学位論文要旨



No 216133
著者(漢字) 小松(児美川),佳代子(佳代子)
著者(英字)
著者(カナ) コマツ(コミカワ),カヨコ(カヨコ)
標題(和) J.ベンサムにおける社会統治論と教育 : 社会構成原理としての近代学校を問うために
標題(洋)
報告番号 216133
報告番号 乙16133
学位授与日 2004.12.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 第16133号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 汐見,稔幸
 東京大学 教授 土方,苑子
 東京大学 教授 川本,隆史
 東京大学 教授 金森,修
 東京大学 教授 小川,正人
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、ジェレミー・ベンサムの立法論・施設経営論・教育論等を検討し、ベンサムの社会統治論において教育がどのような位置づけを持っていたかを明らかにしようとしたものである。ベンサムの思想は功利の原理に貫かれており、利己的個人によって構成される社会において「最大多数の最大幸福」を実現するために必要なシステムづくりがその眼目であった。それは、個人の自由を抑圧するものではなく、むしろ個人の自由を最大限保障しながらそれを社会の統治へと連接させていくものであった。このような「自由主義的統治」に教育がどのように介在したかを問うことで、近代教育の特質を見定めることを目的とする。

 まず第1章では、ベンサムの立法論と教育との関係をを検討した。ベンサムは、立法が個人に介入できる領域を限定しようとするが、自己統治をなしえない人々の「未成年性」を補うものとして立法の範囲を拡大する。人間自然に信頼を置かないベンサムは、そのままでは弱い自然の性向を補うために法の概念を拡大し、従来の法概念から逸脱した新しい法を作ることによって、法それ自体が人々の行為を方向づけることを目指していた。ベンサムの立法論が「教育的立法論」と呼ばれることの意味がそのようものであることをここではまず示した。法による人々の行為の方向づけを端的に表しているのが、「間接的立法論」である。人々の性向に働きかけて犯罪を予防しようとするこの法は、決して抑圧的なものではなく、快楽を求め苦痛を避けようとする人々の情念の働きをうまく利用することによって、人々が違法行為に関わらなくて済むような制度的な仕組みをつくるものであった。そのためにベンサムは、人々が諸事象について判断する際の助けとなるような、正しい知識や事実を流布するinstructionを重視する。しかし、知識の流布による犯罪予防はすでに判断力を備えた公衆を前提にしている。そのような知識や判断力を持ち得ない人々の「未熟さ」を補うものとしてeducationがもちだされてくる。ベンサムは、本来家族的統治の範疇にあったeducationを市民的統治の次元で作動させるべく、国家による一般的教育の必要性を説く。ベンサムの立法論の課題は、法による人々のふるまいの統制であったが、それを実質的に機能させるものとして教育は基底的位置を占めていた。

 第2章では、パノプティコン原理に基づく監獄と救貧施設に関するベンサムの施設経営論を検討した。ベンサムは、監獄を公的管理の下に置こうとする当時の監獄改良運動に全く反する形で、監獄の民営化を主張していた。「利益と義務を結びつける原理」に基づいて、義務を果たすことが利益につながる仕組みをつくり、個々人の自由な利益追求によって施設の秩序維持が十全にはかられることを目指したのである。それは、施設経営者にのみ適用されるものではなく、施設収容者も施設で働く下級管理者もみな、それぞれの義務を果たすことで利益を得られるような一貫したシステムであった。個々の自由な利益追求を保障しつつ、その自由なふるまいがシステム全体をうまく機能させるような仕組みこそ、ベンサムが構想したものであった。同様に、全国慈善会社の構想も救貧事業の民営化によって救貧政策の行き詰まりを打破しようとするものであるが、そこでは未成年の徒弟が特に重視されていた。収容者の労働によって経営を行う個々の勤労院にとって労働力の不足は重大な問題となるが、成年の収容者は救貧にかかった費用を弁済すれば勤労院から出ていくため、勤労院はその救貧機能を働かせればそれだけ労働力の不足に見舞われる。成人するまで解放されない未成年の徒弟が重視されるのはこのゆえである。未成年の子どもの養育と教育の機関ともなる全国慈善会社による救貧システムは、粗野で恣意的な「自然の」親に代わる「指名された父」と見なされる。「指名された父」による体系化された教育を受けた子どもがまた施設の運営に携わるという自足したシステムをつくり、さらにそのような個々のシステムを拡延して社会全体が全国慈善会社化することをベンサムは目指していた。全国慈善会社の構想は単なる貧民対策ではなく、勤労院育ちの子どもの教育を基軸にして社会全体を統治していくようなものであったのである。

 ベンサムの立法論及び施設経営論において教育が根幹に位置づけられていることを明らかにした上で、第3章ではベンサムの学校構想である『クレストメイシア』を検討した。『クレストメイシア』は中産階級子弟のための学校設立運動に導かれて書き始められたものではあるが、それはベンサムにとって当時関心を寄せていた法典編纂の工作模型(ミニアチュア)として位置づけられるものであることを明らかにした。秩序だったカリキュラムを段階的に学習させることで生徒に秩序の習慣を形成していこうとするクレストメイシア学校は、秩序だった法律によって秩序ある国民を形成するための練習問題とも言うべきものだったのである。そのような秩序の習慣形成を実質的に保証する学校管理原理としてパノプティコンとモニトリアル・システムが採用される。クレストメイシア学校が対象を中・上流階級に限定し、他方パノプティコン原理は監獄や救貧施設に適用されることから、この学校は、パノプティコン原理に基づく学校とは階級的に区別されるべきものと見なされてきた。しかし、『パノプティコン』と『クレストメイシア』という両テクストを仔細に検討してみると、ベンサムは決して階級別の複線型学校体系を構想していたわけではないことがわかってきた。ベンサムにとって、子どもは階級に関わりなく未だ自己統治をなしえないという意味で市民社会からの逸脱者と同様の存在であった。未だ市民ならざる者を市民へと予備的に矯正していくのが教育であり、それを通してベンサムはあらゆる社会的カテゴリーの者を市民社会に組み込むことを目指していたと言えよう。

 パノプティコンとともにクレストメイシア学校の管理原理となっていたのがモニトリアル・システムである。当時大衆教育の分野で取り入れられ始めていたこのシステムを、ベンサムは、その教授内容や目標と切り離し、それが教授に関わる人やものを秩序立てて編成する点を重視して、クレストメイシア学校を管理する原理として組み込んだ。モニトリアル・システムは、助教の命令に機械的に反応することで学習が進んでいくとみなされているが、人々の行為の根幹に苦痛を避け快楽を求める情念の働きを見るベンサムの人間観を介して捉え直すと、それが学校の管理原理の働きと子どもの情念の働きとが連動することではじめて成り立つシステムであることがわかってきた。立法者が個々人のふるまいを直接方向づけることはできないと考えていたベンサムが、社会統治を貫徹させるために導き出したのは、誰もがもつ快を求め苦を避ける個人の情念を基盤にして、その働きそのものが全体の秩序維持に連接されていくようなシステムであった。ベンサムは、モニトリアル・システムにこの特質を見て、クレスマティア学校の管理原理として採用したのである。

 最後に第4章では、ベル-ランカスター論争におけるJ.ミルとベンサムの言説を通して功利主義教育論が目指した社会像を明らかにした。ベル-ランカスター論争とは、貧民教育の主導権をめぐって国教会派と非国教会派の間に起こったものである。ミルは非国教会派のランカスター・システムを擁護するが、それは宗派的対立において非国教会派を支持するものではなく、国民教育制度を実現するために宗派に関係なくすべての国民を包摂できる教育システムを求める議論であった。ベンサムもまた、『イギリス国教会』を書いてベル-ランカスター論争に関わっている。ベルのモニトリアル・システムを推進するため国教会派が設立した国民協会を批判するこの書は、『クレストメイシア』と並行して書かれた。ミルと同じようにベンサムも、国民協会の排除システムを批判するが、批判の中心は国民協会傘下の学校でカテキズムが用いられていることに対してである。カテキズムは聖書に忠実であるという保証がないし、また子どもたちはそれを鵜呑みにさせられることによって「悟性と意志との平伏」がなされる。このような個人の自律性を侵害する教育のあり方を批判するベンサムは、少数の支配者の邪悪な利益によって統治される社会を、人々が政治参加することで統治の正しさを検証し腐敗をチェックできる社会へと改革していくことをその先に構想していた。

 個人の自律性や「期待の安全」を重視する功利主義の立場は、富の再配分によって階級関係を破壊し全く平等な社会を実現する方向へは向かわない。しかし、そこに子どもの教育というモメントを入れることによって、平等な社会が実現し得る可能性が開かれる。もし完全に子どもたちを親の出自や置かれた環境から引き離してシステム化された条件の下に教育することができれば、平等な社会を実現することが可能になる。ベンサムは、現実にある不平等が過度の抑圧や不公正を生まないようなシステムを作りつつ、他方でそうした不平等が生まれないように社会そのものを、あるいは不公正が生まれないように統治のあり方そのものを改革する構想を目指すという両面戦略を採っていた。社会そのものの改変において、子どもの教育という未来への投企が鍵となるのである。

 ベンサムにおいて教育は社会統治の基底である。そのことの意味は、現にある社会を追認するために教育を用いるという意味では決してなく、教育システムを功利の原理に則って正しく作ることができれば、全体の幸福を実現する社会がつくられ得るという意味であったと思われる。教育によって社会をつくる、社会構成原理としての教育、ベンサムの教育論はここに帰着するのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は,ジェレミー・ベンサムの社会統治論と教育論を、ようやく刊行が軌道にのってきた『新全集』」をも資料にしながら、主として立法論と施設経営論にかかわらせて論じたものである。ベンサムの教育論は、これまで部分的に論究されそれがあちこちに引用されることはあっても、体系的に論じられたことはなく、その意味で本邦初のベンサム教育論・教育思想の体系的研究といえるものである。

 論文は序章と終章そして本文4章で構成されている。序章では、これまでのベンサム研究は彼の功利主義者としての側面を十分評価せず、その教育論におけるレッセフェール原則と国家介入原則が統一的に理解されていないという批判的論点を浮かび上がらせている。1章ではそれを受け、まずベンサムの立法論が論じられ、その立法論の中に教育論が不可欠の契機として組み込まれていることを論じている。ベンサムは近代社会の秩序形成のための自己統治と他者統治のあり方を立法論において模索したが、自己統治をなしえない未成年者については法による個人の行為の方向付けを具体的に構想したこと、つまり立法論が教育論として構想していたことが示される。2章ではパノプティコン原理にもとづくベンサムの監獄および救貧施設の施設経営論が分析される。ベンサムは監獄や救貧施設の民営化を主張したが、この原理に基づく全国慈善社の構想は、そこで体系的教育を受けた子どもがまた施設の運営にたずさわることをめざした自足的システムとして構想されていて、その原理を社会全体に拡大することをベンサムがめざしていたことが明らかにされる。3章ではベンサムが構想したクレストメイシアの本質が分析される。テキストの厳密な検討を通じて、ベンサムはクレストメイシアを階級別の学校として構想していたのではなく、モニトリアルシステムとパノプティコン原理によって、未だ自己統治できない存在を市民として形成していく場として位置づけていたことが指摘される。4章ではベル・ランカスター論争におけるベンサムの言説の分析を通じて、彼が資本主義化による社会の不平等化を、出自や環境によらないシステム化された教育を実現することによって、平等化にむかわせようとしていたことを論証している。そして終章で、ベンサムにとって教育は社会統治の基底であり、自立的な個人の実現と社会統制の矛盾なき両立をめざしたものであったとまとめている。

 論文は、資料的制約のあったベンサムの教育論をわが国で初めて体系的に明らかにした点でも、フーコーを参照点としてみたときの規律・訓練的権力論の延長にあるベンサム像を克服しようとした点でも、オリジナリティの高いものである。社会統制と個人の自立性の両立についてやや楽観的な論述があるなど、いくつか課題が見られるが、それは本論文の価値を減じるものではない。

 以上によって、本論文は博士論文にふさわしいものと判断された。

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