学位論文要旨



No 216124
著者(漢字) 北田,暁大
著者(英字)
著者(カナ) キタダ,アキヒロ
標題(和) 責任と正義 : リベラリズムの居場所
標題(洋)
報告番号 216124
報告番号 乙16124
学位授与日 2004.11.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(社会情報学)
学位記番号 第16124号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉見,俊哉
 東京大学 教授 花田,達朗
 東京大学 教授 姜,尚中
 東京大学 教授 濱田,純一
 東北大学 教授 川本,隆史
内容要旨 要旨を表示する

本論文の主要課題は、「等しきものは等しく」という正義の黄金律に価値を見出す政治・社会思想(リベラリズム)を、社会学的・政治哲学的・コミュニケーション論的な視点から再検討し、その可能性と限界とを測定する、というものである。カルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアル研究、フェミニズムなどによって展開されているリベラリズム批判(自己決定概念や責任概念の問題など)を真剣に受け止めたうえで、「ポスト近代」と呼ばれる現代社会にふさわしいリベラリズムのあり方(高度に複雑化した社会における適切な「正義コミュニケーション」の理論的位置づけ)を模索し、より具体的な規範論的コミュニケーション研究(コミュニケーション文化論、ジャーナリズム論、メディア論など)の基礎理論となりうるものを提示しておくこととしたい。依拠する主たる方法論・ディシプリンは英米哲学系の行為論・コミュニケーション論と、ニクラス・ルーマンが提示する社会システム理論であるが、必要に応じてそれ以外の学問的ツールも援用していく。

 第一部では、行為の責任という倫理的事象を、英米系の行為の哲学や、社会システム論などの知見を参照しながら分節化し、本論が提示する「社会化された責任理論」の内実をあきらかにすると同時に、その理論的限界を画定していく。この課題を達成するために我々がまず着手すべきは、一般に「行為単位の同定問題」などと呼ばれる社会学基礎論的な問題である。「社会の最小構成単位は何か」「仮に最小構成単位が行為だとして、それはどのように同定されうるのか――一見些細に見えるこうした問いこそが、ある社会理論が下すマクロレベルでの社会診断の内容を規定していると私は考えている。そこで第一章では、責任概念の具体的検討に先立ち、このミクロ-マクロ連関のあり方を、ユルゲン・ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論とニクラス・ルーマンの社会システム論を対照させながら、追尾していくこととしたい。ハーバーマス的な行為理論が前提とする同定理論の抱え持つ内在的難点、およびその難点が帰結する社会診断の問題性をあぶり出し、ルーマン流の構成主義的行為観を採用することの認識利得を確認していく。

 続く第二章では、第一章で検討された構成主義的な行為(同定)理論にもとづき、「行為者の意図をもとに行為の責任を確定しようとする行為者中心主義」「コミュニケーションの《現場》から離れて行為の責任を特定化しようとする行為理論の非時間性・脱文脈性」に批判的な距離をとる責任理論を提示する。まずは、第一章で批判的に扱ったハーバーマス的な行為理論(および、多くの社会学的行為理論)が前提とせざるをえない責任についての考え方を「弱い」責任理論、構成主義的行為論によって導き出される責任観を「強い」責任理論と呼び、後者の理論的優位を確認したうえで(第一節)、「強い」責任理論とポストモダン政治学・倫理学との共闘可能性を検討していく。《行為者中心主義的な行為理論―弱い責任理論―近代リベラリズム》のトリニティを再審にかけ、社会化された責任論を彫塑していくこと――それこそが第一章〜第二章二節までの主要課題である。

 しかしながら、構成主義的な行為観に立脚した「強い」責任理論は、それ自体として何らかの「よき」行為や「よき」信念の所有を動機づける倫理理論たりうるのだろうか?むしろそれは、我々の帰責コミユニケーションを記述するだけの事実確認的な叙述にすぎないのではなかろうか?物象化論に対してしばしば投げかけられるこのような疑念、換言すれば、《(*)「強い」責任理論は、それ自体として道徳的行為・態度選択の指針を与える規範理論たりうるのだろうか?それは実は、責任帰属にかんするコミュニケーション論的・語用語論的事実を説明したものにすぎないのではなかろうか?》という疑念を、第一部の最後に呈示しておくこととしたい。

 第二部では、こうした疑念(*)を、第一部とは異なる角度から検討していくこととする。

 まず第三章では、(*)の疑念を、存在/当為をめぐる古典的な問題設定に倣い、《(**)「責任は応答する人―間関係において構築される」という社会的事実の認識(関係性テーゼ)から、「他者/人―間関係を尊重せよ」という当為命題を導出することができるか》と読み替えたうえで、「強い責任」理論の倫理理論としての不自然さを明らかにしていくこととしたい。「責任がある」のを認めることと「責任をとる」こととの懸隔とでもいえようか。ともかくも、そうした存在/当為のあいだの溝を埋めるのは容易なことではない。容易でないにもかかわらず、「強い」責任理論や少なくない社会理論は、そうした作業が可能であると自認している。かかる自認が誤認にほかならないこと――社会的なるものへの懐疑を払拭しきれないこと――を確認しつつ、道徳的・社会的制度にコミットするという行為・態度の特異性を明らかにするのが第三章の課題である。

 続く第四章では、(**)の問いに徹底して「否」と応答する他者、「なぜ道徳的でなければならないのか」と誠実に問う他者(《制度の他者》と呼ばれる)を、社会的な協同空間に誘い込むことが可能であるかどうかを、契約論的な方法論を採りつつ精査していく。この契約論は、《制度の他者》を、「ある程度の合理性と道理性(共感能力)を持ち、他者に対する道徳的配慮をなすことができる存在(《リベラル》)」にまで仕立てあげていく(説得していく)というものであるが、間違ってならないのは、この契約論がすべての可能的契約者たちを《リベラル》化することを目指してはいないということだ。むしろ、我々は、契約交渉・説得作業の過程のなかで、数多くの「脱落者」たちの存在を確認することとなろう。この契約論の眼目は、非常に理に適った(reasonable)形で《リベラル》となることを拒む他者たちの存在を確認し、《リベラル》的な人格類型の特殊性・特異性を浮かび上がらせることにある。

 第三部では、本論文の主題である自由主義論を本格的に展開していく。

 まず第五章一節・二節では、さしあたって合理性と道理性を帰属されうる《リベラル》たちに話を限定し、その《リベラル》たちが公的ルールを優先する自由主義的な政治社会を形成しうるか(形成しうるとすればその条件はいかなるものか)という内向きの問題を検討する。そこで確認されるのは、《リベラル》であることと《自由主義者》であることとの微妙ならざる差異である。《リベラル》たちは、第四章で展開された交渉の後も「他者に悪を及ぼさないかぎり、自由に善を追求する権利」を手放してはいないわけだが、その自由権を実効化するうえで必要な正当化原理をすべての《リベラル》が承認するわけではない。つまり、かりにすべての人が、他者への共感能力(合理性)と長期的自己利益を配慮する能力(道理性)を備えていたとしても、必ずしも自由主義な政治体制(自由権+正当化原理)が実現するとは限らないのだ。したがって、自由主義は、非《リベラル》たちはもちろんのこと、公的ルールの優先性を承認しない非自由主義系《リベラル》たち(物理的に弱いが意志的に強い者)を排除することなく、その基本理念を実定化することはできないということになる。五章三節ではこの根源の事実を、現代自由主義思想の旗手であるロールズ、ノージックがどのように処理しているのかを確認していく。

 続く六章では、五章で批判的に検討された「自由権+正当化原理」というミニマムなリベラリズムが、(1)非《自由主義者》の存在を棚上げし、仮に全域性を持つ《法=規準》として採用された場合、どのような政治制度が可能になるのかを論じたうえで、(2)そうしたリベラリズムが自らの外部(非《自由主義者》)とどのような関係性を取り結びうるのかを考察する。要するに、リベラリズムの内部の作動原理―最小限のリベラリズムは再配分指向的な制度たらざるをえないことがあきらかにされる―と、その内部が外部に対してとりうる政治的措置―責任の免除など―について論じていく。我々の考えるリベラリズムは、再配分的政策を支持するとともに、リベラリズムにコミットしていない非《自由主義者》に対する保障措置を講ずるという点で、リバタリアン的な発想の対局に位置するものであることがここであきらかにされるだろう。しかしもちろん、ノージックの独立人問題(五章三節)と同じように、保障措置の実施はリベラリズムの全域性を担保するものではない。かくして我々は、リベラリズムを「論証的」に正当化することの限界を再確認することとなる。

 第四部(第七章)においては、リベラリズムを擁護する話法の転換、リベラリズムの「論証的」正当化にかわる「社会学的」正当化とでも呼ぶばれるべき語り口への転換の必要性が論じられる。そこにおいて我々は再度ルーマン的な社会システム理論による近現代社会診断に立ち戻ることとなる。正当化原理に支えられた自由を可能なかぎり保証することを目指す我々のリベラリズムは、六章までの議論において採用されていた哲学的・形而上学的な「論証」によってではなく、システムが高度に分化した近代―現代社会において―個々人の自由を最大限に尊重しつつ――行為責任のインフレを独特のやり方で収束させる装置として、「社会学的」あるいは「機能主義的」に擁護される。やや比喩的な言い回しをするなら、リベラリズム=正義論は、もはや国家と呼ばれる規範作用圏に対する全域的妥当性を主張する「逞しき」理念たりえず、むしろ政治・経済・法・教育…といった分立するサブ・システムおよび生活世界(道徳)に位相学的に浸潤しつつシステムや道徳とは異なる責任処理の方法論を提示する一つの社会的道具、システムや道徳による責任処理によっては看過されがちな個人の自由権を尊重する責任処理メカニズムとして、その哲学的身分を相対化されるのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は副題の通り、リベラリズムの社会学的かつ規範‐倫理学的な成立可能性を、社会学的構成主義と現代倫理思想を縦横かつ精密に架橋しながら明らかにした力作である。

 第一部は、行為の責任という倫理現象を、英米系の行為哲学と社会システム論の知見を深く取り入れながら分析し、これまで社会理論では個人化・非社会化されることの多かった責任概念を社会学的構成主義の観点から再構成する。第一章では、ハバーマスのコミュニケーション的行為論とルーマンの社会システム論の対照から、社会の最小構成単位を行為の自同性に求めるのではなく、むしろ行為をコミュニケーション的構成物とみなす後者の認識利得が説得的に示される。第二章では、そうした構成主義的視点から、「行為者の意図のもとに責任を確定する行為者中心主義」と「コミュニケーションの〈現場〉から離れて責任を特定化する行為理論」に批判的距離をとる責任概念が示される。ここにおいて、他者性・差異・承認の政治学などのポストモダン的諸潮流と著者の責任概念との認識論的通底性が明示されるが、そうした立場が当為の規範理論たり得ないことも問題化される。

 第二部では、最後の論点、「責任は応答する関係性において構築される」という認識と「他者/関係性を尊重せよ」という当為を架橋する困難が焦点化され、〈リベラリズム〉が成立しうる倫理‐社会理論的な水準が明かされる。すなわち第三章では、この架橋の困難を従来の社会理論がいかにやり過ごしてきたかが示され、第四章では、そもそも「道徳的である」理由を見出せない〈制度の他者〉に対する説得交渉=契約論の可能性が詳細に検討される。

 第三部は、本論文のとりわけ要となる論考であり、以上のように〈社会的なもの〉への懐疑の末に〈リベラル〉の規範的局所性が示されたことを踏まえ、社会理論・政治体制としての〈自由主義〉の内的な構造と限界がロールズやノージックの批判的検討を通して明らかにされる。五章では、自らの善を自由に追求しつつ他者への共感能力と長期的自己利益を配慮する能力を備えた〈リベラル〉たちから、どのような排除の操作を経て自由主義の政治空間が析出してくるかが示され、第六章では、そうした自由主義が全域的な〈法=規準〉となる場合、自らの外部の非〈自由主義者〉とどう関係を結びうるのかが論じられる。

 最後に第四部(第七章)では、再びルーマンの社会システム論の地平から、高度に機能分化した現代社会で、行為責任のインフレを収束させつつシステムや道徳とは異なる仕方で責任処理する装置として、リベラリズムがいかに相対的に擁護可能かが示されている。

 本論文の性格から、審査委員会は社会情報学、社会学、法学、政治学、倫理学等の専門領域を熟知した委員で構成されたが、全委員から卓越した学術論文としてきわめて高い評価が得られた。社会学的構成主義の射程を正確に見極め、リベラリズムの限界と可能性を最後まで論理内在的に究明し尽くしている点、また論理に一切のごまかしがない点に、著者の高度な学問能力が凝縮されている。議論が抽象的でやや記述が煩瑣であるなど改善すべき点はあるものの、そのことが本論文の評価をいささかも貶めるものではない。よって審査委員会は、本論文が博士(社会情報学)の学位に値するものであるとの判断に達した。

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