学位論文要旨



No 216101
著者(漢字) 関口,順
著者(英字)
著者(カナ) セキグチ,ジュン
標題(和) 儒学のかたち
標題(洋)
報告番号 216101
報告番号 乙16101
学位授与日 2004.10.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16101号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川原,秀城
 東京大学 助教授 小島,毅
 東京大学 講師 李,承律
 東洋文化研究所 教授 丘山,新
 千葉大学 助教授 古勝,隆一
内容要旨 要旨を表示する

 本論文が明らかにしようとしているのは、前漢末から清末までの時期の中国を支え主導した文化・政治・社会全体にわたるイデオロギーの構造(かたち)である。そのイデオロギーは、経部著録の書籍(経)を解釈する学問(経学)を、その根幹としている。この意味で、そのイデオロギーを「儒学」と仮称した。清末に至るまでの歴史の展開を見据えながら、儒学の形成期に焦点を合わせ、その構造を解明するのが本論文の主旨である。

 一言付け加えると、そのイデオロギーが機能した主体でもあり場でもある「中国」という枠組自体をどう捉えるかという問題が、論述の進展にともなって顕在化してきた。しかし、この問題については、問題性の指摘に止め、集中しては論じていない。

 章立ては以下のとおりである。

   一章:儒学の形成

   二章:天と人との相関

   三章:天下の構造

   四章:道の行われた時代

   五章:儒学の経書とは

   付章:文献案内

一章は総論であり、本論文の主旨が展開されている。二章から五章では、構造を形づくる各要因について詳細な検討が行われ、かつそれらの視点からする若干の思想史的考察が述べられている。以下、章ごとに分けて要旨を記すこととする。

【一章】

 孔子の没後、弟子たちが緩やかな学派をつくっていたことは知られている。戦国時代の中頃からその学派を「儒」と呼ぶようになったらしい。これまで孔子学派の人物は、孟子や荀子などの思想家(遊説家)タイプの者だけが著名であり、詩・書・礼・楽を講習するタイプの人物はほとんど注目されて来なかった。これら無名の孔子学派(儒者)の人々を『荘子』や『史記』の呼び方に従って「縉紳先生」と総称することにする。

 これら縉紳先生は、戦国時代後期には詩・書・礼・楽に易と春秋をも加え、新たな観念装置を案出しそれらに儒者特有の学術という性格づけを施した。その具体的活動は、詩・書・礼・楽・易・春秋(芸=術、経=テキスト)を解説しその意義を説く文献−−「伝」として概括される−−を数多く作り、その過程で、道の哲学や陰陽の気論など重要な思想を派外から受容したことである。それらは、経・芸の解読・解釈という形式により自己のものとして主張され、儒者の思想体系となった。一方で、縉紳先生は、それらの思想内容を文化・政治・社会全体にわたるイデオロギーとして構造化していく諸観念をも、長い時間かけて徐々に整備していた。それらの諸観念とは、天人、天下、三代である。

 天人とは、人間社会またはその社会に生きる個々の人が、天道のしめす道理に倣い従って己を完全化するよう天に関係づけられたことである。その際、その天は人倫や礼を基礎とする社会(=人)の完全態を投影したものとして立てられていることが条件となる。これが、戦国時代の思想家たちの深めた天と人の思索を受け継いだ縉紳先生が創出した、新たな天人の相関関係なのである。

 天下観念そのものは縉紳先生が作り出した観念ではない。天下と国との関係構造の定着についても、重要な働きをしたのは司馬遷の『史記』である。縉紳先生の働きは、それらの所与の政治−社会認識を新たな天人関係の天に即して理解し、経・芸の解釈という方法を通して天下を堯や舜のとき以来の王道政治の行われる場としたことである。

 夏・殷・周、または唐・虞も含めた唐虞三代は、前漢末から清末まで二千年にわたり、聖人の道の行われた理想的な時代と信じられていた。そこでは、「周の衰えて」から後が道の失われた時代と見なされ、二つの時代は質的に断絶する。縉紳先生はこの「道の行われた唐虞三代」という観念を徐々に確立していったのである。

 前漢武帝のとき博士制度が改革され、縉紳先生たちは制度的に博士の官に登用されて、詩・書・礼・易・春秋の学問が公的に教授されることになった。この効果は数十年のうちにはっきりしてきた。つまり、中央政界(おそらくは地方も)に詩・書等の教養を身につけた官人が増え、反面、諸子の思想は凋落したのである。その頃の詩・書等の学問は、戦国末から前漢初の頃に行われていた観念装置を一歩進めた「先王の術である六芸を孔子が編纂した」という観念で理解されていた。そこで、先王の遺した六芸は、新たな天人相関関係にもとづき、聖人(聖王)の働きにより天の道理を人に開示したものという位置づけを与えられた。また、唐虞三代との断絶観が広く社会に受け入れられてくると、孔子が編纂した六芸は、三代の盛時を今にもたらす唯一の手掛かりとして特別の位置を得た。

 これらの状況の下、戦国時代以来の儒者と詩・書等六芸との関係が変わる。つまり、六芸は、戦国時代の一学派である孔子学派特有の学術などではない。先ず第一に、歴史上確かな実在である唐虞三代の聖王の事跡・天に則った天下統治の実績なのである。孔子は道の失われた時代にあって、それらの遺産を編纂整理し、後世に伝えてくれたのだ。

 これによって儒者は先王の道・礼(文明、つまり中華)の継承者の位置を得、儒学が文明の具体内容となったのである。儒学は、二千年にわたり、このような文化論的役割を果たした外、政治的には現実の皇帝を主とする支配体制(国政)の正統性を理論づけ、社会的には人倫秩序や家族道徳を維持し向上させる機能を担っていた。

 その学説内容は、諸認識の基盤をなす天道観、政治思想としての王道政教論、士大夫知識人のあり方を深める修養論、家を主対象とする人倫と礼の社会論に分けて理解できる。

【二章】

 孟子や荀子などの儒者は、民を尊重する論とはべつに、人倫や礼を人の人たる所以として重視していた。縉紳先生は、その新しく思想的意義を得た人の概念を基盤として、新たな天人相関関係を創出したのである。つまり、諸子の思想活動をへて複雑化した天道の天を、その新たな人概念の根拠として定立した(表象した)。そこで、表面上の論理としては、天の道理が人間界の規範(礼など)となり、また天は(人へと向上させる)民の教化を王に対して命ずる存在になった。

 儒学が「天人の一致」「天の回復」を基本論理としているのは、このためである。

【三章】

 天下概念は戦国時代の始まりとともに生じたのだが、すぐに過去へとその概念が遡って適用され、上古から天下が存在することとなった。天下の観念と、上古からの万国の存在、戦国時代の複数国の並立状態という現実とが相俟って、<天下・国>構造が成立する基盤ができた。それに事実具体性を付与し明確に定式化したのは『史記』である。司馬遷自身は縉紳先生でないが、六芸が天下を場として働く包括的イデオロギーとして機能するため、『史記』は実に大きな役割を果たした。それで、正史を軸に形成された伝統的史学も、儒学の中に位置を占めることになったのである。

【四章】

 唐虞三代を道の行われた時代と見る考え方は、戦国時代を通じてどこにも見当たらない。それは、縉紳先生のなかの礼楽派が夏・殷・周の礼を意義づけるために、浸透しつつあった新たな天人相関の思考にもとづき、荘子学派の主張していた「古の道の全き時代」という観念を取り入れた動きに始まるだろう。三代を一つのまとまった時代として理想視する観念の形成は、六芸全般にわたる経書観(経書たるべき特性の認識)の形成過程と絡み合いながら進行し、前漢末にはほぼ完了していた。道の行われた唐虞三代なる観念は、儒学イデオロギーに一種の歴史性を持たせるとともに、その包括的な構造を成り立たせる大きな要因であった。

【五章】

 詩・書は古い文献であり礼・楽とともに一般社会で広く学習されていたが、社会の変動にともない、学習の社会的需要は減少した。しかし、孔子学派(儒者)は講習を続けていたのみか、戦国時代の後期には易と春秋とを加え、それら詩・書・礼・楽・易・春秋を「先王の術」もしくは「孔子の編纂」の観念の下に意義づけまとめる観念装置を案出した。これにより、詩・書・礼・楽・易・春秋は孔子学派特有の学術と見られるようになった。

 思想内容面では天人・天下・三代などの諸観念の確立があり、社会的には博士の教授するところとなり、その状況下で、詩・書・礼・(楽)・易・春秋は孔子学派を超えた<文明そのもの=文化的アイデンティティ>を担うテキスト群(経、経書)へと脱化したのである。

【付章】

 文献案内なので、要旨紹介は省略する。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は著者が約40年に及び古代中国思想を専門に研究してきた多彩な成果を、その専門家以外の研究者にもわかるような形で平易に提示したものである。すでに同名の著書として、昨年(2003年)、東京大学出版会の東洋叢書の1冊として公刊されている。

 本論文は本論5章と付章(文献案内)とから成り、構成上、各章の内容が有機的で緊密な関係を相互に持つように工夫されている。第一章「儒学の形成」では、旧来の通説において安易に想定されていた孔子の歴史像を再検討し、孔子以後に儒学という学派が形成されていく様子が最新の研究成果を盛り込みながら活写され、本書全体の総論的な役割を果たしている。第二章「天と人との相関」では、中国思想において重要な位置を占める<天>の概念を<人>との関わりのなかで考察し、戦国時代から漢代にかけての展開が明らかにされる。第三章「天下の構造」では、<天下>という語の起源がなお未詳であることを指摘したのち、司馬遷『史記』を例に、漢代におけるこの概念の意義が論じられる。第四章「道の行われた時代」では、夏殷周の三代が儒学のなかで理想の時代として仮構・定着されていく経緯が解説される。第五章「儒学の経書とは」では、漢代において儒学が経書を定めることによって思想界の主流となっていく様相が述べられる。付章は内外の中国思想研究史を、代表的な著作を批評しながらまとめたもので、著者自身の立場を明示する役割を果たしている。

 このように、本論文は戦国時代から前漢末、すなわち西暦紀元前4世紀から後1世紀にかけての中国思想の動向を、儒学のかたちが成立した過程に焦点を合わせて叙述し、縉紳先生への注目や、天下観念・三代観念などについて、旧来の通説的理解に対する著者の創見を随所に示している。古代中国思想研究は、研究テーマの細分化や出土文物など利用史料の特殊化といった傾向により、同じく中国思想を専門としている者にとってすら理解するのが困難になってきている。著者はその現況を平明な文体でわかりやすく紹介し、そのうえで自説を展開するという叙述方法を採っているため、本論文が学界に裨益するところは大きい。

 しかし、その一方で、いくつかの問題点も存する。著者は本論文を「儒学のかたち」と題し、儒学の構造的特質を提示することを目的としたとするが、その叙述は上記のように特定の時代を対象として思想史的になされている。また、当該時期に形成された緯書の思想に対する分析がないため、叙述の厚みに欠ける憾みがある。三代観念についても、それが生成していった過程を史料に沿って整理する作業は充分なされていない。このように、本論文には学術的な問題点も若干残るが、今後の学界全体の展開のうえで果たす役割は大きい。

 本委員会は、著者が長年の研鑽の成果として本論文を提出したことを高く評価し、本論文を博士(文学)の学位を授与するにふさわしいものと判断する。

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