学位論文要旨



No 216026
著者(漢字) 小久保,光典
著者(英字)
著者(カナ) コクボ,ミツノリ
標題(和) 薄切片標本作製システムに関する研究・開発
標題(洋)
報告番号 216026
報告番号 乙16026
学位授与日 2004.05.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16026号
研究科 工学系研究科
専攻 精密機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 樋口,俊郎
 東京大学 教授 相良,泰行
 東京大学 教授 栗原,裕基
 東京大学 助教授 鳥居,徹
 東京大学 助教授 高橋,哲
内容要旨 要旨を表示する

1. はじめに

 病理検査における組織診断では,手術等により被検者から検査対象組織を摘出し,包埋・薄切・染色といった工程を経て作製された標本を顕微鏡で観察する.このように,病理組織検査では薄切片標本を作製することが不可欠であり,現在においても検体をパラフィン等で包埋した試料を,ミクロトームを用いて3〜7μm程度の厚さに薄切し,薄切片を一枚一枚スライドガラス上に乗せる作業を人手で行っている.このため顕微鏡標本の品質は,臨床検査技師の熟練・経験による手技に頼るところが大きい.また,多数の検体から多数の薄切片を切り出さなければならず,薄切片試料を安定した精度で供給することは非常に困難である.

 そこで,粘着テープを薄切対象試料の表面に貼り付けた後に試料を薄切することで,粘着テープ上に連続的に薄切片を取り出し,粘着テープ上の薄切片に直接染色を施して標本を作製する方式に加え,粘着テープのかわりに静電気を利用して絶縁テープ上に薄切片を取り出した後,薄切片をスライドガラス上に転写する方式を考案し,両システムについての研究および装置の開発を行った.

2. 研究の目的

 本研究では,一連の病理組織検査工程の中で最も困難とされている薄切片標本作製作業の自動化,つまり現在のように臨床検査技師の熟練や経験が少なくとも,安定的にかつ安全に,そして短時間で品質の良い顕微鏡標本を作製することを目的としている.

 パラフィン包埋試料を薄切し,薄切片をスライドガラスへ貼付する工程は「自動化は不可能に近いのではないか」といわれてきた.本研究・開発は試料の薄切から薄切片の採取までの自動化がテーマであり,薄切片標本作製の歴史上初めてのものといえる.また本研究のシステムが実用化されれば,安定した精度の薄切片標本の供給に加え,臨床検査技師の負担の軽減にもつながり,社会的意義が非常に大きい.

3. 粘着テープを用いた薄切片試料作製システム

 粘着テープを使用した薄切片採取方法

 基本的な原理をFig. 1に示す.まず,試料を薄切厚さに対応する量だけ+Z方向に送るA.次に粘着テープを試料表面に貼り付けた後にB,ナイフを+X方向に移動させ,試料を薄切しC,テープ上に薄切片を取り出すD.その後,テープを一定量だけ送ると同時にナイフが試料表面に触れないよう,試料を−Z方向に一定量引き戻すE.最後にナイフを-X方向に,薄切開始位置まで戻すF.上記工程を繰り返し行い,粘着テープ上に連続的に薄切片を取り出す.

 粘着テープを用いた薄切片試料作製システム

 試作した装置をFig. 2に示す.ナイフを移動させるX軸には非循環型のクロスローラガイドを採用し,ボールねじを介してステッピングモータ(分割数 50000 pulse/rev.)で駆動した.また,薄切厚さに対応する量だけ試料を送るZ軸には無限軌道型のボール転がり案内(リニアガイド)を用い,リニアモーションタイプのDCサーボモータ(分解能 0.0174μm)で駆動した.

 粘着テープユニットは,テープ引き出し部,試料表面への貼り付け部,テープ送り出し部および粘着テープの剥離フィルム巻き取り部で構成される.薄切片が貼り付いた粘着テープを,染色・観察用の専用枠にセットし,そのままの状態で染色を施した後に観察を行う.

 薄切片採取・染色試験

 粘着テープを使用して,薄切片採取試験を行った結果,実際の病理標本用試料サイズに関して,厚さ3μm〜5μm以上の薄切片を安定的,連続的に採取することができた.粘着テープについては,基材に加え溶剤型アクリル系の粘着剤成分および架橋剤について数回の改良を重ね,最終的には臨床検査技師が作製したものと同等品質レベルの標本(粘着テープ上の薄切片に直接HE染色を施したもの)を作製することができた.なお,粘着テープの光透過率は可視光波長範囲400 nm〜700 nmでスライドガラスと同等の特性を有する.Fig. 3に,従来の方法に従い臨床検査技師がスライドガラス上に作製した薄切片と本システムにより粘着テープ上に切り出した薄切片にHE染色を施した標本を示す.検体は肝臓である.本標本を,病理学を専門とされている方に鏡検していただいた結果,本システムで作製した標本の品質は臨床検査技師が作製した標本と同等であり,十分病理診断を行うことが可能であることが確認できた.

3. 静電気を利用した薄切片試料作製システム

 静電気を利用した薄切片採取方法

 基本原理をFig. 4に示す.まず,コロナ放電を利用した帯電装置で発生させた+電荷イオンで試料表面を+に帯電させるA.次に試料表面を絶縁性のキャリアテープで覆いB,その後,同様に帯電装置で発生させた−電荷イオンでテープ背面を−に帯電させるC.この状態で試料を薄切し,薄切片をキャリアテープ上に取り出すD.次に水分を滴下(塗布)したスライドガラスにE,テープ上の薄切片を触れさせF,薄切片をスライドガラス上に転写するG.最後に,温度制御を行った伸展板にスライドガラスを乗せ,薄切片のしわを伸ばし,スライドガラスとの密着力を向上させるH.上記工程を繰り返し行うことにより,スライドガラス上に連続的に薄切片を取り出すことができる.

その後,通常の染色・封入工程を施し,組織の観察・診断を行うことになる.

 静電気を利用した薄切片試料作製システム

 静電気を利用した薄切片試料作製方法に加え,従来は固定であった引き角に対し,試料移動方向(X軸)と直行する方向(Y軸)に設定した速度でナイフを移動させる「引き角制御方式」を採用し,試作機に組み込んだ.本方式において引き角φは式(1)のように表すことができる.

試料移動速度:Vs

ナイフ移動速度:Vk

 本引き角制御方式を採用することで,引き角変更が容易にできることに加え,切れ刃の「切れ味」が低下した際の,試料薄切箇所の変更が容易になった.

 試作した装置をFig. 5に示す.試料を薄切厚さに相当する量だけ送るZ軸案内はリニアガイドを用い,ボールねじを介してステッピングモータ(分割数 4000 pulse/rev.)で駆動した.試料をナイフに向かって移動させるX軸および今回の試作機の大きな特徴であるナイフの「引き角制御」を行うY軸の案内にはクロスローラガイドを採用し,ボールねじを介してステッピングモータ(分割数 5000 pulse/rev.)で駆動した.薄切片のハンドリングは,試料およびキャリアテープの背面帯電用のコロナ放電型帯電電極2個a,b,テープ駆動機構(繰り出しc,巻き取りd)に加え,数個のガイドローラeとテープガイドバーfによって行う.さらに,スライドガラスのストッカg,送り出し機構h,水分滴下機構 i,テープ上の薄切片をスライドガラスに貼付するテープ押付け機構 jを装備する.最後は,薄切片が貼付されたスライドガラスを,温度制御を行った伸展板mに乗せ,伸展工程を施す.なお,帯電用高圧直流電源は0〜±20kV (0.5 mA max.)連続可変,4出力のものを使用した.また,キャリアテープにはPETフィルム(厚さ25μm,絶縁破壊強さ60 kV/mm)を採用した.薄切片を吸引する際の吸引力は,式(2)のように表される.

薄切片とキャリアテープ間の吸引力:F,薄切片面積:S

キャリアテープの厚さ:d,キャリアテープの誘電率:ε

両極板間の電位差:V

 薄切片採取・染色試験

 ここでは,数多く試験を行った検体のうち,消化管(大腸)および腰椎骨を薄切した例を示す(Fig. 6).試料表面帯電用電極の印加電圧を+12 kV,キャリアテープ背面帯電用電極の印加電圧を−12 kV,ナイフのすくい角45°,引き角60°および速度20 mm/sの条件で薄切を行い,テープ上に取り出した薄切片を一般的な顕微鏡用のスライドガラスに転写した.

 連続切片作製に関しては,技能の高い臨床検査技師が同様の作業を行い,比較的薄切し易い検体の場合でも,9割以上の成功を納めることは困難である.さらに今回の検体の一つである骨組織や筋腫組織等は硬度が高いため,薄切しにくく,薄切片を連続的に採取することは非常に困難であるが,本システムでは薄切厚さ3μmまでの薄切片を成功率9割以上の確率で採取することができた.

 スライドガラス上に貼付された厚さ3μm薄切片に,約40℃で数時間伸展工程を施した後,HE染色を施した結果をFig. 7に示す.それぞれ30枚連続で作製した内の連続5枚を示している.組織観察用の拡大像は対物レンズ×40で撮像した.

 本装置にて作製した組織標本は,破れ,しわ等の発生に着目し,人間が作製した顕微鏡標本と比較すると,同程度の品質の顕微鏡観察可能なものとなっている.また比較的薄切し難い検体に関して,厚さのムラや連続切片作製成功率に着目すると,人間よりも良好な結果を得ることができた.

 また,標本の品質については,病理組織検査を専門としている複数の方々に顕微鏡観察していただき,人間が作製したものと同等もしくはそれ以上で十分診断可能という評価を受けた.

3. まとめ

 粘着テープを用いた薄切片試料作製システムにて自動で作製した標本は,病理診断に用いることが可能である.本システムは従来の薄切片作製方法よりも安定した精度で大量の薄切片試料を容易に作製できるため,薄切片標本を観察して行う病理検査・診断の検査精度の向上につながるものと考えられる.

 静電気を利用した薄切片試料作製システムに関しても連続薄切片標本の作製に非常に有効な方式であることに加え,人間が作製したものと同程度の品質の標本を自動で作製することができた.本方式を用いれば,熟練者でなくとも品質の安定したスライドガラスを使用した薄切片標本の作製を容易に行うことができる.

 両システムは生体試料を扱う病理・臨床検査分野以外に植物の組織検査,鉱物の組織検査,食品等の成分検査等数多くの分野に応用可能であると考えられる.

fig.1 粘着テープを用いた薄切片試料作製方法の基本原理

fig.2 粘着テープを用いた薄切片試料作製システム(第4試作機)

fig.3 臨床検査技師作製の標本と本システムで作製した標本との比較

fig.4 静電気を利用した薄切片試料作製方法の基本原理(スライドガラスへの転写に水分を利用)

fig.5 静電気を利用した薄切片試料作製システム(第3試作機)

fig.6 パラフィン包埋試料

fig.7 HE染色を施した顕微鏡標本(全体像,組織観察用拡大像)

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「薄切片標本作製システムに関する研究・開発」と題し,病理組織検査(診断)用の薄切片顕微鏡標本の自動作製システムの開発を目的として行った研究の成果を纏めたものであり,全6章で構成されている.

 第1章「序論」では,本研究の背景を記している.先ず,病理組織検査とその各工程を解説している.ま病理組織診断の基となる顕微鏡標本作製工程における薄切作業のほとんどを人手に頼っているため,顕微鏡標本の品質が,技師の熟練度に影響されている問題を明らかにし,自動化を目指す,本研究の目的を提示している.

 第2章「自動薄切装置」では,薄切片を切り出すための装置の設計指針を明らかにしている.試作した自動薄切装置の仕様,構造を述べるとともに,切れ刃部の設計過程で導入した有限要素法を用いた構造解析について記している.自動薄切装置としての諸性能の向上を目指して採用した,V-Vすべり方式案内が優れた性能を有することを実測により明らかにしている.

 第3章では,「粘着テープを使用した薄切片試料作製システム」について行った研究について述べている.粘着テープを薄切対象試料の表面に貼り付けた後に試料を薄切することを繰り返し,粘着テープ上に連続的に薄切片を取り出し,粘着テープ上の薄切片に直接染色を施して標本を作製する薄切片試料採取方法を提案し,試作機により,その有効性を実証している.

具体的には,粘着テープ上の薄切片にヘマトキシリン・エオジン(HE)染色を施し,組織検査用の薄切片標本を作製するまでの試験結果を示し,本粘着テープを使用した薄切片試料採取方法によって作製した標本が病理組織検査・診断用に適用可能であることを提示している.また,表面基材にはPETを用い,粘着剤としてアクリル酸エステルの共重合体のアクリル系の溶剤型を採用することにより,有機溶剤を使用した薄切片の染色工程にも耐え得る粘着テープの開発に成功している.

 第4章「静電気を利用した薄切片試料作製システム」では,薄切片の採取に静電気を利用し,スライドガラス上に薄切片を取り出す手法の開発について述べている.薄切片採取に用いた絶縁テープ(キャリアテープ)とパラフィンブロック,スライドガラスについての帯電諸特性についての帯電特性を調べ,印加電圧±10 kV以上で各試料に十分な帯電が得られることを明らかにしている.

試作した装置により,厚さ3μmの薄切片を連続的に採取できることに成功している.また,得られた薄切片に染色を施した標本は,熟練者によって作製した標本と同等以上であるとの評価を病理診断の専門医師から得ている.

 第5章「薄切片標本からの立体像の構築」では,作製した薄切片標本を撮像し,画像処理にて自動で位置合せを行い,ボリュームレンダリング手法による3次元画像解析ソフトウェアによってパソコン内に3次元像を再構築させる試みについて述べている.具体例として,米粒をパラフィン包埋した試料を対象として,粘着テープ上に薄切片を切り出した後に染色を施した標本を撮影して得た画像を処理し,米粒内部のたんぱく質やでんぷん等の成分の分布状況を3次元的に表示することに成功している.

 第6章「結論」では,本研究で得られた成果の総括を行い,さらに今度の展望について述べている.

 このように,本論文では,自動化が困難であり,製作のほとんどを人手に頼っている,病理組織検査用の薄切片顕微鏡標本作製に関して,「粘着テープを使用した薄切片採取方法」および「静電気を利用した薄切片採取方法」を新たに提案し,薄切片標本の自動作製が可能であるシステムの構築に成功している.研究成果および本研究で得られた多くの知見は,精密機械工学および精密機械工業の発展に大きく貢献するものと言える.また,開発した自動切片作製装置は,既に商品化されており,医学や生物学の進歩に寄与している.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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