学位論文要旨



No 216100
著者(漢字) 芳賀,満
著者(英字)
著者(カナ) ハガ,ミツル
標題(和) セレウコス朝アンティオコス4世の奉献政策に関する研究
標題(洋)
報告番号 216100
報告番号 乙16100
学位授与日 2004.10.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16100号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 青柳,正規
 東京大学 教授 櫻井,万里子
 東京大学 教授 小佐野,重利
 東京大学 教授 逸身,喜一郎
 名古屋大学 助教授 周藤,芳幸
内容要旨 要旨を表示する

 本論文ではアンティオコス4世(在位前175年−164年)によるギリシア都市や聖域への奉献政策を美術史学、考古学、建築史学などの観点から研究した。同王を対象としたのは、セレウコス朝は研究が遅れており、一方で同王に関連する遺構が多くあることや、1966年のO.Morkholmの同王に関する単行本以来、この代表的なヘレニズム王の総合的研究が欠如しているからである。

 ポリュビオスはアンティオコス4世がオリシピエイオンを奉献したと述べる。第2部では、オリンピエイオンに文献と造形の観点から考察を加え、さらにこの神殿の建築家としてコッスティウスが選ばれた理由として、長大なスパンを架ける能力や重い部材を起重する土木能力だけでなく、遺構の基準尺度に関する分析から、彼個人の高度な設計能力ゆえであることを示した。

 オリンピエイオン奉献の意図としては、アテナイがいまだ中心的な「ショウウインドー」であったこと、王は自身をギリシア的なるものの代理と自負しており、その背景には王とアテナイとの様々な密接な関係があったことを指摘した。また同市はアッタロス朝からも多くの奉献を受けており、このような状況に対応して王はオリンピエイオンを奉献したのである。

 第3部では、アテナイのパルテノン内部や神像台座の再建をアンティオコス4世に帰する説を否定し、考察から除外することを確認した。

 第4部ではレバデイアの山頂の未完ゼウス神殿を扱った。これをアンティオコス4世の奉献とする説や建立を前3世紀とする説がある。筆者は、この神殿の建築契約碑文は前3世紀末に年代決定され、建立の主体はボイオティア同盟であったと考える。だが神殿は未完のまま前2世紀前半まで放置された。

 現地調査により神殿は山頂北西端まぎわの劇的な位置に聳えたことが確認できた。碑文からは内部にアプスがあることが判る。ゆえにこの神殿はヘレニズム時代に特徴的な建築だと指摘できる。アンティオコス4世がボイオティア同盟を重視し、神殿を完成させようとした可能性は、歴史的・地理的背景や他の碑文史料から蓋然性が高い。

 第5部では、オリンピアのゼウス神殿西破風の彫刻の修復及びダモフォンによる神像の修復がアンティオコス4世によるとする説、同神殿へ「アンティオコス」が絨毯を奉献したとするパウサニアスの記述、同神像の等大コピーをアンティオコス4世がダフネに建造したと古文献を解釈する説を検討し、考察から除外することを確認した。

 アンティオコス4世がメガロポリスに城壁を、テゲアに劇場を奉献したとリウィウスが伝え遺構も現存する。両都市はアカイア同盟の重要な構成都市であるゆえに奉献を受けたので、第6部で同盟の歴史の詳細な考察を行い、両奉献の年代を前169/8年冬以降前164年以前と決定した。

 第7部で扱うテゲアの劇場は、ギリシア世界の為に戦い前183年に戦死したフィロポイメンの像と顕彰碑文の横に、奉献された。王はこれによりギリシア世界の理解者、保護者、後継者としての姿を印象づけようとしたのではないか。

 ヘレニズム王による劇場奉献事例を考察すると、エウメネス2世による例が多く、かつ同王の在位最末期に集中することが判る。これはアンティオコス4世のテゲアの白大理石製の劇場への強いライバル意識ゆえである。テゲアの劇場の4−8年後に奉献されたロドスの白大理石製の劇場はその好例である。

 第8部ではメガロポリスの城壁を扱った。同市はアルカディア同盟の中心地及び対スパルタ防衛線の要として創建されたが、その地形は防御に適しない。これは致命的な欠陥であり、その為に城壁が極めて重要であったことを同市の歴史を辿り明らかにした。この問題を踏まえてアンティオコス4世は奉献を行ったのであり、王が奉献対象の事情を十全に把握していたことを示す。

 第9部で扱うミレトスのブーレウテリオンは、碑文から王アンティオコス4世の名においてミレトス人兄弟によって奉献されたことが明らかである。

 ミレトス街路網の発展段階の中において考察すると、ブーレウテリオンはそのヒッポダモス式都市計画の中に明確に位置づけられた。都市空間の中における聖(デルフィニオンと北アゴラ)と俗(南アゴラ)との間に、聖俗相半ばする政治(ブーレウテリオン)を設置するという意図も明らかとなった。

 ブーレウテリオンの平面プランは、軸線を強調した前2世紀以降特有の最新のプランに則り、プロピュロンから中庭、議会場へと進む軸線上において、外観と内部空間の意外な展開を繰り返す。これは極めてヘレニズム時代的な空間構成である。

 プロピュロンをギリシア・ローマ世界の既知のプロピュロン全般の中に、その柱頭をコリントス式オーダー全般の中に位置づけた。中庭とその周柱廊を、既知の囲まれた空間と入口の関係の中に位置づけ、その類例が小アジア地方、特にペルガモンにあることを示した。議会場外壁角柱の柱頭及び内部の柱頭の類例もペルガモンに多い。ブーレウテリオンの職人のアッタロス朝造形文化圏との密接な関係から、表面上では対立しても造形言語のレベルでは緊密であるという、国際関係の多層構造が伺えた。

 さて、従来ブーレウテリオンの奉献の意図はセレウコス朝の威信の発揚であるとしか解されなかったが、筆者はセレウコス朝、アッタロス朝、ミレトス、ローマの間の国際関係にその理由を求めた。

 先ず、アンティオコス3世と4世の臣下のプロソポグラフィーによる研究から、王朝行政機構に採用されたギリシア都市の政治的エリート、特にミレトス人の登用が、アンティオコス4世の時代から急激に多くなることを示した。ミレトスがまさに同王の時代から重視されるのは、当時、エフェソスがアッタロス朝の支配下になった為に、セレウコス朝の「外港」としてのミレトスの重要性が高まり、これを堅持する必要があったからである。同王がミレトスに関税免除の奉献をも行ったのは、この「外港」を効率的に同王朝と結びつける為であった。

 ではなぜブーレウテリオンか。先ずヘレニズム諸王が奉献した既知の建物は計156例あるが、ブーレウテリオンはこのミレトスの1例のみであることが確認された。

 この特殊な建築タイプを敢えて選ぶには、王のある明確な奉献意図があった筈である。市民の市政への参加の奨励だとの説もあるが、ではなぜ王は他国でそれを行うのか。それはミレトスが、セレウコス朝にとっての、特にローマとの間の、外交装置あるいは媒介装置であったからである。

 ミレトスはローマとの間に堅固な友好関係を既に築き上げていた。アンティオコス4世はこの関係をセレウコス朝の為に利用しようと、ミレトス人を多く採用したのである。上述のプロソポグラフィー研究から、同王の外交使節6人中の4人がミレトス人であり、同王の外交では特にミレトス人が活躍し、さらにその4人全員が対ローマの為の使節であったことが傍証である。

 これらの外交使節の出身ポリスの独立自治と繁栄こそが、セレウコス朝の外交に益する。ポリスは同王朝にとって貴重な、特に外交使節を募る為の人的貯水池であった。即ち、自由都市国家ミレトスが独立と自治を保ち繁栄し、セレウコス朝とは別にローマと友好関係を保ち続け、セレウコス朝とローマの関係如何に関わらず両者の架橋となることが、アンティオコス4世の利益となった。この為にこそポリスの独立自治を司るブーレウテリオンを王は奉献したのである。

 キリキア地方オルバのゼウス神殿をアンティオコス4世の奉献とする説を第10部で扱った。同地方ではセレウコス朝とプトレマイオス朝とが鬩ぎ合うが、前者による支配には2回のピークが存在する。王朝創生期とアンティオコス4世によるキリキア重視政策の時期であり、それに応じ存在意義が一際高まった境界上の都市オルバのゼウス神域には、両ピークに対応してセレウコス朝によって神域周壁と神殿が造られた。

 神殿の建立年代は前4世紀から後2世紀までの各説があるが、柱頭、柱礎、柱身の造形から前2世紀前半から中頃に年代決定しまたアレクサンドリア造形文化圏の影響が強いことを確認した。

 奉献者としてはアンティオコス4世説とバラス説が有力だが、筆者は歴史背景から後者の可能性を否定する。キリキア地方の重視政策、コリントス式柱頭の外部への採用等の諸理由からアンティオコス4世がエジプトの職人を使って神殿を建造したのではないかと考える。

 アンティオコス4世の奉献の可能性を網羅するために、一覧表に列挙しながらも検討していなかった17の事例を第11部で検討した。

 アンティオコス4世はアンティオキアにブーレウテリオンを建設した。これは奉献行為ではないが、国際関係を反映した同王の建立意図を検証する為に第12部で採り上げた。

 第13部では総括を行った。奉献の豪華さと気前のよさを讃えたリウィウスの記述を除くと、弾圧者あるいは愚か者(epimanes)としてアンティオコス4世の従来のイメージは悪い。しかし奉献行為などの対外的活動にみる王の政策は国際関係を正確に把握した冷静で的確なものであり、王は有能な国際的な政治家であったことが、本論文によって明らかとなった。

 大転換が起こりつつあったローマとギリシアを知悉し、それらと密接な関係を有した稀有なヘレニズム王であるアンティオコス4世は、ローマの強さをよく知っていた。その勢力が東方に伸張してきた時代の国際関係の中を王は懸命に生き抜いた。同じく懸命なギリシア諸都市の希望や切迫した要求を実に良く理解しそれに応えようと、彼自身も必死に奉献の手を差しのばす王の姿を見ると・そこには王朝の威信の発揚とか政策意図以上のもの、ギリシア世界への深い理解と愛情をみることができる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、これまで包括的な研究を欠いていたセレウコス朝シリアのアンティオコス4世(在位前175年-164年)によるギリシア都市や聖域への奉献政策に関して、美術史学、考古学、建築史学などの観点から研究し、それを通してヘレニズム時代の国際関係をも考察した大部の労作である。

 このため、王による各種の奉献事例の真偽を検証した上で、彼の奉献政策全般を見渡すという手順を踏む。アテナイのオリンピエイオン、レバデイアの山頂の未完ゼウス神殿については文献史料と考古学的遺構から、王による奉献事例であると確認する一方で、従来は同王の関与の可能性が提唱されていたアテナイのパルテノン内部や神像台座の再建、オリンピアのゼウス神殿神像や西破風の修復、同神殿への絨毯の奉献、同神像の等大コピーのダフネへの建造などについては、奉献説を否定する。

 また、アンティオコス4世はメガロポリスに城壁を、テゲアに劇場を奉献したことが知られている。本論文では、両都市がアカイア同盟の重要な構成都市であるゆえに王からそうした奉献を受けたことを指摘し、同盟の歴史の詳細な考察を行うことにより両奉献の年代を前169/8年冬以降前164年以前と決定づけた。同時に、テゲアの劇場がフィロポイメンの像と顕彰碑文の横に奉献されていることに着目し、王はこれによりギリシア世界の理解者、保護者、後継者としての姿を印象づけようとしたのであると論ずる。また、メガロポリスの城壁は、その欠如および脆弱さがギリシア世界に広く知られた同市の致命的な欠陥であったことを同市の歴史を辿り明らかにする。つまり、アンティオコス4世はこの懸案の課題を考慮して、同市に奉献を行ったのであるとし、奉献に際し、王は奉献対象の事情を把握していたと主張する。

 ミレトスのブーレウテリオンについては、とりわけ考古学的観点から考察を行い、これをギリシア建築史の中に位置づけた。これにより、ブーレウテリオンの職人のアッタロス朝造形文化圏との密接な関係が明らかとなるが、セレウコス朝とアッタロス朝は対立しても、造形言語のレベルでは両朝には緊密な関係があったとし、国際関係の多層文化構造を浮き彫りにする。また、ミレトスにブーレウテリオンを奉献する王の意図は、セレウコス朝の威信発揚のためだけでなく、それがセレウコス朝、アッタロス朝、ミレトス、ローマの間の微妙な国際関係から生まれたことをみごとに論じた。

 キリキア地方オルバのゼウス神殿はその造形的特徴から前2世紀前半から中頃の建造であるとして、アレクサンドリアの造形文化圏の影響が強いことを確認する。そして、奉献者はアンティオコス4世で、同王がエジプトの職人を使って神殿を奉献したと論ずる。

 結論として、アンティコス4世の奉献政策が当時の国際関係を正確に把握した冷静かつ的確なものであり、王はギリシア世界を深く理解した有能な国際政治家であったことが明らかにされた。

 膨大な文献・考古学的資料を用い、煩瑣な論文構成をとるため論旨に明快さを欠くきらいはあるが、本論文はヘレニズム時代の考古学、美術史に大きく貢献する内容を含んでおり、西洋の学界にも貢献する部分を有している。よって、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしい水準に達しているものと判断する。

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