoides LA2T株ならびにPediococcus damnosus ABBC478株について塩基配列解析を行った。その結果、5.3kbの本遺伝子領域は、L. brevis ABBC45C株のORFに相当する領域に対して約99%の相同性があり、ORFの構造は酷似していた。L.paracollinoidesおよびP. damnosusとL. brevis間の16S rDNAの相同性はそれぞれ92.6%、92.3%であることから、ORF3-7を含む遺伝子領域は両菌種と進化を共にしてきた遺伝子群ではないことが推察された。また、当該遺伝子領域の相同性の高さから、比較的最近獲得された遺伝子領域であることも示唆された。さらに、当該遺伝子領域の中で、ORF3はLeuconostoc lactisに見出されたtransposaseとアミノ酸レベルで91%の相同性を示し、当該遺伝子領域の転移性と関連性があると考えられた。

 一方、horA遺伝子についても、L. lindneri ABBC276株、L. paracollinoides LA2T株、P. damnosus ABBC478株の塩基配列の解析を行った。その結果、L. brevis ABBC45株由来のhorAに対し、それぞれの相同性は99.7%、99.6%、99.4%であり、事実上同一塩基配列であった。それぞれの菌種のL. brevisに対する16S rDNA遺伝子の相同性はそれぞれ90.2%、92.6%、92.3%であり、同様に水平伝播によりhorAが獲得された可能性が高いと考えられた。さらに、L. brevisに次いで乳酸菌で混濁事故が多いとされるL. lindneriについてhorAを含むプラスミドの全塩基配列を決定した結果、プラスミドの骨格部はL. brevis ABBC45由来のプラスミドと99%を越す塩基配列の相同性が認められ、プラスミドを介在した水辺伝播が示唆された。

 以上の研究成果より、ビール混濁乳酸菌は、外来遺伝子の水平伝播により、本来無害であった乳酸菌に有害遺伝子が感染することにより生じたものであると推察した。従来、ビール産業における微生物検査は、菌種同定法によるビール混濁性の判定が主流であった。しかしながら、筆者らの得た知見から、ビール混濁性を付与する遺伝子を標的とした検査法を構築することは、既知の菌種内での正確なビール混濁能判定につながるだけでなく、未知の混濁細菌の出現にも事前に対応できる可能性が示唆された。また、本研究は今まで謎とされてきたビール混濁乳酸菌の発生について、新たな仮説を提唱するものであり、意義深いものと考えている。

審査要旨 要旨を表示する

 ビールはアルコールを含むことおよび抗菌作用を持つホップ成分を含む等の理由により生育しうる細菌の菌種は極めて少ないが、ひとたび微生物事故を引き起こした場合、製品の回収に膨大なコストを要する上に長年培った企業ブランドに多大な損害を与える。ビール醸造業界においては、菌種特異的PCR検査法により既知のビール混濁性微生物種を迅速に検査できる体制を構築してきたが、同一菌種においてもビール混濁性に大きな差異のある菌株が存在することと、未知のビール混濁菌種が出現した場合に事前に対応できないことがこの検査法の問題点となっている。

 本論文では、菌種を越えてビール混濁能と相関性を持つ遺伝子マーカーの探索により、未知のビール混濁菌を含む網羅的微生物検出システムの構築を目的としている。

 序章に引き続き、第2章では新規ビール混濁乳酸菌の提案および同定検出法の開発を行った。乳酸菌はビールにおける微生物事故の約70%を占めるが、日本のビール産業ではLactobacillus brevisおよびL. lindneriに属する乳酸菌が脅威的な存在となっている。ビール工場環境から新規に単離した3株のビール混濁乳酸菌Lactobacillus sp. LA2, LA7, LA8株の16S rDNA配列解析およびDNA-DNAハイブリダイゼーション試験の結果から、本株が従来のビール混濁乳酸菌L. brevis, L. lindneriおよびもっとも近縁と考えられるL. collinoidesのいずれの菌種にも属さない新菌種と結論し、新ビール混濁乳酸菌L. paracollinoidesを提案した。さらに、16S rDNAおよび16-23S rDNA ITS領域の塩基配列を基に設計したプライマーのセットを用いることにより、本菌種を特異的に同定する検出法を開発した。

 第3章では乳酸菌のビール混濁能を判定できる遺伝子マーカーの探索を行った。強いビール混濁能を有する L. brevis ABBC45株が保持するプラスミドpRH45より見出されたhorA遺伝子はホップ耐性遺伝子であることが実証されていたが、horAが欠失したABBC45C株にもビール混濁能が残存していた。ABBC45C株を37℃で継代培養することにより、ビール混濁能を完全に失ったABBC45CC株が得られた。ABBC45C株とABBC45CC株のプラスミド構成の比較から、ABBC45C株のpRH45IIプラスミドの一部がABBC45CC株では欠失していることを見出した。欠失部に含まれる遺伝子の中でPMF型多剤排出ポンプをコードすると考えられるORF5を遺伝子マーカーとして選択した。PCRおよびサザンハイブリダイゼーション法により51株のL. brevisおよびL. paracollinoidesにおけるORF5ホモログの有無を調査したところ、ビール混濁能との完全な相関が見出された。一方、horAはORF5を持たないL. lindneriのビール混濁能と相関していた。horAとORF5の2つの遺伝子マーカーを併用することにより、乳酸菌のビール混濁能の判定について漏れのない検査体制につながることを示した。

 第4章ではビール混濁能判定マーカーhorA, ORF5の遺伝学的解析を行った。ビール混濁能を持つL. brevis 5株およびL. paracollinoides 2株について、それぞれ30℃ならびに37℃で継代培養を行ったところ、すべての株からビール混濁能を失った株が取得されたことから、従来のビール醸造微生物学の定説に反して乳酸菌のビール混濁能は不安定な形質であることを示した。また、ORF5を含む遺伝子領域は、ビール混濁能を有するL. paracollinoides LA2T株およびPediococcus damnosus ABBC478株の当該領域と99%以上の相同性を示したこと、および近接するORF3はtransposaseと相同性を有することから、当該遺伝子領域が転移性遺伝子である可能性が示された。同様の解析結果がhorA遺伝子からも得られたことから、乳酸菌のビール混濁能が外来遺伝子の水平伝播によって獲得されている可能性について考察した。

 以上、本論文は乳酸菌のビール混濁能はプラスミド上のhorAまたはORF5のいずれかの遺伝子によるものであることを明らかにするとともに、これらの遺伝子マーカーを用いる網羅的微生物検査を行う妥当性を示唆するものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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