学位論文要旨



No 216071
著者(漢字) 木村,久美子
著者(英字)
著者(カナ) キムラ,クミコ
標題(和) プリオン病の病理学的診断法および解析法に関する研究
標題(洋)
報告番号 216071
報告番号 乙16071
学位授与日 2004.09.06
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第16071号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 土井,邦雄
 東京大学 教授 小野寺,節
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 助教授 中山,裕之
 動物衛生研究所 部長 成田,實
内容要旨 要旨を表示する

 プリオン病はヒトを含む数種の動物に認められる長い潜伏期を特徴とする致死性の中枢神経系変性疾患である。家畜および野生動物のプリオン病には,羊および山羊のスクレイピー(Scrapie),牛海綿状脳症(Bovine spongiform encephalopathy, BSE)および鹿慢性消耗病(Chronic westing disease, CWD)等が含まれる。我が国では羊スクレイピーおよびBSEの発生が認められ,これらの疾患は1997年に法定伝染病に指定された。プリオン病罹患動物には,感染性と相関して異常プリオン蛋白質(PrPSc)が検出され,それが蛋白質性感染粒子「プリオン」の主要構成成分であると考えられている。

 プリオン病の診断は通常,病理組織学的検査,免疫組織化学的検査および免疫生化学的検査によって行われる。このうち病理組織学的検査は最も古典的な診断方法であるが,技術的過失が生じにくいことに加え,病変分布の確認が可能であるため,現在でもプリオン病の重要な検査法と認識されている。病変分布に個体差が無いことは英国のBSEの特徴であり,このためBSEの診断には病変が最も高頻度に出現する延髄閂部のみが用いられている。家畜疾病の国際的診断基準を定めたOIE診断マニュアルには,「英国以外の国では,脳の病変分布が英国例と同一であることが病理組織学的検査により確認された場合に限り,延髄閂部のみの検査によるBSEの診断が可能である」と記述されており,新たにBSEが確認された国においては病変分布を英国例と比較検討する必要がある。

 免疫組織化学的検査と免疫生化学的検査は,プリオン病罹患動物の組織内のPrPScを検出するために用いられる。PrPScの蓄積は中枢神経系の海綿状変性に先立って確認されることから,これらの方法は病理組織学的検査よりも感度の高い検査法と考えられる。これら二つの方法を比較すると,免疫組織化学的検査は脳組織におけるPrPScの蓄積分布を検索するために使われるが,PrPCとPrPScを識別して解析する事は不可能である。一方,免疫生化学的検査のうちウエスタンブロット法ではPrPScのみを識別して検出する事が可能であり,その分子量や糖鎖型の解析も可能である。しかし,分布の検索には応用できない。従って,PrPCとPrPScをin situで識別可能な方法の開発が必要であった。これにより,診断精度の向上が図れ,さらにPrPCとPrPScの相互の動態の検索が可能となる。

 実験動物接種法は,長期間を要するためプリオン病の通常の診断法としては用いられないが,プリオンの確定診断法として,あるいはプリオンの感染価の測定法として,最も感度の高い方法と考えられている。しかし,BSEやスクレイピー等の症例から実験動物など異種動物への伝達では潜伏期の延長が認められ,この現象あるいはその成因は種間バリアーと呼ばれている。種間バリアーは各動物種間におけるプリオン遺伝子の相違および感染因子の株によって引き起こされていることが明らかにされてきた。しかし,病理学的変化あるいはPrPの動態に対する種間バリアーの影響については十分に検討されていない。

 これらの現状を踏まえ,第1章では,日本のBSE検査法および確定診断法に根拠を与えるため,我が国におけるBSE初発例の神経病理学的特徴について検索を行った。第2章では,脳の組織切片上でPrPCとPrPScを識別する方法の確立を目的として,ヒストブロット法の応用の可能性を,実験動物を用いて検討し,さらにPrPCとPrPScの動態の解析を試みた。第3章においては,ヒストブロット法の野外発症例への応用性について検討を行った。また,第4章では,実験動物接種法における種間バリアーの病理学的変化あるいはPrPScの動態に対する影響について検討した。

第1章 BSE本邦初発例に関する神経病理学的検索

 OIE診断マニュアルには,英国で発生したBSEは単一のBSEプリオンに起因し,病変分布が均一であるという理由から,病変が必発する延髄閂部のみの検査でBSEの診断が可能であると記述されている。日本において延髄のみの検査でBSEの診断を行うためには,日本の野外症例の病変分布を検査し,英国例との同一性を証明しなくてはならない。そこで,BSE本邦初発例の脳の病変分布を病理組織学的に精査し,英国例と比較検討した。また,免疫組織化学的にPrPScの蓄積分布を検索した。その結果,病理組織学的に空胞変性は脳幹に主座していた。病変は中脳から延髄にかけて高度であり,特に延髄の三叉神経脊髄路核に最も顕著な空胞変性が認められた。免疫組織化学的検査では,病変に一致し,中脳から延髄にかけて顕著なPrP陽性反応が認められた。また,病理組織学的に空胞変性が確認されなかった尾状核,被殻および小脳皮質においても陽性所見が確認された。BSE本邦初発例の病変の分布は英国のBSE症例に類似しており,このことから本症例は英国例と同じBSEプリオンに罹患している可能性が示唆された。これらの成績は,我が国において延髄閂部のみの検査でBSE診断が実施されていることに根拠を与えるものである。しかし,2003年9月に今までとは異なる特徴を持ったBSEも発見されており,今後もBSE症例については病変分布のモニタリングを行っていく事が必要と考えられる。一方,免疫組織化学的検査では,空胞変性が認められない領域でも陽性所見が確認されたことから,診断および病態解析におけるその有用性が再確認された。

第2章 ヒストブロット法を用いたプリオン病の診断および解析法の確立

 ウエスタンブロット法と免疫組織化学との中間的手法であるヒストブロット法を,プリオン病の診断および解析に応用できるか否かを,スクレイピー感染マウスおよびハムスターの脳を用いて検討した。その結果,ブロット膜を前処理しない場合にはPrPCが検出され,ブロット膜をプロテイナーゼK処理および蒸留水オートクレーブ処理した場合にはPrPScが検出されることが明らかになった。このように,ヒストブロット法を用いることによって,PrPCおよびPrPScの動態をin situで識別することが可能になった。また,ヒストブロット法による解析の結果,スクレイピー感染脳ではPrPScの蓄積部位に一致して,PrPCの減少が観察された。これらの結果から,スクレイピー感染脳ではPrPCがPrPScへの変換によって消耗されたことが示唆された。免疫沈降においても,ヒストブロット法の結果に一致して,スクレイピー感染脳におけるPrPCの減少が確認された。以上の結果より,PrPCの機能欠損がプリオン病の病理発生に関与している可能性が示唆された。

第3章 ヒストブロット法のプリオン病野外発症例への応用

 第2章でプリオン病の解析にヒストブロット法を用いることにより,in situレベルでPrPCとPrPScを識別することが可能であることを示した。そこで,本方法が野外発症例に応用できるか否かを検討した。

 BSE野外発症例および羊スクレイピー野外発症例についてヒストブロット法を用いたプリオン蛋白質の検出を行い,健康例と比較した。その結果,牛および羊でも前処理法を変えることによってin situにおいてPrPCとPrPScを識別できることが明らかになった。また,BSEあるいはスクレイピー罹患脳でもPrPScのシグナルが観察される部位に一致して,PrPCのシグナルの減少が観察された。これは,第2章の結果と同様,プリオン病の病理発生にPrPCの機能欠損が関与する可能性を支持する結果であった。

第4章 プリオン病診断のための実験動物接種法における種間バリアーが病理組織学的変化およびPrPScの蓄積に及ぼす影響

 シリアンハムスターにマウススクレイピーを伝達し,継代に伴う病理組織学的,免疫組織化学的および免疫生化学的変化について解析を行った。その結果,脳の病変分布には継代に伴う変化は認められなかったが,PrPScの蓄積分布は継代に伴って変化した。2代および3代継代ハムスターの脳軟膜下領域および上衣下領域では明瞭なPrPプラーク形成が確認されたが,初代伝達ハムスターではプラークは全く確認されなかった。ウエスタンブロット法では,蓄積したPrPScは初代からハムスターPrPの特徴を示していた。これらの結果から,種間バリアーは潜伏期のみならずPrPScの蓄積分布にも影響を及ぼすことが明らかになった。

 以上のように,本論文で示した一連の研究により,家畜のプリオン病の病理学的診断の精度を高めるとともに,新しい診断・解析法を確立することができた。これらの手法を用いた病態解析により,プリオン病の病理発生におけるPrPCの動態の重要性が示唆された。また,新知見として,異種動物へ伝達されたプリオン病ではPrPScの蓄積部位が継代に伴って変化することが確認できた。一方,本研究の過程で,プリオン病発生におけるPrPCおよびPrPScの役割や種間バリアーの本態についていくつかの課題が提起された。今後,プリオン病の本態を明らかにするため,さらにこれらの点について検討を行う必要がある。

審査要旨 要旨を表示する

 家畜および野生動物のプリオン病には,羊および山羊のスクレイピー,牛海綿状脳症(BSE)および鹿慢性消耗病(CWD)等が含まれ、我が国においては羊スクレイピーおよびBSEの発生が認められる。今回,プリオン病の病理学的診断法の高度化および新たな解析法の開発を目的として,以下の研究を実施した。

 第1章では,BSE本邦初発例の神経病理学的解析を行った。OIE診断マニュアルに従い、日本において延髄のみの検査でBSEの診断を行うためには,日本の野外症例の病変分布を検査し,英国例との同一性を証明しなくてはならない。そこでBSE本邦初発例の脳の病変分布を病理組織学的に精査し,英国例と比較検討した。また,免疫組織化学的にPrPScの蓄積分布を検索した。その結果,病理組織学的に空胞変性は脳幹に主座していた。病変は中脳から延髄にかけて高度であり,特に延髄の三叉神経脊髄路核に最も顕著な空胞変性が認められた。免疫組織化学的検査では,病変に一致し,中脳から延髄にかけて顕著なPrP陽性反応が認められた。また,病理組織学的に空胞変性が確認されなかった尾状核,被殻および小脳皮質においても陽性所見が確認された。BSE本邦初発例の病変の分布は英国のBSE症例に類似しており,このことから本症例は英国例と同じBSEプリオンに罹患している可能性が示唆された。これらの成績は,我が国において延髄閂部のみの検査でBSE診断が実施されていることに根拠を与えるものである。一方,免疫組織化学的検査では,空胞変性が認められない領域でも陽性所見が確認されたことから,診断および病態解析におけるその有用性が再確認された。

 第2章では,ウエスタンブロット法と免疫組織化学との中間的手法であるヒストブロット法のプリオン病診断および解析への可能性について,スクレイピー感染マウスおよびハムスターの脳を用いて検討した。その結果,ブロット膜を前処理しない場合にはPrPCが検出され,ブロット膜をプロテイナーゼK処理および蒸留水オートクレーブ処理した場合にはPrPScが検出されることが明らかになった。このように,ヒストブロット法を用いることによって,PrPCおよびPrPScの動態をin situで識別することが可能になった。また,ヒストブロット法による解析の結果,スクレイピー感染脳ではPrPScの蓄積部位に一致して,PrPCの減少が観察された。これらの結果から,スクレイピー感染脳ではPrPCがPrPScへの変換によって消耗されたことが示唆された。免疫沈降においても,ヒストブロット法の結果に一致して,スクレイピー感染脳におけるPrPCの減少が確認された。以上の結果より,PrPCの機能欠損がプリオン病の病理発生に関与している可能性が示唆された。

 第3章では,第2章で確立したヒストブロット法の野外発症例への応用性について,BSEおよび羊スクレイピー野外発症例を用いて検討を行った。その結果,牛および羊でも前処理法を変えることによってin situにおいてPrPCとPrPScを識別できることが明らかになった。また,BSEあるいはスクレイピー罹患脳でも,PrPScのシグナルが観察される部位に一致して,PrPCのシグナルの減少が観察された。これは,第2章の結果同様,プリオン病の病理発生にPrPCの機能欠損が関与する可能性を支持する結果であった。

 第4章では,プリオン病診断のための実験動物接種法における,種間バリアーの病理学的変化およびPrPScの蓄積に対する影響について検討した。シリアンハムスターにマウススクレイピーを伝達し,継代に伴う病理組織学的,免疫組織化学的および免疫生化学的変化について解析を行った。その結果,脳の病変分布には継代に伴う変化は認められなかったが,PrPScの蓄積分布は継代に伴って変化した。2代および3代継代ハムスターの脳軟膜下領域および上衣下領域では明瞭なPrPプラーク形成が確認されたが,初代伝達ハムスターではプラークは全く確認されなかった。ウエスタンブロット法では蓄積したPrPScは初代からハムスターの特徴を示していた。これらの結果から,種間バリアーは潜伏期のみならずPrPScの蓄積分布にも影響を及ぼすことが明らかになった。

 本論文で示した一連の研究により,家畜のプリオン病の病理学的診断の精度を高めるとともに,新しい診断・解析法を確立することができた。これらの手法を用いた病態解析により,プリオン病の病理発生におけるPrPCの動態の重要性が示唆された。また,新知見として,異種動物へ伝達されたプリオン病ではPrPScの蓄積部位が継代に伴って変化することが確認できた。本研究により日本のBSE研究が格段に進歩し、世界に比肩することができたと確信された。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位を授与するに値するものと認めた。

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