学位論文要旨



No 216063
著者(漢字) 辻,雄貴
著者(英字)
著者(カナ) ツジ,ユウキ
標題(和) 脂肪組織におけるインスリンシグナル伝達と糖・脂質代謝の分子機構 : インスリン受容体-1欠損マウスとp85α欠損マウスの解析から
標題(洋)
報告番号 216063
報告番号 乙16063
学位授与日 2004.09.01
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第16063号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山下,直秀
 東京大学 教授 大内,尉義
 東京大学 助教授 岡崎,具樹
 東京大学 助教授 横溝,岳彦
 東京大学 助教授 矢冨,裕
内容要旨 要旨を表示する

 2型糖尿病は膵β細胞のインスリン分泌不全と、インスリン標的組織である肝臓、骨格筋および脂肪細胞におけるインスリン作用障害(抵抗性)といったインスリンの作用不足に起因し、高血糖を呈すると考えられている。インスリン受容体に結合したインスリンは、内在するチロシンキナーゼを活性化した後、インスリン受容体基質(Insulin receptor substrates: IRS)であるIRS-1、IRS-2およびIRS-3、さらにはShcなどの内因性基質をチロシンリン酸化し、Src homology (SH) 2蛋白であるPI3-kinase、Grb2/Ash、SHP-2 (Syp/PTPD1)、Cskなどと結合することにより多様なインスリン作用を発揮する。糖の取り込み、糖産生抑制、グリコーゲン合成や蓄積、さらには脂肪分解抑制といった糖・脂質代謝を調節するインスリン作用はインスリンシグナル伝達上の PI3-kinase経路の下流に存在していることが示されており、インスリン抵抗性発症時にはインスリンの受容体結合以降のシグナルが何らかの形で障害を受けていると考えられている。これまでもインスリン標的組織である肝臓、骨格筋および脂肪細胞などを材料にPI3-kinase依存的な経路のシグナル伝達不全について様々な研究が進められてきているが、それらはインスリン刺激後の時間的(二次元的)なリン酸化レベルや活性レベルの変化について細胞全体のレベルでのみ検討されてきた。生体内ではインスリン刺激によりPI3-kinaseが活性化されると、細胞内の糖輸送担体(glucose transporter: Glut) 4の細胞膜へのトランスロケーションが促進され糖輸送能を活性化することにより血糖が低下すると考えられている。したがって、シグナル伝達によるインスリン作用機序を正確に理解するためには、インスリン作用に関与している分子の時間的のみならず空間的(三次元的)変化である細胞内局在とをあわせて理解することが重要であると考えられた。インスリンの標的組織の中で脂肪組織は、インスリンによるGlut 4の細胞内から細胞膜へのトランスロケーションによる糖取り込み機構を解明する上で優れた組織であるため、脂肪細胞を用いてインスリンシグナル伝達を検討することは興味深いと考えられた。さらには、これまでは培養細胞を用いてのインスリンの作用解析が進められることが多く、個体レベルでの2型糖尿病発症に関する報告はそれほど多くはなかった。近年、糖尿病領域においても遺伝因子の明確なインスリン抵抗性あるいはインスリン感受性モデル動物を用いた解析が広く普及してきており、個体レベルでのインスリン作用の解析が可能となってきている。本研究では、二種類の遺伝子欠損マウスについてインスリンの標的組織である脂肪組織を材料に、個体レベルでインスリンシグナル伝達と糖・脂質代謝作用について細胞分画という手法を利用しシグナル分子の細胞内局在という概念を加えてより詳細に検討した。

 IRS-1を欠損させたマウスは、耐糖能は正常であるものの比較的軽度なインスリン抵抗性を示す。このマウス由来の脂肪細胞を分画することによりIRS-2やIRS-3のシグナル伝達もより詳細にクローズアップすることを可能とした。マウス脂肪細胞においてはIRS-1やIRS-2は細胞内の細胞質低密度:low density microsome (LDM)画分も含め全ての画分において存在するが、一方でIRS-3は細胞膜 plasma membrane (PM)画分においてのみ存在しており、インスリン刺激にともないチロシンリン酸化されていた。その後、それぞれの画分でIRS由来のPI3-kinaseを活性化することにより、シグナルを伝達して様々な代謝作用発揮に関与している可能性を示唆した。その一例として、IRS-1欠損マウスでは脂肪細胞における糖取り込み能の低下といった糖代謝作用の減弱のほかにも脂肪分解の亢進という脂質代謝異常を呈することを見出した。この際、IRS-1欠損マウスでは脂肪分解の律速酵素であると考えられているホルモン感受性リパーゼ(hormone-sensitive lipase: HSL)のmRNAおよび蛋白量が亢進していることから、IRS-1のシグナル伝達がHSLの転写・翻訳レベルでの発現調節を介した脂肪分解制御に関与することも示唆された。一方でIRS-1欠損マウスにおいてはインスリンによる脂肪分解抑制作用には変化が認められないことから、本作用はIRS-3あるいはIRS-2のシグナル伝達による作用の一つであること、特にPM画分におけるIRS-3由来の作用である可能性が高いことも示唆した。これらのことから、インスリン受容体基質によって制御しうる糖・脂質代謝作用が異なることが示唆され、その作用発揮には特定の細胞内画分におけるシグナル伝達が重要である可能性が考えられた。

 さらに、p85α欠損マウスは骨格筋や脂肪組織などの抹消組織における糖取り込み能が亢進し、インスリン抵抗性を発症せずにインスリン感受性が良好となることを見出した。この際、p85α欠損マウスの脂肪組織PM画分に存在するGlut4蛋白量はインスリン非刺激時および最大刺激時ともに野生型マウスに比べ有意に増加しており、p85α欠損マウス脂肪組織で認められた糖輸送活性増加にはGlut4の量的増大あるいはインスリン刺激後の細胞膜への移動の増加が関連していると考えられた。p85α欠損マウスの脂肪組織ではその代替蛋白としてp50αが強く発現しており、LDM画分においてインスリン刺激後に認められるIRS-1とp50αの結合が、野生型マウスで認められるIRS-1とp85αの結合に比べて、より早く解離していた。さらにはp85α欠損マウスの脂肪細胞においてはPI3-kinase活性の生成産物であるphosphatidylinositol 3,4,5-triphosphate (PtdIns(3,4,5)P3)の産生増加が生じていていることを見出した。PtdIns(3,4,5)P3はp85αやp50αなどのSH2領域を有する蛋白と結合しIRS-1のようなチロシンリン酸化蛋白とPI3-kinaseとの結合を解離する性質を有するため、p85α欠損マウス脂肪細胞で認められたPtdIns(3,4,5)P3の産生増加がLDM 画分においてIRS-1とp50aとの早期解離を引き起こし、Glut4のトランスロケーションを促進し糖取り込み能亢進や血糖低下を来たす要因であると考えられた。

 このように脂肪組織では、インスリンシグナル伝達において重要な役割を担うインスリン受容体基質やPI3-kinase調節サブユニットといった分子が、それぞれが存在する画分(細胞内局在)で特異的に作用を伝達する可能性が考えられた。実際にインスリン抵抗性患者の標的組織においてもインスリンシグナル伝達が障害されていることが知られており、詳細に検討すればヒトの病態組織においても、細胞内のある特定の細胞内画分におけるシグナル伝達障害がインスリンの作用不足を引き起こしインスリン抵抗性発症の要因となっているのかもしれない。

 以上により、遺伝子欠損マウス由来の脂肪細胞を材料にインスリンシグナル伝達分子の役割を糖・脂質代謝作用と絡めながら細胞内局在という空間的な理解も加えて個体レベルで詳細に検討することができた。今後は、インスリンシグナル伝達について検討する際には細胞内局在個々におけるシグナルと作用を把握しながら、シグナル活性を時空間的に理解していくことが必要である。本研究から見出された知見にヒントを得て、インスリン感受性臓器においてシグナル分子の作用を特定の細胞内画分において変化させることができれば(例えば、p85α調節サブユニットの発現をある程度抑制することや特定の細胞内画分においてシグナル活性を変化させるなど)、インスリン感受性の増大や糖代謝作用亢進による抗糖尿病効果が期待でき、そこをターゲットとする薬剤開発などを含め糖尿病の治療につながる可能性もあると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究はインスリン標的組織の一つである脂肪組織におけるインスリンシグナル伝達と糖・脂質代謝の分子機構を明らかにするため、2種類の遺伝子欠損マウス:インスリン受容体基質(Insulin receptor substrates: IRS)-1欠損マウスとp85α欠損マウスを用いて、インスリン受容体基質の細胞内局在とそれらの糖・脂質代謝作用、あるいはPI3-kinase調節サブユニットの糖取り込みに対する関与について研究を行ったものであり、下記の結果を得ている。

1. IRS-1欠損マウスを用いた解析により、マウス脂肪細胞においてはインスリン刺激によりIRS-1やIRS-2は細胞内の細胞質低密度:low density microsome (LDM)画分も含め全ての画分において、一方IRS-3は細胞膜plasma membrane (PM)画分においてのみ、チロシンリン酸化されていた。その後、それぞれの存在画分で IRS由来のPI3-kinaseを活性化することにより、シグナルを伝達して様々な代謝作用発揮に関与している可能性が示唆された。

2. その一例として、IRS-1欠損マウスでは脂肪細胞における糖取り込み能の低下といった糖代謝作用の減弱のほかにも脂肪分解の亢進という脂質代謝異常を呈することを見出した。この際、IRS-1欠損マウスでは脂肪分解の律速酵素であると考えられているホルモン感受性リパーゼ (hormone-sensitive lipase: HSL)のmRNAおよび蛋白量が亢進していることから、IRS-1のシグナル伝達がHSLの転写・翻訳レベルでの発現調節を介した脂肪分解制御に関与することも示唆された。一方で IRS-1欠損マウスにおいてはインスリンによる脂肪分解抑制作用には変化が認められないことから、本作用はIRS-3あるいはIRS-2のシグナル伝達による作用の一つであることも示唆した。これらのことから、インスリン受容体基質によって制御しうる糖・脂質代謝作用が異なることが示唆され、その作用発揮には特定の細胞内画分におけるシグナル伝達が重要である可能性が考えられた。

3. 次いで、p85α欠損マウスを用いた解析により、PI3-kinaseの調節サブユニットであるp85αを欠損すると、脂肪組織などの抹消組織における糖取り込み能が亢進し、インスリン抵抗性を発症せずにインスリン感受性が良好となることを見出した。

4. この際、p85α欠損マウスの脂肪組織においてはPM画分に存在する糖輸送担体:glucose transporter (Glut) 4蛋白量がインスリン非刺激時および最大刺激時ともに野生型マウスに比べ有意に増加しており、p85α欠損マウス脂肪組織で認められた糖輸送活性増加にはGlut4の量的増大あるいはインスリン刺激後の細胞膜への移動の増加が関連していると考えられた。

5. さらにp85α欠損マウスの脂肪組織ではp85αの代替蛋白としてp50αが強く発現しており、LDM画分においてインスリン刺激後に認められるIRS-1とp50aの結合が、野生型マウスで認められるIRS-1とp85αの結合に比べて、より早く解離することが示された。加えてp85α欠損マウスの脂肪細胞においてはPI3-kinase活性の生成産物であるphosphatidylinositol 3,4,5-triphosphate (PtdIns(3,4,5)P3)の産生増加が生じていていることを見出した。従って、p85α欠損マウス脂肪細胞で認められたPtdIns(3,4,5)P3の産生増加が、Glut4のtranslocationを促進し糖取り込み能亢進や血糖低下を来たす要因である可能性が示唆された。

 以上、本論文はマウス脂肪組織では、インスリンシグナル伝達において重要な役割を担うインスリン受容体基質や PI3-kinase調節サブユニットといった分子が、それぞれが存在する画分(細胞内局在)で特異的に作用を伝達する可能性を明らかにした。本研究から見出された知見にヒントを得て、インスリン感受性臓器においてシグナル分子の作用を特定の細胞内画分において変化させることができれば、インスリン感受性の増大や糖代謝作用亢進による抗糖尿病効果が期待でき、そこをターゲットとする薬剤開発などを含め糖尿病の治療につながる可能性もあると考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク