学位論文要旨



No 216018
著者(漢字) 梶本,裕之
著者(英字)
著者(カナ) カジモト,ヒロユキ
標題(和) 触原色原理に基づく電気触覚ディスプレイ
標題(洋)
報告番号 216018
報告番号 乙16018
学位授与日 2004.05.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(情報理工学)
学位記番号 第16018号
研究科 情報理工学系研究科
専攻 システム情報学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 舘,暲
 東京大学 教授 原,辰次
 東京大学 教授 嵯峨山,茂樹
 東京大学 助教授 篠田,裕之
 東京大学 講師 川上,直樹
内容要旨 要旨を表示する

電気刺激を用いた皮膚感覚提示は,皮膚表面に配置した電極から電流を流し(経皮電気刺激),皮膚下の感覚神経の活動を誘発するというものである.経皮電気刺激は機械的な刺激に比べ,壊れにくく小型化が容易など多くの利点をもつ.経皮電気刺激を研究する主な目的は感覚代行や点字の提示など,記号情報の伝達手段としてであり,いかに多くの情報を触覚チャネルに乗せることが出来るか,という観点から進められてきた.

これに対し本論文の特徴は,電気刺激による「自然」な皮膚感覚提示を目的としている点である.

現在,視覚・聴覚提示装置(ディスプレイ)は既に完成の域に達し,我々が日常生活で目にする風景,耳にする音を再現可能となっている.これに対して触覚ディスプレイは,本格的な研究開発競争が始まった段階である.数多くの提示手法が提案されているものの,どの手法をとっても,提示される感覚は今のところ日常的な触覚とは言い難い.我々の目標は日常生活で体験する皮膚感覚を再現可能な触覚ディスプレイの構築であり,本論文はこの目標を電気刺激によって実現する試みである.

本論文のアプローチは「触原色」というキーワードで表現される.皮膚下には数種類の触覚受容器が存在する.電気刺激では受容器を刺激する代わりに受容器に接続された神経を刺激するわけであるが,この二つは脳にとって等価な入力である.よって機械的な皮膚変形によって生じる神経活動パターンを各受容器に繋がる神経に再生させられるなら,機械的接触と同じ感覚を生じるはずである.

神経活動パターンを再現するために次のような方法を取る.皮膚下には数種類の受容器が存在し,それぞれ異なった役割を果たしている.一種類の触覚受容器の活動をこの活動パターンの基底とし,この基底の合成によってあらゆる活動パターンを表現するというものである.視覚において赤,緑,青,三種類の原色を組み合わせて全ての色を構成できる事実との類似性から,一種類の触覚受容器の活動を触原色と名づけた.

いまや問題は触原色の生成手法,すなわちいかにして一種類の受容器を選択的に刺激できるか,という点に絞られた.我々は触原色生成の一手法として,電気刺激による神経選択的な刺激手法を提案した.触覚神経は特に指先において,受容器ごとに異なる特徴的な走行を見せる.この神経走行の違いを利用して,電気刺激による受容器選択的な刺激を行う.これによって触原色を実現できることを理論的,実験的に示すこと,さらに触原色の合成によって実際の物理的接触によって生じる皮膚感覚を表現できることを実験的に示すこと,が本論文前半の骨子となる.

しかし考えてみると経皮電気刺激により神経を選択的に活動させるというのは,工学的に極めて魅力的な一般性を持った課題である.境界に配置された有限個の電極は電位の境界条件を規定する.我々に出来ることはこの境界条件を時間的,空間的に変えることで内部の電位分布を制御し,所望の神経の活動を誘発すること,さらに活動させたくない神経の活動を極力抑えるということである.一種の最適制御の手法を援用すれば望ましい刺激手法が得られるであろうことは想像が付く.

こうした選択刺激の問題は実は神経刺激全体における中心課題なのだが,それにもかかわらず経験則の域を超えた一般的な設計手法は提案されていない.本論文の後半では触原色生成という課題を神経選択刺激という一般的な課題としてとらえ直し,刺激の設計手法を提案する.さらに従来経験的に提案されてきた様々な刺激手法の意味を明らかにした後,この成果を触原色生成の課題に適用する.

あらかじめ注意しておけば,本論文は触覚提示という目的に対して電気刺激が万能であることを主張するものではない.将来的には他の刺激手段との併用によってバランスの取れた刺激手法となるだろう.本論文の最大の目的は電気刺激による触原色生成の可能性を全て網羅することで,未だ見ない高品位触覚提示装置のための道標となることである.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「触原色原理に基づく電気触覚ディスプレイ」と題し、6章からなる。人工現実感あるいはバーチャルリアリティの分野で視覚提示システムは広く提案され研究されているが、触覚提示の研究は相対的に立ち後れている。触覚は、固有受容感覚と皮膚感覚に大別され、前者のディスプレイについては既に製品も多く販売され新しい方式の研究も進展しつつあるのに対して、後者の皮膚感覚の触覚ディスプレイは甚だしく遅れている。その理由の一つに人間における皮膚感覚のメカニズムが明らかになっていないため、アドホックな触覚提示装置しか現在までに構成されてこなかった点が挙げられる。本論文では、 生体における皮膚感覚のうち機械的な受容に限定して、日常的に生じる自然な皮膚感覚を提示する触覚ディスプレイを経皮電気刺激により実現することを目的として、その触覚情報処理メカニズムを触原色の観点から理論的に解明し、 その原理に基づく触覚ディスプレイの設計法を明確にして、さらに実際にディスプレイを構成し、その有効性を示すことにより応用への道を拓いている。

 第1章「序論」は緒言で、自然な触覚の生じさせるために必ずしも現実と同一の外界状態を提示する必要はなく、人間の触覚センサに同一の状態を生じさせれば良い、従って人間の触覚情報処理のメカニズムを触原色の立場で解明し、経皮電気刺激により適切な神経を選択的に刺激することにより、自然な触覚提示法が見出しうるという本研究の目的と立場と意義とを明らかにしている。

 第2章は、「電気刺激による触原色生成」と題し、電気刺激による神経活動閾値の判定に使われる最も基本的な指針であるActivating Functionを導入した後、単一電極が作るActivating Functionの形から、以下の二つの方法で神経軸索を選択刺激することを提案している。即ち、一つは、深さの違う軸索を選択的に刺激するためにアレイ電極を用い、隣り合ったアレイ電極から逆の極性をもった電流を流し電流経路を皮膚表面付近に限定することで浅い部分の軸索のみ刺激するという方法である。第二の方法は、神経軸索の向きと電流の極性に関連があることを利用する方法であり、皮膚水平に走行する神経軸索に対しては通常通り陰極性の電流で神経発火を生じさせ、皮膚垂直に走行する神経軸索に対しては、陽極性の電流で神経発火を生じさせる。具体的には二つの方法を組み合わせ、皮膚深部に存在するPacini小体に対してはアレイ電極を用いた深部刺激を行い、皮膚浅部に存在するMeissner小体、Merkel細胞に関してはアレイ電極を用いた浅部刺激を行うと共に、Meissner小体の神経軸索が皮膚垂直方向に走行していることを利用して、陽極電流によってMeissner小体を、陰極電流によってMerkel細胞をそれぞれ刺激する方式を提案している。なお、Meissner小体、Merkel細胞、Pacini小体の選択刺激をそれぞれRAモード、SAIモード、PCモードと呼んでいる。次に、この問題を、刺激を実現したい軸索のActivating Functionを一定に保ったまま、活動を抑えたい軸索のActivating Functionを下げるというActivating Function最適化問題としてとらえ、この最適化問題を線形計画問題として扱えることを示し、皮膚表面に配置した複数の電極から流す電流の重み付けパターンを求めたところ、ここで計算されたパターンは、前述の提案法と一致したとしている。

 第3章は「触原色の検証」と題し、提案した選択刺激手法の検証を三つの観点から行っている。即ち、神経イオンチャネルのダイナミクスを含んだシミュレータを用いたもの、心理実験によるもの、直接の神経活動計測による検証である。シミュレータによる検証では、機械受容器として適当な神経軸索末端の境界条件を付与してシミュレーションし、各刺激モードにおいて選択刺激が可能であることを検証している。心理実験による検証では、RAモードにおいては空間的に局在化した振動感覚が、SAIモードにおいては純粋な圧覚が、PCモードにおいては広範囲に及ぶ振動感覚が生起することを確認している。しかし同時に電流量をうまく調整しないと純粋な原色としての感覚が得られないこと、具体的にはSAIモードにおいて圧覚のみを生成することの難しさも観察している。また振動感覚をつかさどるMeissner小体とPacini小体に関して、心理物理実験により選択刺激を定量的に評価している。RAモードにおいて本来Pacini小体が担当すべき高周波の刺激を与えた場合、被験者は振動周波数の高低を正しく判断できない。しかしPCモードで刺激すると判断できるようになる。この結果から、少なくともRAモードにおいてPacini小体が活動していないことが検証されたとしている。さらに、下腕正中神経に刺入した電極で各受容器に接続された神経に陽極刺激、陰極刺激を加えた場合の閾値を計測し、Merkel小体、およびPacini小体は陰極刺激の方が低い閾値を示し、逆にMeissner小体では陽極刺激のほうが低い閾値を示すデータを得ることに成功し検証としている。

 第4章は「神経選択刺激の最適設計」と題し、選択刺激が皮膚感覚提示にとどまらず、電気刺激共通の課題であることを述べ、一般的な神経選択刺激の課題を解くための手法を構築している。触覚で論議する神経は有髄神経であり、限られた有限の箇所(Ranvier Node)でしか神経発火を起こさず、皮膚表面電流源分布も電極マトリクスによる有限個の点と仮定できることから、神経活動を示すシステムは状態方程式で表せる。この状態方程式に対して時間的な離散化を行うことにより、全軸索上の場所における膜間電位差の全刺激時間分の情報を持ったベクトルが、インピーダンスのマトリクスと全電極からの全刺激時間分の電流値を持ったベクトルとの積によって得られることを示し、選択刺激問題をActivating Functionによる設計と同様で規模の異なる線形計画問題として定式化することに成功している。この定式化によって良く知られた条件下での選択刺激問題を解き、それらの条件下で既に知られている選択刺激手法が、提案手法で自動的に得られることを確認している。さらに従来の刺激手法が刺激電流の時間波形か空間的な荷重のいずれかを調整するに留まっていたのに対して、刺激電流の時空間分布を最適化することにより、従来知られていなかった新たな選択刺激方法を見出している。

 第5章は「電気触覚ディスプレイの応用」と題し、実際の応用のための電気触覚ディスプレイを作成、評価している。その結果、作成した電気触覚ディスプレイが生起する感覚の点で充分実用に耐えるだけでなく、電気触覚ディスプレイの特長を生かした、これまでにない超薄型触覚ディスプレイとして新たな応用の可能性を持つことを示している。

 第6章「結論」は結語で、本論文の結果をまとめ、今後を展望している。

 以上これを要するに、従来理論的に検討されることの少なかった経皮電気刺激による皮膚感覚のメカニズムを理論的に考察し、人間の皮膚表面に配した電極から皮膚下の受容器神経を種類別に刺激する触原色触覚提示手法を提案し検証するとともに、この選択刺激法を神経選択刺激問題とし一般化し、数理モデルに基づく刺激の設計法を構築し、その理論の有効性を実験的に明らかにするとともに設計法を明確に示して、それに基づいて実際に利用可能なディスプレイを試作することでその有効性を示して応用への道を拓いたものであってシステム情報学及び人工現実感工学に貢献するところが大である。

 よって、本論文は博士(情報理工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/49006