学位論文要旨



No 216061
著者(漢字) 笠井,清登
著者(英字)
著者(カナ) カサイ,キヨト
標題(和) 統合失調症における音素刺激によって誘発されたミスマッチ陰性電位の検討
標題(洋) Abnormal Phonetic Mismatch Negativity in Patients with Schizophrenia
報告番号 216061
報告番号 乙16061
学位授与日 2004.07.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第16061号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辻,省次
 東京大学 教授 上野,照剛
 東京大学 教授 加我,君孝
 東京大学 助教授 宇川,義一
 東京大学 助教授 青木,茂樹
内容要旨 要旨を表示する

 統合失調症(精神分裂病)の認知機能障害は、社会生活障害との関連が幻聴・妄想などの陽性症状より強いことが示されており、統合失調症における基本的障害と考えられている。統合失調症の認知機能障害は事象関連電位(event-related potentials; ERPs)を用いて詳細に検討されてきており、1980年代までにP300成分、negative difference wave (Nd)成分など能動的・制御的注意の障害が報告されてきた。しかしながら1990年代に入ると、聴覚皮質における感覚記憶または自動的注意機能を反映するミスマッチ陰性電位(mismatch negativity; MMN)成分の異常が報告され、統合失調症における認知機能障害は能動的・制御的側面だけでなく、自動的側面にも存在することが明らかとなった。これまで統合失調症患者におけるMMN振幅の減衰が繰り返し報告されてきたが、これらの検討はすべて音刺激として純音を用いていた。一方、近年の健常者を対象とした研究では、音素刺激によって誘発されたMMNの検討が進んでおり、純音刺激MMNが右半球優位なのに対し、音素刺激MMNが左半球優位であるなどの証拠から、音素刺激MMNが言語に関連した聴覚処理過程を反映することが示されている。しかも、統合失調症の認知機能障害のプロフィールは、言語処理に関する異常がもっとも顕著であることが知られている。そこでわれわれは、統合失調症の言語に関連した自動的処理障害を明らかにするために、統合失調症患者を対象とした研究としては初めて音素刺激を用いてMMNを測定した。また、脳波と脳磁図(magnetoencephalography; MEG)が相補的な情報をもたらすことを考慮し、全く同じパラダイムを用いてMEGによる計測も行った。さらに、統合失調症の認知機能研究は、その認知機能指標・成分を利用して統合失調症の病態・病因にどう迫れるか、というだけではなく、その指標・成分を臨床検査として応用することが可能か、という目的意識からも行われるべきである。こうした観点から、服用中の向精神薬の多寡がMMN指標に与える影響の有無の検討、MMN指標の性差の存在の有無の検討も行った。

 ERP研究の対象は、23名の統合失調症患者(男性16名、女性7名)と年齢・性・両親の社会経済的状況をマッチさせた28名の健常者であった。年齢は28.1[SD=4.0]歳、罹病期間は7.8[SD=4.0]年、抗精神病薬服薬量はクロルプロマジン換算で438[SD=300]mg/日、精神症状はPANSSによる評価で陽性尺度12.0[SD=3.7]、陰性尺度16.8[SD=4.8]、総合精神病理評価尺度31.6[SD=6.8]であった。抗不安薬・睡眠薬服用量はジアゼパム換算量で14.0[SD=18.1]mg/日であった。本研究は東京大学大学院医学系研究科の研究倫理委員会の承諾を経て行われたものである。研究に先立ち、その主旨と内容を十分説明したうえで参加の同意を文書にて得た。

 MMNの計測には、Neuroscan社製128チャンネルERP計測システムを用いた。被検者は、無響室内の安楽椅子に座り課題を遂行した。被検者には、ヘッドフォンを通じて提示確率10%(120回)の低頻度刺激と90%の高頻度刺激を刺激間隔(ISI)510±20msでランダムに提示し、課題中は刺激音を無視し無声映画を観ているよう教示した。刺激条件は3条件設定した。1)tone-duration条件;純音(1000Hz、70dBSPL、rise/fall time=10msec)の持続時間の変化(高頻度刺激:持続時間100ms,低頻度刺激:持続時間50ms) 2)phoneme-duration条件;音素(母音/a/)の持続時間の変化(高頻度刺激:持続時間150ms,低頻度刺激:持続時間100ms) 3)across-phoneme条件;持続時間150msの音素のカテゴリ間変化(高頻度刺激:/a/,低頻度刺激:/o/)。

 その結果、前者2条件のMMN振幅に健常群(28名)と統合失調症患者群(23名)の有意差を認めなかったが、母音「あ」と「お」の違いに対するMMNにおいて、統合失調症群で有意な振幅の減衰を認めた。この結果は、皮質近傍の電気的活動を強調し、深部からの影響を減衰させる頭皮電流密度(scalp current density)解析からも支持された。音素のカテゴリ間変化(across-phoneme)条件において、健常者では側頭部・前頭部ネットワークの活動を認めたが、統合失調症患者ではそれらの活動が減弱していた。

次に脳磁図(MEG)を用いてERP研究と全く重なりのない統合失調症患者群で検討した。対象は、DSM-IVにて統合失調症患者と診断された16名(男性9名、女性7名)である。年齢は29.1[SD=6.1]歳、罹病期間は7.5[SD=6.2]年、抗精神病薬服薬量(クロルプロマジン換算)は569[SD=609]mg/日、精神症状(PANSS)は陽性尺度13.8[SD=5.3]、陰性尺度20.3[SD=6.6]、総合精神病理評価尺度34.8[SD=7.5]であった。抗不安薬・睡眠薬服用量(ジアゼパム換算)は24.1[SD=30.0]mg/日であった。これらの指標についてERP研究の統合失調症群と有意な差はなかった。対照群は、19名の健常者であり、統合失調症群と年齢・性・両親の社会経済的状況をマッチさせた。高解像度ERPによる検討とは対象者の重なりはなかった。本研究は東京大学大学院医学系研究科の研究倫理委員会の承諾を経て行われたものである。研究に先立ち、その主旨と内容を十分説明したうえで参加の同意を文書にて得た。Magnetic mismatch field (MMF)の計測には、Neuromag社製122チャンネル全頭型MEGを用いた。課題条件はERP研究と全く同じものを用いた。

 その結果、前者2条件に比して、across-phoneme条件において、統合失調症群で有意なMMF強度の減弱を認め、ERP研究の結果を支持した。MEGは頭皮に平行な電流のみを検出するため、MMFのうち主に上側頭回由来の成分を反映すると考えられる。したがってMEG研究の結果は、統合失調症患者において音素のカテゴリ変化の自動的検出に関する聴覚皮質の機能が障害されていることを示唆するものである。ERP研究とMEG研究の結果を合わせると、統合失調症の言語処理異常は高次の意味処理の段階だけでなく、MMNに反映される自動的処理の段階から生じている可能性があることが示唆される。

 次に、統合失調症患者のMMN(MMF)振幅(強度)・潜時・トポグラフィに、服薬中の抗精神病薬・抗不安薬・抗パーキンソン薬の影響があるかどうかを検討した。特に抗不安薬に関しては、サルを用いてMMNの発生にGABA系が抑制性に関与していることを示唆したJavittらの研究から推察すると、理論的には服用中の抗不安薬の多寡がGABAを介してMMNに影響を与える可能性がある。しかし結果的には、ERP・MEG測定いずれにおいても抗精神病薬・抗不安薬・抗パーキンソン薬服用量の多寡によるMMN(MMF)振幅(強度)・潜時の差、刺激の種類(純音・音素)や左右半球による違いを認めなかった。抗精神病薬・抗不安薬・抗パーキンソン薬服用量とMMN(MMF)振幅(強度)・潜時の間に有意な相関を認めなかった。以上の結果から、統合失調症患者におけるMMN(MMF)に対する抗精神病薬・抗不安薬・抗パーキンソン薬の影響は大きくはないことが示唆された。

 さらにわれわれは、音素性MMNの男女による違いを検討した。まず、健常者と比べた際の統合失調症群におけるMMNの減衰の程度は、男性・女性とも同等であったため、詳細な検討を健常者に絞り、MMN研究で最もよく用いられるtone-duration条件・across-phoneme条件について解析した。その結果、健常者の音素性MMNは性差による振幅・潜時・トポグラフィの違いを認めなかった。これらの結果は、MMNを臨床検査指標として応用していくにあたって、性差の影響はあまり大きくないことを示唆している。今後は健常者の知能や人格などの個人差や、統合失調症の異種性によるMMNの相違を明らかにしていくことが求められる。統合失調症をはじめとする精神疾患には、内科疾患のような客観的で信頼性の高い生物学的指標が確立されていない。このことが医療関係者にとってだけでなく、患者・家族が主体的に治療に参加していく上での妨げになっている。これまで研究者はERPを用いて統合失調症の脳異常を明らかにすることに専心してきたが、今後はERPを統合失調症の診断・治療に役立つ臨床検査として確立するための検討を進める必要があり、本研究がその端緒となることが期待される。

 以上をまとめると、本研究は、高解像度脳波・脳磁図計測システムを利用し、統合失調症における音素刺激MMNの異常を明らかにした初の報告である。また、統合失調症のMMN指標には服用中の向精神薬の多寡による影響や性差による差は大きくないことも示した。今後は音素性MMNが反映する音素の自動的処理の異常が高次の意味処理・思考の異常にどのようにつながるかの解明が待たれるとともに、MMNを統合失調症の臨床検査として応用していくための更なる努力が必要である。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、統合失調症の言語に関連した認知機能障害を明らかにするために、音素刺激を用いたミスマッチ陰性電位(mismatch negativity; MMN)を事象関連電位(ERP)・脳磁図(MEG)によって測定したものであり、下記の結果を得ている。

1. 純音の持続時間の変化や音素(母音/a/)の持続時間の変化の条件では、MMN振幅に健常群(28名)と統合失調症患者群(23名)の有意差を認めなかったが、音素のカテゴリ間変化(高頻度刺激:/a/,低頻度刺激:/o/) に対するMMNにおいて、統合失調症群で有意な振幅の減衰を認めた。この結果は、皮質近傍の電気的活動を強調し、深部からの影響を減衰させる頭皮電流密度解析からも支持された。すなわち、音素のカテゴリ間変化条件において、健常者では側頭部・前頭部ネットワークの活動を認めたが、統合失調症患者ではそれらの活動が有意に減弱していた。

2. MEGを用いてERP研究と全く重なりのない統合失調症患者群(16名)と19名の健常者を対象としてMagnetic mismatch field (MMF)を計測したところ、音素のカテゴリ間変化条件においてのみ、統合失調症群で有意なMMF強度の減弱を認め、ERP研究の結果を支持した。MEGは頭皮に平行な電流のみを検出するため、MMFのうち主に上側頭回由来の成分を反映すると考えられる。したがってMEG研究の結果は、統合失調症患者において音素のカテゴリ変化の自動的検出に関する聴覚皮質の機能が障害されていることを示唆するものである。

3. 統合失調症患者のMMN(MMF)振幅(強度)・潜時・トポグラフィに、服薬中の抗精神病薬・抗不安薬・抗パーキンソン薬の影響があるかどうかを検討したが、ERP・MEG測定いずれにおいても抗精神病薬・抗不安薬・抗パーキンソン薬の影響は大きくはないことが示唆された。

4. 音素性MMNの男女による違いを検討した結果、健常者・患者群とも音素性MMNは性差による振幅・潜時・トポグラフィの違いを認めなかった。これらの結果は、MMNを臨床検査指標として応用していくにあたって、性差の影響はあまり大きくないことを示唆している。

 以上、本論文はERP・MEG計測を利用し、統合失調症における音素刺激MMNの異常を明らかにした初の報告である。本研究は、統合失調症の言語処理異常が高次の意味処理の段階だけでなく自動的処理の段階から生じていることや、MMNに向精神薬の服用や男女による差がないことを示したことから、統合失調症の病態生理の解明や臨床検査法の開発に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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