学位論文要旨



No 216020
著者(漢字) 王,葆玹
著者(英字)
著者(カナ) オウ,ホウゲン
標題(和) 玄學通論
標題(洋)
報告番号 216020
報告番号 乙16020
学位授与日 2004.05.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16020号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川原,秀城
 東京大学 助教授 小島,毅
 東洋文化研究所 教授 丘山,新
 東洋文化研究所 助教授 橋本,秀美
 総合文化研究科 助教授 中島,隆博
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は、五十万字以上にわたって、主に中国古代玄学について研究したものである。玄学という名称、その行われた時代、時代区分、それが基づいた経典の体系、議論のかたち、代表的な人物・著作・学説、そして然るべき評価などについてそれぞれ考察と論述を行った。その中では、さまざまな個別の問題、ならびにマクロ的あるいは全体に関わる問題のいずれについても新たな見解を提出している。本稿全体に現われる新たな見解をまとめ、以下の各点を紹介したい。

 一、玄学著作に関する考察と輯佚:玄学史上最も代表的な王弼の著作、及び何晏、〓康、郭象等の著作について、詳細な考証を行った。

 例えば、王弼『周易大演論』は久しく佚していたが、本稿では『大演論』佚文のうち、重要な数節は今でもみることができるものであることを示した。うち一節は『穀梁伝』疏にあり、太極と陰陽の関係が論じられている。またもう一節は『五行大義』の中にあるもので、「大衍の数」と「天地の数」の関係が論じられている。また、『文選』魏都賦の李注、及び『詩経』周頌・天作の疏にもそれぞれ一節ずつ、聖人の性情と賢人の性情の差異について論じたものを見ることができる。筆者はこの四節の佚文をもとにして、『繋辞伝』韓康伯注に引かれている王弼佚文ほかいくつかの佚文をあわせて、『周易大演論』輯本を編んだ。この輯本は太極、両儀、五行、象数、聖賢の性情などの問題を集中的に論じているため、王弼『周易注』に匹敵する重要性を持つものと考えられる。本稿では、この輯本とその他の史料に依拠しながら、王弼の本体論及び聖人論について新たな解釈を行った。

 〓康『声無哀楽論』には魯迅輯本と戴明揚輯本とがあり、いずれも名高いが、晦渋にして難解である。本稿では、袁宏『後漢紀』に『声無哀楽論』中の数百字が引かれていながら、魯迅、戴明揚らが見落としていることを指摘した。この数百字によって、『声無哀楽論』両校本に見られる多くの誤りを正し、『声無哀楽論』の思想内容をより明らかにすることができる。

 二、玄学の淵源とその経典体系について:本稿では、玄学とは夏侯玄『本玄論』から名づけられたものであり、その形成については劉表の荊州学を近因とし、「易・老・荘」三書を遠因としていると述べた。魏晋南朝においては「易・老・荘」は「三玄」と称され、極めて尊重されていたが、尊重の程度は異なっていた。玄学においては、『周易』を経とし、作者を聖人であるとした。そして、『老子』、『荘子』を伝とし、述者を上賢あるいは亜聖であるとした。「三玄」とは、実質的には玄学家が尊崇した経典体系と聖賢体系とを統一的に称して呼んだものである。玄学特有の討論方式と思想方法は、いずれも「三玄」に基づく。例えば、『周易』繋辞伝に「書は言を尽くさず」とあるが、玄学家は、口頭の談論が最も重要な学問論述方式であり、文章による著述はそれに劣るものであるとみなした。繋辞伝は「言は意を尽くさず」と指摘したが、玄学家は「理を窮め、性を尽くす」口談は清談、すなわち「微言」であるべきだと考えた。こうした微言は詩歌の形式をとることもあり、これを「玄言詩」といった。清談が困難になると、玄学家はまた、「妙象」を代替手段とした。

 「妙象」は音楽の演奏や絵画、書法といった作品でもよかった。

 本稿の「補論」では、馬王堆帛書『易伝』の「要」及び郭店竹書の「性自命出」が玄学の代表的人物である王弼に大きな影響を与え、玄学の源になったことを明らかにした。

 三、玄学家の歴史的側面に関する考察:本稿では、玄学家の籍貫、身世、業績などについて考察した。玄学家と魏晋時代の政事との関係について特に詳述した。

 筆者はかつて『正始玄学』(1987年刊)において、三国魏斉王芳の正始年間に改制事件が発生しており、その主謀者ならびに関与者がいずれも玄学の提唱者であったことを初めて明らかにした。その後、「正始改制」は学界の広く認める概念となった。本稿ではこれに基づき、さらに詳しく夏侯玄、何晏、鍾会、王弼の四人と「正始改制」の関係について論じた。特に竹林七賢の政治活動に関する考察には創見がある。竹林七賢はなぜ河内郡山陽県に隠居したのか、〓康はなぜ「宅に吉凶あり」について詳しく論じようとしたのかといった問題は、みな歴史学上疑問とされてきた。筆者は河内郡山陽県とは本来山陽公国、すなわち漢献帝禅位後の封地であることを明らかにした。魏文帝は禅代の礼に従って、山陽公国の制度は一律漢制を踏襲するものと定め、魏制には従わなかった。その結果、山陽公国は顕著な独立性を享受するに至った。竹林七賢は魏朝を支配していた司馬氏に対して強い不満を持ち、山陽公国の子民となり、司馬氏への服属を拒絶するという政治的立場を示したのである。〓康が「宅の吉凶」を詳しく論じ、阮籍が賦を作って伯夷、叔斉を称えたのも山陽に隠居するための理由づくりであった。本稿ではまた、「魏室中興」運動の真相を明らかにし、魏帝高貴郷公、毋丘倹、〓康がいずれもこの運動の有力な参与者であることも示した。

 本稿は西晋の武帝及び恵帝の時代における「晋史断限」をめぐる論争についても検討し、玄学史の時代区分についても新たな見解を提出している。

 四、玄学各派の思想に関する研究:玄学の「玄」は、「深遠」を意味する。「深」とは、自然哲学の領域において、内省の方法を用いて現象界を超え出た形而上学を打ち立てるということである。「遠」とは、政治学の領域において、復古により、遥かなる理想の国家を憧憬するということである。深遠の追求もしくは「探玄」の過程において、異なる思想潮流が枝分かれしていった。

 本稿は、これまでの「漢代哲学は宇宙論であり、王弼哲学は本体論である」とする定説を総括し、玄学本体論には誕生から定型までのプロセスがあることを明らかにした。西晋の「貴無」と「崇有」をめぐる論争については、本体論学説内部の論争であると解釈した。多くの学者が裴〓『崇有論』は反玄学的作品であると考えているが、筆者はそうではないと考える。王弼の主張は「本」を尊崇することによって「末」を持ちあげ、「無」を貴しとすることによって「有」を全うするものであり、西晋の王衍らは「貴無」の一面を強調したが、裴〓は「全有」の一面を強調している。両者は元来相補的な関係にあるといえる。裴〓の『崇有論』は「心」と「事」を対応させ、「事を制すには必ず心に由る」と称しているが、その思想は王弼の本体論と実質的な違いがあるわけではない。

 魏末西晋の玄学家は『荘子』に基づいて、「声に哀楽無し」、「火熱からず」、「指至らず」の三説を前後して提出している。「声に哀楽無し」とは、音声そのものには哀楽はなく、哀楽は聞く者の音楽に対する感応に過ぎないということである。「火熱からず」とは、火そのものは熱さとは無関係で、熱さとは火に近づいた者の火に対する感覚に過ぎぬということである。「指至らず」とは、意味は永遠にそれが示す対象と一致せず、したがって対象それ自体は確実に知ることができないということである。本稿では、この三説がいずれも西洋哲学の「物自体」説に類似するものであることを指摘している。ただ、論証の過程においては西洋学問の論理に乗ってはいない。

 郭象の学説は上述の本体論思想とは大きく異なっており、「迹」の背後には「迹たる所以」、すなわち「真性」が隠れていると指摘する。郭象はまた、「迹」と「迹たる所以」に対して、「兼忘」するべきであるとも主張している。この「兼忘」には現象界を超え出るという意義のみならず、「本質主義」に反対するという意義も含まれている。郭象は、ひいては.「命に致すは己に由る」と主張する。すなわち、性分は人が自ら定めるものであると考え、故に「独化」を提唱したのだ。しかし、郭象のかかる実存主義的な学説は必ずしも純粋なものではない。彼は更に聖人本体論を導き出し、「聖人は一なり、而して堯舜湯武の異有り」と考える。堯舜湯武はみな「迹」であり、その「迹たる所以」は「神人の実」、すなわち聖人の本体である。これは、明らかに何晏、王弼の思想系列に返るものであり、玄学本体論の極致であるとすらいえる。

 五、玄学の評価に関して:本稿「補論」第三節において、玄学の歴史は唐代まで続いた、あるいは、隆盛を誇った唐代は相変わらず玄学流行の時代であったとも言え、したがって「玄学の清談が国を誤らせた」との定説は成立し得ないものであることを指摘した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は玄学、すなわち中国魏晋南北朝期に『周易』(経に相当)と『老子』『荘子』(伝に相当)にもとづいて構築された新たな思潮について研究したものであり、著述の目的は玄学の全体像を明らかにするところにある。大きく引論と本論一二章、補論から構成されている。

 著者は引論で、玄学の名称の由来、南朝玄学の科目、思想傾向、分期問題などを説き、自らの玄学研究の大まかな構想を示し、その構想にもとづいて、個別問題について専門的な分析を展開する。第一章のテーマは玄学の起源である。魏晋玄学は馬王堆帛書『易伝』を源とし、後漢末の劉表の荊州学を介して、揚雄『太玄』や王充『論衡』の影響をうけたと説く。第二章では玄学の社会政治背景を論じ、魏正始年間の改制運動が玄学の興起を大きく刺激したと結論する。この章の基本的なアイデアは、同著『正始玄学』(1987)で初めてのべられたものであり、現在、著者の観点に賛同する研究者も少なくない。第三、四章では玄学の討論形式と思想方法について分析し、その「清談」による「微言尽意」の方法は、『周易』繋辞伝の「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」と深い関係があるとのべる。第五、六章ではそれぞれ正始玄学家の夏侯玄・何晏・管輅・鍾会・王弼と、竹林の七賢の〓康・阮籍・向秀・山濤・王戎らの事績や著作について分析している。

 第七章以下の五章は、玄学の哲理を問題とするものである。第七章では漢代の宇宙生成論と王弼の本体重視の哲学の関係を論じ、通説とは違って、両者は絶対的に排斥しあうわけではなく、むしろ相容れる所も多いという。第八章では王弼『周易大演論』の佚文数節を発掘、輯本を編み、それによって漢魏数論の演変を論じ、形而上学の面では王弼の周易象数学のほうが漢のそれより優れていたとのべる。第九章では主に王弼の『老子注』と『周易注』を分析し、玄学が一種の道徳性理学の域に達していたことを明らかにする。第十章では現本の郭象『荘子注』には向秀『荘子注』の文章が多く紛れ込んでいるとし、両者をわけて論じ、郭象の学説をもって玄学存在論の極致と論定する。第十一章のテーマは玄学の人生論と人材論である。第十二章は玄学の影響と後世の評価ほかを問題にしており、本論文の結びに相応しい。

 本論文の主要な成果は、(1)玄学が儒家思想と道家思想の間にあり、経典や学統の上では儒家の伝統を重んじているが、思想的にはかえって道家に接近することを、原文に即して論証したこと、(2)従来の理解と異なって、王弼の基本的な主張は「玄理をもって象数を統摂する」、あるいは「玄理を象数の中に寓する」所にあり、象数を破棄する傾向をもたなかったことを、佚文の発掘などを通して明らかにしたこと、(3)従来、玄学の歴史は魏晋に限られるとされてきたが、それ以後も玄学は続くとし、唐代の経学や道教の重玄学が魏晋玄学の影響下にあることを明らかにしたこと、などである。仏教思想との関係にほとんど言及がなく、哲学用語の使用にやや曖昧な所もあるなど、問題点もないことはないが、玄学の全体像をみごとに論じきっており、今後の玄学研究に欠くべからざる基本文献になることは間違いないところである。 以上のことから、本審査委員会は全員一致で、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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