学位論文要旨



No 216033
著者(漢字) 河,正子
著者(英字)
著者(カナ) カワ,マサコ
標題(和) 緩和ケア病棟入院中の終末期がん患者のスピリチュアルペインに関する研究
標題(洋)
報告番号 216033
報告番号 乙16033
学位授与日 2004.06.02
学位種別 論文博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 第16033号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 甲斐,一郎
 東京大学 助教授 上別府,圭子
 東京大学 助教授 渡邉,聡明
 東京大学 助教授 中川,恵一
 東京大学 助教授 山崎,喜比古
内容要旨 要旨を表示する

I.緒言

 終末期がん患者などを対象にしたホスピス・緩和ケアは世界各国で多様な発展をみせており、わが国では入院形態をとる緩和ケア病棟が増加している。また、心身の苦痛に対する緩和ケア技術は一定の進歩を遂げてきた。しかし、身体面、生活面、心理社会面のケアによって解決が困難な問題が残されている。それは個人の存在の根元的な部分に関わる苦痛・苦悩であり、WHOによる緩和ケアの定義にあるspritual problems(霊的な問題)に相当する。わが国の緩和ケア臨床では、スピリチュアル領域の論議の必要が認識され始めてきたところであり、研究の蓄積は少ない。スピリチュアルペインの実体も未だ明らかではない。入院形態を中心とした日本の緩和ケア臨床でのスピリチュアルケアの方向性を見出すためには、まず緩和ケア病棟:入院患者のスピリチュアルペインの実証的理解が必要である。

 本研究は、わが国の緩和ケア病棟に病名を知り、死をある程度意識して入院中の終末期がん患者の個別的苦痛体験を、グラウンデッド・セオリー・アプローチを用いて記述、分析し、スピリチュアルペインの構造に関連して一定の理論化を試みることを目的とした。

 なお、欧米の文献をレビューした我々の研究を含む先行研究結果から、スピリチュアリティの暫定的定義を「個人の生きる根元的エネルギーとなるものであり、存在の意味に関わる。したがって、そのありようは、個人の全人的状態、すなわち、個人の身体的、心理的、社会的領域の状態の基盤として各側面の表現形に影響をおよぼす」とした。

II.方法

 対象者は、認可を受けた緩和ケア病棟に入院中で、30分程度の対話が可能な18歳以上の日本人がん患者である。倫理委員会または施設長の許可が得られた4施設で、原則的に施設側からの推薦のうえ、調査に同意の得られた患者13名に面接を実施した。逐語録による分析可能対象者は11名、調査期間は2000年9月〜11月であった。

 各施設を各1名の調査者が担当し、グラウンデッド・セオリー・アプローチによる継続的比較分析法にしたがって、30分程度の面接を、原則として経時的に2回以上実施した。スピリチュアリティの暫定的定義およびわが国の一緩和ケア病棟での予備調査結果を参考として作成された面接ガイドに従い、つらいことや不安、大切にしている考え、希望、重要な人などについて語ってもらった。対象者の了解を得てテープに録音し逐語録を作成した。

 分析は、各対象者の逐語録から、スピリチュアリティに関わる内容が含まれていると判断される文を抽出した。続いて共同研究者合同のディスカッションにより、スピリチュアリティに関わる苦痛が語られている部分を抽出してコード化した。次に、抽出されたコードの共通の意味内容をもつものから、サブカテゴリを生成した。サブカテゴリの内容を複数の共同研究者によって再度検討し、共通の内容をもつ上位のカテゴリを生成した。さらに、各カテゴリの出現パターンやカテゴリに影響をおよぼす要因について、対象者別に比較分析した。また、死にゆく過程での変化を確認するため、追加調査(2002年5月〜7月)を行い、面接後の情報を医師や看護師、あるいは診療記録から収集した。

 各担当者が追加調査結果の分析を加えた後、複数の共同研究者が、グラウンデッド・セオリー・アプローチの専門家よるスーパーヴィジョンを受けながら、先述したサブカテゴリ、カテゴリを再検討し、確定した。

III.結果

1.スピリチュアリティに関わる苦痛

1)苦痛の原因を表すカテゴリ

 分析の結果、スピリチュアリティに関わるとみられる多様な苦痛が抽出された。主として苦痛の原因とみなされたのは「本来の自分のあり方が損なわれる」「死および死への過程についての覚悟/予測と現実とが異なる」「他者との関係が損なわれていく/終息する」「死が間近であるということ」の4カテゴリであった。前者3カテゴリは、苦痛の原因として本来の自分のあり方、死への覚悟、他者との望ましい関係という、いずれもその個人が生と死に関連して求めている希求・願望を含んでいた。

2)ギャップの意識による苦痛

 対象者11例中9例において、希求・願望と現実との間にある程度以上のギャップが存在し、ギャップを意識することによる苦痛が表現されていることが確認された。「ギャップの意識による苦痛(以下ギャップによる苦痛)」をコアカテゴリとして再分析の結果、3つのカテゴリ「自分のあるべき姿と現実とのギャップによる苦痛」「死への過程のイメージと現実とのギャップによる苦痛」「他者との関係のあり方と現実とのギャップによる苦痛」が抽出された。

(1)自分のあるべき姿と現実とのギャップによる苦痛

 面接の時点で描いている自分のあるべき姿、すなわち自分の心身の状態、生きる姿勢や生活スタイルなどに関する希求や願望と現実とのギャップによる苦痛である。「健康でない自分を意識する苦痛」「自律/自立を維持できない現実を意識する苦痛」「課題/希望が達成できない現実を意識する苦痛」という3つのサブカテゴリが抽出された。

(2)死への過程のイメージと現実とのギャップによる苦痛

 緩和ケア病棟への入院に際してイメージした自分自身の死への過程と、現実とのギャップによる苦痛である。「望ましい死への過程のイメージと異なる現実を意識する苦痛」「死を迎える覚悟がゆらぐ苦痛」という2つのサブカテゴリが抽出された。

(3)他者との関係のあり方と現実とのギャップによる苦痛

 他者、特に家族との関係における希求や願望と現実とのギャップによる苦痛である。「他者(家族)に果たすべき役割を果たせない現実を意識する苦痛」「他者(家族)に迷惑/負担をかけざるを得ない現実を意識する苦痛」「他者(家族)との親密さを保てないことを意識する苦痛」という3つのサブカテゴリが抽出された。

3)死が間近であるということによる苦痛

 対象者11例中8例に「死が間近であるということによる苦痛」がみとめられた。予後不良の病状を理解しているからこその「生きたいという思い」「死への恐れ」「希望がない」「治療・療養に関する後悔」というサブカテゴリが抽出された。

2.ギャップの意識による苦痛と身体症状

 ギャップによる苦痛を抽出する過程で、病状の進行した時期には、身体機能の低下や症状が悪化することでギャップによる苦痛が増大する傾向があると推察された。

 各事例の身体活動度とギャップによる苦痛の大小との関係は明確ではなかった。「身体症状が軽度でギャップによる苦痛も小さい状態」には、病状の安定期にある6事例が含まれたが、病状の進行にともなって苦痛の増強する可能性は残っていた。「身体症状が強くギャップの意識による苦痛も大きい状態」には、症状が強くなり、身体機能が低下した「末期」の5事例が含まれた。「身体症状は軽度であるが、ギャップの意識による苦痛が大きい」という逆説的な状態には、3例が含まれた。自分のあるべき姿として重要であった「健康」に代わる希求の対象として、死への過程の理想的なイメージが想定されていること、身体症状の強さは、死の間近さを意識させるものであったことが2事例で共通していた。身体症状の軽減により、希求の対象であった死が遠のき、落ち着かない不安定な状態に陥る結果となっていた。

IV.考察

 緩和ケア病棟に入院した終末期がん患者の苦痛を、本研究で見出された「ギャップによる苦痛」と、「死が間近であるということによる苦痛」という視点により明らかにした。

 「ギャップによる苦痛」は、ギャップの意識を生じさせていた希求や願望により、「自分のあるべき姿」「死への過程のイメージ」「他者との関係のあり方」という3領域のギャップによる苦痛に集約された。これらの希求や願望は、死をある程度意識した状態で個人が維持すること、獲得することを求めていたことがらであり、各個人にとっての「拠りどころ」という意味を有していると考えられる。「ギャップによる苦痛」は「拠りどころ」の喪失による苦痛として、心理、社会的苦痛の表現をとりながらもスピリチュアルペインを内包するものであると推察される。ギャップによる苦痛のなかでも、「死への過程のイメージ」は緩和ケア病棟に入院するまでに切り捨てなければならなかった「拠りどころ」に代わるものとして形づくられたものと考えられる。心理、社会的苦痛とスピリチュアルペインの間には影響をおよぼし合う関係があると考えられ、両者を区別することには緩和ケア臨床上の意味は少なく、「ギャップによる苦痛」の視点にはスピリチュアルペインの存在を意識する契機としての意義があるといえる。「自分のあるべき姿」や「他者との関係のあり方」に関わるケアは従来の臨床で留意してきたものであるが、本人の「拠りどころ」や生きる意味にも関わるケアとして意識することが重要である。

 「死が間近であるということによる苦痛」は、自分自身という根源的な「拠りどころ」の喪失に関わるスピリチュアルペインの一つであるとともに、時間の次元に関わる苦痛である。従来のケアでは対処が困難と考えられるが、対象者とケアに携わるものとの時間の共有の視点が重要である。

 ギャップの意識による苦痛と身体症状の程度との関連を検討した結果から、死と直面することに耐え平衡を保とうとして形成された死への過程のイメージが崩れることによって苦痛が生じる場合があることが明らかとなった。

 病名を知り、死をある程度意識して緩和ケア病棟に入院する終末期がん患者の苦痛を理解するためには、生や死に関わる患者の希求・願望、すなわち個々の患者の「拠りどころ」に対する理解を深めること、今現在の時間を共有する意識をもつことなどをケアにおいて留意すべきであることが示された。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文では、わが国の緩和ケア病棟に病名を知り、死をある程度意識して入院した終末期がん患者11例の個別的な苦痛体験の様相をグラウンデッド・セオリー・アプローチによる継続的比較分析法を用いて記述、分析し、スピリチュアルペインの構造とケアに関して以下の知見が得られた。

1.欧米の先行研究結果から、スピリチュアリティの暫定的定義を「個人の生きる根元的エネルギーとなるものであり、存在の意味に関わる。したがって、そのありようは、個人の全人的状態、すなわち、個人の身体的、心理的、社会的領域の状態の基盤として各側面の表現形に影響をおよぼす」とした。対象者の面接内容から、この定義に照らしてスピリチュアリティに関わる多様な苦痛が体験されていることが示された。

2.対象者のスピリチュアリティに関わる苦痛の原因として、各個人にとっての「拠りどころ」にあたる希求や願望が存在すること、その希求や願望と現実とのギャップを意識することによる苦痛が存在することが明らかになった。ギャップを意識することによる苦痛として3つのカテゴリ、「自分のあるべき姿と現実とのギャップによる苦痛」「死への過程のイメージと現実とのギャップによる苦痛」「他者との関係のあり方と現実とのギャップによる苦痛」が抽出された。

3.ギャップによる苦痛は、病状の進行とともに身体症状が重度になるにしたがって大きくなる傾向があったが、身体症状は軽度であってもギャップの意識による苦痛が大きいという逆説的な状態の事例が認められた。この2事例に共通して、緩和ケア病棟入院時の身体症状が重度で死を間近に意識した状態においては、「自分のあるべき姿として重要であった健康」に代わる拠りどころとして「死への過程の理想的なイメージ」が形成されていた。入院後の身体症状の安定によってそのイメージが崩れることによる新たな苦痛が生じたものと考えられた。

4.ギャップによる苦痛は、悲歎反応などの心理的苦痛、あるいは対人関係の変化などによる社会的苦痛の表現形をとりながらも、「拠りどころ」の喪失に関わる苦痛として、スピリチュアルペインを内包するものと位置付けられた。

5.ギャップによる苦痛とは異なる性質の「死が間近であるということによる苦痛」も抽出された。これは、自分自身という根源的な「拠りどころ」の喪失に関わり、激しい心理反応と渾然一体となって表出されるスピリチュアルペインととらえられた。また未来の喪失という時間存在の次元に関わる苦痛であることから、従来のケアでは対処が困難であり、対象者との時間の共有の視点が重要であると考えられた。

6.緩和ケア臨床では、身体症状の軽重にかかわらず日常的にスピリチュアルペインのアセスメントをする意識をもってケアにあたる必要がある。個々の患者が「拠りどころ」とすることがらとギャップによる苦痛を把握することは、スピリチュアルペインの所在を明らかにし、ケアの方向性をみいだすうえで意義が大きい。

 以上、本論文は欧米の先行研究とは異なる文化基盤をもつわが国の終末期がん患者のスピリチュアルペインの構造を示した点で独創的であり、緩和ケア病棟でのケアのあり方を提示した点で臨床上の有用性をも兼ね備えており、学位の授与に値するものと考えられる。

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