学位論文要旨



No 216072
著者(漢字) 成田,和巳
著者(英字)
著者(カナ) ナリタ,カズミ
標題(和) 走行運動の発現における視床下部腹内側核の役割に関する研究
標題(洋)
報告番号 216072
報告番号 乙16072
学位授与日 2004.09.06
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第16072号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 助教授 武内,ゆかり
 東京大学 助教授 山内,啓太郎
内容要旨 要旨を表示する

 視床下部は神経性あるいは液性の情報を統合し自律神経系や内分泌系を介して循環,代謝などの自律機能を調節するとともに,様々な行動発現を制御することによって内部環境の恒常性を維持している.中でも,視床下部腹内側核(VMH)は交感神経系の高次中枢として末梢の交感神経活動を調節するとともに,ブドウ糖受容ニューロンを含み摂食行動の発現に関与し,またエストロゲン受容体が発現し雌性性行動発現の調節にも関与するなど自律性反応や行動の調節に関わる部位である.

 ラットにおいてVMHには走行運動を誘起する神経機構が存在することも見いだされている.VMHにGABAA受容体の阻害薬であるビククリンを投与すると走行運動が誘発される.一方VMHを電気刺激すると攻撃,逃避,ジャンピングといった複数の行動が発現するが,VMHをビククリンで刺激したときに発現する走行運動はそれらの他の行動を伴わない定型的な走行行動のみが発現する.また障害物をよけるなど調和のとれた走行行動でもある.ここで走行運動の発現に関与するVMH内の神経細胞を視床下部走行ニューロンと命名したい.

 上述したようにVMHが内部環境の変化を受容していることを考えると,同じ部位に存在する視床下部走行ニューロンも同様にさまざまな内因性のシグナルを受容し走行運動の発現を調節している可能性が考えられる.そして視床下部走行ニューロンの機能が解明されれば,走行運動の発現を引き起こす原因や因子のニューロンレベルでの解明が期待できる.そこで本論文では成熟ラットを用い第一章で視床下部走行ニューロンの興奮性を調節する神経伝達物質の検討を行い,第二章では視床下部走行ニューロンから発せられる走行運動発現に関わる神経伝達経路の解明を,第三章では視床下部走行ニューロンと自律機能の関連の検討を行い,第四章において夜行性動物であるラットの暗期自発運動と視床下部走行ニューロンの関与を検討した.そして最後にラットにおける自発運動の発現に果たす視床下部走行ニューロンの役割に関して考察を行った.

 視床下部走行ニューロンの興奮性の調節に抑制性神経伝達物質であるGABAの関与が明らかとなっている.しかしニューロンの興奮性の調節が抑制性神経伝達物質のみにより行われているとは考えにくい.そこで第一章では視床下部走行ニューロンによる走行運動の発現に,興奮性神経伝達物質であるグルタミン酸の関与の検討を行った.その結果VMHにグルタミン酸受容体サブタイプの一つであるnon-N-メチル-D-アスパラギン酸(NMDA)受容体の作動薬であるカイニン酸を投与したところ,走行運動が誘起されることが示された.しかし他のnon-NMDA受容体作動薬であるキスカル酸,またNMDA受容体作動薬のNMDAでは走行運動は誘発されなかった.次にカイニン酸とGABAをVMH内に同時投与したところ,GABAはカイニン酸により誘起される走行運動を抑制しなかった.一方VMH内ビククリン投与により誘起される走行運動はnon-NMDA受容体阻害薬の同時投与により抑制された.これらの結果より,VMHにおいてはカイニン酸型グルタミン酸受容体を介して走行運動の発現をもたらすこと,また走行運動発現に関わるVMH内のグルタミン酸の放出はGABAによるシナプス前抑制を受けていることが示唆された.

 従来の知見より歩行・走行運動の制御には大脳皮質を頂点として大脳基底核,中脳,小脳,延髄そして脊髄に至る特定の神経機構が関与していることが明らかとなっている.特に不確帯-視床下核領域(ZI-STH)には視床下核歩行誘発野が,また脚橋被蓋核-楔状核領域には中脳歩行誘発野が存在し,両領域ともに歩行・走行運動の発現に関与する部位であることが明らかとなっている.そこで第二章では視床下部走行ニューロンから発せられる走行運動発現のためのコマンドが両領域に伝達され走行運動に至っているか検討を行った.その結果,片側VMHのカイニン酸投与により誘起される走行運動は,同側のZI-STHをあらかじめ破壊しておくと抑制されること,VMH内カイニン酸投与により同側のZI-STHの多ニューロン発火活動(MUA)が増加すること,さらにZI-STHへのNMDA受容体阻害薬の投与により,視床下部走行ニューロン由来の走行運動の発現が抑制されることが示された.また中脳の脚橋被蓋核ー楔状核領域の破壊により,視床下部走行ニューロンをカイニン酸により刺激したときに引き起こされる走行運動の発現が抑制されることが示された.VMHからの神経投射は同側の視床下核に達していること,一方脚橋被蓋核-楔状核領域には達していないことが報告されている.以上の結果より視床下部走行ニューロンの興奮は同側のZI-STHに伝達され走行運動を引き起こしていること,また視床下部走行ニューロン由来の走行運動発現に関わるZI-STHでの神経伝達にはNMDA型グルタミン酸受容体が関与していることが示された.また脚橋被蓋核-楔状核領域は視床下部走行ニューロンからの興奮を間接的に受け走行運動の発現に関与していることが示唆された.

 運動には循環,呼吸器系などの自律性変化が伴って発現する.またVMHは交感神経中枢の一つであり,特にエネルギー代謝の調節に深く関わっていることが知られている.そこで第三章では視床下部走行ニューロン由来の走行運動にエネルギー代謝の変化が伴って発現しているか検討した.その結果,カイニン酸のVMH内投与により走行運動が誘発されるとともに血糖値および血漿カテコラミン濃度が上昇することが示された.この血中エネルギー基質の増加が,末梢のエネルギー消費の増大が中枢にフィードバックすることにより誘起されるのか,あるいはVMHが運動発現と同時にエネルギー基質供給のための指令を出しているのかを検討した.そのためウレタン麻酔で走行運動発現を阻止した条件下でカイニン酸をVMHに投与したところ,血糖値および血漿カテコラミン濃度の上昇が観察された.これらの結果より,VMH内カイニン酸投与により走行運動の発現と同時に交感神経系が賦活され血糖値が上昇することが示された.

 一方,VMHによる交感神経系の賦活と血漿カテコラミン濃度の上昇にはVMH内ノルアドレナリン作動性機構が関与していることが知られている.そこで無麻酔ラットのVMHにカイニン酸と同時にアドレナリン受容体阻害薬を投与した.その結果,走行運動発現は妨げられなかったが血漿カテコラミン濃度の上昇は抑制された.このことより,視床下部走行ニューロン由来の走行運動に付随して発現する交感神経系の賦活にはVMH内ノルアドレナリン作動性機構が関与していると考えられた.VMHへのノルアドレナリン作動性神経投射は脳幹ノルアドレナリンニューロン群由来であることが知られている.そこでMUAを用い脳幹ノルアドレナリンニューロン群の電気活動を検討したところ,VMH内カイニン酸投与により延髄のA1ノルアドレナリンニューロン群が存在する領域のMUAが上昇することが示された.また片側のVMH内カイニン酸投与により反対側のVMHにおいてもMUAの上昇が観察された.片側のVMHから反対側のVMHへの直接の神経投射の存在は確認されていない.そこでA1に神経伝達の阻害薬であるコバルトを前投与し片側VMHにカイニン酸を投与したところ,反対側VMHのMUAの上昇は抑制されることが示された.これらの結果よりVMH内カイニン酸投与は走行運動を誘発するとともに,脳幹のA1ノルアドレナリン神経細胞群を興奮させること,さらにA1ノルアドレナリン神経細胞群の興奮はVMHにおけるノルアドレナリン放出を増加させ,交感神経系の調節に関与する神経細胞の興奮,そして代謝変化を引き起こしているという仮説が考えられた.

 第四章では,視床下部走行ニューロン由来の走行運動が果たす役割を解明するために,夜行性動物であるラットの暗期自発運動の発現調節に対する視床下部走行ニューロンの関与を検討した.そのため暗期開始直前に両側のVMHにGABAAまたはGABAB受容体作動薬を投与したところ,GABAA受容体作動薬により直後の暗期12時間の自発運動の発現が抑制されることが示された.夜行性の行動発現は概日リズムを形成しており,ラットを含む哺乳類では概日リズムを発信する中枢は視交叉上核に存在していること,また視交叉上核からVMHには直接の神経投射が存在することが明らかとなっている.これらのことより,視床下部走行ニューロンは暗期自発運動の発現に関与していることが示唆された.また視交叉上核から発信された概日リズムは,おそらく視床下部走行ニューロンに伝達され,VMH内のGABAA受容体介して自発運動の概日リズムを形成している可能性が考えられた.

 本論文の結果より,視床下部走行ニューロンはグルタミン酸による興奮性とGABAによる抑制性の調節を受けていること,そしてZI-STHに興奮性の出力を伝達し走行運動の発現を引き起こすとともに,脳内ノルアドレナリン作動性機構を介し交感神経系を賦活し血中エネルギー基質の増加を引き起こしていることが示唆された.また暗期自発運動の発現には視床下部走行ニューロンが重要な役割を果たしていることが示された.

 VMHには様々なホルモン受容体や血糖値の変化に反応する神経細胞が存在している.また視交叉上核や辺縁系からの神経入力も豊富に受けている.おそらく視床下部走行ニューロンはこれらの入力を受容し,動物の基本的な運動である走行運動の発現調節を行うことにより,種や個体の維持に重要な役割を果たしていると考えることが出来る.

審査要旨 要旨を表示する

 視床下部は神経性あるいは液性の情報を統合して自律神経系や内分泌系の機能を調節するとともに,様々な行動の発現を制御することによって内部環境の恒常性を維持している.中でも視床下部腹内側核(VMH)は交感神経系の高次中枢として機能するとともに,摂食行動や性行動の発現調節に関与している.ラットにおいてはVMHに定型的な走行運動を誘起する神経機構(視床下部走行ニューロン)が存在することが見いだされている.本論文は,この視床下部走行ニューロンによる走行運動発現機序やその生物学的意義の解明を目指したものである.緒論で研究の背景や目的を論じた後,第一章で視床下部走行ニューロンの興奮性を調節する神経伝達物質,第二章で視床下部走行ニューロンから走行運動発現に至る神経伝達経路,第三章で視床下部走行ニューロンとエネルギー代謝調節機構の関連,第四章で自発運動の日周性に対する視床下部走行ニューロンの関与をそれぞれ検討し,最後に総括において自発的走行運動の発現に果たす視床下部走行ニューロンの役割に関して総合的な考察を行っている.

 第一章では視床下部走行ニューロンの興奮性に対する興奮性神経伝達物質(グルタミン酸)および抑制性神経伝達物質(GABA)の作用について,それぞれの受容体阻害薬のVMH内投与などにより詳細に検討した.その結果,視床下部走行ニューロンはカイニン酸型グルタミン酸受容体を介して興奮すること,さらにVMHにおけるグルタミン酸の放出はGABAによるシナプス前抑制を受けていることが示唆された.

 第二章では視床下部走行ニューロンから発せられるコマンドの伝達経路について検討を行った.その結果,VMHへのカイニン酸投与により誘起される走行運動は,視床下核歩行誘発野(SLR)の破壊あるいは同部位へのNMDA受容体阻害薬の投与により抑制されることが示された.また中脳歩行誘発野(MLR)の破壊によっても,視床下部走行ニューロンをカイニン酸により刺激したときに引き起こされる走行運動の発現が抑制されることが示された.これらの結果より,視床下部走行ニューロンはSLRおよびMLRを介して走行運動を発現させること,視床下部走行ニューロンからSLRへの神経伝達にはNMDA型グルタミン酸受容体が関与していることが示唆された.

 第三章では視床下部走行ニューロン由来の走行運動中のエネルギー代謝について検討し,カイニン酸のVMH内投与により走行運動が誘発されるとともに血糖値および血漿カテコラミン濃度が上昇することを示した.ウレタン麻酔で走行運動発現を阻止した条件下でも同様に血糖値および血漿カテコラミン濃度の上昇が観察され,走行運動の発現と同時に交感神経系が賦活され血糖値が上昇することが示された.さらに,VMH内カイニン酸投与は走行運動を誘発するとともに脳幹のA1ノルアドレナリン神経細胞群を興奮させることにより交感神経系を興奮させ,代謝の変化を引き起こしていることが示唆された.

 第四章では,ラットの暗期自発運動の発現に対する視床下部走行ニューロンの関与を検討した.その結果,暗期開始直前にVMHにGABAA受容体作動薬を投与することにより直後の暗期12時間の自発運動の発現が抑制されることが示された.概日リズムを発信する中枢は視交叉上核に存在すること,また視交叉上核からVMHには直接の神経投射が存在することが明らかとなっている.これらのことから,視交叉上核から発信された概日リズムはGABAA受容体を介して視床下部走行ニューロンに伝達され,自発運動の概日リズムを形成している可能性が考えられた.

 以上,本論文の結果より,視床下部走行ニューロンはグルタミン酸による興奮性とGABAによる抑制性の相反的な調節を受けていること,そして視床下核や中脳の歩行誘発野に興奮性の出力を伝達して走行運動を誘起するとともに,脳内ノルアドレナリン作動性機構を介して交感神経系を賦活し,血中エネルギー基質を増加させていることが示唆された.また,自発運動の概日リズム発現にも視床下部走行ニューロンが重要な役割を果たしていることが示された.VMHには様々な液性情報に反応する神経細胞が存在するとともに,視交叉上核や辺縁系からの神経性入力も豊富に受けている.視床下部走行ニューロンはこれらの入力を統合し,動物の基本的な運動である走行運動の発現調節を行うことにより,種や個体の維持に重要な役割を果たしていると考えられた.本研究で得られた知見は、哺乳類の運動発現機構に関する比較生物学的理解を深めるとともに、伴侶動物の問題行動の防止などにも貢献するものと考えられ、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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