学位論文要旨



No 216028
著者(漢字) 池添,泰弘
著者(英字)
著者(カナ) イケソエ,ヤスヒロ
標題(和) 準弾性レーザー散乱法による液液界面化学振動現象の研究
標題(洋)
報告番号 216028
報告番号 乙16028
学位授与日 2004.05.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16028号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高木,英典
 東京大学 教授 尾嶋,正治
 東京大学 教授 岸尾,光二
 東京農工大学 教授 澤田,嗣郎
 千葉大学 助教授 藤浪,眞紀
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、混じりあわない二つの液体の界面での界面活性剤イオンの吸着・脱離過程を伴う化学振動現象の発見とその機構の考察について述べたものであり、次のような構成となっている。

1.本研究の背景と液液界面イオン吸着脱離過程における非線形化学振動現象の発見

 化学振動現象とは、酸化反応と還元反応、または吸着反応と脱離反応などが、系の中で周期的に現れる現象のことであり、このような現象は、生命のリズムの根源を探るという点で、あるいは非線形反応の存在を確認し理解するという点で興味がもたれ、酵素反応における振動反応やBZ反応のような自己触媒型の振動反応について活発に研究が行われている。大まかに言えば、振動現象は、1つのバルク相の内部で見られるものと、2相が界面や膜を介して接しているような系で見られるものの二つに分けられる。特に、界面が関わる振動現象は、生体内の刺激伝達機構との関連性などから興味がもたれ、1970年代にM. Dupeyrat とE. Nakacheによって液液界面を介した電位差の振動現象が発見されて以来、数多くの研究例が報告されている。

 本研究は、水とニトロベンゼンで形成された2液相のうち、水相側に陰イオン性界面活性剤であるドデシル硫酸ナトリウム(SDS)の水溶液を一定の速度で供給していく過程において、吸着・脱離過程が交互に起こる振動現象を発見したことに端を発する。これまでの液液界面の振動現象は、主に電気化学的測定によるものであり、電位の増大・減少の際に、どの時点で吸着や脱離が生じているのかも不明なものが多い。本研究では、準弾性レーザー散乱法を用いた界面張力測定と電位差測定とを同時に行ったことで、この系の振動現象においては、急激な界面張力の減少過程とそれと同時に起こる急激な電位の上昇過程(発振)が、それぞれイオンの界面への一斉吸着とそれに伴う界面電気二重層の形成によるものであること、また、発振後のゆっくりとした界面張力の上昇過程と電位の減少過程(緩和)がイオンの界面からの脱離過程であることが明らかとなった。

2.発振および振動現象発現機構の解明

 これまでに報告された液液界面化学振動現象においては、ほとんど全ての系において界面の力学的な揺れの観測が言及されている。しかしながら、その大きさや揺れの方向などについて、詳しく述べられたものは無い。本系においても、イオンの一斉吸着の際には界面の揺れが観測された。界面の揺れは、界面近傍での物質輸送過程を変化させ、同時に見かけ上の吸着や脱離過程も変化させる可能性があり、振動現象において非常に重要な役割を果たすことが予想される。そこで、CCDカメラを用いて、色素分子を含ませた界面活性剤水溶液を利用して界面の動きを観測し、揺れと化学振動現象との関係を明らかにすることを試みた。その結果、界面の揺れは、発振と同時に起こるものであること、また、界面全体が不規則に揺れるのではなく、100 msほどの時間で、急激に界面が外側に広がるような流れが生じ、それと同時に界面の大きな揺れが生じるものであることが分かった。界面活性剤イオンを含んだ水溶液はキャピラリーを通して供給していることから、界面全体に均一に到達しているとは考えにくく、界面張力が局所的に減少した箇所が存在するはずである。したがって、界面張力に2次元的な不均衡が生じ、マランゴニ対流が引き起こされたと考えられる。また、界面が広がる時間スケールは、発振時における界面電位差の立ち上がりに要する時間ともほぼ一致した。すなわち、発振時の急激な界面張力の減少は、界面付近の流れに乗って界面活性剤イオンが界面近傍に強制的に輸送され、界面活性剤イオンの界面吸着速度が急速に増大したように見えた結果と考えられる。発生した対流は液体の粘性によって減衰することから、強制的なイオンの輸送もそれと同時に減衰するはずであるが、そのような状態が実現されると、脱離過程が強制的な吸着過程を凌駕し、同時に緩和過程が生じて次なる発振が生じることもわかった。また、最初の発振時に発生した対流が非常に大きい場合には、緩和過程がほとんど見られず、電位差と界面張力共に徐々に平衡値へ向かう挙動が見られたが、これは、対流の減衰が小さく、強制的な吸着と脱離過程がほぼ同程度に存在し続ける結果であることもわかった。対流の大きさは、界面活性剤水溶液を供給する速度や、水溶液中の界面活性剤濃度、界面活性剤の種類によって、制御可能であり、他の界面活性剤を用いても上記のような適度な対流が発生する系で、同様の振動現象が発現することが確認され、振動現象発現の本質的な機構が理解された。

3.緩和過程における共存イオン効果

 振動現象においては界面活性剤イオンの脱離過程も不可欠な要素であるが、対流が減衰したときは、力学的な効果が薄れ、化学的な効果が顕著に見られると予想される。その効果を見出すために、SDSを用いた振動系において、油相側にTetraButylAmmoniumBromide (TBA+Br-)を共存させて実験を行った。その結果、TBA+Br-の濃度の増大と共に緩和過程が劇的に速くなることが見出された。TBA+イオンは、支持電解質TBA+TPB-として大量に含まれているのでこの結果は親水性のBr-イオンの効果と言える。I-、Cl-を共存させた場合にも同様に緩和過程の加速が見られた。また、それぞれのイオンの共存下における脱離反応の速度定数は、イオンの油相・水相間の自由エネルギー差を反映して変化することも見出された。このことから、振動現象の緩和過程においてドデシル硫酸イオン(DS-イオン)が油相側に脱離するときに、親水性のハロゲン化物イオンとイオン交換することによって脱離速度が速まることが示された。

4.デュアルビームQELS装置の開発

 振動の機構に、界面張力の不均衡が重要であることが理解されたので、その実測を目的として、界面の2箇所でQELS測定を行う装置を作製した。本装置は、10 msほどの時間分解能があるが、その時間領域での界面張力の変化は見られなかったものの、界面の異なる2箇所では、界面の揺れによってQELS信号が取得できなくなる時間に差があることが判明した。電位差測定と界面の動きの撮影結果との比較から、界面では、発振が生じる直前に波が立ち、その後、対流が発生して一斉吸着が起こることが見出された。このような速い時間スケールで、吸着過程を測定し、それと界面の揺れの関係を明確にした例は無く、振動現象の機構解明に新たな知見を与えるものと言える。

5.結論

 水/ニトロベンゼン界面における陰イオン性界面活性剤の吸着脱離過程を、QELS法による界面張力測定と界面電位差測定により評価し、急激な吸着とゆっくりとした脱離が繰り返される非線形振動現象を見出した。また、発振の際に生じる界面の揺れに着目して詳細な実験を行った結果、発振は、吸着の2次元的な不均一性とそれに伴う界面張力の不均衡によってマランゴニ対流が発生し、その流れに乗って界面活性剤イオンが界面に輸送され、見かけ上の急速な吸着現象となって現れているものとわかった。さらに、対流の大きさに着目して実験を行ったところ、最初に起こる発振時の対流の大きさがその後の界面張力や電位差の経時変化を決定するものであり、対流が大きいほど振動現象が消えて、一回の発振の後に徐々に平衡値に向かう傾向にあることが分かった。これまでの液液界面振動現象の報告においては、ある観測値の振動の振幅にのみ着目したものがほとんどで、変化速度に言及したものは少ないが、本研究では、発振の立ち上がりや緩和過程の速度についてもその中身を明らかにした。

 過去の液液界面振動現象の研究例では、振動に関わる反応プロセスそのものの非線形性を議論するものが多く、界面のゆれについては言及されることはあっても、特に詳しく議論されたことはほとんど無かった。しかも、これまでの研究報告では、振動現象が現れた状態についての考察はなされていても、似通った系において様々なパターンが形成されることに関して、それぞれの反応ダイナミクスを明らかにしたものは皆無に等しい。本研究では、振動現象のような非線形現象が、流体力学的な要素と化学的な要素の重畳効果によって、いかにして引き起こされ、また抑制されるかを極めて明快に説明した。この結果は、振動現象に限らず、液液界面のような流動性がある系においては、常に非線形な描像が見出される可能性があることをも意味しており、吸着脱離プロセスなどを議論するうえでの重要な知見を与えるものである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文「準弾性レーザー散乱法による液液界面化学振動現象の研究」は液液界面において界面活性剤イオンの吸着脱離過程が交互に生じる化学振動現象に関して、準弾性レーザー散乱法による界面張力の測定と液液界面電位差測定、ならびに液液界面の運動の直接観測により、その機構を考察したものである。全9章で構成されている。

 第1章では、研究の背景と目的がまとめられている。化学振動現象は、生体のリズムや模様などとの関連性から興味をもたれており、特に液液界面での化学振動現象については、生体内での信号伝達との類似性から興味を引くものである。このような非線形現象は、自己触媒反応のような反応そのものの持つ非線形性のみならず、系の不安定性なども考慮しなければならない。液液界面での化学振動現象には、界面での反応や物質の拡散、界面を介した物質の移動、液体の流動などが協奏的に関与した結果生じる現象であり、もっとも複雑な現象の一つと言える。実際、これまでの報告においては、界面電位差や界面張力などの単独の手法を用いた結果から議論されているものが殆どであるため、それぞれ機構が異なっており、統一的な解釈が無いのが現状である。したがって、現象を正しく把握するには、いくつかの測定を同時に行うことが重要であると考えられ、本研究では、界面張力測定・液間電位差測定・界面直接観察の3つの手法を駆使して、多角的な解析を基に現象の機構を解明することを目的としている。

 第2章では、準弾性レーザー散乱法(QELS法)、液間電位差測定などの実験方法が説明されている。本研究で開発したQELS法は、非破壊・非接触で且つ10ミリ秒程度の時間分解で界面張力を測定可能である。一般的に用いられる接触型の界面張力測定装置で見られるような、界面の揺れに伴う張力の見かけの変化も無く、議論が明確になる。また、電位差測定も同時に行うことができる装置となっており、電位と張力の関係も明らかとなった。

 第3章では、液液界面化学振動現象の発見と系の特徴が述べられている。典型的な振動現象は、急激な界面張力の現象とその後のゆっくりとした張力の増加、またこれと同時に、電位の急激な上昇とゆっくりとした下降が生じ、この過程が数100秒の周期で繰り返され、数時間で減衰して、最終的に消滅することがわかった。

 第4章及び第5章では、振動現象と対流の関係に関する実験と考察が述べられている。対流は、界面での界面活性剤イオンの不均一な吸着に起因するものである。不均一な張力分布が対流を生じさせることになる。対流が生じると、その流れに乗ってイオンが強制的に界面全体に輸送され、見かけ上の急激な吸着過程が現れる。対流が粘性によって減衰すると、イオンの界面からの脱離が始まり、これが繰り返されるのが振動現象である。界面活性剤の種類を変えても同様の現象が見られることも示されており、対流の発生と減衰が振動現象の最も重要な要素であることが述べられている。

第6章では、上で提唱された振動現象機構を検証した実験について述べられている。界面に残存する界面活性剤イオンが徐々に増えることによって振幅が減衰し、対流の強度も抑制され、最終的に消滅するまでの過程が説明されており、化学振動現象の全体像が明らかにされている。

第7章では、第4〜6章で述べられた振動現象における流体力学的効果に加え、化学的な効果の発見について述べられている。具体的には、油相中にある親水的なイオンが、界面での界面活性剤の脱離を促し、そこでのイオン交換反応が脱離過程を増大させることが明らかにされている。

 第8章では、振動現象の最も本質的な要素である対流発生の瞬間に生じる現象の観測に焦点がおかれている。具体的には、界面での不均一な吸着過程の観測のために、界面の異なる2地点で、且つ10ミリ秒程度の時間分解能でQELS信号を取得するためのデュアルビームQELS装置を開発した。実験の結果、振動現象の主要な要素であるイオンの一斉吸着に際しては、0.1秒程度の時間領域でおこる界面の揺れと、それに少し遅れた対流発生が存在することが確認された。振動現象のほとんどの報告において界面の揺れが言及されているが、その詳細に触れられているものは無く、本論文が最初である。これらの結果は、数10ミリ秒の短い時間領域で生じる界面の揺れや対流の発生から、数時間もの長い時間領域で観測される振動の減衰や消滅に至るところまで、化学振動現象の理解が深まったことを意味している。

 第9章では、本論文で得られた結果がまとめられ、非線形化学現象の理解に対する本研究の貢献が述べられている。

 以上を要するに、本論文は、液液界面における化学振動現象に着眼し、準弾性レーザー散乱法を駆使して、その本質を実験的に明らかにするとともに、流体力学と化学反応の両面から考察し、振動機構を提唱した。液液界面の非線形化学の基礎学理構築を通じて、応用化学の発展に貢献するところが大きい。よって本論文は、博士(工学)の学位請求論文として合格であると認められる。

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