学位論文要旨



No 216044
著者(漢字) 趙,建海
著者(英字)
著者(カナ) チョウ,ケンカイ
標題(和) 李之藻の科学思想と中西の数理天文学
標題(洋)
報告番号 216044
報告番号 乙16044
学位授与日 2004.06.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16044号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,力
 東京大学 教授 村田,純一
 東京大学 教授 江里口,良治
 東京大学 助教授 廣野,喜幸
 東京大学 講師 岡本,拓司
内容要旨 要旨を表示する

 李之藻(1565〜1630)は、中国明代の官僚・科学者である。彼は杭州・仁和の人であり、字を振之または我存といい、号は涼庵ないし涼庵居士といった。李之藻は科挙の試験において、29歳で挙人に合格し(1594年), 33 歳で進士に合格している(1598年)。李之藻が北京での試験の後の赴任先は南京であり、その官職名は工部(建設省)営繕司員外郎だった。当時、県知事の職は七品だったが、工部員外郎は五品官に相当した。李之藻の最高の官位は監督軍需、光禄寺卿であり、工部の都水清吏司を兼任していた。それは正四品官に相当する位である。

 本論文では、李之藻の天文学・数学上の事績と、彼の科学思想について論ずる。李之藻は、明末に、西洋科学、特に天文学・数学の中国への導入にあたって大きな役割を果たした。本論文の始終では、李之藻の科学思想形成の過程や彼が中西数理天文学の出会いの中に学問理念という二つのラインについて論ずることの意義をあきらかにしてゆきたい。

 李之藻の科学思想形成の過程とは、儒者の李之藻が科学的実践に陽明心学の実験精神を先導とする初期思想で、そして、李氏は彼の師のマテオ・リッチと出会って、イエズス会のローマ学院の出身のリッチが持ってきたローマ学院の数学教育の革新思想を受けて、中西の数学、天文学を長期に研究、中西の暦学の差異を比較した後、競争の概念を彼の科学思想に導入したのである。晩年の李之藻の科学思想は西洋の宇宙論と論理学を訳し、研究した上に、かなりの高いレベルの科学哲学に達したのである。これは筆者が本論文の第一部で論述したいことである。

 本論文の第二部では、中西数理天文学の出会いの中の李之藻の学問理念を論述したいことである。即ち、ローマ学院の数学教育の有用性と確実性の学問理念は李之藻が訳した西洋の数学、天文学などの訳本に影響したことである。本論文では李之藻が独特の学問方式で西洋の筆算と幾何学を演習することを紹介するだけではなく、まだ、筆者は十数年間で天文学を勉強、実験したことによって、中国の数理天文学を歴史的に論述し、そして、現代天体測量学と数学誤差理論でマテオ・リッチが口述、李之藻が筆記された天体測量学の基本概念と観測データの学術価値を分析する上に、李之藻は明末の改暦を中心とする天文学の歴史地位を確認したいである。

 以上の李之藻の科学思想と学問理念などを説明するために、本論文では二部十章を分けて以下の内容について論ずることである。

 李之藻の科学思想についでは、本論の第一部五章で詳しく論及する。

 十六世紀の初頭、中国の社会文化の主流である儒学について、深い影響を及ぼす学術論争が起こった。その論争の実質は、儒家の内部における保守的な勢力と革新的な勢力との間の、哲学的な思想論争であった。それぞれの哲学思想を代表したのは、前者は朱子理学であり、後者は陽明心学であった。朱子理学と陽明心学は、いずれも形而上学に属するが、陽明心学の場合、自然の存在と実験精神をより強調する。

 本論文で主要な人物として取り上げる明末の改革派の李之藻や徐光啓は、そうした哲学の理論闘争の影響を受けて、陽明心学の熱心な理解者となった。陽明心学の革新思想は、李之藻の初期の科学的実践にとって、それを先導する思想となっていた。

 この明末の儒学の新旧学派の思想論争の時代に、四角い頭巾をかぶり、儒服を着たイエズス会士マテオ・リッチ(中国名:利瑪竇)が、中国に現われた。彼は、「耶儒(キリスト教と儒学)結合」の方略を自由自在に運用することにより、イエズス会による中国での布教活動を成功させただけでなく、地理学、数学、天文学などの西洋科学を中国に根づかせるべく努めた。

 中国と西洋の間で起こった文化的衝突を分析する時に、マテオ・リッチの「耶儒結合」の方針の形成背景と過程を研究することは、非常に重要なことである。マテオ・リッチが既定した科学布教思想を研究するとは、明末の東西文化の交流史を客観的に分析、評価する価値があることだと思うである。

 布教という目的をもち、マテオ・リッチは中国人に、ヨーロッパ中世・ルネサンスの科学上の成果を紹介した。北京での十年間(1601−1610)に、リッチにとって、莫逆の交わりの李之藻と知り合ったことである。李之藻は、この十年間にカトリックの教徒ではなかったが、リッチの「耶儒結合」という布教思想をよく理解したし、リッチがローマ学院時代から形成してきた科学改良の思想を、十分に受容した。李之藻らの士大夫の協力を得て、リッチは、西洋の地理学、筆算、ユークリッド幾何学とプトレマイオス天文学を中国に紹介した。当時のユークリッド幾何学は、ヨーロッパを代表する科学であり、リッチの師のクラヴィウスにより改良された内容であった。

 李之藻の科学思想が発展する二つの重要な階段である。

一つの段階としては、1614年に、明朝の欽天監は従来の暦法による天象の誤報が度重なり、朝野では改暦の議論が盛り上がっていた。十数年間に西洋の科学を学び続けていた李之藻はこの機会に臨んで改暦への意欲を見せていた

 李之藻は、皇帝に宛てた奏文のなかで、まず、中国の天文暦学の発展を阻害した根本の原因を指摘しているのである。そして、李之藻は長期にわたり、中国の従来の天文や暦法に関する文献や資料を渉猟したことによって、前人が定めた暦法を盲信せず、中西の暦法の基本となる理論を説明した。このように李之藻は、中華科学の本位主義から脱却していたが、西洋科学の優越性を絶対視する教条主義に陥ったのでもなく、中西の暦法の長所を採用すること、と主張するものだった。

 李之藻は更に、中国の科学者が天象などの自然現象の表現を重視する科学方法を分析、批判する上に、「その然る所以の理」など西洋の科学思想を論じたことである。彼はまた、冷静に東西科学を比較し、中西の科学に落差があることを認識した前提として、一歩進みに、優劣の比較という競争概念を導入したのである。筆者は李之藻の奏文を分析する上に、彼の科学思想の特徴を論じたいである。

もう一つの段階は李之藻の晩年時期(1622年―1630年)の科学思想である。その時期は、李之藻が宮廷内の権力闘争に嫌気がさすので、官を辞し、杭州の自家に帰って、数人のイエズス会士と一緒に西学の研究グループを創ったことである。この段階は李之藻の科学思想が発展した最高程度である。筆者は、李之藻の西洋の論理学の訳著と彼が主編した西学の総合的な叢書を分析して、李之藻が西洋の科学哲学と科学思想を理解する深さを検討したいである。

 本論文の第二部五章では、李之藻が中西数理天文学の出会いと中国の天文学体制の転換のポロセス及び、彼の学術的な歴史作用と地位を論じたいである。

 李之藻は彼の師のマテオ・リッチから西洋数学が教えてもらって、クラヴィウスの注解した数学書を訳する時に、ただ、リッチが口授、自分が筆記する直訳の方式ではなく、彼は自分のユニークな学問方式で、中西の数学の中身を歴史的に思考、比較したうちに、中西の数学の内容に付く比較数学書が完成したことである。それは、彼がリッチと共訳する名義で訳著した『同文算指』である。

 『円容較義』とは、李之藻が師のマテオ・リッチの下に天文学、幾何学を演習した時に、自分の勉強体会によってノート形式で書いた数学書である。この書では球面天文学における数学の基礎部分を描写するものがあるし、クラヴィウスの平面、立体幾何学を解析するものもあることである。李之藻がマテオ・リッチとともに西洋の数学を演習した幾何学のノート、『円容較義』を検討することにより、李之藻が実質的に幾何学に接触したことがあるという事実が明らかになった。また、李之藻が、清の数学者の李善蘭より200年以上に、西洋の立体幾何学の概念を中国人に紹介していたことも明らかになった。

 マテオ・リッチが紹介したプトレマイオス天文学は、西洋では千数百年の歴史をもつが、中国の士大夫にとっては、極めて新奇なものだった。李之藻は明末の改暦を提唱する西学の代表人物として、彼は西洋の天文学を大変に力が入れたそうだが、筆者は李之藻の天文学翻訳書―『渾蓋通憲図説』を現代の天体測量学で詳しく分析して、その書に論じた中西の天文座標、天文学の基本概念から、彼が当時に観測して残っている観測データまでにチックする上に、李之藻の天文学思想と学問水準を確認してみたいである。この部分は筆者が一番力に入れた章節である。

 本論では、この『渾蓋通憲図説』を分析する過程で、李之藻が中国暦学の二十四気・十二次を、西洋暦学における十二宮と混同していた事実を明らかにした。従来の中国天文学には、黄道座標の概念が存在しておらず、李之藻が黄道十二宮をよく理解できなかったことが彼の混同の理由である。李之藻は、西洋の地平座標を利用して、中国の地平座標の概念の不完全性を指摘した。それと同時に、彼は、明代の中期以降、朝廷の欽天監がしばしば日月食の誤報を行った根本的な原因が、当時の欽天監の役人の経度差(時差)と緯度差(地平高度差)に関する認識不足にあったことを指摘した。

 赤道座標の起点や、経度の測量方法についても、中西の天文学では見解が異なっている。李之藻は調和的な方法により、その食違いを回避したが、そこには中華文化主義の影響を看取することが出来る。また、李之藻の観測記録にたいし定量分析を加えることにより、彼のデータが質的にかなり荒かったことが明らかになった。しかし、彼は、西洋の天文座標と観測方法を用いて、精度は荒いにせよ天体を観測し、西洋の天文学は明代の欽天監が採用した天文学よりも合理であることを証明した。これは、李之藻が西暦の採用を提唱し、中暦の改造を進める重要な根拠となった。要するに、李之藻は、天文観測者としてではなく、改暦の提唱者として、また西洋の天文学を積極的に吸収する天文理論家として、より大きな役割を果たしたのである。

 李之藻らの進歩的な士大夫は、中国と西洋の天文暦算の優劣を、系統的に比較しながら、研究していった。さらにそれを前提とし、中西の科学の差異を認識し、中国の科学がたち遅れた原因を根本的に総括したのである。彼らが提起したのは、「因性から超性に達し」「会通〔融合〕から超勝を求める」べく、まず西学を学習し、西学と融合し、やがて西学を超越するという、優劣の比較の思想であり、スローガンであった。

 明末の思想環境の中には、そうした優劣の比較の概念をさらに育てていく土壌はなかった。しかし、この時期に、少なくとも、李之藻や徐光啓など、中国の伝統的な天文学で満足せず、生涯をかけて奮闘した科学の先駆者たちが現れ、明朝の300年にわたる科学の禁錮を打破し、中国の天文学を世界の天文学の潮流に晒したのであった。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、ルネサンス期の西欧天文学を17世紀中国において受容した中国人学者李之藻(1565-1630)の科学思想、とりわけ天文学思想に焦点をあて、その生涯と業績の全容を解明した独創的研究である。

 17世紀初頭、中国にキリスト教の教義とともに西欧学問体系を伝達しようとしたのは主要にイタリア人イエズス会士マッテオ・リッチ(中国名利瑪竇)であった。彼は中国人学者に対して口述訳することによって西欧学問の奥義を伝えようとした。ユークリッドの『原論』を『幾何原本』として漢語訳した徐光啓については比較的研究が進んでいる。だが、天文学文献を翻訳した李之藻に関しては中国においてもほとんど研究されることがなかった。ニーダムの著名な『中国の科学と文明』や我が国の天文学史家藪内清によっても十分な光が当てられることはなかった。趙氏がこの度の博士論文で企図したのは、この重要な学問的欠落を埋めようとしてのことである。

 趙氏は、まず李之藻の一般的な思想背景を陽明心学に求め、その思想こそ、西欧の実証的科学思想へと導く役割を果たしたことを確認した。そのような李のもとに登場したのが、クリストフ・クラヴィウスの数理科学思想を身に着けたリッチであった。リッチは、「耶儒結合」、すなわちキリスト教と儒教を結合しようとする思想的態度で中国人に接した。そのような態度は、李が西洋学術に接近することを可能にした。それから、明末の中国宮廷が改暦のために西欧天文学の知識を熱心に求めたことも、李がリッチの数理天文学を学ぶのを容易にした。李は、リッチの科学思想に対するのに、根拠が十分ではないままに信奉するのではなく、中国人としての主体性を保ち、自らその内実を点検し直しながら、中国語で著述する姿勢を維持した。この点が盟友徐光啓との相違点のひとつである。こうして出来たのが、クラヴィウスの初等算術書をもとにした『同文算指』(1614年刊)、さらには天文観測器具であるアストロラーベ文献を訳述した『渾蓋通憲図説』(1607年刊)などの著作であった。

 趙氏は、李が撰述した西欧学術書を子細に検討し、とくに西欧天文学書から著述された『渾蓋通憲図説』がどのような過程で作成されたか調査するだけではなく、李の観測データを現代観測天文技法によるデータと比較対照するという手続きをもって、李の天文学の知識がどのようなもので、どの程度の精度をもったものであったのかを再構成した。

 本論文の独創的貢献をもっと個別的に述べれば、以下のとおりである。

(1)李之藻の中国伝統思想的背景が陽明学の強い影響のもとにあったことを確認しえたこと。

(2)李が関心をもった数学・天文学思想のほぼ全容を解明しえたこと。

(3)李が『渾蓋通憲図説』において示した観測データの精度が現代的観点から見てかなり粗いものであったことを趙氏自身の実測において確認しえたこと。

 本論文は、李之藻の業績の全容をほとんど初めて解明しえた点で高く評価される。とりわけ、趙氏が得意とする天文観測技法によって、その観測精度までをも再点検しえたことは並外れている。中国語訳のラテン語原典をも研究すれば、その学問程度はさらに高まったであろう。しかし、それは現代中国の研究水準から見て、余りの高望みと言われるべきであろう。趙氏がこれまで未開拓であった中国天文学史に新たな光を投じたことを評価すべきであろう。それゆえ審査委員全員は、本論文をもって学位取得のために十分であると判断した。

 したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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