学位論文要旨



No 216030
著者(漢字) 小林,龍彦
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,タツヒコ
標題(和) 徳川日本における漢訳西洋暦算書の受容
標題(洋)
報告番号 216030
報告番号 乙16030
学位授与日 2004.05.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16030号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,力
 東京大学 助教授 廣野,喜幸
 東京大学 講師 岡本,拓司
 東京大学 教授 織田,孝幸
 電気通信大学 助教授 佐藤,賢一
内容要旨 要旨を表示する

 近世以前の日本に、中国古代の数学が二度に渉って到来した。最初はわが国の律令国家建設期に、二度目は16世紀末〜17世紀初頭である。二度目の近世初期に渡来した数学書『算学啓蒙』(朱世傑、大徳3:西暦1299年刊)と『算法統宗』(程大位、万暦20:西暦1592年刊)が、近世日本の数学である和算の形成に決定的な役割を演じたことはよく知られている。ところが過去の和算史研究では、専ら17世紀以後の中国数学から自立する和算の特性の解明に関心がおよび、とくに18世紀以降の和算における中国数学の影響を論じることはほとんどなかった。

 享保5(西暦1720)年、第8代将軍徳川吉宗が実施した漢訳西洋暦算書の輸入緩和令は中国暦算書の新たな到来となった。享保11(西暦1726)年に舶載された梅文鼎の『暦算全書』(雍正2:西暦1724年版)は新たな歴史を飾るに相応しい一冊となった。和算家は『暦算全書』に載る三角法を新奇で捷径な計算法として歓迎し、天文・暦学や測量術、航海術に応用するに至ったのである。関孝和の高弟建部賢弘や建部の弟子中根元圭は三角法の有用性に気づき、賞賛した最初の和算家であった。また梅〓成と何国宗が編纂した『暦象考成』(雍正元:西暦1723年刊)も和算家に重大な影響を与えた。『暦象考成』には球面三角法を用いた天文学上の応用問題が多数載せられていた。いま、『暦象考成』に関心を持ちこれの研究に勤しんでいた人物をあげてみると、幕府書物奉行また蘭学者でもあった青木昆陽、暦算家の麻田剛立、幕府天文方の高橋至時、間重富、測量家の伊能忠敬、和算家の安島直円、本多利明、坂部廣胖、内田五観、剣持章行、蘭学者の志筑忠雄、陽明学者の山片蟠桃らの名が連なる。さらに、18世紀後半に伝わった戴進賢の『暦象考成後編』(乾隆7:西暦1742年刊)も重要な役割を演じた。和算家は『暦象考成後編』からケプラーの楕円軌道論を学んだのである。

 本論文の趣旨は、上記のような18世紀以後、正確に指摘すれば西暦1720年以降に到来する漢訳西洋暦算書の和算家による受容を中国数学の影響の第III期と位置づけて論じることにある。中国暦算書の影響の第III期は18世紀から19世紀中葉さらには明治時代にも及び、学問的影響の大きさと併せて受容期間の長さにもう一つの特徴を見いだすことができる。加えて和算家が漢訳西洋暦算書の研究を通じて、西洋学術の全体の理解に努めていたことも見逃せない事実となる。それは西洋の数理科学知識の受容を通じて来るべき近代社会の知的基盤作りを先取りしていた、と言えることになろう。

 論文は第1部と第2部をもって構成されている。

 第1部では、古代から近世初頭における中国古代数学の受容を総論的に検証した。その目的は、わが国の律令国家形成期から発展期における中国古代数学の受容を第I期とし、中世末期から17世紀初頭までの『算学啓蒙』および『算法統宗』の伝来を第II期とおいて、それらの影響と特徴を見ることにある。

 第1部の序論では、和算の発展に影響を及ぼした中国数学書の伝来の時期とその特徴を明らかにし、併せて術語"和算"が近世日本数学の自立の意味において発生したことを論証した。続く第1章第1節では、中国古代の測量術である"重差法"とその役割について論述した。"重差法"を論点に据えた理由は、第2部以降で展開する三角法の汎用性を認識するためにある。第2節では、16世紀末〜17世紀初頭の日本数学への西洋学術の影響とこれらの諸問題を概観した。近世日本数学史の研究において16世紀に来日したイエズス会宣教師の与えた学術的影響の考察は避けて通れないからである。また、中国数学の影響の第II期として、和算の成立と発展に決定的役割を演じた『算学啓蒙』と『算法統宗』の伝来と普及についても言及した。

 第2章第1節では、近世日本数学の特徴を関孝和の算学研究から考察した。言うまでもなく、関孝和の数学的業績については多くの論文が発表されている。そこで、本論文ではこれまでの研究者がほとんど関心を寄せることのなかった関の「闕疑抄一百問答術」に加えて、楕円の研究、アルキメデスの螺線さらには正多面体の研究などを考察し、彼の数学研究の特徴を浮かび上がらせた。また、関の数学研究をめぐっては、しばし漢訳西洋暦算書の影響が指摘される。そのため第2章第2節〜第4節において、関孝和と漢訳西洋暦算書の数学を比較検討し、関の研究がそれらとは独立的であることを明確にした。また、第5節では、和算における三角法の研究の萌芽とその限界を論じた。とくに第5節3項では、わが国最初の三角関数表とも言える建部賢弘の円弧に張られる弦とその矢の長さに関する研究を詳述した。ここでも建部が算出した弦と矢の数値と漢訳西洋暦算書に著された数値を比較して、両者の違いを明瞭にしておいた。

 第2部第3章では、明朝末期〜清朝初期の漢訳西洋暦算書の成立およびイエズス会宣教師の翻訳活動を分析すると共に、とくに『大測』『測量全義』『暦象考成』などに載る三角法の数学的特徴を明らかにした。これらの漢訳書は天文暦学書であると同時に測量術書でもあった。よって西洋伝来の三角法のなかでも、近世日本の暦算家さらには測量家が強い関心を抱いた球面三角法における垂弧法、総較法、次形法などの特徴について詳論した。

 第4章第1節では、享保5年の漢訳西洋暦算書の輸入解禁をめぐる歴史的経過を論じた。このような幕府政策の一部転換は改暦に強い意欲をもつ第8代将軍吉宗によってもたらされたものであるが、解禁に至る過程では建部賢弘や中根元圭などの暦算家の強い働きかけがあったこと、さらには解禁以前に存在したであろう梅文鼎の「暦学全書」や漢訳西洋暦算書が及ぼした影響などを克明に論じた。第2節では、享保11年に舶載された『暦算全書』が通説に言う雍正元(1723)年版ではなく、雍正2(1724)年版であること明確に論証した。また、翌年に緊急輸入された三角関数表が『崇禎暦書』系の表であったことを写本の比較と幕府書物方の記録から検証した。第3節では坂部廣胖の『算法點竄指南録』と「管窺弧度捷法」を中心に、彼の球面三角法の理解とその改良法の特徴、さらに暦算問題に著された楕円法について詳論した。そしてそれら三角法の知識と楕円法の源泉が『暦象考成』と『暦象考成後編』にあることを論証した。第4節では最上流和算家会田安明の写本「阿蘭陀算法」と「算法換角法」の分析から、彼の三角法の大洋航海術への応用とその限界について言及した。また、会田の大洋航海術は彼の西洋数理科学に対する認識が強く反映した研究であることを指摘するとともに、彼の座右にあったであろうオランダ初等算術書と航海術書について論究した。

 第5章では、蘭学者への漢訳西洋暦算書の影響を明らかにするために、蘭学者・経世家また和算家でもあった本多利明と長崎阿蘭陀稽古通詞から蘭学研究に生きた志筑忠雄を考察対象とした。その第1節では「本多利明と漢訳西洋暦算書」と題して、本多の三角法や対数の研究を論評した。とくに本多の新史料である「量地用八線表平三角法」に加えて「渡海新法」「大測表」の分析から、彼の三角法の情報源がオランダ数理学書だけでなく、著しく漢訳西洋暦算書に求められることを解明した。第2節では、志筑忠雄の写本「三角算秘傳」に著された三角法を検討し、彼がネイピアの法則のわが国最初の紹介者であることを実証した。志筑は寛政10(西暦1798)年〜享和2(西暦1802)年に「暦象新書」を著すが、その際、ヨハン・ルロフス(Johan Lulofs, 1711-1768)のInleidinge tot de ware Natuur-en Sterrekunde of de Natuur-en Sterrekundige Lessen (Leiden, 1741)の訳出にあたって、漢訳西洋暦算書の術語を援用していた事実を明らかにした。加えて彼の初期訳述書である「鈎股新編」の三角法の分類法についても言及した。

 第6章では、18世紀後半〜19世紀前半に三角法が地方へ普及していく過程とこれの新たな展開について論述した。第1節では、とくに江戸時代末期の上州(群馬県)における三角法の受容と展開を例証した。なかでも和算家丸橋東倭の「関流算法秘傳之蔵書」などに著された三角法の角術への応用例は、図形問題の研究と伝統的な解法に固執していたとする旧来の和算家観を一新させるものである。第2節では、幕末上州の和算家剣持章行の「角術捷徑」を取り上げて三角法の新たな展開について検証した。「角術捷徑」は円に内接する正多角形の各要素を求める方法を述べた和算の典型的な問題である。しかし、剣持は伝統的な旧法でこれ触れるだけでなく、今日の三角関数による計算法と全く同じ方法を述べるに至っている。これら第6章における事例は今後の和算研究の新機軸になると、筆者は確信している。

 第7章第1節では、明治の近代国家形成期に、いまだ漢訳西洋暦算書に心酔する東北地方の和算家植野善左衛門の姿を描いた。時流に抗する和算家の生き様は、反面として漢訳西洋暦算書の与えた影響の大きさを示すことにもなっている。第2節では、江戸時代の数学を表す学術用語"和算"が如何なる歴史的背景のもとに成立したのかを検証した。用語"和算"は漢訳西洋暦算書の影響のもとに、中国数学"漢算"との決別において、さらにはオランダ数学の"蘭算"また西洋数学の"洋算"との区別化の過程で派生したことを論じた。そして和算の終焉が学術用語"和算"の確立と一致することも指摘した。

 以上が論文の内容の要旨である。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、近世日本数学史において、とりわけ1720年以降の漢語訳西洋暦算書の果たした役割に注目し、その影響下に成立した和算書を詳細に読み解いてなった極めて卓越した研究である。

 近世日本の伝統的数学、すなわち和算の発展史は4期に分けて理解することができる。第1期は古代の遣唐使などを介しての中国古典数学書籍輸入の時期、第2期は16世紀末-17世紀初頭の中国数学書の渡来の時期、第3期は徳川吉宗による海外書籍輸入の部分的解禁以降の時期、第4は19世紀後半の中国における洋務運動の影響を受けた時期である。これまで第3期を和算史の中で主題的に論じた研究者はなかった。それゆえ、第4期以前の西洋数学・天文学の影響を受けた和算について系統的に調査した研究はほとんどなかった。小林氏はこの手薄な領域に光を投じた。さらに、漢訳西洋数学書・天文学書の和算の発展に及ぼした影響を地方の和算家にいたるまで調査し、これまでほとんど注目されることのなかった和算の側面に光を当てることに成功した。

 小林氏がとくに歴史的考察の光を当てた著作は、梅文鼎の『暦算全書』(1724年刊)、梅〓成・何国宗編の『暦象考成』(1723年刊)、戴進賢の『暦象考成後編』(1742年刊)などである。小林氏の研究によれば、三角法について論じた『暦算全書』は1726年に舶載され、関孝和の高弟建部賢弘、その弟子中根元圭に大きな影響を与えた。『暦象考成』は、球面三角法について誌した著作であったが、幕府天文方の高橋至時、間重富、蘭学者の志筑忠雄らにインパクトを与えていた。ケプラーの楕円軌道について紹介した『暦象考成後編』は、18世紀後半に舶載され、多くの和算家、天文方双方に大きな影響を与えた。

 小林氏は以上の著作の導入の前後の時期の算学書・暦算書をも手堅く調査し、第2期と第3期の相違、そして第3期に書かれた著作の地方への波及についても説き及んでいる。

 本論文の独創的貢献をもっと個別的に述べれば、以下のとおりである。

(1)1720年以降、日本に輸入された漢語訳西洋暦算書、とくにその三角法に関する知識が和算に与えた影響を体系的に調査した。

(2)中国数学、西洋数学とは区別された意味での「和算」の成立を、その語義まで含めて18世紀中葉であったことを確認した。

(3)漢訳西洋暦算書の影響を、主要和算家のみならず、地方末端の和算家にいたるまで調査した。

 本論文は、その研究手法の地道さと体系性、さらに斬新さにおいて際立っている。戦前の和算史家には、三上義夫、林鶴一、藤原松三郎のような巨峰が存在しており、戦後の研究は残念ながら相対的に不振であった。しかし、小林氏の今回の業績は、これまでの不振を払拭するものと言っても過言ではないであろう。漢訳西洋暦算書の西洋におけるソウスについては、先行研究を単純に前提とした段階にとどまっているが、小林氏はそのことを十分理解している。審査委員全員は、本論文をもって学位取得のために十二分であると判断した。本論文は、小林氏が戦後を代表する和算史家であることを示した。

 したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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